「乱歩彷徨」
高校生の頃だったか、乱歩の全集は一通り読んだ。講談社発行のもので、横尾忠則が描いたカラー口絵がかなり強烈な印象だった。
その横尾忠則が新聞の書評で取り上げていたのを見て、この本を読んでみる気になったのである。
乱歩が戦争を挟んで内向的性格から社交的へと変貌したのは読者ならよく知るところである。戦前は同業者との関わりもほとんどなかったようだが(と言っても推理小説というジャンル自体揺籃期だった)、戦後はマスコミにも登場しミステリ界の長老的立場となった。
また、初期の短編を中心とした作品群と後のベストセラー長編という作風の変化もある。
その双方の変化をあわせて、作家江戸川乱歩を読み解いたのがこの本である。ベストセラー作家と推理小説の研究者、世間では当然前者が表の顔であったが、彼の内部では後者こそが表の顔であった。
本の後半では「ライバル」とみなしていた松本清張が登場し、双方が互いをどう考えていたかというのが述べられるが、社会派ミステリというジャンル自体解消してしまったような感がある現在では、なにやら隔世の感がある。
乱歩の変身の謎は、ラストの欠けた推理小説のように永遠に真相がわからないものだろう。これはその一つの回答として非常にスリリングかつ面白く読めた。
個人的には、評伝の類ではあまり大きく取り上げられない少年ものに割いた章が興味深かった。「芋虫」のような過去の作品のせいでお上に睨まれ新作の注文が途絶えた時に、「怪人二十面相」の連載を始めた(昭和11年)というのだが、その爆発的人気には驚かされる。現在のような子ども向けの娯楽がほとんどない当時、少年たちの最大の楽しみだったのだろう。
この少年ものについては「このように独り歩きをしている明智小五郎や怪人二十面相などの跳梁跋扈には全くお手上げで」、乱歩の意向に外れたまま「無限に増殖、乖離」していく。このような事例はキャラクター性の強い作品にはよくあることだが、作者自身の「乱歩」もそうなるのは珍しいという。
手塚治虫は?……うーむ、彼は作中によく自分のキャラクターを登場させてたが。
ひとたび、このようなキャラクターが世に出ればジャンルやメディアを超えて延々と増殖して、もはや作り手の意図や設定など無関係に変貌していくのが常である。
今後も「明智」や「怪人」や「乱歩」はそのようなアイコンとしてメディア上を漂っていくに違いない。
高木彬光は乱歩について「推理小説以外の作品はなく、またその作品の発表も、数年の間をおいて、断続的になされた」と推理作家として称賛したという。しかしながら、小説のジャンルが氷解しつつある現在、推理小説にこだわるもはや「乱歩先生」のようなキャラクターは二度と生まれることはあるまい。
ところで、横尾忠則の書評は「乱歩の芸術寿命は次第に枯渇していくが、このことは創造者なら誰もが抱える切実な問題である。」というように、かなりアーティストとしての自分に引き寄せた見方である。(実際に本を読んでみるとそれだけが中心ではない)
彼が自らをそんな風に考えているとは、正直なところ意外だった。
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