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2012年6月

2012年6月30日 (土)

「少年と自転車」:少年老い易く親成り難し

120630
監督:ダルデンヌ兄弟
出演:セシル・ドゥ・フランス、トマス・ドレ
ベルギー・フランス・イタリア2011年

子どもの頃、小学校でクソまずい給食を食べさせられた。どれぐらいひどかったかというと、「給食」と聞くと同時に「まずい」という単語が脳内に浮かび上がってくるほどだ。
しかし先日、TVのニュースを見ていたら私の出身地の自治体が、給食に力を入れ「おいしい給食」として有名になっているというのだった。
それを聞いて私の心に湧き上がってきたのは怒りであった。あんなにまずいモンを食わせたくせに、今頃「おいしい」だと ふざけんなヽ(`Д´)ノである。

だが冷静になって考えてみれば、これは自分が子どもの頃と同レベルの反応をしているのに他ならない。まともな「大人」ならば「いやあ、私の時はひどかったけど今の子たちはヨカッタね」というような考え方をするはずだ。

このダルデンヌ兄弟の新作を見始めた時、私の心に湧き上がってきたのはやはり同じような怒りとイライラであった。
12歳ぐらいの少年がいい加減な父親に放り出されて施設に入れられてしまう。彼はそれを受け入れられずに、隙あらば逃げ出して父親の元へ行こうとする。そしてひょんなことからたまたま知り合った美容師の女性に頼んで週末だけの里親になってもらうのだった。

なんと聞き分けないガキだろうか(ーー゛) お前の父親はどうしようもないヤツだってことを認めろよ<`ヘ´> 見ず知らずの女性に里親頼むなんて図々しい(-"-) おまけに彼女の言うこと聞くわけでもなし反抗しやがって

このような感想は私だけでなく、ネットの多くの記事で見られるものである。さらにその怒りは映画内だけでなく、監督に対しても「こんなガキを甘やかした話を作って」と向けられているのだ。(それは現実の少年犯罪についての論調にも似ている)

しかし冷静に考えてみるとどうであろうか。小学生の子どもが唯一の肉親である父親に捨てられるというのは、到底受け入れがたい事実である。
それに対して、「事実を受け入れろ」「相手にしてられないんだ」「迷惑かけるな」「自分一人で生きろ」というのは、まるで薄情な少年の父親の言説と全く同じではないか。
とても「大人」な態度とは言えない。
恐らく、それは子どもの時に何か大きな怒りや不満を抱き、それが大人に受け入れられず解決されないまま成長した人間が、行き場なき怒りや不満を新たに今の子どもにぶつけているに過ぎないのだろう。

従って、少年が紆余曲折、美容師と衝突したり裏切ったりした挙句、ようやく落ち着くべきところに落ち着いた(らしい)時、「甘やかしやがって、だからつけあがるんだ」ではなく「とーちゃんはアレだったけど、居場所が見つかってヨカッタね」と思うのが大人の鑑賞態度である。

批判が出てくるのは、ほとんど少年の言動を中心に描写されているからだろうか。一方、美容師の女の方には踏み込んだ心理描写はない。彼女が何を考えて里親を引き受けたのかとか、恋人をふったのはなぜかというようなことは、観客が想像するしかないのだ。
彼女は常に「大人」な行動するが、唯一感情を見せるのが泣きながら電話をかける場面である。あの泣くところは極めて印象に残った(本当に泣くときはああいう風になるだろう)。

映画の予告はほのぼの感動モードだったが、そんな生暖かい話ではない。世界の冷酷さをきっちりと描きながらも救済に至る道すじを示す。そういう映画である。
ただ、現実で問題なのは二十歳近くなってもあの少年と同じような言動をする「子ども」がいること。図体は大人並みでやられちゃね……( -o-) sigh...

しかしどういうわけだろうか? 見終わって鮮やかに思い浮かんでくるのはそんな論議ではなく、ヒロインが美容室でちょんちょんとハサミで髪を切っている場面、あるいは父親がレストランの厨房で仕込みにいそしむ姿、少年がヒョイと袋を拾って自転車に飛び乗るところ--そういう動作ばかりである。まるでその動作こそが人物の本質であるかのように。
そういえば、同じダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』でも、大工である主人公の動作に驚いたことがあるが、なんというか人物のとらえ方や役者に求めることが根本的に他とは異なるのだなと感じた。

珍しいことにこの作品では音楽を使っている。結末もいつになく前向きだし。そういやハネケの新作も「愛」らしいし、歳とると人間丸くなってくるのかな


大人度:10点
救済度:8点


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2012年6月24日 (日)

イタリア映画祭2012 その3「錆び」:揺れる質疑応答

120616
監督:ダニエーレ・ガッリャノーネ
出演:フィリッポ・ティーミ、ステファノ・アコルシ、ヴァレリオ・マスタンドレア
イタリア2011年

この映画が終わった時、会場に流れたのはなんとも言い難いドヨ~ンとした空気であった。「なんなんだ。こりゃ?(@_@;)」「勘弁してくれ~(>_<)」「どうしてこんなもん見せられなきゃいけないんだよ(*`ε´*)ノ☆」
そして、それは監督との質疑応答でも一部噴出したのである。

三人の人物の現在と過去が交互に描かれるという手法がとられている。
一人は自宅で息子と遊ぶ父親。もう一人は学校で美術の臨時講師をしている女。そして、知人のスナックで長い時間クダを巻き続ける男。
問題はこれらの場面が意味もなく長いのである。いや、意味がなくもないかも知れない。この三人がどこかおかしいということを見せようとしていたとすれば、その意図は充分すぎるほど伝わったといえよう。

時間をさかのぼること三十年、郊外の町の廃墟で遊ぶ子どもたちが描かれる。もっとも、大人になった三人がどの子どもにあたるのかは不明だ。この遊んでいる場面もかなり長い。診療所に新しい医師が赴任してきて、ようやく物語に動きが出てくる。
子どもたちの中の一人の少女が殺されたのだ……。

医者は最初から怪しいオーラ発散しまくりで、こいつが犯人だということは最初から(観客には)明らかなのだった。
しかし、シリアルキラーで小児性愛でたまにウッカリ公然わいせつ罪も犯しちゃうこの男、なんだか絵に描いたような「悪人」でどうも悪のテンコ盛り状態。作り手の方の善悪に対する考え方に疑問を抱いてしまうのであった。

続く事件で傷ついた子どもたちは、結局三十年経ってもトラウマを抱いて生き続けていることが分かるのだった。
--というような内容であるのは理解できるのだが、実際見ているとかなり長くて不快な場面が続くのでくたびれてしまう。

中で、どうもM・ハネケの引用とおぼしき場面があって、もしやと思ったが、その後の監督の「人物が味わった不快さを体験してもらう云々」という発言を聞いて、やはり影響を受けているのだと分かった。
しかし、確かにハネケが不快な場面を観客に見せるのは事実だが、観客に「くどい」とか「しつこい」「退屈」と感じさせることはない。なんか勘違いしてないか?と思ってしまった。

以下、質疑応答の一部である。
一番最初の質問は、内容は忘れてしまったが完全に映画にケチをつけているものだった。もっとも、その部分は通訳が省いてしまったもよう。

Q-効果音が聞きづらかったが?(注-ガンガンうるさい感じだった)
A-音は子どもたちが体験する恐怖である。現在と過去の衝突の効果を表わす。
Q-S・アルコッシを起用した理由は?
A-中心の三人はイタリアでは有名な役者。よく知っている役者に自分を投影して見てもらえる。
Q-現在の部分を変えたことについて、原作者はどんな感想だったか。(注-言外にこれで原作者気に入ったのか?という疑問)
A-原作者とは知合いで褒めてくれた。悪ガキ少年の大人版は原作にはない。
Q-過去の事件にとらわれっぱなしで社会に適合できない、というように描くのは現実の犯罪被害者からすると問題あるのではないか。(←この質問はちょっと記憶があいまいです)
A-彼らはずっととらわれているのではなくて、日常は普通だがフラッシュバック状態である瞬間よみがえるだけだ。(注-ただ、そのようには映画からは読み取れない)
Q-(エンドクレジットが流れた後に重要な場面が出てくるが)イタリアの観客はちゃんと見てくれたか?
A-かなりリスキーだったが、音楽の関係でそちらを選んだ。本編と切り離した方が効果的でもある。

というように、ややとげとげしい雰囲気の質疑であった。通訳が険悪な部分は飛ばして訳していたようなので、本人にはあまり伝わってなかったかも。
もっとも、その原因の一つには途中で結構大きな地震があって上映がいったん中断したせいもあるかもしれない。会場がビルの最上階なんでかなり揺れた。中断して気分一新して却ってよかったという意見も見かけたが……(-"-)

中断してすぐに「建物は免震構造なので安全です」というアナウンスがすぐ流れた。しかし、震災の時に川崎ミューザの事故が起こった時に建築関係の仕事をしている知り合いに聞いてみたことがある。
それによると、免震設計というのは建物の枠組みについてだけであって、天井パネルなどは内装の担当になって関係ないらしい。単に枠組みにパネルを載せているだけだから、枠がグラグラして揺れて落ちるのは充分ありうることなのだそうだ。

上を見上げてみると天井のライトがブラブラ揺れている。落ちてきたら直撃だ(*_*;
冷汗が流れた。


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2012年6月19日 (火)

イタリア映画祭2012 その2「七つの慈しみ」:言葉なき身体

120616
監督:ジャンルカ&マッシミリアーノ・デ・セリオ
出演:ロベルト・ヘルリッカ、オリンピア・メリンテ

冒頭、二人の対照的な人物がそれぞれ描かれる。
一人は寡黙な老人である。人付き合いもほとんどなく吝嗇そうな彼は、病気持ちらしく定期的に病院に入院しているようだ。
もう一人は、東欧から不法に入国してきたらしい十代の少女だ。ホームレス状態の彼女は病院に見舞客のふりをして出入りしては、置き引きやコソ泥を繰り返している。
やがて、少女は老人に目を付けて襲撃する……。

これほど最初と最後で人物のイメージが逆転してしまう映画も珍しい。ほとんどの観客は、最初のうちこの二人に好感を抱くことはできない--どころか、イライラ(-_-メ)してしまい嫌悪のまなざしで眺めるしかないだろう。
特に少女は終始仏頂面でケチな犯罪を重ねた挙句、IDカード欲しさに大罪を犯してしまうのである。
しかし、老人はそんな彼女に意外な行動をとる。

監督は若いニーチャン風の兄弟で、これが第一作目である。チラシにクストリッツァ監督が絶賛などと書いてあった。
病で死の床に着いた祖父を看病した体験が、この作品を作るきっかけになったという。その時、他者の身体をいつくしむ行為、もう喋れなくなった祖父との言葉を介さない感情というものを感じたそうだ。(映画の老人と少女も互いの言語をほとんど解さず会話はない)

またタイトルはカラヴァッジョの宗教画から取っているだけあって、極めて宗教的な映画でもある。構図の中に七つの慈悲の行為を詰め込んだ絵画同様、後半に同じく七つの慈悲が展開する。
見ていて、あたかも敬虔な司祭のような老人の仕草に衝撃を受ける。それにつれて少女も変貌していくのが描かれるのであった。

不法移民、独居老人、青少年の非行、人身売買など極めて現代的でどこの国にもある問題を取り上げながら、ここまで宗教的なのに驚いた(!o!) 日本では絶対に生まれそうにない作品である。商業ベースに乗らないというのももちろんだが、そもそもそんな風に考えることをしないだろうと思える。

そういう作品に出会えるというのも映画祭ならではですかね。ただ、日本人の観客にはそれだけに見終わって判然としない部分もあったようだ。
少女の母国はモルダヴィアという国でEUに加盟していない小国とのこと。イタリア人なら分かるのかもしれないが、そこら辺の詳しい社会背景は見ていて理解しにくい。

以下は、上映後の質疑応答の一部。
Q-なぜ少女は老人を殺さなかったのか。
A-彼女は殺人者ではない。ただ居場所がほしかっただけ。
 注:こりゃ、見ていれば分かると思うが(?_?)そんな質問するなーである。
Q-おじいさんの死と東欧移民が結びついたのは?
A-病院の介護者は東欧の女性が働いている。また病院と移民のバラックは実際に近所にあった。
Q-七つの慈悲とは。
A-マタイの福音書にあるもので、信徒が行う肉体に関わる慈悲。人間はみなこういう慈悲を持っているのではないか。カラヴァッジョの絵は素晴らしい!(^^)! インスピレーションを受けた。
Q-キエシロフスキー(キェシロフスキ)の影響を感じたが。
A-後で見て似ていると思った。
Q-二人でどうやって映画作りの仕事をしているのか。
A-兄弟でケンカはしないが議論はする。他のスタッフとも同じだ。観客もまた映画作りに参加していると思う。

というわけで、若い兄弟監督にはこれからも頑張って映画を作って下せえ~と応援したくなったのであった。


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2012年6月17日 (日)

「パーセル 1 その音楽と生涯」:一つだけじゃないパーセルの顔

120617
演奏:メディオ・ジストロ
会場:近江楽堂
2012年6月9日

これは「日本ルネサンス音楽普及協会」という団体が主催した公演。第48回例会だそうである。
演奏者はリコーダー古橋潤一、ヴァイオリン山内彩香、チェロ西沢央子、チェンバロ能登伊津子というメンツだ。普段はスペインやイタリアの曲を専らやってるとのことで、英国音楽はあまり縁がない。古橋氏が「パーセルはわりあい(^o^;)好きです」などとうっかり口を滑らしてしまう一幕もあった。

パーセルというと一般には声楽の方が有名のようだが、この日は器楽曲オンリーのプログラムだった。短い生涯ながら数多くのそしてジャンルも広範囲の作品を残しているだけあって、このような少人数向けの曲も事欠かない。(もっとも編成によって編曲したとのこと)

鍵盤ソロから、4人によるソナタまでメンバーが出たり引っ込んだりして様々な曲を演奏した。
印象に残ったのは、チェンバロの音が粒だって聞こえた「組曲第7番」、強固に反復するチェロの上にリコーダーとヴァイオリンが乗っていく「グラウンド」だった。ソナタ曲でもチェロの西沢女史は活躍していた

声楽だけではないパーセルを楽しめた一夜であった。
タイトルに「1」と付いているゆえ、このシリーズ数回に渡って続くらしい。次回も期待であ~る。

ところで、冒頭や最後に協会の人(会長?)が挨拶&解説したのだが、その度に席を立って外に出る二人の男女がいたのは驚いた。まるで声を聞くのも拒否してるみたい 内紛ですかなっ(~o~;)

家に帰って、かなり昔買ったロンドン・バロック演奏の「3声のソナタ集」と「4声のソナタ集」を久しぶりに引っ張り出して聞いてみた。
こりゃ名曲じゃないですか~\(◎o◎)/!


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2012年6月16日 (土)

イタリア映画祭2012 その1「大陸」:「自由」への脱出

120616
監督:エマヌエーレ・クリアレーゼ
出演:フィリッポ・プッチーロ
イタリア2011年

なかなか映画の感想を書く暇がない。平日は家に帰ってくるとクタッとなってしまって漫然とネットを眺めてるぐらいしかできず、さらにどうしてもコンサートの感想を優先してしまうのでますます遅れてしまうのであった。

で、ようやく「イタリア映画祭」である。昨年は震災の影響でゲストも来ない状況だったらしいが、今年はそんなこともなく連休中は賑わっていた。

最初に見たのが「大陸」だ。
長靴型のイタリアは元々南北格差が存在するが、これは長靴の先っぽにあるシチリアの小さな島の一つが舞台である。
漁業は先細りで、働き盛りの層は観光業に力を入れている。そんな中で、素朴な若者フィリッポは「旧世代」の祖父と漁に出る毎日だ。だが、その途中で小さな船に満員状態で乗っているアフリカからの難民に遭遇する……。

古くからの「海の掟」によれば、遭難しかかった者は誰でも助けるのが当然だ。一方、アヤしい難民が島をウロチョロしていれば観光業に差し支える。警察は難民を発見したら直ちに送還である。だが、送還してオッケーな状態ならそもそも難民が小さな船で危険を冒して渡ってくることもないだろう。
いずれの立場に立っても難しい状態が描かれる。

フィリッポ君は母親から自立したいお年頃。観光で来ている女子大生も気になる だからと言って、観光客相手の商売に励む叔父に共感しているわけではない。
そして一家が難民の母子に関わったことから、ますます問題は大きくなっていく。

観光客が遊ぶ美しい昼間の海、恐ろしい一面を見せる夜の海。のどかな島に走る分断と対立。
部外者の女子大生はフィリッポを非難がましい目で見るが、自分の乗るフェリーに、逮捕された難民が同乗して送還されていくのには無関心のようだ。
そして袋小路に追い込まれた時に彼はある行動を取る。

不安と絶望、希望と意志の双方を感じさせるラストは秀逸だ。観客の多くはそこに行き場のないカタルシスを得るだろう。

かなりよく出来た作品だと感じた。年間のベストテンに入れてもいいぐらい しかし、日本でロードショー公開されたとしても、この題材でどれほどの人が見にくるかは微妙なところだ。
この映画はヴィスコンティの作品に影響を受けているらしいが(タイトルももじっているとか)私は恥ずかしながら見ていないのよ(+o+)

監督はシチリア島々を舞台にしたこれまで作品を撮っていて、フィリッポ君(役名と同じ)は元は--というか今でも島民で、たまたま知り合って出演するようになったという。普段は実際に父親と漁に出ているという。

さて、そのフィリッポ君が今回は来日。アフタートークに出てくれた。三つ揃いのスーツを着て映画よりもやや垢抜けた印象だったが(ただし髪型なんかは全く同じ)、話し始めると映画そのままの純朴な青年で好感度アップなのであった。

でも本当ならばプロデューサーや監督にしてくれと言いたくなるような質問が続出。困ったね(-"-)
映画は実際に起こった事件を元にしていて、撮影前にも、500人もの難民が島に来たという事件が起こったという。
Q-地中海の魚は食べない。なぜなら死体を食ってるから--という話を聞いたことがあるが本当か?
A-実際に5か月前に漁で死体を目撃した。
Q-方言はかなり理解できないらしいが、この作品でも?
A-シチリア本島と自分の島も結構違ってる。
Q-難民がイタリア語を喋ったのには驚いたが。
A-僕も驚きました(^^;ゞ
Q-来日しても魚を食べない人がいるが、あなたは?
A-今日は和食を食べた。生魚は大好き\(^o^)/
 注:はっきり言って余計な質問である。魚食おうと食うまいと個人の勝手。じゃあ、お前は海外行って生水飲むのかと問いたい。

そして、ラストにまたもや変な質問というか宣伝というか……「都会じゃなくて東北の某観光地へと是非行ってほしい」みたいな発言をする女が出現したのであった。
あんた観光会社の回し者か(`´メ)引っ込めと言いたくなった。
しかし、フィリッポ君は断固「まずトーキョーをもっとよく知りたい」と宣言したのであった。若いモンならやっぱりピカピカした東京がいいですよね(^_-)-☆


【関連リンク】
《 Music for a while》「Terraferma  イタリア本土を目指すボートピープル」

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2012年6月12日 (火)

「ドイツ室内楽の楽しみ」:威勢のよいテレマン、忠実なバッハ

120612
ジョシュ・チータム氏を迎えて
会場:近江楽堂
2012年6月6日

いつも地味ながら聞きごたえありのコンサートを主催してくれる「木の器」、今回はジョシュ・チータムという若手ガンバ奏者をゲストに宇治川朝政(リコーダー)と福間彩(チェンバロ)の3人で、バッハとテレマンの曲を演奏した。

なんでも二人がオランダに留学していた時に卒業演奏(という言い方でいいのか?)を一緒にやったとのこと。それから7年後に再び共演なったということらしい。チータム氏は先日のLFJでも来日してたそうな。ガンバ以外にコントラバスなども弾くらしいので、演奏団体の一員として来たのだろうか。

リコーダーと言ったら、なんたってテレマン(^o^)bということで、ソナタが3曲演奏された。いずれも宇治川氏のリコーダーは冴えて、3人のアンサンブルは溌剌とした魅力を発揮した。珍しくもトレブル・ガンバを使用した曲もあった。

テレマンでは支えに回って着実な演奏を聞かせてくれたチータム氏、バッハの「ガンバとチャンバロのためのソナタ」ではその腕前をフルに披露……のはずが、少し弾いたところで異様な音がして演奏中断。なんとガンバの弦が切れてしまったのだった。ヴァイオリンでは見たことあるけど、ガンバでは初めて目撃(!o!) 驚いてしまったぞ。
なんでも、空調を止めていたので湿度が高くなって切れてしまったそうである。空調を入れて弦を張り直してようやく最初から演奏を再開した。

しかしその真価は、無伴奏チェロ5番をガンバで独奏した時に発揮された。チェロだといささか硬質で重厚に聞こえるのが、何やらしみじみと感じ入る音楽に変わっていたのだった。
特にサラバンドはガンバのかそけき響きが浮遊感をもたらしてホニャ~と夢見心地になってしまった(眠気虫に食いつかれたのではありませんぞ^_^;)。これ以上大きな会場だったら聞き取ることさえできないだろう、小さくしみいるような響きだった。まるでガンバ特有のきしみやうなりさえも予め作曲されていたかのように美しい。
楽器、会場、奏者、そして曲自体--どれ一つの要素が欠けても成り立たなくなってしまう完璧な世界だった。もちろん、客席はシンと聞き入っていた。

ところで、この曲が始まる直前に宇治川氏は客席で一緒に聴こうと、会場にいた知り合い(チェロの武澤氏?)に近くの席が空いているか尋ねて座ったのであった。その時「また泣いちゃったりして(@∀@;)」と冗談で言っていた。おお、以前のコンサートでの涙事件のことですね。自分でネタにするとはさすがである(何が)。

テレマンの合奏曲は楽しかったし、この同じ日にはミドリ・ザイラーの無伴奏公演があって大好評だったらしいが、それを聞き逃しても気にならないほどに満足できたコンサートだった。

チータム氏にはこれからの活躍を期待しますぞ。そして宇治川氏と福間女史にはまた楽しい企画をお願いしますです(^人^)

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2012年6月10日 (日)

ミドリ・ザイラー「バッハの二夜 第1夜 ソナタの夕べ」:バッハは燃えているか

120610
演奏:ミドリ・ザイラー&クリスティアン・リーガー
会場:王子ホール
2012年6月5日

ベルリン古楽アカデミーでの活躍でも知られるヴァイオリニスト、ミドリ・ザイラーが来日! しかも連続バッハ・ナイトじゃありませんか(@∀@)--ということで、連チャンは体力的に厳しいので1日目の「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」全曲演奏会のチケットだけ購入した。
鍵盤担当は夫君でもあるC・リーガー。2010年のAMB来日公演でも来ていたらしいのだが(ん?略号はAABか)、完全に忘れていたです(^^;)

ザイラー女史、赤のドレスで颯爽と登場。でも、事前の期待が高すぎたせいなのか、全体に意外性少なく、さらっと流された印象だった。
ネット上の意見には、音程が云々とか弓使いがどうのと色々と挙げられていたいたが、トーシロの私には技術上の詳細は分からず。ただ、良い意味でも悪い意味でも聞いていて引っかかるところなく終始してしまったようである。

終了後は不完全燃焼な気分であった。
アンコールはバッハの後輩ピゼンデルのソナタ。掲示に「バッハ作曲の可能性あり」と注が付いていたが、確かに似ている。

翌日の「第2夜 無伴奏の夕べ」は、一転して好調で絶賛の嵐状態だったらしい。聞けなくて残念無念であ~る。


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2012年6月 4日 (月)

「"ヴェネツィア"~謝肉祭(カーニヴァル)の街のざわめき~」:銀座に一夜限りの古の劇場が復活

120604
演奏:ル・ポエム・アルモニーク
会場:王子ホール
2012年5月24日

ヴァンサン・デュメストル率いるル・ポエム・アルモニークについては、前回の来日公演にも行った。(ついでに「カドミュスとエルミオーヌ」のDVDの記事も)

この公演では、前回より器楽メンバーが若干少なく管楽器担当はいない。隆盛を極めた海上都市ヴェネツィアの光景を音楽で再現しようというものである。
休憩なしで、照明を極端に絞り当時の劇場のようにフットライトを主にした薄暗い中で演奏される。
演奏会形式だが、歌手はP・ラザール振付のジェスチャーを付けて歌ったのであった。

冒頭はモンテヴェルディの歌曲が2曲。その間にマリーニのソナタを挟んでいるのだが、この若手女性のヴァイオリンが激情ほとばしる感じで驚く。マリーニの曲がこんなにパッション溢れたものだったとは--思いもよらず、正直驚いた。

船に乗り合わせた客を歌ったコミカルな曲の後に、激しい恋心を歌った曲が続いた。マネッリとフェラーリという作曲家は全く知りませんでした(^^ゞ
パーカッションががまた鋭く雄弁である。いずれもソプラノのクレール・ルフィリアートルや三人の男声歌手が代わる代わる現われ、芝居のように動作をつけていた。
デュメストルはテオルボ担当でもう一人撥弦楽器担当者と並んで弾いていた。後はリローネとヴィオローネ、後者は曲によって横に抱いて弦をはじいて演奏。

ただ、残念だったのは会場が暗くてパンフの対訳が読めなかったこと。歌詞が長い歌が多かったし、コミカルな曲は特にもどかしかった。聞けば横浜公演ではちゃんと字幕が出たとのこと。王子ホールは小さいのが災いしたのか、残念無念であ~る。
開演前にざっと見はしたんだけど、直に分かればもっと楽しめただろう。

アンコールは本プログラムでも歌った「ニンフの歌」と「Obravagente」というひょうきんな感じの歌で、会場の拍手鳴りやまず、一同出て来て後者をもう一度歌ったのであった。

客席になんだか見覚えのある白髪まじりのモジャモジャ頭の人がいるなあと思ってたら、つのだたかし氏であった。終わった後、周囲の人たちと「タブラトゥーラでも……」などと冗談交じりの会話がもれ聞こえてきた
次回のタブラ公演ではステージを真っ暗にして、誰が何を弾いているか分からない「闇鍋コンサート」を提案いたします(^O^)/


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2012年6月 3日 (日)

「毒婦。~木嶋香苗100日裁判傍聴記」

120603

著者:北原みのり
朝日新聞出版2012年

「お金が無けりゃだめ 卑猥な中年男は特に」「Brand markが大好き 貴金属物が大好き」(吉田美奈子「GOTHAM GOTHIC」より)

いや~、これは面白い
……死者が出た事件に関して面白いなどとうかつに言っちゃいけないが、この本あっという間に読んでしまった。

著者がこの「首都圏連続不審死事件」に興味を持ったのは、被告がどういう人間か理解できず、共感も同情もできなかったためだという。
そして長期に渡った裁判を傍聴したのであるが、意外にもオシャレな彼女に驚く(拘留中なのに)。そして優雅な動作と優しい声……。おまけに昼の休憩中に髪や化粧を整えているらしい。何か「ブス」などと報道されていたのとはいささか異なるのだ。

私の最初に浮かんできた感想は「なんでそんな簡単に金を出す?」と、これは付き合った複数の男性たちについてである。一度会っただけでメールのやり取りで多額の金を送ってしまう。そこでの彼女の売り込みポイントは、介護士の資格を持ち料理が得意でピアノも上手というものであった。
実際に会って薬物を飲まされて意識不明になっても、また会う約束をしてしまう。
木嶋被告のヌエ的な存在の前に明白に晒されるのは、むしろあまりに無防備な独身男性たちの姿なのだった。

そして著者は「女目線」で出廷するその男性証人たちを直截にチェックし感想を述べる。かなりシビアである。それは男検事や男弁護士に対しても同様だ。
そして「香苗は殺人だけでなく、愛を問われている」と悟る。「愛とお金の問題は、香苗の人生そのものだ」「男性検事は、香苗の「女」そのものを、問題にしているように思えた」

最終章では被告の故郷へ向かいその生い立ちをたどる。両親との関係に何か齟齬があり小さな町から決然と出て行った少女の姿が浮かび上がるが、だからと言って何が分かるというものではない。

判決の如何にかかわらず、著者は木嶋被告が「男社会に裁かれている」と考えているようだ。この言い方が悪いのなら「男目線がスタンダードな司法の場によって裁かれている」と言い換えよう。そして、「ブス」と騒ぐマスメディアもまた「男目線」のようだ。そのような場では決して真実は明らかになることはない。
一体、「愛」を裁判で裁けるのかね?
このような観点が気に入らないという人は多いだろう。しかし、私には新鮮で面白かった!。

この後に佐野眞一の本も出たが、以前、東電OL事件の時彼のルポをよんでいささか辟易してしまったので、今回はパスするとしよう。


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2012年6月 2日 (土)

聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 6月版

古楽には向かないジメジメとした季節が近づいてきます。

*5日(火)ミドリ・ザイラー・ナイト一夜目
この日はヴァイオリンとチェンバロのソナタ。あえてこの演目を選んでみた。
*6日(水)「ドイツ室内楽の楽しみ」(木の器)
ガンバ弾きジョシュ・チータムがゲスト。連チャンだけど頑張っちゃう
*9日(土)「パーセル 1 その音楽と生涯」(古橋潤一ほか)
*29日(金)「ヴィヴァ、ナポリ!」(アンサンブル・リクレアツィオン・ダルカディア)

他にはこんなのも。
*3日(日)レクチャーコンサート「チェンバロのひみつ」(上尾直毅)
*5日(火)朝のコンサート2(波多野睦美&西山まりえ)
*5日(火)ミドリ・ザイラー・ナイト二夜目
*9日(土)王立劇場の音楽家たち
これはぜひ聞いてみたい!と思った内容だが、パーセルと重なってるよ……((+_+))
*10日(日)G・ガブリエーリの多声音楽体験コンサート
無料(!o!)
*18日(月)「聖母マリアの夕べの祈り」(ラ・ヴォーチェ・オルフィカ)
*22日(金)「ゴルトベルク変奏曲」(渡邊孝)
今の体調だと、曲の由来通りに爆睡してしまう恐れがあるので、断念(ーー;) 誰か代わりに行ってご報告下せえ。

月末にはBSでLFJを3日間に渡り放送するもよう。「ピーターと狼」やってくれるかな?

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カンヌ国際映画祭2012

こちらに詳しく紹介されています。

《海から始まる!?》「カンヌ国際映画祭2012 受賞結果!」
同「コンペティション部門 ラインナップ」

アジア圏作品は沈没、中南米勢浮上というところか。
ケン・ローチとハネケは日本で公開されるだろうが、ガローネとヴィンターベアは? どうか公開されますように(-人-)
クローネンバーグは大丈夫だよね(^^;

それにしても、ダルデンヌ兄弟といいM・ハネケの今回の作品といい、やはり歳取ってくると人間丸くなるのであろうか?

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