イタリア映画祭2012 その3「錆び」:揺れる質疑応答
監督:ダニエーレ・ガッリャノーネ
出演:フィリッポ・ティーミ、ステファノ・アコルシ、ヴァレリオ・マスタンドレア
イタリア2011年
この映画が終わった時、会場に流れたのはなんとも言い難いドヨ~ンとした空気であった。「なんなんだ。こりゃ?(@_@;)」「勘弁してくれ~(>_<)」「どうしてこんなもん見せられなきゃいけないんだよ(*`ε´*)ノ☆」
そして、それは監督との質疑応答でも一部噴出したのである。
三人の人物の現在と過去が交互に描かれるという手法がとられている。
一人は自宅で息子と遊ぶ父親。もう一人は学校で美術の臨時講師をしている女。そして、知人のスナックで長い時間クダを巻き続ける男。
問題はこれらの場面が意味もなく長いのである。いや、意味がなくもないかも知れない。この三人がどこかおかしいということを見せようとしていたとすれば、その意図は充分すぎるほど伝わったといえよう。
時間をさかのぼること三十年、郊外の町の廃墟で遊ぶ子どもたちが描かれる。もっとも、大人になった三人がどの子どもにあたるのかは不明だ。この遊んでいる場面もかなり長い。診療所に新しい医師が赴任してきて、ようやく物語に動きが出てくる。
子どもたちの中の一人の少女が殺されたのだ……。
医者は最初から怪しいオーラ発散しまくりで、こいつが犯人だということは最初から(観客には)明らかなのだった。
しかし、シリアルキラーで小児性愛でたまにウッカリ公然わいせつ罪も犯しちゃうこの男、なんだか絵に描いたような「悪人」でどうも悪のテンコ盛り状態。作り手の方の善悪に対する考え方に疑問を抱いてしまうのであった。
続く事件で傷ついた子どもたちは、結局三十年経ってもトラウマを抱いて生き続けていることが分かるのだった。
--というような内容であるのは理解できるのだが、実際見ているとかなり長くて不快な場面が続くのでくたびれてしまう。
中で、どうもM・ハネケの引用とおぼしき場面があって、もしやと思ったが、その後の監督の「人物が味わった不快さを体験してもらう云々」という発言を聞いて、やはり影響を受けているのだと分かった。
しかし、確かにハネケが不快な場面を観客に見せるのは事実だが、観客に「くどい」とか「しつこい」「退屈」と感じさせることはない。なんか勘違いしてないか?と思ってしまった。
以下、質疑応答の一部である。
一番最初の質問は、内容は忘れてしまったが完全に映画にケチをつけているものだった。もっとも、その部分は通訳が省いてしまったもよう。
Q-効果音が聞きづらかったが?(注-ガンガンうるさい感じだった)
A-音は子どもたちが体験する恐怖である。現在と過去の衝突の効果を表わす。
Q-S・アルコッシを起用した理由は?
A-中心の三人はイタリアでは有名な役者。よく知っている役者に自分を投影して見てもらえる。
Q-現在の部分を変えたことについて、原作者はどんな感想だったか。(注-言外にこれで原作者気に入ったのか?という疑問)
A-原作者とは知合いで褒めてくれた。悪ガキ少年の大人版は原作にはない。
Q-過去の事件にとらわれっぱなしで社会に適合できない、というように描くのは現実の犯罪被害者からすると問題あるのではないか。(←この質問はちょっと記憶があいまいです)
A-彼らはずっととらわれているのではなくて、日常は普通だがフラッシュバック状態である瞬間よみがえるだけだ。(注-ただ、そのようには映画からは読み取れない)
Q-(エンドクレジットが流れた後に重要な場面が出てくるが)イタリアの観客はちゃんと見てくれたか?
A-かなりリスキーだったが、音楽の関係でそちらを選んだ。本編と切り離した方が効果的でもある。
というように、ややとげとげしい雰囲気の質疑であった。通訳が険悪な部分は飛ばして訳していたようなので、本人にはあまり伝わってなかったかも。
もっとも、その原因の一つには途中で結構大きな地震があって上映がいったん中断したせいもあるかもしれない。会場がビルの最上階なんでかなり揺れた。中断して気分一新して却ってよかったという意見も見かけたが……(-"-)
中断してすぐに「建物は免震構造なので安全です」というアナウンスがすぐ流れた。しかし、震災の時に川崎ミューザの事故が起こった時に建築関係の仕事をしている知り合いに聞いてみたことがある。
それによると、免震設計というのは建物の枠組みについてだけであって、天井パネルなどは内装の担当になって関係ないらしい。単に枠組みにパネルを載せているだけだから、枠がグラグラして揺れて落ちるのは充分ありうることなのだそうだ。
上を見上げてみると天井のライトがブラブラ揺れている。落ちてきたら直撃だ(*_*;
冷汗が流れた。
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