「ふしぎなふしぎな子どもの物語」:「大人」の消滅
なぜ成長を描かなくなったのか?
著者:ひこ・田中
光文社新書2011年
ひこ・田中は『お引越し』などで知られる児童文学作家。それ以外に紹介や批評活動もしている。私がよく目にしたのは、徳間書店の児童書にはさまれている小冊子に書いていたコラムで、そこで紹介された米国のヤングアダルト文学を何冊か読ませてもらったことがある。
これは近年の「子どもの物語」に起こった変化を探るという内容のものだ。いわゆる児童文学は一つの章で取り上げられているに過ぎない。他はテレビゲーム、テレビヒーロー(変身ものなど)、アニメ(少年向け、少女向け)、世界名作劇場、マンガ--といった具合である。
個人的にはテレビゲームは全くやらないし、アニメの『ヤマト』や『ガンダム』は見ていないので、未知の世界という感じで紹介からして面白かった。また、変身ものヒーローの時代による移り変わりも興味深い。
『ガンダム』についてはかなりシニカルな書き方だ。
「ガンダム世界は、卒業する必要がなく、時には成長する必要もなく、遊び続けられる場所のようです。」
「ガンダムという戦争ごっこは今も続いています。」
一方、その後世代の『エヴァンゲリオン』についてはこうである。
「出口のない状況を的確に描いた物語が、出口を探すのを放棄するラストではなく、出口を示すラストを用意するのは至難の技です。」
また同じアニメの「世界名作劇場」については、
「親子は自動的に家族愛に満たされているといった幻想も崩れてきます。子どもは時が来れば必ず大人になるというのも怪しくなってきました。」
アニメだけでなく、様々なメディアでの子どもたちの物語において「自己の統合といった成長の設計図」は存在しなくなり、成長しなくてはならないという理由も示されず、子供から大人へという成長過程は切断されている--これが近年見られる特徴だという。
『鋼の錬金術師』は成長物語ではないのかと思ったら、「等価交換」は成長ではなく、物語が終了した後に「成長」は始まるのだとしている(主人公の兄弟の身体が「成長しない」ように設定されているという指摘は鋭い)。
ここで当然、読者としてはそのような傾向を批判する結論に至るのだろう……と予想して読み進めたら全く違った。
著者は「成長」という概念自体に疑問を呈するのである! これが凡百の「子どもの物語」論と異なるところだ。
前近代においては子どもとは小さな大人に過ぎず、特別な存在ではなかった。近代になって「子ども」という存在が切り離されて認識されるようになったのである。--これは歴史学者P・アリエスの論として知られるものだ。
だが、現在では家庭・家族の崩壊、社会の情報化などによって、大人が大人として振る舞うこと自体が困難になってきているし、大人と子供の差異も小さくなっている。
とすれば、どうして大人にならなければならないのだろう?
むしろ、大人にならない大人の存在を受け入れるのがフレキシブルな本当の近代社会ではないのか。「子ども」の存在を定義した時に、既に確固とした「大人」像は消え始めていたのではないか。
今の子どもの物語は理想と現実の社会のそのズレを、正直に描いているものなのだ。
いや驚いた(!o!) これにはうっちゃりを食わされた。これまでの常識から180度の大転換だ。
しかし納得の行くものでもある。
もはや「大人」にならなければいけないことはないのだ\(^o^)/ 長年の重しが取れた、解放された気分だ~
だからと言って、歳を取らないわけではないが(> <;)
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