« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »

2011年9月

2011年9月25日 (日)

REMが知らない間に解散していた

110925b
REMが解散を発表したそうだ。

個人的には、彼らはU2と並んで比較的初期からリアルタイムで聞いてきたバンドだった。きっかけは、UHFのTV番組(P・バラカンの番組と並んでよく分からんマイナーなアーティストを紹介してた)でヴィデオ・クリップを見たことである。
輸入盤屋に行って、すぐ最初に出したミニ・アルバムの「クロニック・タウン」を買ったが、ジャケットの曲順とヴィニール盤の裏表が異なっていて、(CDではありえない話だが)なんと私はずっとA面とB面逆に聞いていたのだった(~_~;)
まあ、そんなところは当時のいわゆるカレッジ・チャートに出没していたマイナー・バンドらしいと言えるだろう。(私がおマヌケだからだとか言うな

初来日は大学の学園祭コンサートというマイナーな場だったと記憶している。
私は二度目の来日の時に行った。会場は今はなき有明のエムザだったか? 東京の田舎に建ってた足の便の悪いハコだった。バブル期の産物である。
オール・スタンディングで満員状態だった。当時まだ日本では無名に近くてガイジンの客の方が多かった。というか、その時まさにシングル曲の「スタンド」が米国のチャートで大ブレイクしている最中だったのだが、ご本人たちは極東ツァーを粛々と行なっていたのである。まだ、ネットなど存在してなくて海外の情報はほとんど伝わってこない時代だった。

ライブが始まると、ステージ近くの客が段々とヒートアップしてきて押し合いへし合い、危険な状態になってしまった。そんな状況を察知するや否や、マイケル・スタイプは予定を変えてギターのピーター・バックと二人だけになってアコースティックな曲を歌い、あっという間に客を静めてしまったのだった(何の曲だったかは忘れた)。
さすが米国のバンドはハードなクラブ回りをしているだけあって、こういう時も慣れてるのだのう--などと感心したのである。

終演すると、帰りの足はバスしかないから客がバス乗り場に押し寄せてギュウギュウと、これまた恐ろしい状態だった。GIらしき坊主頭の白人のニーチャンが人の渦の中で「オー、ファッキン・バス!」と叫んでたのを今でも鮮明に覚えている。

肝心の彼らの演奏については、意外にもドアーズっぽくて驚いた。特にM・スタイプはヴォーカルのスタイルやステージでのアクションもジム・モリスンによく似ていた。当人はドアーズを知らなかったと語っていたがウソだろう。

「スタンド」が収録されていた「グリーン」まではよかったのだが、どういう訳かそれ以降のアルバムは熱心に聞かなくなってしまった。どこが違うのか自分でも分からないのだが、何かが変わってしまったようである。
結局「Up」からはアルバムが出ても買わなくなってしまった。「グリーン」までは何十回も聴きまくったのだが。

今日、昔のアルバムを引っ張り出して聞いてみたのだが、「よく聞いたよなあ」以上の感想は出て来なかった。はて(?_?)変わったのは私の方だろうか。
いずれにしろ、A面とB面を間違えて聞くようなことはもうないだろうことだけは確かである。


| | | コメント (0) | トラックバック (0)

「ゴーストライター」:影のない男、影しかない男

110925a
監督:ロマン・ポランスキー
出演:ユアン・マクレガー
フランス・ドイツ・イギリス2010年

長らく公開を待たされたポランスキーの新作……じゃなくて、待っている間にもう次の作品が完成しちゃったのだから旧作になってしまった。
どうしてこれだけ日本公開が遅れたのか? ベルリン映画祭で監督賞を取り、ユアン・マクレガーやピアース・ブロスナンが出演となれば、映画マニアにも一般客にもウケはいいはずである。
スイスの映画祭で監督が拘留されちゃったからか しかし、彼の犯した事件についてはとっくに判決が出ていて、その間も作品は公開されていたのだから、今さら逃げてた本人が捕まったからといって何が違うのかよく分からない。
大人の事情というヤツだろうかなっと(?_?)

ストーリーだけ見ると政治サスペンスのように思えるが、監督の主眼はそこにはないようである。
引退した元・英国首相--となれば、モデルはブレアだろうが、コワそうな奥さんがいるのはクリントンみたいだし、演劇をやってたというとレーガンを思い出させる。戦争捕虜を云々というのはブッシュのようだ。
P・ブロスナンがこの外見だけ明快で中身は不明という政治家を演じていて、これがまたハマリ役というしかない。

この元首相の自叙伝のゴーストライターとなるのがE・マクレガーで、前任者は謎の死を遂げていて急きょ代役となり、米国にある別荘へ呼ばれて行く。

ミステリの部分は解明されてしまえば、そんなもんかという印象だ。観客が眠くなったりしないように(?)という配慮からか、後半に配置された車の追跡劇も、主人公の正体分かってんなら先回りしとけよとか、カーナビって目的地のインプット見られないのか(私は車持ってないのでよく分からない)とか、今イチ不明瞭である。

しかし一方で、別荘のある島の荒涼とした風景、悪天候の元で打ち寄せる波、吹き付ける風雨--そして別荘がまたモダン建築の極みみたいなコンクリート打ちっぱなし風で、周囲の環境すべてが落ち着かない。壁面にはゲルハルト・リヒターのような、沈鬱な大型の絵画が幾つもかかっているし、大きなガラス窓も眺めがいいというよりは、不安定な印象だ。
そうしたいずれもが、強迫的に不安感をあおるように観る者に押し寄せてくるのである。この窓越しの風景や悪天候は合成か? よく出来ている。

しかも、見ていて私は気づかなかったのだが、主人公は名前が明らかにされてないのだった。
ニッカリ笑顔の似合う影なき政治家の、陰のライターとなればこの顛末は必然であったか。

論理的な謎の部分は今イチでも、このどんよりとした暗いイメージの塊は秀逸だろう。また、マクレガーやブロスナン以外の助演陣も役にはまっていて、この雰囲気を盛り立てている。
古めかしいサスペンス映画風をなぞったような音楽も面白い。

都内では小さい映画館で二か所ぐらいでしかやってないせいか。満員御礼 10分前に行ったら入れなかった(+_+)


論理点:6点
イメージ点:9点

| | | コメント (0) | トラックバック (3)

2011年9月24日 (土)

「男の絆--明治の学生からボーイズ・ラブまで」

110924
著者:前川直哉
筑摩書房(叢書Zero)2011年

読む前の印象では、近代文芸の批評書かしらん、なんて思いつつ読み始めてみた。がしかし、冒頭から早くも衝撃の記述が(☆o◎;)
日本は西欧社会に比べて同性愛に寛容--というのはよく言われてきたことである。

実は明治はじめの日本には、男性同士のセックスを罰するための法令があったのです。(中略)通称「鶏姦規定」と呼ばれています。

な、なんだって~~
そんなこと聞いたことないぞー(>y<;)
早速、脳内メモ帳に記録しておかなければ……( ..)φメモメモ

衝撃さめやらぬまま読み進めると、禁じられたということは、それすなわち実際に「事象」があったということである。いわゆる「男色」は江戸時代からの流れで明治期前半あたりまでは硬派男子学生の間ではもてはやされていたというのだ。

しかし、その後女学生の出現、精神的「恋愛」観の賛美、さらに「恋愛→結婚→家庭」という幸福イメージが一般に作られ、「男は仕事・女は家事」の性別役割分業による「近代家族」が成立する。

その背後で、「男色」は男子学生の裏街道へと追いやられ、プラトニックな「男の友情」が強調されるようになる。(旧制高校の寮歌に「友情」がどれほどの頻度で出てくるかの比較が面白い)
性別役割分業観の下では「公的世界を担う男性たちによって取り結ばれるものであるがゆえに、男女間の恋愛や女性同士の関係よりも尊いとされるのです」ということだ。これが「男の絆」の本性なのだ--。

ということで、本書はセジウィックの「男同士の絆」概念を日本近代史に当てはめて見たものである。それこそ時代劇でもネタとして扱われそうな「男の絆」が、実は近代社会形成のために生み出された屋台骨だった、というのは目ウロコであった。同時にそれは同性愛が周縁に追いやられていく過程でもある。
ついでに言えば、「家庭の団欒」とか「幸福な家族」というイメージも同時期に作られたらしい。これまた時代劇のウソ発覚か(@∀@)

扱ってる対象がエリート学生層に片寄っていて、一般庶民レベルではどうだったのかという問題はあるけど、明治以降の男女観・家庭像の変遷が明快に描かれていて面白かった。さらには現代のフ女子がなぜBL小説を読むのかについてまで言及してくれている。
文章も読みやすかったのもポイント増

装丁はミルキィ・イソベなのね

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月19日 (月)

汚染地図

「放射能汚染地図」四訂版が出ていたんですね。
《早川由紀夫の火山ブログ》をどうぞ。
地図をクリックすると拡大します。
自分とこのご近所を確認すべし。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月17日 (土)

「未来を生きる君たちへ」:このふがいない父よ

110917
監督:スサンネ・ビア
出演:ミカエル・パーシュブラント
デンマーク・スウェーデン2010年

アカデミー賞とゴールデン・グローブ賞の外国語映画賞をWゲットした本作、かなり期待して見に行ったのであるよ。

二つの対照的な世界が舞台である。片方はアフリカの難民キャンプ、もう片方はデンマークの港町である。二つの世界をつなぐのはデンマークに住む医師で、キャンプでの医療にたずさわり、定期的に双方を行き来している。
医師の息子は学校でイジメにあっており、難民キャンプの外では暴力が横行している。すなわち、対照的なようでありながら、実は双方の世界には同じ苦悩が存在するのだ。

それなりに平穏を保っていた二つの世界に、より暴力的な存在がそれぞれ出現することによってその均衡は崩れる。一人は息子のクラスに転校してくる少年、もう一人はキャンプに怪我をしてやってくる暴虐な男である。
医師は両者に非暴力主義によって規範を示そうとするが、それは見事なまでに失敗してしまう。

結局のところ、混沌とし暴力が横行する世界において、一番勇気あったのはいじめられっ子で弱い奴と思われていた息子であったのが終盤に示される。
では、父親の医師は……? いくら物語の全てに白黒つける必要はないといっても、理想はうまく行きませんでした、後は何事もなかったように子どもたちに期待を託しておしまいでは納得いかんぞ~(--〆)ゴルァ

ということで、終盤はなんとなく腰砕け状態であった。
映像や役者の演技は文句なし。凧揚げをしている場面は郷愁に満ちていて美しい。


苦悩度:8点
解決度:6点

| | | コメント (0) | トラックバック (1)

2011年9月12日 (月)

「Georg Philipp Telemann 5 ~トーマス・メラナー氏を迎えて」:涙のオーボエ愛のリコーダー

110912
会場:日本福音ルーテル東京教会
2011年9月9日

タイトルには5回目と入っているが、このテレマンの演奏会シリーズ、過去には行った覚えがない。今回行こうと思ったのは、イタリア出身オーボエ吹きが参加するんで、さてどんなもんか聞いてみようという理由からだ。

そのメラナー氏、最初に登場したのを見るとなんと長身の若いモンではありませぬか。紹介文を見れば1984年生まれとある。まだ30歳前なのね……(@_@;)
彼以外のメンツは、リコーダー宇治川朝政、ヴァイオリン木村理恵、チェロ懸田貴嗣、チェンバロ福間彩。この5人でテレマンの四重奏曲を、そして次にヴァイオリンが抜けてトリオソナタをやった。

記憶をたどってみても、少人数のアンサンブルでリコーダー&オーボエの組み合わせってあまり聴いたことがない。双方とも木管だから音色は似ているが、音量はオーボエの方があるし……似ているようで似ていないのであった。
躍動感ある四重奏曲もよかったが、トリオソナタの方はこの二本の木管の絡み合いにホヤ~ンと聞きほれてしまった。

また5人で同時代の作曲家ファッシュのソナタをやった後、休憩を挟んで、今度はメラナー氏と通底組によるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(テレマンが名付け親とのこと)のオーボエ・ソナタが演奏された。
長身をゆらゆらと動かしながら、長いソロを巧みに、そして堂々とと吹き切った彼に会場からは惜しみない拍手が贈られたのであった。

しかし、ここでちょっとハプニングが 次はメラナー氏が抜けて四人でテレマンのトリオソナタを始めようとしたのだが、オーボエ・ソナタを客席から聞いていた宇治川氏が感動のあまり涙が止まらなくなってしまったというのだ。
なんでも、数年前に国際コンクールに出た時にやはりメラナーも出場して同じ曲を吹いて優勝した(?)のだという。その時も聴いて感動の涙を流し、共演したいと思って今回ようやく実現したのだそうだ。

涙ながらに語る宇治川氏、純情なのね
オバサン、演奏だけじゃなく感動しちゃった~O(≧▽≦*)Oキャーッ

ようやく涙が止まって演奏再開。ラストはまた5人全員で四重奏曲だったが、この最終楽章には三人のソロの見せ場があって、特に木村理恵は派手なヴァイオリンソロを弾きまくって喝采ものだった。

以前にテレマンの四重奏曲(同じ曲ではないが)を聴いた時には、なんとなくぬるい印象を受けたが、今回はそんなことはなく極めて溌剌とし緊張感があった。当然と言えば当然だが、演奏者によって全然違うのだなあと改めて納得した。
それから通奏低音の二人もグッジョブでした。

会場には同業オーボエ吹きの三宮氏など、演奏家の方々も来ていたようで。
この「木の器」主催のコンサートはここんとこ数回は外れナシ(*^^)v 次も行きますぜ~。


それにしても新大久保に来たのは10か月ぶりぐらいか? K-POPや韓流ブームのせいか若いオネーチャンがやたらとそこら中に増えててビックリだ。
おまけに教会の向かい側の交番前には、赤いライト点滅させてる機動隊車が何台も止まってるし--さすが新大久保であるなあ。


| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月11日 (日)

「ミラル」:女たちのパレスチナ紛争

110911
監督:ジュリアン・シュナーベル
出演:ヒアム・アッバス、フリーダ・ピント
フランス・イスラエル・イタリア・インド2010年

もはやアートよりも映画の方の活躍で知られるようになったJ・シュナーベルの監督作品である。

監督自身はユダヤ系だそうだが、この映画の主人公はエルサレムのアラブ人女性たち。
一人は私財を費やし1940年代末から孤児のための学校を作り運営してきたヒンドゥという人物である。
彼女の長年にわたる活動を背景にして、三人の女性の姿が描かれる。ミラルの母、彼女と刑務所で同房になった看護師、そしてミラルである。特に後半は少女だったミラルの成長の過程をたどる。
ユダヤ人との軋轢、暴力、不和--少女はそれらに触れざるを得ない。避けて生きることはできないのである。

などと書くと、シリアスな社会派ドラマのように思えるが、そのようなタッチではない。凝った幻想的な映像のせいもあって、シビアなテーマの割には重苦しくはない。あくまでも時代の中で生きた女たちの半生を淡々とつづるという印象だった。

そして最後には和解の道筋が(極めて細いものだけど)示されるのだった。

ミラルを演じるフリーダ・ピント(『スラムドッグ$ミリオネア』)の美少女振りは相当なものだが、美少女には関心の薄い私は、やはり孤児と共に生きたヒンドゥ役のヒアム・アッバスの演技に圧倒された。さすがの一言である。
できれば彼女の生涯を正攻法で描いたのを見てみたかった。大河ドラマ風になってしまうかもしれないけど……。
ウィレム・デフォーとヴァネッサ・レッドグレーヴがホントにチョイ役で特出。

見終わって、なんとなく物足りない気がしたのは、ミラルが双六のように最後に「上がり」でハイ一丁(@^^)/~~~だからか、それともタッチが淡々としすぎているからか。なんだか狐に鼻をつままれたまま終わってしまったようなのだった(?_?)


これから上映予定作品の予告を四本ばかりやってたが、どれ一つとして見たいのはなかった(>_<)
しかもそのうち半分は家族の和解・再生を描いたもの。災厄の後は家族に戻れってことですかい? 縁がないね~

淡々度:8点
和平到達度:6点


| | | コメント (2) | トラックバック (0)

真相・藪の中--には蛇がウヨウヨ?

問題発言で経産相が辞任してしまいましたが、こちらの記事を読むとそう単純な話ではないようで……。

「鉢呂経産相辞任 記者クラブに言葉狩りされて」

新聞の記事ではこうですね。

「鉢呂経産相:8日夜の報道陣とのやりとり」


Q (福島第1原発の)視察どうでした?

A やっぱり、ひどいと感じた。(記者に突然、服をなすりつけてきて)放射能をつけたぞ。いろいろ回ったけど、除染をしないと始まらないな。除染をしっかりしないといけないと思った。

--なのでありますが、各新聞の記事により内容がまちまち。
で、本当はこうだったというのが、ネット上に流れております。


記者「大臣(作業服)着替えてないんですか」

大臣「今福島から戻ったばかりだ、そんな暇ないよ」

記者「じゃ福島の放射能ついたままですか」

大臣やや怒って、一歩近づいて「それがどうした? 放射能つけてやろうか?」

これは出典不明なので、本当なのかどう分かりませんので、そこんところは要注意ではあります
しかし、こりゃ言ってることは同じようでも文脈は全然違~う(!o!)

果たして真実はいかに 藪をつつけば毒ヘビが飛び出して来ますかね(-_-メ)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月 4日 (日)

「スペインの光の中のビクトリア」:日本人の知らないビクトリア

110905
日本ルネサンス音楽普及協会第45回例会・没後400年記念演奏会
演奏:杉本ゆり&ラウデージ東京
会場:東京山手教会
2011年8月27日

この日はビクトリアの命日ということで、企画されたコンサートらしい。
ビクトリアというと先日聞いたコンサートのように、アカペラで美しい教会音楽を楽しむという印象であるが、この日は甚だしく違った。
スペインという土地の文脈の中でビクトリアの音楽を聴きなおしてみるというものである。従って彼の作品自体は全体の2割以下?ぐらいしか演奏されなかった。こいつはちょっと意外である。

スペインは長いこと他宗教に寛容なイスラムの支配下にあり、当地の教会は独自の典礼を発達させてきたが、イスラム勢力が去った後はローマ教会が統一された形式の典礼を押し付けてきたとのことである。しかし、ローマの眼から隠れてその後もと当地の典礼は生き残ってきたそうで、ビクトリアはスペインに帰国してからは愛国的と言っていいような内容の聖歌を作ったという。

コンサートはサンチャゴ・デ・コンポステラの写本、スペイン神秘主義、マリア信仰……といったキーワードでスペインの過去、同時代の曲とビクトリアの作品を並列的に鑑賞。アカペラあり、器楽曲ありといったかなり広範囲なものだった。
合唱は一声部3~4人、器楽は最大5人という編成である。

祖国との深い関わりという点から浮かび上がってくる新しいビクトリア像はかなり新鮮で驚きであった。ただ、歌詞の内容を見ると確かにスペインの守護神ヤコブや郷土のことを多く歌っているが、曲だけ聞いていると他の曲との関連性はそれほど目立たないような印象を受けてしまった(シロート耳には)。
とはいえ、この作曲家の知られざる一面を教えてくれたコンサートであった。

指揮(と構成も?)を手がけた杉本ゆりは曲間に詳しい解説も交えて熱演だった。
会場はかつてジァン・ジァンが地下にあったのでも有名な教会だが、外側からは想像できないほどに広くて驚いた。数百人は入る中規模ホール並みである。ただ、入口直ぐに恐ろしく急勾配の階段があってとてもバリアフリーとは言えない。
地味なプログラムのはずだが、その会場がほぼ満員だったのでこれも驚き(!o!) 日本ルネサンス音楽普及協会ってそんなに会員多いのか。

終わって外に出ると目の前に渋谷公園通りのドトーのような喧騒が……。全くの別世界であった。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

「カーズ2」(3D吹替版):情報を三分の一追加

監督:ジョン・ラセター
声の出演:山口智充、土田大
米国2011年

最初に見た字幕版では、鑑賞環境が今イチだったので新たに吹替版で仕切り直しだいっ(^^ゞ

結果は……楽しかった\(^o^)/

吹替で改めて分かったのは、最初に見た時はオマケ短編の『ハワイアン・バケーション』も含めて、内容を三分の二ぐらいしか理解していなかったこと なんてこったい!
字幕より吹替の方が情報量多いのは確かだけど、「あれ、こんな場面あったっけ^_^;」とか「こんなとこで喋ってたっけ(?_?)」みたいなマークが続出しちゃったのであった。
やはり、ちゃんと見きれていなかったのだなと反省した。

映像については、台詞が耳から入ってしかも座席の位置も最適、よ~く見れた。で、その一番の感想は--「3Dぽくない」
これは3Dにした意味がないということではなくて、それを意識させないほどに自然だったということだ。人間は普段は3Dで物を見てるんだからねえ。特にレースで車がクラッシュする場面とか各都市を俯瞰する場面などにその威力を発揮。そう思うと監督は3Dに適した題材を選んだんだのだと納得した。

他には、東京の川べりのうさん臭い工場、パリの下町に並ぶ怪しげな店も笑える。
とっくに忘れ去られた悪役ポンコツ車たちの「怨念」の描き方に、逆に愛情を感じたりして
果たして変わったのか変わらないのかよく分からないメーターの成長ぶり……でも、仕方ないのさ、だってメーターだもん(^○^)

吹替えについては、マックミサイルは「老練」より「粋」を重視か。メーターは字幕の方がド田舎度が遥かに大 イタ車は字幕では文字通り気に障る「気障」だが、吹替えだと単なる「軽薄」……。
他の人の感想でも見かけたが、日本のトイレの場面では吹替えの方が不利。オリジナルでもあのトイレは日本アニメ娘のキャピキャピ声の日本語で喋りまくっていて、訳ワカラン状態となって、メーターをパニックに陥らせるのである。そこら辺の面白さはあまり伝わらない。
エンド・クレジットではパフュームが後半ずっとかかりましたな。日本用サービスか。

DVD出たらまた字幕版で見てみたい。暇があれば--の話だが。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年9月 3日 (土)

聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 9月版

台風は来るわ、湿気はひどいわ、でまだまだ古楽鑑賞の秋とはいきませぬ。

*9日(金)「テレマン 5 トーマス・メラナー氏を迎えて」(宇治川朝政ほか)
*23日(金)「織り込まれた宝石」(アンサンブル・ディアマンテ)

他にもこんなのが。
*21日(水)「バロック、ロココのリコーダー二重奏」
*30日(金)「水の都ヴェネツィアから」

今月は古楽フェス月間か?
福岡古楽音楽祭、新潟古楽フェスティヴァル、東海バロックプロジェクト、と目白押し。東京はどうなってんの~

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »