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2012年5月

2012年5月28日 (月)

「マラン・マレの肖像」:時空を超える師弟共演

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演奏:ヴィーラント・クイケン、上村かおり、クリストフ・ルセ
会場:上野学園 石橋メモリアルホール
2012年5月20日

ステージ上の人数と豪華さは比例しない。
いや「豪華」というと、語弊があるだろうか。「贅沢」とでも言い換えるべきか。奏者は3人きりでも、実に万華鏡のように様々に楽しめた時だった。

タイトルにマレとはあるが、彼と関わりの深いフォルクレとサント・コロンブも演奏された。しかし、この公演の主眼は音楽史的なことよりもクイケンと上村かおり師弟の関係が曲に投影されていることだろう。それをアシストするはC・ルセである。

中盤で演奏された「ラ・ラポルテ」はサント・コロンブが弟子と共にガンバを弾くための曲で、1番のパートを弟子、2番のパートを師匠が担当したという。そしてこの日もその通りに演奏されたのであった。
これだけチェンバロが入らず、まるで二者の密やかな対話のような曲だった。

フォルクレの組曲についてはこれまで散々聞いてたパンドルフォの録音は、かなり早くて強烈な印象があった。彼らの演奏はそれとはまったく違って、ゆっくりと重厚なものである。
途中にチェンバロ用の編曲版でルセが2曲独奏したが、それもまた手のひらでゆるやかにいつくしみながら転がすような演奏だった。
前半はこのフォルクレで終了したが、それだけで十分な聞きごたえが感じられた。
実は個人的にルセの昨年のチャリティコンサートではあまりノレなかったのだが、今回は全く逆。見直しました(^^;ゞ

マレは曲集第5巻の中から。なんとこれを作曲した時の彼と今のクイケンは同じ年齢なのだという。まさにここではマレそのものとなったように弾いていた。
最後は時間をさかのぼって若い頃の曲集の第1巻から。「メリトン氏へのトンボー」が終わった時、会場は静まり返り拍手がなかなか起こらなかった。
まるで、その最後の余韻を手放したくないというように。まだ終わらせたくないというように……。
フライング・ブラボーなどというものとは対極の世界である。

アンコールは2曲、マレとクープランだった。
チェンバロの装飾は実に見事。黒と金を使った蒔絵のような日本趣味で統一されている。。鍵盤の横の下部に引き出しみたいな取っ手が付いてるんだけど、ただの飾りだよね。ホントに引き出しになってたら面白いけど(^○^) なんでも、曽根麻矢子女史が演奏に使っているものだそうな。

ザ・ロイヤルコンソートの公演でも同じなのだが、上村かおりがパンフに書いている文章は、不思議ちゃん系のような名文というか、非常に印象深い。ちょっと引用。
「わたしが初めてヴィーラントとこの曲を弾いたとき、わたしはとても若くて、ヴィーラントの音楽の深い森のなかできょとんとしていたような気がします。」


ところで開演時間ぎりぎりの予定で電車に乗っていたら、なんとJRが止まってしまってすごーく焦った(@_@;) ようやく上野に着いて走った走った 職場に朝遅刻しそうになってもこんなに懸命に走ったことはないというぐらい。おかげで間に合ったけど

【関連リンク】
《バロックヴァイオリン 佐藤 泉 Izumi SATO》
上村かおりからのコンサートの案内が紹介されている。ルセはロンドンのリサイタルをキャンセルして来たとのこと。


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2012年5月27日 (日)

「アーティスト」:人生の上りと下り、どちらが早い?

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監督:ミシェル・アザナヴィシウス
出演:ジャン・デュジャルダン、ベレニス・ベジョ
フランス2011年

今年のアカデミー賞は、この作品と『ヒューゴの不思議な発明』が多くの賞を獲得したわけだが、両者ともに古の映画を題材にしている。

サイレントからトーキーへ……激動の移行期には、名著「ハリウッド・バビロン」によると、多くの俳優が没落した。昨日までは燦然と輝くスターが、あっという間にただの人である。その原因は、声質がヒドイとか訛りが抜けないというものがほとんど。
確かにお嬢様の役の女優が、ガラガラ声で田舎訛りだったらマズイのは道理だ。

この映画では主人公は「トーキーなんて芸術ではない!」というもっと高尚な理由で(現在でも新しい技術に対して「3Dなんて見世物に過ぎん」という意見があるのは事実)、拒否して人気を失う。

逆に溌剌とした魅力でスターの階段を駆け上る若い女優は、そんな彼をそっと陰で見守るのであった。そういう女心にはほだされて泣かされちゃうのう(T_T)
もちろん忠犬アギーの活躍には、犬嫌いの私も涙である。

そんな物語をサイレント仕立てで描くという、これはアイデアの勝利であろう。二度と同じ手は使えないよ。
フランス映画と言っても、字幕は英語だし、脇を固める役者陣も英語圏の人多数。結末も含めて完全にハリウッド讃歌なのであった。が、こちらは『ヒューゴ』と違って、映画史に興味のない人でも楽しめるだろう。

見ていて、サイレントだと演技の方法がかなり違うという印象がした。当時、俳優が入れ替わったというのはそういう点もあるかもしれない。

映像的に凝っているために、逆に話は素朴な恋物語である。従って、観客は映画マニアと恋愛ものファンに分かれるようだ。正直、私は恋愛ものは苦手だがそんな私σ(^-^;)でも楽しめましたよ。
そのせいか女性割引の日に行ったら、大半が女性一人客であった。

ジェームズ・クロムウェルが地味に活躍していたんで、マルコム・マクダウェルも後半もっと出てくるのかと期待してたら、そのまま終わってしまったのは意外というか残念というか……(+_+)


客観点:8点
主観点:6点


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2012年5月26日 (土)

「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」:パイがつなぐ「絆」

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監督:テイト・テイラー
出演:エマ・ストーン、ヴィオラ・デイヴィス
米国2011年

良くも悪くも優等生的映画である。その点において褒めようと思えば幾らでも褒められるし、けなそうと思えばいくらでもけなせるだろう。

1960年代、公民権運動爆発直前の米国南部での黒人メイドたちの変化を描く。子育て・家事を任しながら差別的な待遇を平然と行なうという「過去の悪行」を忌憚なく描いたのは「偉い!」と声をかけたいところだ。
しかし、語り手は明らかにヴィオラ・デイヴィス扮するメイドであるにも関わらず、視点は大学を出て町に戻ってきたリベラルな白人娘のものという「二重基準」ならぬ「二重視点」なのはどういうことだろうか。なんだかどっちつかずの印象である。

また、終盤近くの老メイドのエピソードは、現代に生きるアフリカ系からは「今どきアンクル・トムか」などと批判されそうだ。

もっとも現代的な観点も出てくる。まず、登場する白人の若い妻たちは妻たちで、良い母良い妻たるべしという規範に苦しめられていること。
白人女性の中でも「成り上がり」妻は軽蔑され排除されていること。
男はあまりに影が薄く、徹頭徹尾女の物語であること。(でも、そのために社会構造としての差別は覆い隠されてしまったような)

結局、一番印象に残ったのはテーマよりも、高齢アフリカ系から若い白人娘に至るまで、女優層の厚さと巧さであった。
ヴィオラ・デイヴィスはオスカーの主演女優賞を取っても当然な演技。いや、M・ストリープにやるなというわけではないよ(^^;)
悪役を一人背負って立つブライス・ダラス・ハワードもお見事。その母親役は見た覚えがあると思ったら、シシー・スペイセクではありませぬか(!o!) 『キャリー』からはや幾年今度リメイクだってね~。

さて、舞台はミシシッピなのだが現在のミシシッピ州民はこの映画をどう見たのであろうか。
冒頭で「優等生的」と書いたけど、「●●パイ」の件は除く。バイはしばらく食いたくねえぞっと

最後にに紹介しとこう--アカデミー賞授賞式司会のビリー・クリスタルのジョーク「この映画を見終わったらとても感動して、黒人女性をハグしたくなったんだ。でも周囲を見回したらビバリーヒルズには黒人が一人もいなかったよ」


女優活躍度:8点
心のつながり度:5点

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2012年5月20日 (日)

「キリング・フィールズ 失踪地帯」:謎の行方も失踪中

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監督:アミ・カナーン・マン
出演:サム・ワーシントン
米国2011年

製作がマイケル・マンで監督がその娘であるアミ・カナーン・マン--という家内制手工業(?)映画。「未体験ゾーンの映画たち」という「渾身の特集上映」(^_^;)での限定公開だった。
女性監督とはいえ、さすがM・マンの娘ということか、ノワール色濃いサスペンスとなっている。

テキサスの田舎町で実際にあった連続失踪事件を元にして、二人の刑事の捜査を追っていく。テキサスというとなんとなく荒野や岩山を思い浮かべてしまうけど、ここは湿地帯や藪があってなんだかルイジアナみたいな雰囲気だ。
その地域にはヤクの売人やら娼婦やら不審人物やら母親から放り出された少女やらアヤシイ住人が常時出没していて、捜査は迷走するばかりである。

余計な色恋沙汰もなくノワール一本勝負のはずだが、その割には話が長くてかなり分かりにくい。二つの別々の事件を並行して描いていたんだと、見終わってから気が付く始末である(^^ゞ
これは演出の不手際かそれとも脚本が未整理のせいか。

刑事の片割れはサム・ワーシントン、彼の元妻(やはり刑事)にジェシカ・チャステイン、母親にネグレクトされている少女は人気沸騰中のクロエ・グレース・モレッツ、母親役はもしかして元ローラ・パーマーことシェリル・リーか?……となかなか役者のメンツも豪華だ。
このジャンルの女性監督は少ないので、次回作に期待したい。親父さんは「女が描けない」などと評されてきたが、当然その点は問題なしである。

さて、この特集上映は今シドニー・ルメットの『コネクション マフィアたちの法廷』というのをやってるんだけど、なぜかレイトショーのみ 昼間もやってくれい。見たいぞ。

ノワール度:7点
スッキリ度:5点


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2012年5月19日 (土)

「ルート・アイリッシュ」:「兵士」の行く末

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監督:ケン・ローチ
出演:マーク・ウォーマック
イギリス・フランス・ベルギー・イタリア・スペイン2010年

ケン・ローチが描くイラク戦争--それは民間軍事会社と傭兵の存在に踏み込んだものであった。
この分野も「官から民へ」だろうか、物資補給などの後方支援から護衛、偵察、はたまた拷問指導までこの手の企業は様々な分野に進出しているのであった。正式な軍隊ではないから国際法や条約に縛られることなく、しかも現地の法律に従うこともない。まさにやりたい放題らしい。(過去の関連記事

英国人の主人公は、兄弟のように仲が良かった親友と共に軍事会社に雇われていたが、一人帰国している間に親友がイラクで戦闘に巻き込まれ死んだのを知る。
彼はその原因を探ろうとするが……という話だが、その中心は謎解きではない。

親友の死の謎よりも、徐々に明らかになる主人公の真実の姿こそがこの映画の描きたかったことだろう。彼は親友の妻(と観客)に対して自らの経験した戦争について語るが、その幾つかが嘘であるのが、後半の彼自身がなす行動で明らかになっていく。
心理状態は描くが内奥までは踏み込まず、その内部の荒廃は行動だけが語る--という二重の表現を演出と役者の演技がうまく成立させている。
そして最後に至って、戦争の最も恐ろしい部分は主人公自身だったということが明らかにされるのだった。うーむ、この二重構造は難易度高い技だといえよう。
そして、こんなに救いのない結末はないというぐらいに暗かった。

ところで、他の人の感想では触れているのは見当たらなかったのだが、この映画の最も怖いのは拷問シーンだった。だって……あれ本当にやってるよね(>_<) 見せかけやCGじゃないよ。
信じる「正義」のためになんの躊躇もなく行われる暴力……それを目の当たりにした。戦闘シーンをほとんど出さず、この場面を観客に突き付けたのである。
見終わった後、あまりの恐ろしさに気分が悪くなってしまった。

どうでもいいことだが、隣の席の男がポップコーンをずーっと食ってて、30秒おきぐらいに袋に手を突っ込んでその度にビニールの音を立てるのにはマイッタ(>_<) なぜにケン・ローチの映画でポップコーンを食う 巨大ロボットが格闘するような音のでかい映画ならともかく。
アート系単館ロードショーをやるような映画館ではポップコーンを販売停止にしてもらいたいぞ(-_-メ)


荒廃度:9点
恐怖度:9点


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2012年5月17日 (木)

「第九軍団のワシ」:異文化の長城を撃て

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監督:ケヴィン・マクドナルド
出演:チャニング・テイタム
イギリス・米国2010年

ローズマリ・サトクリフは児童文学の作家として有名。日本でも多くの著作が翻訳されているが、内容がファンタジー味はなく純然たる歴史小説なのでホイホイと映画化はされないようだ。

それが地味ながら公開というので見に行ってみた。地味と言っても、監督は『ラストキング・オブ・スコットランド』のケヴィン・マクドナルドだし、役者も決してマイナーではない。

時は西暦2世紀、現在のスコットランドとイングランドに当たる地域が舞台である。かつてローマ軍の軍団を指揮しながら消息を絶った父親の名誉回復のために、ローマ人の若者が未開の地へと足を踏み入れる。
その境界には、万里の長城のような「ハドリアヌスの長城」というのが建っているのであった。こんなのあったとは知らなかったぞ。

冒頭で、昔の西部劇のインディアンよろしく襲撃してくるブリタニア人へのローマ人の戦い方など見ていてかなり面白い。もっとも、肉弾戦を接近してしかもカメラを振って撮るものだから、観客の眼では捉えられない映像多数だ。

中盤以降は、奴隷の若者を連れて壁の向こうへ潜入するが、未開の地では逆に自分が奴隷にされてもおかしくはない。「主従」関係は英国ものには頻出するが、体格のいいチャニング・テイタムと小柄なジェイミー・ベルの組み合わせとなれば、フ女子の妄想を呼び起こしても仕方ないだろう。その関係が逆転したりするとあっては、ますますもって妄想に花が咲くってもんである。

主人公は異文化の民族と接するが、何の葛藤もなくまた戦闘が始まってクライマックスになっちゃう。そして、なんと「努力・友情・勝利」で終了するのであった。
???あれ、サトクリフってこんなだったっけ?と不審に思ったけど、やはり原作とはかなり違うらしい。なんてこったい\(◎o◎)/!

ハイランド地方の荒涼とした光景は美しく、歴史ものとしての映像もよく出来ているが、「西部劇史観」をそのまま引きずったようなストーリーはどうかと思うのであった。
それと、馬に乗ってのスタントはかなりのものを役者たち本人がやってて驚いた。

ドナルド・サザーランドが主人公の叔父として特出。映画に貫禄あるイメージを与えていた。
敵のアザラシ族の王子を演じていたのは、なんと『預言者』で主演してたタハール・ラヒムとのこと。全身白塗りしてたんで全く分からなかった……(^_^;

それにしても遠方の植民地でも闘技場作ったりして、ローマ人てとことん享楽的だったんだなあ、という印象だ。
いつか原作を読んでみたい。


戦法度:7点
多文化度:5点


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2012年5月13日 (日)

「大塚直哉チェンバロリサイタル」:接近禁止のチェンバロになぜか食欲が~っ!

120513
会場:近江楽堂
2012年5月3日

この日は大雨、さらにLFJ開幕日とあって、このような小さな公演には人が来ないのでは?と予想して行ったら、大間違い(!o!) ほぼ満員御礼であったよ。

まずスウェーリンクの小品で露払い風に開始。
そしてフローベルガーとルイ・クープラン、そして休憩を挟んでバッハ先生という構成だった。

3人の共通点は、当時頂点に達していたリュートの奏法を鍵盤曲にも応用しようと懸命に試みたということである。
また、同世代のフローベルガーとクープランの時代には他国との交流が盛んにおこなわれていたとのこと。

後半情熱的に盛り上がっていくフローベルガーのトッカータ、そして続く組曲の一曲目「フェルディナント4世への哀歌」は、昔いつかFMで聴いた他の奏者の演奏よりかなりゆっくりしたテンポなんで驚いた。対して、クープランは典雅の一言である。

一転、バッハのBWV998は厳格かつダイナミックな印象。低音の入れ方が、確かにリュートの低音弦を思わせるものだった。
ラストはパルティータ6番で、客席一同シンと聞き入り、終わった時にはため息→拍手喝采となった。大塚氏も立ち上がりながらほっと一息ついていたような( -o-) ホッ
鍵盤三昧、聴けて満足なコンサートであったことは間違いない。

ただ、この会場ではいつものことだが、空調付けると寒いし、消すと暑いという状態でマイッタよ(@_@;)

私の座っていたのは会場の左寄りの席だったが、大塚氏のお弟子さん(^^?)なのか若い女性が多くて、しきり弾いている指を覗き込んでいる人もいた。
楽器は近江楽堂の備え付けのチェンバロを使用。大塚氏が、17世紀のフランス製をモデルにしたもので日本では珍しい--と解説したら、休憩時に客がドッと周囲に押し寄せたため、調律にジャマ(`´メ)ということで見張り番が立って追い払われてしまった。
私なんぞ、あのチェンバロを見るたびに「脚がチョコ味のねじりドーナツみたいだなー」と思って食べたくなってしまうのだが……こんど噛り付いてみようかなっと

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2012年5月12日 (土)

「乱歩彷徨」

120512
なぜ読み継がれるのか
紀田順一郎
春風社2011年

高校生の頃だったか、乱歩の全集は一通り読んだ。講談社発行のもので、横尾忠則が描いたカラー口絵がかなり強烈な印象だった。
その横尾忠則が新聞の書評で取り上げていたのを見て、この本を読んでみる気になったのである。

乱歩が戦争を挟んで内向的性格から社交的へと変貌したのは読者ならよく知るところである。戦前は同業者との関わりもほとんどなかったようだが(と言っても推理小説というジャンル自体揺籃期だった)、戦後はマスコミにも登場しミステリ界の長老的立場となった。
また、初期の短編を中心とした作品群と後のベストセラー長編という作風の変化もある。

その双方の変化をあわせて、作家江戸川乱歩を読み解いたのがこの本である。ベストセラー作家と推理小説の研究者、世間では当然前者が表の顔であったが、彼の内部では後者こそが表の顔であった。
本の後半では「ライバル」とみなしていた松本清張が登場し、双方が互いをどう考えていたかというのが述べられるが、社会派ミステリというジャンル自体解消してしまったような感がある現在では、なにやら隔世の感がある。

乱歩の変身の謎は、ラストの欠けた推理小説のように永遠に真相がわからないものだろう。これはその一つの回答として非常にスリリングかつ面白く読めた。

個人的には、評伝の類ではあまり大きく取り上げられない少年ものに割いた章が興味深かった。「芋虫」のような過去の作品のせいでお上に睨まれ新作の注文が途絶えた時に、「怪人二十面相」の連載を始めた(昭和11年)というのだが、その爆発的人気には驚かされる。現在のような子ども向けの娯楽がほとんどない当時、少年たちの最大の楽しみだったのだろう。
この少年ものについては「このように独り歩きをしている明智小五郎や怪人二十面相などの跳梁跋扈には全くお手上げで」、乱歩の意向に外れたまま「無限に増殖、乖離」していく。このような事例はキャラクター性の強い作品にはよくあることだが、作者自身の「乱歩」もそうなるのは珍しいという。
手塚治虫は?……うーむ、彼は作中によく自分のキャラクターを登場させてたが。

ひとたび、このようなキャラクターが世に出ればジャンルやメディアを超えて延々と増殖して、もはや作り手の意図や設定など無関係に変貌していくのが常である。
今後も「明智」や「怪人」や「乱歩」はそのようなアイコンとしてメディア上を漂っていくに違いない。

高木彬光は乱歩について「推理小説以外の作品はなく、またその作品の発表も、数年の間をおいて、断続的になされた」と推理作家として称賛したという。しかしながら、小説のジャンルが氷解しつつある現在、推理小説にこだわるもはや「乱歩先生」のようなキャラクターは二度と生まれることはあるまい。

ところで、横尾忠則の書評は「乱歩の芸術寿命は次第に枯渇していくが、このことは創造者なら誰もが抱える切実な問題である。」というように、かなりアーティストとしての自分に引き寄せた見方である。(実際に本を読んでみるとそれだけが中心ではない)
彼が自らをそんな風に考えているとは、正直なところ意外だった。


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2012年5月 8日 (火)

「スーパー・チューズデー ~正義を売った日~」:あの人に一票!

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監督:ジョージ・クルーニー
出演:ライアン・ゴズリング
米国2011年

結論から先に言うと、あまり感心しない出来だった(-_-メ)
米国大統領選を題材にしているから、てっきりTVドラマ『ザ・ホワイトハウス』みたいな「なんで、こうなっちゃうの??」話(両方の候補とも中絶容認派なのになぜかそれが争点になってしまう謎)とか、そこまでやるかの駆け引き(投票が始まってからも猛烈な電話攻勢で逆転を勝ち取ろうとする)が出てくるかと期待してたら、全く違った。

これは別に政治でなくても、企業や学会を舞台にしても構わないような内容のサスペンス・ドラマである。
カリスマ的な魅力を持つリーダーと彼に心酔する理想主義者の若者、海千山千の補佐役……そして、後は死体が転がり出れば道具立てはオッケーだ。
ここではクリントンをモデルにしたとおぼしき大統領候補と若手広報官、ベテラン選挙コンサルタントという設定である。宣伝では主人公はG・クルーニー扮する政治家かのように見えたけど、そうではなくて広報官の方だった。

サスペンスにしては演出がもたついているし、顏のドアップの切り返しの連続で見てて疲れる。顔アップの多用はTV出身の演出家がよくやると聞いたことがあるが、少々監督としてのクルーニーの手腕に疑問を抱いてしまった。
謎が明確になる過程も歯切れが悪いので、その背景の理想主義の失墜というテーマもなんだかピンボケ状態だ。

さらに疑問なのは、キイパーソンとなる女子大生である。有力者の娘という設定だが、そんな人間を使ってはかりごとを企んだら、事が発覚した時に再起不能までに叩きのめされる恐れがあるんじゃないの。それだったら、貧乏な女学生に金でも握らせれば充分だと思うんだが……? 原作小説があるそうだけど、そちらではちゃんと説明されているのだろうか。
それと主人公の若者は既に何回も選挙スタッフとして働いている割には、ナイーブ過ぎるのも納得いかん。

主人公は役者としての評価急上昇中のライアン・ゴズリングだが、前半は人のいいおにーさん風、後半はしかめ面に終始。これはきっと監督の演出のせいと思われる。DVDが出たら評判の『ドライブ』を見ることにしよう。
脇を固めているのが、フィリップ・シーモア・ホフマンとポール・ジアマッティ。彼らならこのぐらいの演技はお茶の子さいさいだろう。

目立ったのはマリサ・トメイで、モラルなく貪欲な記者をエネルギッシュに演じていた。
また、ジェフリー・ライトは出番の少ない泡沫政治家の役だったが、この作品に出た他の誰よりも演説がうまかった。選挙の際には、彼に一票を投ずることにしよう。


監督支持率:40%
役者支持率:50%


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2012年5月 7日 (月)

「忠実な羊飼い」:作曲家ならぬ詩人特集

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ラ・フォンテヴェルデ第15回定期演奏会
会場:ハクジュホール
2012年4月27日

めでたく結成10周年を迎えた声楽グループ、ラ・フォンテヴェルデのコンサートに久しぶりに行ってみた。
以前は自由席で早く行かないと席が取れないのと、常連のオバハン達の熱気に負けて、ここしばらくは敬遠してたのである。

プログラムは「曲」ではなく「詩」を中心にするという極めて珍しいものだった。
16世紀後半にイタリアで人気があったグァリーニという詩人作の牧歌劇に基づいて、同時代の様々な作曲家が作ったマドリガーレを取り上げて聴き比べた。従って「無慈悲なアマリリ」は4曲、「ああ、つらい別れ」は5曲--と作曲家違いで同じタイトルの曲がずらりと並ぶという趣向だ。

アルトだけCTの上杉清仁一人で他のパートは二人ずつで、曲により色んな編成になる。合間にリュート(金子浩)とチェンバロ(上尾直毅)の独奏曲が入った。
作曲家はモンテヴェルディ、ディンディア、カッチーニなど。それぞれの作曲家が共通して使った手法や、全く異なる部分などこうやって連続して聞くとハッキリして面白かった。
また、このグループで初めてとは知らなかったのだが、独唱曲もやった。テノールの谷口洋介、ソプラノの星川美保子、鈴木美登里が一曲ずつだ。星川女史はやや線の細い印象。今後の精進を期待します。鈴木女史はさすがに堂々たる歌唱だった。

日本人の歌手でマドリガーレを歌わせて、今の所これ以上のグループは存在しないだろう。濃厚なるマドリガーレの世界を心行くまで堪能できて満足であーる

なお曲間に数回、浅岡聡が登場して曲の背景や聞かせどころなどをトークしたが、もろ初心者向けの事柄からマニアもOKな細かいところまで入れて、聴衆全員を満足させるのは大変そう。メンバーが喋るならともかく、「邪魔」とか「不要」とか思う人もいるかも。難しいところである。

会場では鈴木ヒデミ氏と荒木優子女史を見かけた。


それから余談だが、この会場のトイレの洗面台の蛇口が極めて使いづらい--というか、自動なんだか手動なんだか分からなくて、あちこちひねったり触ったりした挙句、結局手を洗えないまま出てしまう人が多かった。
自動なんだけど、センサーの位置が分かりにくいのと感度が悪いようで、すぐ反応しない。全く人間工学に反した設計である。こんなもん誰が作ったんじゃ<`ヘ´>と言いたくなってしまった。

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2012年5月 6日 (日)

「カエル少年失踪殺人事件」:カエルが鳴くから帰ろ--とはならなかった悲劇

120505
監督:イ・ギュマン
出演:パク・ヨンウ
韓国2011年

とあるのどかな田舎の村、小学生5人がカエルを捕まえに出かけたとさ。ところが、その子たちは二度と戻ってこなかったそうな--。

「韓国三大未解決事件」というのがあって、その中の一つを取り上げたもの。(別の一つは『殺人の追憶』で取り上げられた事件が入っている)
大規模な操作が行われたが、行方不明のまま十数年後、近所で少年たちの死体を発見。容疑者は何人も浮かべど、結局逮捕には至らず時効となったらしい。

主人公はやり手のTV記者。事件で報道が狂騒的なまでに過熱する中、名声を求めて新説を唱える大学教授と共に現場に突入して遺族の一人を犯人を名指ししたはいいが、大失態をさらしてしまう。。
警察の捜査よりマスコミ報道の方が先行して騒ぎを大きくするというのは、日本でも過去に色々ありましたな。名指しされた方はいい迷惑である。
そしてただただ家族の傷を広げるだけなのであった。

騒動の背景に韓国社会が激動した時期というのがあるのは間違いない。なるほど、こんな事件があったのか……という点に関しては興味深く見られたが、2時間以上という上映時間に比して全体的にキレがなくてダラダラしている。再現ドラマと割り切って見るにしては主人公の余計な慨嘆が入っているし。
あと、容疑者との乱闘場面も長過ぎ(あの容疑者はどうなったの)。

映画の作り手は、主人公に代表されるマスコミの無責任さを批判しているようだが、そのわりには自分たちも事件に乗じているだけじゃないのかと言われても仕方ないのでは?--なんて思ってしまった。


猟奇度:7点
明解度:4点


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2012年5月 4日 (金)

「マンク~破戒僧~」:悪魔とチラシ、悪質なのはどっちだ?

120504
監督:ドミニク・モル
出演:ヴァンサン・カッセル
フランス・スペイン2011年

「マンク」と聞いて眼前に浮かぶは、図書館で見かけた国書刊行会の「世界幻想文学大系」である。あの特徴ある装丁の本の背にクッキリハッキリとタイトルが記されていたのを今でも思い出す。(2巻目に収録)
とはいっても、実際に手にとって読んだわけではない(^^ゞ ただ「異端」そうなイメージが脳内に焼きついていたのであった。

しっかし、この度ヴァンサン・カッセル主演で映画化作品が公開じゃありませんか。しかもチラシを見れば「160年間、発禁本として封印」とか「血塗られた破戒僧のすさまじい背徳」とか「黒魔術に手を染め、聖なる教会を黒ミサで汚し、強○(←スパム除けのため伏字)、窃盗、殺人とあらゆる悪徳に身を沈め」などと書いてあるぞっ

その瞬間、私の脳内では妄想が爆発したのであ~る。

あんなこと(=ΦωΦ=)キラーン☆や
コンナコト(^Q^;)ハアハアや
さらにはそんなことキタ━━━━(・∀・)━━━━ !!!!!

まで思い浮かべてしまったのであった。
もちろん大いに期待し鼻息も荒く映画館へ突入したのである。

時は17世紀、所はスペイン、マドリッド。荒野のただ中に建つ修道院の扉の前に赤ん坊が捨てられていた。成長し敬虔な僧となった彼は、説教を聞きに多くの市民が押し寄せるほどの人望を集める。当然、その中にはキレイなオネーチャンもいるが、彼はそんなことキニシナイ(・ε・) カトリックの修道士ったら禁欲第一だ。
しかし、悪魔はそんな彼の元に仮面をつけた謎の見習い修道士を派遣する。その仮面の下は女であった……。

というわけで、たちまち女の誘惑に陥落……でも演じているのがヴァンサン・カッセルだから、どうも厳格な修道僧たって最初から何やら生臭い雰囲気がプンプンしちゃってるのである。あまり意外な感じはしない。

こういう人物がいったんタガが外れると留まるところを知らないというのはよくある話である。よーし、ここからビシバシ背徳行くぞー\(^o^)/と期待が高まったけれど、なんだか全体にテンポがゆっくりしていて、ここに至るまでにも既にかなりの時間が経過だ。
今からあんなことやコンナコト、さらには黒ミサまでやってたら上映時間3時間以上にならないか(@_@;)

--という私の内心の焦りに関係なく映画は悠揚たるテンポで進んでいくのであった。どうも作り手は1950年代あたりのクラシカルな映画を念頭に置いているらしく、劇伴の音楽も古めかしい。
ジリジリしながら待つ。だが、鼻血が出そうな背徳的行為はいっかな始まりそうにない。もう、しまいには「ちょっとおねえさ~ん、黒ミサまだーっ」(居酒屋で空のグラスを振って見せる図)と叫びたくなったほどだ。

そして、あろうことか、遂に最後まで黒ミサは登場しなかったのである! これを詐欺と言わずしてなんと言おうか(*`ε´*)ノ☆ インチキ!! 金返せゴルァ

いや、まあ確かに主人公は背徳を行なったわけだが、なんつーか久米の仙人が若い女のふくらはぎに見とれて空から落ちたのと大して変わらんぐらいのもんだ。
え、もっと大罪があるって? でも知っててやったわけじゃなし……。
古い僧院を舞台にしていても、あんまりゴシック味を感じなかったのも難だ。ただ、ヴァンサン・カッセルはほぼ出ずっぱりなのでファンは見て損なしだろう。あ、女優さんたちはキレイでしたよ。

とにかく、終映後にシアターN渋谷前の階段で落胆のあまり_| ̄|○倒れていたのは私である。
ああ、それにしても黒ミサが見たかった……無念(T^T)クーッ

良かった点は、良家のボンボンがプロポーズのためにリュート奏者2名を引き連れ、恋人の窓下で歌うという場面があったこと。あんなこと実際にやったのだろうか? ロマンチックだわ~(*^o^*)


背徳度:5点
エロ度:3点


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