三大映画祭週間2012「ミヒャエル」:あの人は普通の人でしたよ
監督:マルクス・シュラインツァー
出演:ミヒャエル・フイト
オーストリア2011年
カンヌ映画祭で上映された作品。
この『ミヒャエル』を一言で説明するとこうだ。少年を誘拐監禁する変質者の日々を淡々と描く--。それ以外は何もない。
映画や小説では、卑劣な犯罪の被害者や家族側から描いた作品は多いが、加害者の側に踏み込んだ(犯罪を擁護するのではなく)ものはほとんどない。しかし、怪物だから怪物的な犯罪を犯した--というのでは何も描いていないと同じである。
この作品では一貫して加害者の生活を追う。誘拐監禁虐待どれを取っても憎むべき行為であるが、それ以外の大部分の時間はごく普通の日常生活を送る。
仕事に行き、買い物をし、親類と会う--。他者とのコミュニケーションが取れないという人間ではない。友人たちと旅行に行ったりもするし、ご近所の住人と立ち話もするし、職場の人間にへこへこと酒をついで回ったりもする(日本のサラリーマンと変わらんですな(^_^;))。別にモテない男なわけではない。同僚や旅行先の店の女性からコナかけられたりもするのだ。
その狭間に少年と過ごす時間が同じように淡々と挟まれる。
一体これはどういうことか? 憎むべき犯罪者も「我々」と同じ普通の人間ということか。ウチのお隣の平和そうな夫婦ももしかして庭に死体を埋めているかも知れないと警告しているのか。
なによりも、彼の親は他の親と同様に彼を愛している。当たり前ではあるが、観客はその姿を単純に受け止められない。
そんな疑問も、淡々と綴られる毎日の繰り返しの中に消えていってしまう。さらに「普通」といっても、その日常は見ているとなんだか微妙に居心地が悪い。それが男と社会の齟齬なのだろうか。
果たしてこの結末はどうつけるのか……と思って見ていたら、そう来たのか~というラストだった。
一つ確実に言えるのは、姉さんのダンナ(でいいんだよね?)はもうあの服に手を通すことはないだろう。
監督は、M・ハネケのスタッフをやっていた人とのことで、確かに距離を置いたそっけなさや淡々としている所は似ている。もっとも、毒気やイヤミは彼ほど強くないし、そういう意味では「刺激」は少ない。
タイトルはハネケにちなんでいるのかと曲解してたら、そういう訳でもないようだ(役者の実名らしい)。そもそもタイトルが誰の名前であるかも、中盤まで明らかにならないのだ。
名曲「サニー」が思わぬところで登場する。韓国映画の『サニー 永遠の仲間たち』でもタイトルになっているぐらいだから重要な場面で使われているが、こっちを先に見てよかった。逆の順番だったらだいぶイメージが違ってしまったろう。
そもそも難しいテーマで微妙な部分がたくさんあるので、そっけない作風でありながら、そういう面では注意深く配慮がされているようだ。例えば、被害者の意見を代弁するTV番組の場面を挿入するなど。
次作も期待したい。
普通度:8点
異常度:9点
| 固定リンク | 0
コメント