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2011年5月

2011年5月29日 (日)

「美しい島」:この世でもっとも美しいところ

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東日本大震災被災者支援コンサート
演奏:波多野睦美&つのだたかし
会場:ハクジュホール
2011年5月25日

本来はロベルタ・マメリが主役のコンサートだったが、つのだたかしの冒頭の説明によるとイタリア政府の指示で来日中止になり、急きょ二人だけのチャリティコンサートへと変更になった。

前半、リュートと共にダウランド、「スカボローフェア」などのトラッド、パーセル、そして一曲だけイタリア産のストロッツィをやった。
いつものように波多野睦美の短い歌詞の内容紹介が入る。面白かったのはパーセルの「僕よりも幸せなのは」で、心臓がドキドキする意味の歌詞と曲がまさに鼓動のようになっているとのこと。そしてその通りに芝居気たっぷりに歌ったのであった。
当時の人気女流作曲家ストロッツィの「恋するヘラクレイトス」は過去に誰かの過激な歌いっぷりで聴いた記憶がある。マメリ当人だったかしらん(?_?) よく覚えてない。
しかし、波多野さんは全体には抑制された調子で抑え気味ながらもところどころで激情が火山の噴火のように噴き出す、というように歌ったのであった。
思わず拍手~(^o^)//"""

後半はシューベルトと同時代のオリジナルの19世紀ギターを使用して近現代歌曲のプログラムである。つのだ氏は「リュートとギターは指使いが違うから大変。滅多に同じコンサートではやらない」などとブツブツ言いながら、最初に「鳥の歌」を独奏。
その後は以前の北とぴあで聴いた公演と大体同じ構成だった。

個人的にはピアソラの「オブリヴィオン~忘却」で暗い別れの情念を歌いあげて大きく印象に残った。硬質なギターの音も絶品。この曲はさんざん波多野さんのCDで聴いてきたのに、改めてナマだと衝撃度が違う! やはり録音と生は別物であるとヒシと感じた。
ああ、それなのに、それなのに(-"-)--一番良かったこのラストの曲で、なぜか会場の後ろの方からポリ袋をガサガサする音が断続的に続いたのであった。それが何か落としたとか倒したとかいうような音ではない。ガサガサガサガサガサ……
な、なんで~(>O<) 音楽聴きに来たんじゃないのかーっ(*`ε´*)ノ☆

ともあれ、波多野睦美の声は--まあ優れた歌手ならみんなそうだろうけど、様々な表情と色を曲によって微妙に使い分け、飽かせずに過去の歌を今この瞬間に蘇らせたのであった。

アンコールは、知らない日本語の歌と「庭の千草」の原曲だった。こちらのブログで紹介されているのと同じだろう。


公演のタイトルはパーセルの曲から取ったのだろうが、日本のこととも引っかけているのであろうか。でも、もう美しくなくなっちゃったかも……


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2011年5月28日 (土)

「元禄~その時、世界は?」第2回「琳派の美、ロココのこころ」:夢見る装飾

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藝大プロジェクト2011
会場:東京藝術大学奏楽堂
2011年5月15日

藝大プロジェクトというのはこれまで、メモリアル・イヤーの作曲家を取り上げていたらしいのだが、今年度からは特定の時代の日本と世界を比較するようなレクチャー&コンサートの企画になったとのことである。
1回目は「江戸の音風景~歌舞伎と文楽」でレクチャーの講師は田中優子。完全守備範囲外でそもそも行われたこと自体も知らなかったのだが、今回は琳派とロココという内容なので行ってみた。

レクチャーは約1時間で、古田亮という藝大の先生が「琳派からRIMPAへ~ヨーロッパへの影響」というタイトルで話した。内容的には完全に美術史の講義という感じ。一生懸命メモしている学生風の若いモンもいたぞ。講義の一環かしらん(^O^;) 久々に学生に戻った感じである。

配られたレジュメの最初に「琳派はロココ美術に『影響』を与えてはいません」とあって、思わずずっこけるヽ(_ _ヽ)ズルッ。。。
しかし、どちらも「装飾性」という共通点があるとのこと。
てな感じで、背後のスクリーンの画像を眺めながら近現代の西欧美術への影響をたどったのであった。

休憩後にコンサートのパートが開始。ここから入ってきた客も結構いた。
大塚直哉のチェンバロ独奏を中心にしてF・クープラン、ラモー、デュフリなどを演奏。曲によって荒木優子のヴァイオリンや野々下由香里の歌が入った。
また、曲間には藝大の女性講師が色々と解説した。バロック時代の絵画は国王の栄光を表すものが中心だったが、ロココになると市民階級を題材にしたものになる--など、興味深い話もあり。

背景のスクリーンには曲に関連するロココ絵画が映し出された。クープランの「神秘の障壁」には「閂」(フラゴナール)、ラモーの「愛しあう恋人たちよ(青春の神エベのエール)」では「エベに扮したクレーブクール侯爵夫人の肖像」(ナティエ)など。

大塚さんの演奏でクープランを聴いたのは近江楽堂でのコンサートが過去にあったが、やはり今回の印象も装飾的・陶酔的、というものであった。まさに同時代の美術に通じるものがあるようだ。
ただ、バイオリンの加わった合奏曲になるとまたちょっと違うけれど。
あまりにもよかったので、もっと聞きたくなってしまった。そういやクープランを取り上げる公演が近々あったなあ……

しかし近江楽堂ならいいが、奏楽堂ではチェンバロ独奏どころかアンサンブルだって音が拡散してしまうんではと予想していたら、しっかりマイク使用してましたな(^^;)
野々下さんは深い赤のお衣装で登場。歌ったのは2曲で、もっとお聞きしたかったですわん(*^o^*)ポッ

ラストに演奏されたフォルクレの「ジュピター」はガンバ演奏では聞いていたが、チェンバロ独奏だともっと過激でとんがった雰囲気であった。

ところで、後半では客席の照明はかなり暗くなって、代わりにステージの床やバックの壁にライトが使われ、さらには天井にも星座(?)が投影されたりしてクラシックの演奏会では珍しく凝っていた。ムードがあって、こういうのもいいですな
それが、以前に行った大貫妙子&坂本龍一のコンサートとやり方がよく似ているのだった。こういうのが今のステージの流行なのか、それとも同じプロダクションが請け負ってるのかしらん。

さてこのプロジェクトは後半をまだ10月にまだやるとのことで、三回予定されている。もちろん行く予定であ~る( ̄m ̄* )ムフッ 通し券を買えば一回1500円ナリ。この内容では安すぎだいっ


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2011年5月26日 (木)

「星を追う子ども」:既視感のパッチワーク

監督:新海誠
声の出演:金元寿子
日本2011年

休日に入っていた予定が急に中止になってしまったので、何か映画でも見ようと思って選んだのがこれだ。どうして選んだかというと、この新海誠という人が男子高校生にやたらと人気があるアニメ監督だからだ。どれくらいの人気かというと、宮崎駿に次ぐくらい。押井守とか庵野秀明以上なんである。全然知らない名前だったんでその人気ぶりにビックリした。
もっとも、今回の新作はそれまでの青春SF風のアニメとは違って、少年少女向けファンタジーなのだという。

さて、大枚1800円払って見たその感想はというと……ほとんど物語の体を成していない作品だった。
そもそも舞台がいつの時代なのかも分からない。日本といってもパラレルワールドとしか思えないのだ。鉄道の駅員の制服は国鉄時代のものらしいし(詳しい人にはちゃんと分かるそうな)、田舎町の中学校の校舎は木造だし、オート三輪なんか走っている所を見るとどうも昭和三十~四十年代ではないかと思えるのだが、途中で登場する教師のメガネは下半分がフチ無しだし、ヒロインの制服はニットベストだ。これはもっと後の時代のもんじゃないの?

で、こんな今一つリアルでない世界からさらに地下の世界へ旅するという異世界ファンタジーになる。地下なのになぜか昼夜があって(人工太陽?)、風景や住人の印象は『ナウシカ』か『もののけ姫』みたい--「みたい」つーか、そのまんまですな。
教師が地下世界を目指すのはそこで死んだ妻を蘇らそうという目的があるからだが、ヒロインの少女がなぜそこへ行こうとするのかはよく分からない。
いや、それどころかほとんどの登場人物の行動の意図が見ていて説明されていないのである。教師にしてもどうして少女を一緒に連れて行くのか不明。妻の復活に利用しようとする腹黒い意図があるかと思ったらそういう訳でもなかった。

登場人物の全員が何考えているのか不明で、ストーリーに伏線はなく、世界の描写のすべては既存のもののパッチワークのようである。
しかし、一方で背景は驚くほどに美しいし(特に空や雲)、個々の微細な描写(ヒロインが家事を一人でやるところなど)は極めて丁寧である。
もっとも、これは最近見た幾つかの日本のアニメに共通な特徴でもある。視覚的な描写はそこまでやるかというぐらいに詳細なのに、ストーリーや心理描写は大ざっぱ過ぎなのは納得いかない。

またキャラクターの魅力に乏しいのも問題だ。少女はどういう観点から公平に見ても萌えどころに乏しい(わざとそうしてる?)。美少年の兄弟が出てくるがフ女子がキャーキャー言うほどでもない(私は美少年ファンではないのであくまで推測だが)。

さらにこの作品を一体どういう層をターゲットにして作ったのかも不明だ。少年少女向けったって、小学生には難し過ぎ。ご家族向きでもないから中学生単独にはロードショー料金は出せないだろう。高校生には萌えどころがないし(^_^;)
こうして見ると、ジブリアニメは各層にアピールするようによくマーケティングが出来ているなあと改めて感心してしまう。

しかし、驚いたことにミクシィのレビューやブログの感想では高評価なのだ。そもそもファンしか見に行かない、ファン向けて作ったの作品なのか。よう分からん。私には理解不能な世界としか言いようがない。


採点不能

【関連リンク】
《さ ざ め 記》
「どこで泣けばいいのか」というのに同感。

《佐藤秀の徒然幻視録》
こういう風にメタファーとして解釈すればよいのか。私にはできませんが。

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2011年5月22日 (日)

劇団新感線「港町純情オセロ」:シェイクスピアはベタがお好き

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原作:W・シェイクスピア
脚色:青木豪
演出:いのうえひでのり
出演:橋本じゅん、石原さとみ
会場:赤坂ACTシアター
2011年4月30日~5月15日

新感線とシェイクスピアの組み合わせと言ったら「メタル・マクベス」(もう5年も経ってるんですねえ)があったが、これはその第二弾で「オセロー」なのだった。

今回は昭和初めの時代設定で、舞台は神戸をモデルにしたとおぼしき港町である。主人公は日本に戻ってきた日系ブラジル人でヤクザ稼業をし、戦争じゃなくて縄張り争いに明け暮れている。
そんな彼が入院した先の院長の娘と相思相愛となり……という次第。

全体の印象は松竹新喜劇を思わせるベタな人情喜劇であった。もちろんラストの悲劇的な部分を除いてだが。
一同、絶叫し走り回り殺陣も入れてギャグで笑わせ最後には泣かせるというてんこ盛りの展開には、口アングリ状態で感心するというかあきれるというか--\(◎o◎)/!
しかし、よくよく考えてみればシェイクスピアの生きてた時代もこんなベタな芝居で、観客を笑わしたり泣かせたりしてたのかなあ、なんて思ってしまったよ

オセロ役の橋本じゅんは熱演(いつもそうだが)。ヒロインの石原さとみは甘えている時も泣き叫んでいる時も同じテンションなんで、見てて疲れてしまうような。
ゲイボーイ役の大東俊介ってクレジットが三番目なんだけど有名な人なんかしら。一緒に行った友人も知らなかった。オバハンには知られてない?

次々回はロッキー・ホラー・ショーやるのか 楽しみだねえ~(^^♪

終演後は店の中を川が流れている居酒屋で飲んで食って終電の二本前に帰ったのであった。


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サッカー小僧の愛唱歌

天気が良かったんでベランダで網戸の掃除をしていた。
ご近所の小学生たちが空き地でサッカーを元気にやっていたのだが、そのうちに歌を歌いだしたのが聞こえた。
それが何かというと……「君が代」Σ(゜◇゜;)ガーン!

さ、サッカーボール蹴飛ばしながら「君が代」(?o?)
いや別に何を歌ってもいいけど でもなぜに

もしかしてボーズたち「サッカーの試合やるときに歌う歌」とか思ってないか? 小学生低学年なら分からなくもないが、ありゃ高学年だよなあ。

謎である。

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2011年5月21日 (土)

「ナンネル・モーツァルト 哀しみの旅路」:修道女か伴奏者か

110521
監督:ルネ・フェレ
出演:マリー・フェレ
フランス2010年

モーツァルトは守備範囲外なんで最初は見に行く予定はなかったが、気が変わって急きょ鑑賞してみた。
モーツァルトに知られざる才能のあった姉がいた!ということで、抑圧された女性芸術家、あるいは巨大な天才の前にかすんでしまった芸術家の苦悩--みたいな話を期待していったのである。が、当ては大きく外れてしまった(+o+)

貴族の館を馬車で旅して回るモーツァルト一家。きょうびの貴族は支払いが悪い、現金で払えっちゅうの、ゴルァ(~_~メ)と愚痴る父レオポルドに対し、11歳の弟の鍵盤伴奏を務めるナンネルは、弟と共に作曲術を学せてちょーだいと頼むのであった。しかし父からはつれない返事「女に作曲はできん」であった。

実は、物語がこの肝心なところに至るまでが結構長い。フランス国王の娘たちと会うエピソードが長々出て来て、一体こりゃなんだとか思っちゃう。全体そんな感じで、演出が悪いのか脚本が悪いのか、話が絞り切れずにダラダラと続く。

で、その挙句の結論が、ヒロインが作曲をあきらめたのは弟モーツァルトが偉大過ぎたせいでもなく、女だからというわけでもなく、フランス王太子との恋に破れたためなのであった
はぁ(@_@)そうですか、ってなもん。肩すかしな感じで終了するのである。
途中でナンネルが作曲したという曲が演奏されるが、実際は現存してなくて、現代の作曲家が想像して作ったとのこと。なんちゃって古楽でもなくトンデモ古典派でもなく中途半端な印象だ。

建物や衣装は美しいが、王様の娘がいつも同じドレスで着た切りスズメなのはちょっと問題あり。それにフランス映画なんで、台詞はすべてフランス語だ。
監督の娘たちが出演、編集なども身内でやっているようだ。そういう家内工業な部分が裏目に出たのかも知れない。

唯一の拾い物は、弟モーツァルト役の男の子ダヴィド・モロー君。実際に音楽学校の生徒だそうで、ヴァイオリンだけでなく鍵盤も達者に弾いて見せてくれてた。しかも、ヤンチャな少年で実物のモーツァルトも11歳の頃はこんなだったのか、と思わせてくれましたよ(*^^)v

この時の国王はルイ15世とのことで、その王太子ったらルイ16世じゃないのと一瞬、疑問に思ったが、なんでも父親より早死にしてしまったそうな。王子様もつらいよってところですかな。

ところで、モーツァルトの姉よりもバッハ先生の娘たちはどうだったのかね。そっちの方が興味があるぞ。遺伝子的には才能があった確率が高いんだが。


女性芸術家度:4点
王宮度:6点


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2011年5月18日 (水)

「エリザベス王朝のリュート音楽」:踊る女王に弾くスパイ

110517
演奏:佐藤豊彦&櫻田亨
会場:近江楽堂
2011年5月13日

久しぶりに近江楽堂へ行く。
13日の金曜日ではあるが、この日は佐藤豊彦のリュート演奏会。ルネサンス・リュートの全盛期であるというエリザベス1世の時代の音楽を取り上げている。女王はいつも4人のリュート奏者を傍に控えさせていたという。ダウランドがその地位につきたくて色々画策したが、結局女王の生きていた間はダメだったというのは有名な話である。

前半は独奏で、当時流行の舞曲であるパヴァーンとガリアードが中心。ダウランド、ホルボーンはともかくロビンソン、カティングという作曲家は知らなかった。
佐藤師匠の話によると大陸を行き来していたダウランドはスパイ説もあったそうである。そういや、ヘンデルもスパイ説がありましたな。女王陛下のスパイはルネサンスの昔からいたんだ(~o~)

女王はよく運動のためによく踊ったそうだが、こういう舞曲で本当に踊ったんかい?いざ踊るとなるとかなり難しいんでは……なんて思ってしまった。
この日の近江楽堂はエアコンが暴走することなく、ちょうど良い具合なんでよかった。

後半では弟子の櫻田亨が加わってリュート二重奏となった。
よくよく思い返してみるとソロはよく聞いてるが二重奏はナマでは聞いたことがないような。
二つのリュートで左右に音を振り分けた疑似ステレオみたいな曲あれば、互いに音を追いかけあうような曲もあり、独奏とは趣がかなり異なる。いずれも師弟でぴったり息の合ったところを聞かせてくれた。

佐藤師匠は非常に微細で消え入りそうな音まで駆使して演奏していたが、そういう時に限って客がセキしたり、チラシ落としたり……(~_~メ)なんでだ


昼間はかなり気温が高かった日だったので、早速電車では冷房が入っていた。今からこんなんで節電なんてできるんかい


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2011年5月15日 (日)

「わたしを離さないで」:美徳の不幸

110515
監督:マーク・ロマネク
出演:キャリー・マリガン
イギリス・米国2010年

カズオ・イシグロの小説を映画化した作品。製作に作者も関わっているので、原作(私は未読だが)がよく再現されているとみなしていいのかな。

静かな田園地帯の中に建つ古めかしい寄宿学校。その中で少年少女たちが管理された教育を受け、一定の年齢になると別の施設へ移って共同生活を続ける。その先に待っているのは……。

原作ではなかなか明かされないいまま謎めいた雰囲気が続くらしいのだが、映画ではその「謎」が早々に明らかにされてしまう。子どもたちは臓器提供のために作られたクローンなのだった。
やがてひたひたとやってくるその日--彼らはそれから逃れることはできない。
SF的設定は、このような状況を描くために取られたのだろう。

全編に繊細さが横溢し、映像も極めて美しい。若手の役者三人がその特異な状況をよく演じている。特にキャリー・マリガンは抑制された演技が見事。キーラ・ナイトレイはあまり死にそうには見えないけど。それぞれの子役もうまい。
シャーロット・ランプリングの校長が怖さと不気味さで一層盛り上げている。

もっとも、原作者が日系人ということもあって、このように死を従容と迎えるのは日本的な特質と監督は考えているようである。
ネットの感想で「なんで主人公たちは逃げ出したり反抗しないんだ」というのを幾つか見かけたが、そんなことを言ったら今のような日本の状況でも大人しくしている日本人というのもかなり驚かれているようだ。スペインから来た記者は、こんな原発の災害がスペインで起こったら30分後に電力会社の周囲を怒った民衆が取り囲んでいるだろう、と言ったそうである。
大人しいというのが、果たして日本人の美徳であるのか欠点であるのかは不明(~_~;)

感情表現の面からは繊細な意識の動きが描写されていて素晴らしいが、さて論理の面からはどうか?
どうせ殺してしまう人間に多額の金をかけて教育を与えるのは全く不効率な話である。クローンを作るほどの技術があるなら、細胞の培養で直接臓器を作れるのではないか?
ロボットじゃあるまいし、クローンだって感情はあるだろう--なんてことを突っ込むのは野暮の極みですね、はい(^_^;)

映画館で終わった後、原作を読んでいると思しき人が「伏線が全部省かれてる」と不満そうに話していた。私も読んでみたくなったぞ。
ところでラストの風景は前にも登場したっけ(?_?) なんかいきなり現れて訳が分からなかった。
なお、字幕は冥王の回し者な「あの人」であった。訳の分からない所があるのはそのせいか やめてくれ~(>O<)


繊細度:9点
活力度:4点


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2011年5月 8日 (日)

「メアリー&マックス」:紐育中年男の手紙

110508
監督:アダム・エリオット
声の出演:トニ・コレット、フィリップ・シーモア・ホフマン
オーストラリア2008年

友情、障害、オーストラリア、実話……と言えば『英国王のスピーチ』 いえいえそれだけじゃあない。このクレイアニメ作品もそのまま当てはまっちゃうのであった。
しかしながら方向は正反対なのである

ひょんなことから、オーストラリアはメルボルンに住む小学生の女の子とニューヨークの中年男が文通を始める。
少女メアリーはいじめられっ子で母親はアル中、父親は家庭から逃避。中年男マックスは肥満症でアパートにひきこもってアニメ番組を見るのが大好き。二人の共通点は孤独だ。

二人の手紙のやり取りはユーモラスである。そのうちに、マックスは単にヲタクな中年男なのではなく発達障害であることが分かってくる。
メアリーは彼の長~い手紙に勇気づけられるうち、勉強していつか彼の病気を治したいと思うようになる。

『英国王~』は障害をなんとか治そうとする話だった。ところが、驚いたことにこちらは治らなくて結構というか、治さないでくれという話なのだ。もちろん、公の場に出る王様とアパート暮らしの男じゃ立場が違い過ぎだが……。とにかくマックスは自分が「正常」になる必要はないと思っている。
二人の間に齟齬が起こり、文通も友情も途絶えてしまう。

監督は過去にオスカーの短編アニメ部門を受賞しているとのこと。これは長編第一作らしい。クレイアニメによって描かれる世界は極めて「変」\(◎o◎)/!の一言。ヘタウマのマンガをそのままアニメ化したようだ。登場する金魚やら鳥やら猫など、なんとなく谷岡ヤスジを連想した。
メルボルンのメアリーの世界はセピア色で、一方マックスの世界は完全モノクロ。唯一の例外は頭につけてる花(?)と舌が真っ赤である。
よくもこんな世界を作り上げたものだ。

物語はナンセンスな笑いと共に非常に感動的でもあるのだが、いかんせんアニメーションがあまりにも不気味で毒気に満ちているのに加えて、全編にわたりナレーションが覆い尽くすという過剰ぶり。見てて(聞いてて)その過剰さにくたびれ果ててしまった。
そのせいか、映画館内はため息が時折もれていた。私の隣のおにーさんなんか10分おきにため息ついてたぞ。なんで(?_?)

ということで、私もマックスにならって市長に苦情の手紙を書こう。「前略、この映画はナレーションが多過ぎます。映像で描写するだけではいけないのでしょうか。何とかしてください--」

ところで、冒頭に監督からの震災についての遠回しなメッセージが付けられていて、はて?親日家なのかしらん--と思ったら、見ているうちに理由が分かった。なるほどね……


不気味点:8点
健康点:5点

【関連リンク】
http://umikarahajimaru.at.webry.info/201105/article_2.html
監督について


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2011年5月 6日 (金)

「トスカーナの贋作」:虚実の彼岸

110505
監督:アッバス・キアロスタミ
出演:ジュリエット・ビノシュ、ウィリアム・シメル
フランス・イタリア2010年

恥ずかしながら(--;)告白すると、キアロスタミ監督の作品を見るのは初めて。ええ、もちろん『桜桃の味』『友だちのうちはどこ?』も見てないですよ。映画ファンの風上にも置けないって? 風下ぐらいには置いてチョーダイ(^^)/

これは彼の初のイラン国外で撮った作品とのこと。題名や宣伝からして、イタリアの風光明媚な土地を背景にした中年男女の恋愛もの--みたいな感じなんで、完全に守備範囲外!アウト・オブ・眼中だった。チラシも貰ってなかった。でも、どうも違うようなんで見に行ってみた次第。

冒頭、人々のざわめきの中、誰もいないテーブルの上にマイクと本が置かれている。書名は”Certified Copy”(この映画の原題でもある)。と、そこへようやく本の著者が登場して、オリジナルとコピーの真贋についての講演を始めるのだった。
ここで一人の女が現れ、最前列の「関係者席」につかつかと歩いてきて座る。彼女は知り合い? もしそうでなければ無神経な女?……もはや冒頭から観客の頭は二方向に引き裂かれていくのであった。
しかも作家の方は作家の方で、講演途中でかかってきたケータイに壇上で平然とそのまま出て喋ったりする。

女は主催者にメモを渡したり小学生の息子と何やら話した挙句、途中で出て行ってしまった。ここら辺は講演の内容を字幕で理解しようとしながら、映像も注視しなけりゃならないから大変だ~。結局、論の内容はよく理解できない(それを意図している?)。

その後、作家が渡されたメモに導かれて女を訪ね、トスカーナ地方の町を観光しようと出かけるが、カフェの主人に二人は夫婦と間違えられてしまう……。

ここから、まるで作家が講演していた本物と贋作論のように二人の会話内容が変わっていく。それまでは作家に論議を吹っかけている女性ファンのように見えたが、本当に夫婦っぽい会話のようだ。しかも倦怠期らしく徐々にいさかいと口論へと突入していく。
こうなると見ている側はもしかしてこの二人は本当に夫婦で、わざとゲームみたいに他人同士のふりをしているのではないかという疑念にとらわれてしまう。

実際そう解釈する意見も見かけたが、色々と思い返してみるとやっぱり二人は他人だろう(多分)。とすれば夫婦であるかのように続けられる会話--これは風変わりな求愛ゲームなのか?
美術館に収蔵された本物よりも、広場に代わりに置かれた複製のダビデ像の方が市民に愛されて心情を託されるというなら、目の前の作家を別れた夫になぞらえて愛をささやくのもいいかも知れない。
しかし一方で、女は携帯ゲーム機に夢中になっている息子(どこの国でも小学生は同じ!)に他人と話す時は相手の方を見なさいと注意するが、そういう自分は息子の向こうの窓の外へ心ここに非ずといったように気を取られている。(同じような状況は何度も登場する)

頻出する窓・鏡、車の正面に映り込む街の景色、そしてケータイにゲーム機さえも真と贋の境界をかく乱し、見る者を混乱させる。それは単なるラブ・アフェアではなく、人間の心の深層に降りていくような気分にさせるのだ。
最後に女は「それを言っちゃあ終しめえよ」的な決定的な言葉を口にしてしまう。これは虚構の崩壊のしるしか?
私は見ていてヒッチコックの『めまい』を思い出した。あれもサンフランシスコの美しい街並みを背景に繰り広げられる謎めいた男女の話だった。もちろん、こちらは『めまい』のようなサスペンス・スリラーではなく、そして惑乱していくのはJ・スチュワート扮する男ならぬ女の方であるが。

もう一つ最近の作品で連想したのは『インセプション』だった。こちらは複数の「街」が登場し、その中で二人の過去と現在が交錯していく。映像のギミックを多用しているのも同じ。特撮やCGを使用してるかどうかの違いはあるけれど(^^;
ただ、『インセプション』のラストで独楽がどうなろうとどうでもよく思えたのに対し、こちらでは一体、鐘は8回鳴ったのか9回鳴ったのか? そしてその後、男はどうしたのか……すごーく気になるのであった。

唐突なラストのせいか、終了後ロビーに張られた雑誌・新聞の批評を食い入るように読む人多数。私も帰宅してすぐにネットの感想を読みまくりましたよ。
そういや、息子が女に「なんで名字書かなかったの」と言った台詞の意味は?--あとで自分なりに推測してみたが自信なし。謎が多過ぎな映画である。

ジュリエット・ビノシュは本作でカンヌの主演女優賞を獲得。それも納得であろう。
作家役のウィリアム・シメルは渋~い美中年ではありませぬか。ヘッヘッヘッ(^Q^)←久しぶりに出たっ下卑た笑い。なんと本職はオペラのバリトン歌手だそうで、ヘンデル・オペラでヘラクレス役なんかもやってるとのこと。


街並度:9点
惑乱度:10点

【関連リンク】
《156416のブログ》
読んだ中で一番面白かった感想です。


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2011年5月 4日 (水)

3軒茶屋婦人会「紅姉妹」

110504
作:わかぎゑふ
会場:紀伊國屋ホール
2011年4月21日~29日
→これはあくまでイメージ画像です(^^;

3軒茶屋婦人会とは篠井英介、深沢敦、大谷亮介という「怪優」(公式HPにそう書いてある)3人が作っているユニットらしい。これで4回目の公演とのこと。

ニューヨークに住む日系人女性3人の物語である。
冒頭に登場するのは、一人の年老いた女だけでバーで誰かに電話をしている。これが現代で、物語が進むにつれて十年ごとに時間をさかのぼっていく--というのがユニーク。
電話の相手がどういう人物で、三人の女がどういう風に知り合ったのか、そして既に死亡しているらしいが、常に彼女たちの間で語られるジョーという男がどういう人物であるかも、遡るにつれて明らかになってくる。

米国の日系人の戦後を描く--というよりは、全体的な印象は三人の女の井戸端会議、ある時は「かしまし娘」風のようだ。
舞台がニューヨークと言われても、日本の都市と違うようには見えないせいだろうか。まあ、三人の「女優」ぶりを楽しむという感が強い。
客席は男性が結構いたのが意外だった。

帰りに夕飯&飲むために店に入ったら、隣の席で上司らしいオヤヂが年下の部下らしき男に仕事の説教くさい自慢話を延々していて閉口した。
休日の夜だし二人ともカジュアルな服装なんで、部下男は休みなのにそんな話を聞かされてカワイソウ&ご苦労さんです(メモまで取っていた)。
ホントに団塊オヤヂは余計な自慢も説教もせずにとっとと消えてほしいもんだ。


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フィービー・スノウ訃報

懐かしい名前を聞いたと思ったら、亡くなったというニュースだった。

独特の歌声とこぶし(?)というかビブラートというか、とにかく印象的なボーカルでしたな。あと、これまた独特なギターもご本人が弾いてたはず。

私もファースト・アルバム買いましたです、はい(^^)/

六十歳ではまだ若い ご冥福をお祈りします。

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2011年5月 3日 (火)

「J.S.バッハ 音楽の捧げもの」:安らぎもなく慰めもなく

110503
バロックの宮廷から
演奏:寺神戸亮、曽根麻矢子、菅きよみ、武澤秀平
会場:紀尾井ホール
2011年4月28日

久しぶりのコンサートでありますよ。
思えば、3月3日のドミニク・ヴィス以来。上野での「ガリバー」があったけど、あれは演奏が主ではなかったからなあ(゜-゜)

紀尾井ホールへ行ってみると、二階のバルコニー席も含めてほぼ埋まっていた。震災以来、バロック系の公演が少なかったからか、それとも美人過ぎるチェンバロ奏者曽根麻矢子効果か?

プログラムは宮廷で聞かれた音楽ということで、前半がF・クープランのコンセールとテレマンの「新パリ四重奏曲」から。典雅なクープランと溌剌としたテレマン。それぞれに、この四人のメンツならこれぐらいの出来は当然だろう--って言っちゃったら悪い?
いや、素晴らしいけど無難な線だなあという感が仄かに漂うのであった。

しかし!休憩を挟んで本命のバッハ「音楽の捧げもの」へ行くと全然違った。やはりバッハは予測不能 怖いねえ~。それともバッハには魔物が潜んでいる(←ちと大げさ?)というか。
寺神戸亮が主題(先日、鈴木(兄)雅昭が「不気味」と評した)をヴァイオリンで提示し、続いて曽根麻矢子が「三声のリチェルカーレ」を弾き、その後の「無限カノン」をヴァイオリンに菅きよみのトラヴェルソと武澤秀平のガンバ(曲によってはパルドシュ・ド・ヴィオールに持ち替えてた)が……と続いていく演奏は美しい緊張感に満ちたものだった。
特に曽根&寺神戸による「二声の全音で上昇するカノン」は硬質でゴリゴリした美しさで圧倒された。終わった時ホーッ(~o~;)と一息つきたくなったくらいよ。

その美は聴く者の感情移入を完全に阻むものだ。聴きながら、変な表現だがこんな例えが頭の中に浮かんでしまった。もし今、被災地で慰安コンサートをやるとしたら絶対に演奏しちゃいかん曲だな……と(-_-;) 下手したら石でも投げられるかも。

そこにあるのは慰めでもなく安らぎでもなく、ただ一人孤独の中に立ち尽くすような透徹さである。なんという音楽であろうか!

そしてその夜、確かにそんな音楽がステージ上に存在したのである。


振り返れば、「音楽の捧げもの」全曲ナマ演奏はかなり昔のクイケン・アンサンブル以来のような気がする。鍵盤がR・コーネンで確か寺神戸氏も入っていたような。
家に帰って「バッハの名曲名盤」の類の本をひっくり返してみたが、そのほとんどがクイケン・アンサンブルの1974年録音盤をトップに挙げているのだった(「番外」としてMAKもあったりするが)。
いくらなんでも未だに四十年近くも前の演奏ってことはあるまいとは思うが、それだけにこの曲の捉え難さを示しているのかも知れない(録音自体もそれほど多くないみたいだし)。


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2011年5月 1日 (日)

聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 5月版

今月の注目は、果たしてレオ爺--じゃなかった、レオ翁は本当に来日するのか?

*13日(金)佐藤豊彦リュートコンサート
*25日(水)美しい島(波多野睦美&つのだたかし)
ロベルタ・マメリ来日中止のため、急きょ差し替え。

6日のアンサンブル・エスタンプが中止になったため、予定は今のところこれだけです。
これ以外には
*6日(金)品川聖&北谷直樹
*13日(金)芝崎久美子チェンバロ・ソロ
*15日(日)東京藝術大学レクチャー&コンサート
*28日(金)テレマン・リコーダー作品集

NHK-BSで3月のD・ヴィス公演の放送もあるもよう。三輪車に乗ったドン・キホーテやってくれるかな。

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