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2013年3月10日 (日)

「塀の中のジュリアス・シーザー」:仁義なきシェイクスピア劇、あるいはまぼろしの帝国

130310
監督:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ
出演:コジーモ・レーガ
イタリア2012年

刑務所内で古典劇を上演する その無謀な試みによる囚人たちのテンヤワンヤを描く人情喜劇、なんて想像していたら……すいませんm(__)m 名匠タヴィアーニ兄弟……初めて作品観ました_(_^_)_

囚人の更生プログラムで演劇をやるというのは必ずしも珍しくはないようだ。大昔に見たニック・ノルティが主演した米国映画では囚人たちがミュージカルをやって、主人公は無期懲役囚だったのをその活動が評価されて仮釈放まで行ってしまうのである。もちろん実話を元にしている。

この舞台となる刑務所も実際に囚人の芝居を市民に公開しているようだ。冒頭はその様子が映し出される。その後、時間は遡ってオーディションの場面から始まる。決まった役者たちはいずれも懲役10年、20年は当たり前無期懲役囚もいる。なかなかに強面のメンツである。
練習場所のステージがある講堂は改修中なので、一同は監獄内の様々な場所をあちこち移動しながら稽古を続ける。

しかし、見ているうちにどうも予想したものとは違っていると気付いた。演目の『ジュリアス・シーザー』以外のセリフが非常に少ないのだ。もちろん「ちゃんと台本覚えなくちゃ」とか「面会の後で落ち込んでる」とか、看守が「続きを知りたいからもう少し見ていよう」なんていう「素」の場面が途中に出てくる。しかし、それはあくまでも脇の話で本筋ではない。
この映画が描こうとしているのは、「シェイクスピアを上演しようとする囚人」の物語ではないのだった。

よくオペラや古典劇では読み替えというのをやる。例えば、イアン・マッケランの出世作となった『リチャード三世』(映画化もされた)では設定は大戦前夜のヨーロッパ某国になっていて、台詞はそのままだがラストでは「馬」の代わりに戦車が登場する。
これも、刑務所を舞台に読み替え、その中にいる囚人が台詞を語るという設定の『ジュリアス・シーザー』なのである。ただ、演じているのが役者ではなく本物の囚人で、背景も書割ではなく監獄そのものを使用しているのが普通の芝居と違う。

そうなると、何やら芝居自体がマフィアの抗争劇めいてくる。ごつごつとしたイタリア語(方言までは判別できないが)の響きも、『仁義なき戦い』の広島弁並みに迫力を醸し出す。もっとも、この『ジュリアス・シーザー』自体がそもそもご当地の物語だから当然か。
シーザー暗殺の混乱の後で、登場する若き新皇帝役は新入りの若い囚人が当てられる。これまた虚実が入り乱れ区別がつかなくなるたくらみの一つのようだ。

冒頭と終盤の、市民の前でのステージ場面はカラーだが、刑務所の中に入ると一か所を除いてモノクロ画面になる。モノクロはドキュメンタリーのような強烈な印象を残すと共に、なにか白昼夢のようでもある。
このカラー白黒というのは、ある意味映画の原初的なギミックであるが、迫力ある効果を生み出しているのだった。

『ライフ・オブ・パイ』は語りと騙りが交錯する作品だった。こちらはCGのような最先端技術はないものの、やはり「騙り」度では負けず劣らず、現実と虚構の境を曖昧にし目もくらむような幻惑を与えている。
つくづく、映画の面白さは尺の長さ(本作は76分)にもテクノロジーの新しさにも関係ないと改めて思い知ったのであったよ。

ところで、キャシアス役の囚人(無期懲役)が最後に漏らすセリフの意味は「芸術を知って、初めて真に自由になりたいと気付いた」ということでいいのかな(?_?)


抗争度:9点
虚実度:9点


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