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2012年11月19日 (月)

ミュンヘン・カンマーシュピーレ「レヒニッツ(皆殺しの天使)」:求む!加害者

Ft12
フェスティバル/トーキョー12
作:エルフリーデ・イェリネク
演出:ヨッシ・ヴィーラー
2012年11月9・10日

「オーストリアで最も憎まれている女性作家」にしてノーベル文学賞受賞者--であるイェリネクの戯曲は、かつて川村毅の演出で舞台を見たことがあるのだが、台詞が極めて難解であり独白に近い形式で罵倒が続くという内容からして、わけワカラン状態でスゴスゴと退散したのだった。
しかし、その時に劇場に現地の新聞が貼ってあって、オリジナルの舞台の劇評では「衝撃!」とか「パンクpunch」みたいな見出しが出て絶賛しているようなのだった。もちろん本文は読解できないのでそれ以上詳しいことは分からなかったのだが。

そういう訳で、一体オリジナルでは彼女の芝居はどのように演じられているのかということを知りたかったのである。

この日はポストトークだけでなく、解説のプレトークもあるというので頑張って早めにいくぞーdashと張り切っていたのだが、家を出る直前に時間を1時間間違えていることに気付き、なんと開演ギリギリに到着という情けない状態になってしまった(+o+)トホホ

で、短い時間に配布の解説をあわてて読む。1945年3月、オーストリアの国境の村レヒニッツにある城で伯爵夫妻のパーティーが開かれた。そこにはナチの親衛隊や地元のシンパがいて、宴もたけなわとなった頃に参加者に銃が渡され200人近いユダヤ人を殺害したというのである。
しかし、事件の関係者はソ連軍が迫る直前に逃走。結局誰も責任を取ることはなく、それどころか被害者が埋められた場所さえ分からないというのだ。

チープなアレンジの陽気な音楽(「魔弾の射手」の曲らしい)が流れる中、5人の男女が舞台ににこやかに登場し、客席に向かって何度も手を振る。ドレスアップした服装からしてこれが件の宴の参加者か……などと先走って考えてしまうが、そんな単純なものではない。

彼らが語るのは抽象的で難解で少しシニカルなテキストの羅列である。それは事件のことを語っているようであるが、明確でもないようでもある。
しかもそれを対話するのではなく、各人がバラバラに交互に客席に向かって喋る。その内容はシリアスなのにもかかわらず、彼らの身振りや態度は常に不真面目で諧謔的で俗悪なのだった。

食べかけのピザを床に落として蹴飛ばしたり、突然下着姿になって(年配の男の一人はなぜか女物の下着を着ているkissmark)ゆで卵を食べて殻をまき散らす。彼らは対話がない代わりに、常に互いに親密な様子で身体を触り合っている。また下着姿で折り重なって寝ころびながら、腹や尻をペチペチと叩き合ったりもする。

字幕は両脇に出るが、これがまた見にくい。字幕を見てると舞台上を見られない(前の方の席の人はどちらかを完全にあきらめなければならなかったのでは?)。
また、台詞が難解で字幕を何度も読み直したりして(^_^;) 訳の文章もなんだか変。主語と目的語が途中でひっくり返ってるような--これは原文もそんな感じなのか。
とにかく容易には頭に入って来ないのだった。
半ば予想していたとはいえ、これほど難解とは……。普通の芝居を期待してきた人はもうわけワカランtyphoon状態だろう。

後半になるとやや空気が変わってくる。5人の衣装は村人や城の使用人のように変わる。彼らはケーキを指でなめながら、納屋に連れて行かれたユダヤ人たちの話をする。背後の白い壁にチョコレートクリームをなすり付けるが、それはまるで乾いた血痕のように見えるのだった。
印象に残っているのは、若い男が客席へ「誰か加害者になりたい奴はいるか?被害者がいるなら加害者もいなくてはならない」と語りかける場面だ。そこから語りのクライマックスへと続いていくのだが、なんと近くの客がイビキをかきはじめて集中力がそがれてしまった。またもやトホホ(+o+)である。

惨劇を「劇」として再現するのではなく、死者を代弁するのでもなく、犯人を一方的に糾弾するのでもなく、迂回するように被害者と加害者と自分との距離を測っていく手法は新鮮であった。
舞台装置も簡素なようで、実はいろいろ仕掛けがあって一筋縄ではいかない印象だ。
とはいえ、やっぱり難しいよ(T_T) その難しい台詞を完全に我が物として語る俳優たちには脱帽である。

ネットの感想ではイェリネクのテキストが全てという芝居なので、文章で読んでる方がいいというような意見が幾つかあったがどうだろうか。日数が経って、思い出すのは役者たちの動作や表情ばかりなのだ。
虐殺の銃声の爆音が響く中、部屋に備え付けられたヘッドホンを付け音楽notesを聴いているように楽しげな笑いを浮かべる姿。あるいは、若い男の常にニヤニヤとした下卑た表情とか。まるで「笑い猫」の猫が消えた後に笑いだけが残っているようである。

一つ疑問なのは字幕で登場人物を「使いの者」と訳していたこと。訳者は「使者」は「死者」にも通じるとしていたが、解説文やフェス全体のパンフの紹介文では「報告者」となっている。どちらが正しいのか?
「使いの者」なら使わした者が別にいるはずである。「報告者」とは意味が違ってしまうと思うが……(?_?)


さて、アフタートークについても簡単に書いておこう。
劇団のスタッフや元芸術監督、俳優が出席した。訳者からも発言があった。

*そもそもはブニュエルの映画『皆殺しの天使』を改作しようという発想からで、イェリネクから代わりにレヒニッツの事件を取り上げたいと申し出があった。ミュンヘンから現場は近いがこの事件は知らなかった。

*共同でアイデアを出した後、イェリネクが単独でテキストを書き、その後、劇団側が芝居版に直した。その際、三分の一ぐらいに縮小した。(従って、ほかの劇団がやる時はテキストの取り上げ方が異なるだろうから、全く別の芝居になるだろうとのこと)

*言葉が主体の舞台になっているが→何が起こったのかを演じるのは不可能。日常の中で語るということに行き着いた。

*テキストを短縮する時に、作者からの注文はなかった。イェリネクの使う言葉は明確なイメージを立ち上げるので、舞台の空間はシンプルでなくてはならない。

*この事件を発見したのは英国人で、しかも伯爵夫人のSM趣味などが大衆紙にセンセーショナルに発表されてしまい、そういう状況に驚いた。上演の際にはマゾヒズムとナチズムの関わりという加害者側の言説(政治的な)を批判するようにした。
歴史を語るということが、報道という商品になってしまっている。その点もこの作品で扱っている。
121119


イェリネクの発想の元となったドキュメンタリー『黙殺』については次の記事に書く予定。

【関連リンク】
《藝術の捧げもの》 
《劇場文化のフィールドワーク》
《haruharuy劇場》


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