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2011年11月

2011年11月29日 (火)

ケンちゃん死す

111129
け、ケン・ラッセルが~っ(>O<)

お亡くなりに……_| ̄|○ガクッ →ウィキ

まあ、最近ではあまり見かけないタイプの映画監督だと思える。
キッチュで躁病的画面、俗悪すれすれに謳いあげられる純愛、しかし最後に響き渡る哄笑……。

特に好きだったのは『サロメ』か。ロードショーを見に行って、あまりに面白かったので一週間後にまたもう一度見に行ってしまったのだった。
最近、久しぶりに再見した『肉体の悪魔』もケンちゃん節炸裂であった。

別の意味で記憶に残っているのは『アルタード・ステーツ』。確か、アーサー・ペンが降板した後を引き継いだSF作品で、日本で公開されたのは五月のゴールデン・ウィーク中だった。しかし、休日で人の賑わう有楽町の大きな映画館に行ったら客が20人ぐらいしか入っていなかった(~o~)

最後のロードショー公開作品は『チャタレイ夫人』なのか? なんかケンちゃんにしては生ぬるいなーと思って見てたら、テレビ用映画だった。


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2011年11月27日 (日)

「ふしぎなふしぎな子どもの物語」:「大人」の消滅

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なぜ成長を描かなくなったのか?
著者:ひこ・田中
光文社新書2011年

ひこ・田中は『お引越し』などで知られる児童文学作家。それ以外に紹介や批評活動もしている。私がよく目にしたのは、徳間書店の児童書にはさまれている小冊子に書いていたコラムで、そこで紹介された米国のヤングアダルト文学を何冊か読ませてもらったことがある。

これは近年の「子どもの物語」に起こった変化を探るという内容のものだ。いわゆる児童文学は一つの章で取り上げられているに過ぎない。他はテレビゲーム、テレビヒーロー(変身ものなど)、アニメ(少年向け、少女向け)、世界名作劇場、マンガ--といった具合である。

個人的にはテレビゲームは全くやらないし、アニメの『ヤマト』や『ガンダム』は見ていないので、未知の世界という感じで紹介からして面白かった。また、変身ものヒーローの時代による移り変わりも興味深い。

『ガンダム』についてはかなりシニカルな書き方だ。

「ガンダム世界は、卒業する必要がなく、時には成長する必要もなく、遊び続けられる場所のようです。」
「ガンダムという戦争ごっこは今も続いています。」

一方、その後世代の『エヴァンゲリオン』についてはこうである。

「出口のない状況を的確に描いた物語が、出口を探すのを放棄するラストではなく、出口を示すラストを用意するのは至難の技です。」

また同じアニメの「世界名作劇場」については、

「親子は自動的に家族愛に満たされているといった幻想も崩れてきます。子どもは時が来れば必ず大人になるというのも怪しくなってきました。」

アニメだけでなく、様々なメディアでの子どもたちの物語において「自己の統合といった成長の設計図」は存在しなくなり、成長しなくてはならないという理由も示されず、子供から大人へという成長過程は切断されている--これが近年見られる特徴だという。
『鋼の錬金術師』は成長物語ではないのかと思ったら、「等価交換」は成長ではなく、物語が終了した後に「成長」は始まるのだとしている(主人公の兄弟の身体が「成長しない」ように設定されているという指摘は鋭い)。

ここで当然、読者としてはそのような傾向を批判する結論に至るのだろう……と予想して読み進めたら全く違った。
著者は「成長」という概念自体に疑問を呈するのである! これが凡百の「子どもの物語」論と異なるところだ。

前近代においては子どもとは小さな大人に過ぎず、特別な存在ではなかった。近代になって「子ども」という存在が切り離されて認識されるようになったのである。--これは歴史学者P・アリエスの論として知られるものだ。
だが、現在では家庭・家族の崩壊、社会の情報化などによって、大人が大人として振る舞うこと自体が困難になってきているし、大人と子供の差異も小さくなっている。
とすれば、どうして大人にならなければならないのだろう?

むしろ、大人にならない大人の存在を受け入れるのがフレキシブルな本当の近代社会ではないのか。「子ども」の存在を定義した時に、既に確固とした「大人」像は消え始めていたのではないか。
今の子どもの物語は理想と現実の社会のそのズレを、正直に描いているものなのだ。

いや驚いた(!o!) これにはうっちゃりを食わされた。これまでの常識から180度の大転換だ。
しかし納得の行くものでもある。
もはや「大人」にならなければいけないことはないのだ\(^o^)/ 長年の重しが取れた、解放された気分だ~

だからと言って、歳を取らないわけではないが(> <;)


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2011年11月23日 (水)

「ラクリメ・アモローゼ」:聴衆は打者か捕手か

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イタリアバロック歌曲の神髄
演奏:ロベルタ・マメリ、波多野睦美、つのだたかし
会場:ハクジュホール
2011年11月19日

本来は5月に行われるはずだったのが、震災の影響で延期になってようやく実現。
北とぴあ音楽祭で「コジ・ファン・トゥッテ」やったばかりのロベルタ・マメリの独唱が中心の公演である。お待ちしておりました(@^^)/~~~
過去のコンサートの感想はこちら→をご覧下せえ(2009年2010年)。

内容は同タイトルのCDの収録曲が中心だろう。イタリアの初期バロック曲ばかりで、以前の公演でも取り上げた曲が多かった。特にモンテヴェルディの作品が多くを占めている。
中ではフォンテーイという作曲家の「エリンナの涙」がバロックの定型を外れた(?)感じで面白かった。つのだたかしのテオルボも雄弁である。
またマメリのソロだけでなく、波多野睦美のソロ二曲、それから二人のデュオもやった。

マメリは常に力強い直球、剛速球でど真ん中のストライク・ゾーンに投げてくる
一方、波多野睦美の歌はフワフワとした変化球(というより魔球かっ)で捕えようとすると大きくそれたり、と思えばまっ直ぐにジャスト・ミートもあり。
しかし、こんな二人が一緒に歌うとぴったり重なってしまうのが不思議なのである。

曲間は拍手なしで進行という方針らしく、聴衆もずっと大人しくしていたが、後半では思わず拍手してしまう人が多数。
こういうのはマナーの問題じゃなくて、人間の自然な感情の発露だから仕方ないよね。

完全に五千円の元は取れた満足感高いコンサートだった。
ただ、この日は朝早く目が覚めてしまい、また寝なおしたりして、どうも頭がずっとスッキリしないままだった。休日コンサートはいつもこんな調子。アドレナリンのせいかしらん(^^ゞ


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2011年11月20日 (日)

「ウィンターズ・ボーン」:タフでなくては生きていけない村の掟

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監督:デブラ・グラニック
出演:ジェニファー・ローレンス
米国2010年

米国のド田舎の寒村に住む一家の物語。風景は徹頭徹尾暗くて冷たい(冬の話だし)。また、他の感想でもよく引き合いに出されているが『プレシャス』『フローズン・リバー』と共通する点が大きい。「社会の底辺」と「女たちの絆」である。

主人公は17歳の少女。父親は所在不明、母親は病気で、弟と妹の世話は彼女がすべてやっている。母親だけでなく父親の役割までもこなしていることが描かれる。
おかげで、同じ年頃の若者が通っている高校にも行くことができない。収入がなくて家畜にエサをやる金もないのだ。

さらに追い打ちをかけるように、保釈中の父親が姿をくらましたことが判明。期日に出頭しないと、保釈金を払うことになりその抵当に家と土地が入っていたのだった(!o!)
なんとしても父親を探し出さねば(~_~;)と必死になるが……。

親類や村人は彼女を助けるどころか、「余計なことを詮索するんじゃねえ」モードである。荒涼とした村の中をグルグル回るうちに果たして父親を見つけられるのか。

このように物語はハードボイルド・ミステリの形式を取っている。探偵役は「卑しき街の騎士」ならぬ「貧しい村の娘っ子」だ。従って、謎解きの謎自体よりもその過程で探偵の前に出没する村の情景や人々の描写に重きがかかっている。
とはいえ、初めそっけなかった叔父がどうして後半で態度を変えたのか、理由が全く示されてないのは不満であ~る。

結局、ヒロイン助けるのは村の女たちだ。それはシスターフッドなどとは到底呼べないほどのささいなものだが。
終盤でようやくタイトルの意味が判明。なるほどそういう事だったのね……(-_-;)
結末は前向きで明るさを感じさせるものだが、よくよく考えると何一つ状況は変わっていないのに驚く。それだけ元々の状態が暗すぎということか

途中で、彼女が金を得るために軍隊へ入ろうとする場面が出てくるが、こういう若いモンが中東へ行かされてるのか。暗澹たる気分になってしまう。

昨年のアカデミー賞で主役のジェニファー・ローレンスと叔父役のジョン・ホークス(助演)がノミネート。頷けるところだろう。もっとも、他の村の女たちやヒロインの幼なじみ役もグッジョブである。
ローレンスは『あの日、欲望の大地で』『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』(本国の公開はこちらの方が後か?)で注目されている若手。今後も期待だ。

ところで、この時に某日本映画の予告をやってたのだが、その中で若い女優が「正統作者」とセリフを喋っていた。正統作者……(?_?)はて、なんじゃろと疑問に思った次の瞬間、「性倒錯者」のことだと思い至ったのだった。
なんとかしてくれい(T_T)


陰鬱度:9点
ハードボイルド度:8点


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2011年11月14日 (月)

「フェア・ゲーム」:美人過ぎるCIAのママは何でも知っている

111114
監督:ダグ・リーマン
出演:ナオミ・ワッツ、ショーン・ペン
米国2010年

「奥さまの名前はヴァレリー。そして、だんな様の名前はジョー。ごく普通の二人は、ごく普通の恋をし、ごく普通の結婚をしました。双子の子供も生まれました。でも、ただひとつ違っていたのは……奥さまはCIAだったのです!

911直後から始まる実話をもとにした作品。当時、新聞でCIAエージェントの女性が正体をばらされて窮地に陥った……とかいう話は読んだ覚えがかすかにあるが、こういういきさつだったとは初めて知った。
監督が『ボーン・アイデンティティー』の人なんで、話はドキュメンタリー・タッチでサクサクと進む。ほとんど再現ドラマを見ているみたいだ。ただし、配役は豪華版である。

ブッシュ政権下、CIAはイラクに核兵器は存在しないと分析するが、ホワイトハウス側は宣戦布告したいがために圧力をかけて報告をねじ曲げる。元・大使であるヒロインの夫が義憤に駆られてマスコミに真相を訴えると、報復に妻がCIAであることを暴露されてしまう。おかげで彼女が関わっていた十数もの極秘の計画も中止、エージェントとして使いものにならない状況に追い込まれる。


ネットの感想を見ると前半は退屈で、後半になると面白くなった--という意見が多かったが、私は逆に感じた。
前半の世界を股にかけた諜報活動(というほど派手ではないが)とそれをめぐる策謀が、後半に至ると夫婦の絆と愛情に限定された話に収束してしまうのはアレレ(@_@;)と肩すかしな印象である。
もっとも、夫婦を演じるオナミ・ワッツとショーン・ペンの熱演はさすがとしか言いようがない。特にペンが「闘わずして葬り去られるのか」と問うところは、思わず感動してしまったぜい

ラストは二人の汚名が晴れてメデタシではあるが、でっち上げられた戦争に巻き込まれたイラクの市民や、作戦中止でほったらかしにされて殺された協力者たちは浮かばれめえ。
「CIAはやっぱり正しかった!」と言われてもねえ……(-"-)
ところで、日本政府の公式見解はまだ「大量破壊兵器はあった」のままなのかね。誰か訂正したというのを聞いた覚えがないが

と、クサしてはみたが、こんなネタで映画を作れてしまうのはさすがハリウッド。日本で、今の事態を十年後に社会派映画にできるかというと無理だろう。

サム・シェパードが父親役で特出。ヒロインの実物ご本人が、N・ワッツに引けを取らない美人なのにはビックリよ。
ラストのクレジットの配役名が伏字になってたのも驚き。実名を出せないのだろう。


CIA:8点
ホワイトハウス:3点


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2011年11月13日 (日)

どうなる?朝日ニュースター

J-CASTニュースの「来年3月でスタッフ全員解雇 「朝日ニュースター」事実上消滅」という記事には驚いた。テレ朝に譲渡という話は聞いていたが、「消滅」状態にまでなりそうとは……

朝日ニュースターはケーブルテレビでよく見ている。特に「ニュースの深層の」火・水・木曜や「愛川欽也パックイン・ジャーナル」、「デモクラシーNOW!」、地方局が制作したドキュメンタリー「テレメンタリー2011」。
それに最近は「ネット発市民チャンネルContAct」も見るようになった。先日「関西クィア映画祭」の代表者のインタビューをやってたが非常に面白かった。
また「デモクラシーNOW!」では、日本で著書が訳出されるよりはるか以前に、ナオミ・クラインご本人が登場して「ショック・ドクトリン」(←まさに今の日本の状況が当てはまる)を解説してくれたりした。

こういう番組が生き残れる……とは残念ながら思えにくい。ガックリ_| ̄|○である。

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渡邊孝チェンバロリサイタル2011 第2回:音楽の万華鏡

111113
ヨハン・ヤコブ・フローベルガーとジローラモ・フレスコバルディ「1640年代のローマ」
会場:近江楽堂
2011年11月4日

会場に入ると人が少ない……(@_@;)
近江楽堂は元々狭いホールだが、その中でさらに客の数が少ないのであった。なぜであろうか?
「フローベルガーとフレスコバルディ」という組み合わせがあまりにもマイナー過ぎるのか(?_?) 渡邊孝は先日のエンリコ・オノフリの公演では好評を博していたというのに……。他にもいくつかコンサートがかぶっていたせいもあるのか。

いずれにしても--フレスコバルディ先生、フローベルガー先生すいませんm(__)m

もっとも、プログラムで取り上げられるのはこの二人だけではなかった。カプスベルガーとかフォンタナあたりならまだしも、ピッキとかクアリアーティとなると、名前も聞いたことがない。

渡邊氏はフローベルガーの作品に魅了されるようになったが、彼に関する資料はほとんど残っていないそうである。
一方、彼の師匠のフレスコバルディ(当時の大人気鍵盤奏者)は記録が多数残っているとのこと。で、さらにその先輩の作曲家からフローベルガーと同時代の作曲家までたどり、受け継がれた音楽を再現する。

前日に聞いた中世音楽も非常にディープなものだったが、こちらも負けず劣らずディープな音世界だった。
プログラム的には地味の極みであるが、音的には美しく華麗しかし同時に晦渋なものである。
中で一風変わってて耳を引いたのはカプスベルガー「アルペッジャータ」で、本来はリュートによって全編アルペッジョで演奏する曲である。これをまたチェンバロで弾くとなんとも不思議なサウンドに聞こえる。音楽による万華鏡を眺めているよう

楽器はイタリアンとフレンチ二台を並べて使い分けての演奏だった。
それにしても客が少なくて無念な((+_+))演奏会だった。渡邊氏の話によると、先輩の演奏家(古楽系ではない)を招待したところ、演目の作曲家を誰一人として知らないし、「作曲者不詳」の曲をやるなんて考えられないと返事が返ってきたという。

コンサート連チャンだったので、終演後は寄り道せずにそそくさと帰った。

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2011年11月 7日 (月)

「リリウム・オリエンタリス~東地中海に咲く百合」:音楽による中世期のユーロ圏

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北とぴあ国際音楽祭2011 参加作品
音楽監督:守谷敦
会場:北とぴあ つつじホール
2011年11月3日

久々にディープな中世音楽を聴いた\(◎o◎)/!というコンサートだった。

キプロス写本に収められた1400年代初頭のキプロス島の音楽はその数200曲--その中の多声ミサ曲を演奏するという内容である。
当時のキプロス島はフランス文化圏に属していたということで、音楽的には少し前の時代のマショーの影響が大きいようだ。

音楽監督兼リコーダー(指揮もやってた)の守谷敦という人は、まだ若くて学生風だがイタリアの方で活動しているらしい。客席では、この日の夜にはイタリアへ戻る、なんて話が聞こえてきた。
他の二人の楽器隊はフィーデルとオルガネット(ちっこくて手でふいごを動かすオルガン)でアントネッロ系の奏者だった。
歌手は各声部一人ずつで4人である。

「ほとんどの楽曲が現在ヨーロッパ内でもほとんど演奏されることなく、日本では初演であろう」というだけあって、とっつきやすいプログラムではない。また、配布の解説もきょうびのコンサートでは珍しいというぐらい難解である。しかも途中休憩なし
なんだか中世音楽の実演研究発表会のおもむきだ。まあ、だからこそ「国際音楽祭」の看板に相応しい公演かも知れない。
なわけで、周囲には途中沈没している客ちらほら。私も沈没しかけたです(^^ゞ

延々とフレーズを繰り返していく当時の宗教曲は、後世(バロック期でも)の作品とは違って、近代的な感情移入を完全に阻むものである。むしろ現代音楽や民族音楽のフィールドに近いものであろう。
そういうことをよ~く確認できた公演だった。

歌手の皆さんは喉を酷使してご苦労さん。こういう音楽こそ、ある水準以上の技量がないと歌えないのをヒシと感じた。だって、アクションや感情発露や声量ではごまかせないもんねえ
特にアルトの横町あゆみが安定した印象。ソプラノの名倉亜矢子は翌日のジョングルール・ボン・ミュジシャンのコンサートにも出てたはずなので、連チャンで大変です。
男声陣は長尾譲と春日直人だった。


毎年、北とぴあ音楽祭で感じることだが、チケットが入手しにくくて困る。参加公演でも大手のチケット販売で買えるようにして下せえよ(-"-)


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2011年11月 5日 (土)

「百合子、ダスヴィダーニヤ」:情熱の女、情けない男

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監督:浜野佐知
出演:菜葉菜、一十三十一
日本2011年

時は大正、ロシア文学者にして雑誌編集長の湯浅芳子と、天才少女と呼ばれた若き作家--後の宮本百合子との愛憎を描く。

芳子は当時において、自らが同性愛者であることを公言。一方、百合子は十五歳年上の亭主持ちであったから、大変だー。しかも、二人は数年間生活を共にしてロシア留学をした後に、百合子は芳子を捨てて共産主義者の宮本顕治と結婚しちゃうのである。
もっとも、映画で主に描かれるのは出会いとその直後のあたりだ。

私が予想していたのは波乱のドラマであったが、実際見てみるとそういう訳じゃなかった。登場人物が対話を繰り返している場面が多く占めている。
脚本が悪いのか、芳子が百合子の田舎の祖母の家に行ってすぐに「情熱的な私たちの関係」みたいな台詞が出てくるのだが、どこが情熱的なんだかよく分からない。やってることは二人で手をつないで美しい風景を眺めているぐらいなのだ。
台詞ですべてを説明するのはやめてくれ~~(>O<)

てなわけで、私は最後まで「情熱的な関係」を実感できず、文学少女の恋愛理想談義に付き合わせられているような気がした。おまけに、二人の濡れ場にはムードたっぷりな音楽が流れちゃうし……(>y<;)ウウウ
それに、二人の「関係」を阻むものがあまり出て来ないというのも盛り上がりに欠ける。百合子の両親は物わかりよく、娘に「ヨメに出たら二度と戻ってくるな」みたいなことは言わんし、芳子の家族は最初から登場しない。
身近な者と世間を兼ねて、女二人を非難するのは百合子の夫だけなのだ。これではあまりに障壁が少ない。

また、この夫がどうしようもなく情けないヤツなのだ。どのくらい情けないかというと、家へ帰って布団を頭からスッポリかぶって「ああ、情けな~い」と身もだえしたくなるほどである。そんな男を大杉漣を非常に巧みに演じている。彼がいなかったらこの映画の魅力40パーセント減と言っていいほどだろう。
この好演のせいもあって三人の関係のゴタゴタは終盤ではコメディかと思えるほど。思わず笑ってしまった。

一十三十一(シンガーソングライターだそうな)演じる百合子を誰かに似ているなと思って見ていたが、ちょうど結婚した頃の松田聖子だと思い至った。周囲を気にせず、全てを獲得する--百合子とは当時の松田聖子だったのであろうか。

実際にある建物でロケしたとのことで古い屋敷や洋館は見ごたえあり。衣装についても女性陣の着物や百合子の洋装がステキであったが、和服関係の審美眼に欠ける私には猫に小判状態だったかも(+_+)
それから、台詞のアフレコのずれが気になった。後半では慣れたけどさ……。
「協力」に「日本共産党」のクレジットあり。何を協力したのか?

結論としては、テーマは大いに興味があったが、スタイルは私の苦手なものだった。とはいえ、こういう題材を取り上げる映画は日本では少ないので、監督はこれからも頑張って下せえ。ただ、上映前に映画館に出現して作中に出てくるセリフまで語っちゃうのは避けた方がいいかと(~Q~;)

原作は同名のノンフィクション。そのうち読んでみたい。


凛々しい女度:6点
情けない男度:9点


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2011年11月 2日 (水)

「元禄~その時、世界は? 第5回 二人の巨人~バッハと八橋検校」:ギャグのなかった奏楽堂

111102
藝大プロジェクト2011
会場:東京藝術大学奏楽堂
2011年10月30日

レクチャーとコンサートを組み合わせた「元禄」シリーズも今回が最終回。お題はバッハと「六段」でお馴染み八橋検校である。
といっても、皆川達夫のレクチャーもバッハのことは全く出て来なくて、もっぱら「『六段』キリシタン音楽説」のことが中心だった。

内容は、西洋音楽が日本に導入されたのは明治以降というのが定説だが、実はキリスト教と共に入ってきていたというのである。その証拠がいわゆる「サカラメンタ提要」や当時の祈祷書の載っている楽譜・歌詞、それに隠れキリシタンに数百年に渡り伝わってきた「おらしょ」(皆川先生がオリジナル曲はスペインのローカルな聖歌だと発見)であるが、実は4番目の証拠があったのだ!

それが「六段」=「クレド」説である。筝曲の代表的作品がグレゴリオ聖歌に由来するとはビックリだが、ここで皆川先生主催の中世音楽合唱団と藝大邦楽科の教授の実演で証明されたのであった。
曲の構造が似ているだけでなく、社会的背景とか、曲の成立過程など色々な要因でも関連するようだ。
まあ、モロに似ていて分かってしまったら当時は死罪になるわけで、実際に聞いてみて「な、なるほど……(+o+;)」と思えるぐらいだが。

レクチャーが終わってから皆川先生お得意のオヤヂギャグがなかったことに気付いた。もしかして、5分ぐらい遅れたんで(例の如く^_^;)最初にやっちゃったのかしらん。残念であ~る
ただ、皆川先生、あんなでかいホールでホワイトボードに字を書いても見えませんよ。だれか学生にパワポでやらせてくださいな(^o^;)

コンサートの部は前半、八橋検校の筝曲を3曲。後半はバッハの「音楽の捧げもの」のカノンの抜粋とブランデン4番であった。どうやらそれぞれの協奏曲風の構造の類似性を示したかったようだが、解説もなくてわりとそっけないものだった。
おまけに先にパンフの出演者紹介を眺めてたらチェンバロ担当以外は古楽科ではない。……ということはモダン演奏か や、やられた~(>_<)

カノンは主題の提示もなくて初心者には優しくない感じ。ブランデンはリコーダーの代わりにモダン・フルート二本で演奏だ。しかし、吹いているのが若い美人な女性二人だったんで、バッハ先生も20年ぐらい若返ってピカピカしてる印象だった。ソロを取ったヴァイオリニストは藝大の教授とのことだが、一昨日に見たE・オノフリ並みに飛び跳ねながら弾いていた。今は踊るのが流行なのか。

それから、お菓子の「八ツ橋」は由来が八橋検校で、あの形は橋ではなくて琴を模しているそうな。知らなかった また一つ賢くなりました(^_^)v
なお、来年は「幕末・維新」シリーズになるそうで、そうなると守備範囲外だから行くことはあるまい。


会場に行く途中、上野公園で地方からの修学旅行らしき中学生の団体が列をなして歩いているのに出くわした。彼らはずっと「こんにちは」を言いながら歩いていた。恐らく教師に「旅行先で人にあったら挨拶しましょう」と言われたのを守っているのだろう(なんと良い子たち)。
しかし、日曜の昼間の上野公園でそんなことをしたら五百回「こんにちは」を言っても足りないかもしれぬよ。

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2011年11月 1日 (火)

聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 11月版

この秋はコンサート・ラッシュ 春に自粛してた反動ですかね?

*3日(木)「リリウム・オリエンタリス 東地中海に咲く百合」
北とぴあ国際音楽祭始まってます。
*4日(金)渡邊孝チェンバロリサイタル
オノフリのコンサートでも好評でした。今回はフローベルガーとフレスコバルディ。
*18日(金)「天正遣欧使節団とルネサンス音楽4」
*19日(土)「ラクリメ・アモローゼ」(ロベルタ・マメリ)
原発事故の影響で一旦延期になっていたのが復活。
*26日(土)「言葉と音楽 第1回 ヘンリー・パーセルとその時代」

他にはこんなのも
*7日(月)日本テレマン協会
*9日(水)千成千徳
*20日(日)バロックダンスと音楽のスペクタクル「舞曲は踊る」
3連チャンになってしまうんで断念。
*26日(土)アトナリテ・クール
赤津眞言氏主宰です。

北とぴあ音楽祭関連
*4日(金)「ア・カペッラの響き~天正少年使節が初めて出会った音楽」
   〃  ジョングルール・ボン・ミュジシャン
*8日(火)マーティン・ヘイズ&デニス・カヒル
*11日(金)&12日(土)「コジ・ファン・トゥッテ」
感想・レポートお待ちしてま~す(^O^)/

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