「少年と自転車」:少年老い易く親成り難し
監督:ダルデンヌ兄弟
出演:セシル・ドゥ・フランス、トマス・ドレ
ベルギー・フランス・イタリア2011年
子どもの頃、小学校でクソまずい給食を食べさせられた。どれぐらいひどかったかというと、「給食」と聞くと同時に「まずい」という単語が脳内に浮かび上がってくるほどだ。
しかし先日、TVのニュースを見ていたら私の出身地の自治体が、給食に力を入れ「おいしい給食」として有名になっているというのだった。
それを聞いて私の心に湧き上がってきたのは怒りであった。あんなにまずいモンを食わせたくせに、今頃「おいしい」だと ふざけんなヽ(`Д´)ノである。
だが冷静になって考えてみれば、これは自分が子どもの頃と同レベルの反応をしているのに他ならない。まともな「大人」ならば「いやあ、私の時はひどかったけど今の子たちはヨカッタね」というような考え方をするはずだ。
このダルデンヌ兄弟の新作を見始めた時、私の心に湧き上がってきたのはやはり同じような怒りとイライラであった。
12歳ぐらいの少年がいい加減な父親に放り出されて施設に入れられてしまう。彼はそれを受け入れられずに、隙あらば逃げ出して父親の元へ行こうとする。そしてひょんなことからたまたま知り合った美容師の女性に頼んで週末だけの里親になってもらうのだった。
なんと聞き分けないガキだろうか(ーー゛) お前の父親はどうしようもないヤツだってことを認めろよ<`ヘ´> 見ず知らずの女性に里親頼むなんて図々しい(-"-) おまけに彼女の言うこと聞くわけでもなし反抗しやがって
このような感想は私だけでなく、ネットの多くの記事で見られるものである。さらにその怒りは映画内だけでなく、監督に対しても「こんなガキを甘やかした話を作って」と向けられているのだ。(それは現実の少年犯罪についての論調にも似ている)
しかし冷静に考えてみるとどうであろうか。小学生の子どもが唯一の肉親である父親に捨てられるというのは、到底受け入れがたい事実である。
それに対して、「事実を受け入れろ」「相手にしてられないんだ」「迷惑かけるな」「自分一人で生きろ」というのは、まるで薄情な少年の父親の言説と全く同じではないか。
とても「大人」な態度とは言えない。
恐らく、それは子どもの時に何か大きな怒りや不満を抱き、それが大人に受け入れられず解決されないまま成長した人間が、行き場なき怒りや不満を新たに今の子どもにぶつけているに過ぎないのだろう。
従って、少年が紆余曲折、美容師と衝突したり裏切ったりした挙句、ようやく落ち着くべきところに落ち着いた(らしい)時、「甘やかしやがって、だからつけあがるんだ」ではなく「とーちゃんはアレだったけど、居場所が見つかってヨカッタね」と思うのが大人の鑑賞態度である。
批判が出てくるのは、ほとんど少年の言動を中心に描写されているからだろうか。一方、美容師の女の方には踏み込んだ心理描写はない。彼女が何を考えて里親を引き受けたのかとか、恋人をふったのはなぜかというようなことは、観客が想像するしかないのだ。
彼女は常に「大人」な行動するが、唯一感情を見せるのが泣きながら電話をかける場面である。あの泣くところは極めて印象に残った(本当に泣くときはああいう風になるだろう)。
映画の予告はほのぼの感動モードだったが、そんな生暖かい話ではない。世界の冷酷さをきっちりと描きながらも救済に至る道すじを示す。そういう映画である。
ただ、現実で問題なのは二十歳近くなってもあの少年と同じような言動をする「子ども」がいること。図体は大人並みでやられちゃね……( -o-) sigh...
しかしどういうわけだろうか? 見終わって鮮やかに思い浮かんでくるのはそんな論議ではなく、ヒロインが美容室でちょんちょんとハサミで髪を切っている場面、あるいは父親がレストランの厨房で仕込みにいそしむ姿、少年がヒョイと袋を拾って自転車に飛び乗るところ--そういう動作ばかりである。まるでその動作こそが人物の本質であるかのように。
そういえば、同じダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』でも、大工である主人公の動作に驚いたことがあるが、なんというか人物のとらえ方や役者に求めることが根本的に他とは異なるのだなと感じた。
珍しいことにこの作品では音楽を使っている。結末もいつになく前向きだし。そういやハネケの新作も「愛」らしいし、歳とると人間丸くなってくるのかな
大人度:10点
救済度:8点
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