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2013年4月

2013年4月28日 (日)

「ザ・マスター」:来世で愛して

130428
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ホアキン・フェニックス、フィリップ・シーモア・ホフマン
米国2012年

まるで二頭の巨大な肉食獣が闘っているのを、ドアップで延々と撮った映像を見せられているような気分になる映画だ。さもなくば、太いヘビが絡み合いながら互いの尻尾に食らいついてるのを見ているような。
そしてドアップなんで、それ以外のものは何一つ映っていないのである。
これを迫力ある骨太な作品と見るか、単調で退屈と見るかは、その人の好き嫌いによるだろう。

※以下ネタバレあり

ハリウッドでも信者が多いという新興宗教の教祖をモデルにしているということで、社会問題的な側面が出てくるかと思ったのだが、そういう部分は全くなかった。
フィリップ・シーモア・ホフマン扮する教祖は、別に企業の社長だろうがカリスマ政治家だろうが軍の将校だろうが、あまり人物の関係に変わりはないように思える。

その教祖に拾われる主人公は太平洋戦争の後遺症で社会に適応できない。もっともそれが本当に戦争のためなのか、それ以前に先天的な要因によるものかは明確にされていない。
自己啓発セミナーのような教団の手法で主人公を馴らそうしても、野生獣のような彼には通用しないのだった。
実質的な支配者である教祖の妻は男を排除しようとする。彼女は妻であるだけでなく母であり邪悪な「魔女」でもある。

男たちは前世での絆を確認し、来世での再会を誓い合って、それぞれ別々の道を歩むのであった(;_;)/~~~
……えー、そういう話だったんかい
まあ、前世も来世も信じない私のような不信心者には、初めから存在しない空中楼閣や空手形を見せられているようである。勝手にやってくださいってなもんだ。

二人の男の関係はいわゆる「ブロマンス」というのに当てはまるようだ。「ブロマンス」って日本語の造語かと思ったら、ちゃんと英語にあるんだー(~o~;) 「セックスは女と、愛情は男と」って解釈でいいのかね。
女をかたどった砂の山が頻出するのは、恋人への渇望というよりも、砂を「掘って」いれば女は不要ということに思える。

過去の作品でもなんとなく感じたが、監督は相当な女嫌いのようだ。ニール・ジョーダンほど露骨ではないが、教祖の妻がさしたる意味もなく妊娠中の大きなお腹をして登場するのにはかなりの悪意を感じた。

主役のホアキン・フェニックスは主人公の心の不均衡をその身体のよじれ具合までにまで表わしているような熱演。この性格が地なのではないかと疑いたくなるほどだ。もっともアカデミー賞の授賞式でも苦虫を噛みつぶしたような表情をしていたので、現在の彼の心境に近いのかもしれない。
フィリップ・シーモア・ホフマンも助演男優賞にノミネートされたが、彼には朝飯前の演技だったかも。妻役のエイミー・アダムスはこわ~い女を冷徹に演じている。オスカーは逃したけど、今期の最優秀悪女賞は確実である。

それにしても長すぎて疲れた。もうこの監督の作品は映画ファンが皆絶賛したとしても、二度と見ることはないだろう。


男たちの絆度:9点
自己啓発度:5点


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2013年4月27日 (土)

「悲しみのダウランド メランコリー」:リュートを抱いた渡り鳥

130427
ジョン・ダウランド生誕450年記念シリーズ第1回
演奏:ザ・ロイヤル・コンソート、ラ・フォンテヴェルデ、つのだたかし
会場:ハクジュホール
2013年4月19日

つのだたかしがダウランドのメモリアル・イヤーに際して企画しているシリーズ初回である(4回目は大トリが控えているという次第?)。
最初から意欲的な組み合わせであります(^-^) 英国系ガンバ合奏が中心のザ・ロイヤル・コンソートと、最近はジェズアルドやモンテヴェルディを歌ってるラ・フォンテヴェルデ--あっさり味とこってり味のぶつかり合いといったところか。さてどうなると期待大で行ったのであった。

プログラムの構成が面白い。上村ゆかりが担当したとのことだが、ダウランドの生涯を4期にわけて、イタリア→英国→デンマーク→英国とその時に滞在した土地にちなんだ曲も取り上げるという趣向だ。しかも、どの時期の冒頭はガンバの合奏曲、終わりは独唱曲で締めくくるという凝りよう。面白い!(^^)!

聴く前は異なった個性が激突なのかと思ったが、そんなことは全くなかった。つのだたかしはコンソートの一員であるかのようにリュートを弾いていたし、5人の歌手たちは何回も共演しているがごとく息が合っていた。

中でも特筆すべきは、ダウランドがイタリア語の歌詞で作曲した歌(そんなのがあったとは初めて知ったぞ)の演奏である。鈴木美登里が熱唱し、それと同じくらいに上村かおりがトレブル・ガンバを激しく雄弁に弾いたのであった。こんな熱い上村女史は初めてよ

ラストは上杉清仁の独唱で「暗闇に私はすみたい」。これも最後に歌の内容に合わせて会場が暗くなるという仕掛け付きだった。

一つだけではないダウランドの多彩な面を様々に見せてくれた好企画コンサートであった。
それとダウランドが作品を捧げたという先輩格のホルボーンの合奏曲が2曲演奏されたのだが、これが意外にもよかった。ダウランドと違って明晰な味わいあり。ディスクが出てないか探してみよう。

普段、ザ・ロイヤル・コンソートは教会で聞くことが多いのだが、ハクジュホールのような音のいい専門ホールだと細部まで聞き取れて、全く異なった音になっていて驚いた。座席はエコノミークラスの広さで狭苦しいけど、やはりこの会場はあなどれぬよ(ーー;)


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2013年4月21日 (日)

「愛、アムール」:愛をしても一人

130421
監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、エマニュエル・リヴァ
フランス・ドイツ・オーストリア2012年

今期の話題作の一つには違いないだろう。カンヌ映画祭でパルム・ドールを獲得したのみならず、各国の映画祭でも受賞。そしてアカデミー賞の外国映画賞だけでなく主要な賞にノミネートされたのだから。
普通、カンヌで高く評価された作品はアカデミー賞では冷遇されるのだが、珍しくこれはそうではなかった。一説には投票するアカデミー会員が高齢化してて介護や老人問題というテーマが受けたからといわれる。
もっとも、授賞式の監督賞ノミネート読み上げの時はほとんど拍手も歓声も起こらなかったが……。

それ以外にも話題になる要素が--あのイヤミで強烈で冷淡な作風のハネケが、よりによって「愛」とはなんてこったい(!o!)ということだ。彼も年取って丸くなったってことかと考えちゃう。
そういう訳もあって、映画系のブログで取り上げている数も多いし賛否両論 元々、ハネケは嫌いだったがこの作品は評価する人、過去の作品は知らず初めて見て感動した人、前から嫌いでやっぱり好きになれなかった人など様々である。
映画館でも「これで、たくさん賞取ったんだよねえ」と首をひねってる人がいた。

元・音楽家の老夫婦がパリのアパートで悠々自適の生活を送っている。しかし、ある日突然妻が発作を起こして半身不随になる。自宅で夫が介助しつつ生活を再開するが、病気の再発にさらに痴呆の症状も進んでいく……と事態は悪化し夫を追い詰めていくのであった。

私にしては珍しく買ったパンフの評に、肝心なところはほとんどリアルタイムでは描かれず後から離れて暮らしている娘に話すという形を取っている--と書いてあったが、なるほどその通りである。
最初の発作で入院する件やその後あっただろうリハビリ場面、また手術の前後のなど外部と関わるドタバタとあわただしかったろう経過はカットされている。
物語は一貫してアパートの中で進んでいく。極めて閉塞的で息苦しい。もっともそれが「介護」の真実であろうが。

恐らく客観的な事実は冒頭の扉が壊される場面とラストだけだろう。それ以外は夫の主観で描かれていて、どこまでが本当に起こったことなのかは明確ではない。
それを考えると、扉に巨大な閂のような物が取り付けられているのは示唆的である。音楽会から帰宅した時には、彼は空き巣が外から鍵を壊そうとした跡があっても気にしなかったのに、だ。

むしろ外からやってきて二人をかき乱す存在が描かれる。娘(とその夫)、若いピアニストの弟子に代表される(あと付け加えれば管理人と看護婦)。
疎遠なのにたまに来てはうるさいことを言う娘は身内代表、突然出現して無遠慮な手紙をよこす弟子は外部代表というところか。
その二者に対し夫は意思の疎通を放棄し、できれば妻の姿を見せたくないと隠すのである。閉ざされた部屋の奥がどうなっているのか、ピアノの置かれた居間からは見えない。
「外」に対する夫の思いは、中盤で見る悪夢に端的に表わされているようだ。

彼が懸命に扉にテープを貼る姿や、玄関の頑丈な閂で思い出したのは、同じハネケの『セブンス コンチネント』である。
四人家族(恐らく夫婦が当時のハネケと同世代)がさしたる理由もなく一家心中する話で、その前に彼らは家を徹底的に破壊しつくす。そのパフォーマンスが過激で話題になった作品だ。
『愛、アムール』の夫の行為もベクトルの向きは違いさえすれ、同質のことをしているように思える。歳を取り、彼自身も脚が悪いので過激な行為はできないが。

今の家はかつての家ならず。家は破壊され/閉ざされ、死が横溢する。過去の愛したものは消滅し/重苦しく闇が淀み滞留する。

ただ、『セブンス コンチネント』では一家は死の間際にも安っぽいMTVのヒット曲を好んで眺めているが、こちらの夫婦は音楽家だけあってクラシックの名曲が流れるのが違う。
そしてもう一つ、ラストの明るい解放感。もはや暗い影は消え去り微塵もない。
この二点をもって「やれやれ(^^ゞハネケも優しくなったもんだのう」と思わざるを得なかった。
ただし、こんな話に「愛」とタイトルを付けるところはさすがにイヤミである。

エマニュエル・リヴァはさすがの熱演。特に身体表現が--。しかし、カンヌもアカデミー賞も候補にしただけで授賞しなかったということは、若い世代への期待を取ったということだろう。
もっとも、トランティニャンの引きの演技の方が大変だったかも。
弟子役に本物の若手二枚目ピアニストのアレクサンドル・タロー、それと娘婿を演じていたのはやはり本業がオペラ歌手のウィリアム・シメル(『トスカーナの贋作』に出てた)じゃないですか。ということで、配役も音楽度高し。


愛度:7点
イヤミ度:8点


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2013年4月18日 (木)

「ルネサンス・ミサの魅力 5~ジョスカン・デ・プレのミサ《ロム・アルメ》を聴く」:ミサは作曲家の腕の見せどころ

130425
ヴォーカル・アンサンブル カペラ レクチャー・コンサート
会場:近江楽堂
2013年4月10日

普段は教会でルネサンス時代の合唱曲を歌うカペラであるが、主催者花井哲郎の講釈付きでジョスカンのミサ・ロム・アルメを近江楽堂でやるというので行った。近江楽堂は教会ほどには残響が大きくなく、小規模な会場なので聴きやすいだろう思ったのだ。

「ロム・アルメ」は当時流行った世俗歌曲で、それを定旋律にしたミサ曲はなんと40数曲もあったという。
ジョスカンのはその中でも複雑で、聴いてて元の曲を聞き取れるのは「ホザンナ」ぐらいしかないとのことだ。配布のプログラムには計量記譜法の楽譜が載ってたりしてトーシロには理解が大変なのであった(^^;ゞ

面白かったのは楽譜の冒頭に記号が付いていて、その記号によって音符の長さが違ってくるということになっているらしい。すると同じ楽譜であってもそれぞれの記号に従うと各声部が異なってカノンになるというのであった。また、途中から楽譜を逆に歌ったり……。

花井氏の解説は歌手を背後に立たせて実際に部分部分を歌わせながらやった。しかし、喋りたいことがたくさんあるようで、一旦歌い始めようとしたところをクルリと戻って「そういえば--」などとまた話し始めるというのを何度も繰り返したのである(その度に歌手たちは苦笑)。
さらに真面目な顔で冗談を連発するので客の方は目が回る~

このミサはクレドの途中がなぜか作曲されないで、抜けている。その理由は?
花井氏「それは--作曲し忘れたからです」
客「ふむふむ」(納得)
花井氏「ここは笑うところですよっヾ(^^;) 」
客「ガ~ン」(一同ずっこける)

解説終了後、全曲演奏となった。
花井氏も入れて各声部2人ずつの計8人である。絵画にも残されているように、大きな写本の楽譜一つを台に乗せて、それを全員で見ながら歌う昔ながらの方式を取っている。
青木洋也氏などバロックで活躍している歌手もいるが、唱法は全く異なるし、何よりも全体として声の融合や流れが重視されていた。小さな会場で間近で聴くとそれがよく分かったのだった。

ところでこの会場の椅子にいつもある座布団がこの日はなかったんだけど何故(^^?) 取ると残響が増えるとか……ホントか


ルネサンス時代のミサは「ロム・アルメ」に限らず、流行歌を取り入れて作曲されるのはよくあることだった。以前、フランスのグループ、デュース・メモワールが来日した時は、極めて淫猥な曲を元にしたミサとその原曲を演奏してくれた。どうも昔は聖と俗の定義が異なっていたようである。

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2013年4月14日 (日)

佐藤豊彦「古希記念」コンサート:弦か楽器か

130414
共演:櫻田亨&佐藤美紀
会場:近江楽堂
2013年4月6日

日本三大リュート弾き(さて他の二人は誰でしょう)の一人である佐藤豊彦がめでたく古希--ということで、コンサートを行なった。

まずルイ14世のギター教師だったというポルトガル出身のロベール・ド・ヴィゼーの作品が前半に演奏された。
彼の生年は1660年頃なのだが、この時使用の老リュート「グライフ」は1610年に製作されたということで、なんと作曲者よりリュート様の方がさらに先輩なのである こりゃ驚いた!(^^)!
その後、ド・ヴィゼーと同時代に改造されたそうな。

曲の方は単刀直入に言えば「地味」(ー_ー)!!である。数曲のトンボー以外は舞曲ではあるがどれもゆったりとしたテンポで渋めの曲調ばかりである。
会場で買ったCDのブックレットの解説(恐らくは欧米人向け)を後で読んでみると、佐藤豊彦はこの時代のフランス・リュートの様式を「禅」や「茶道」に例えているのだった。さらにもっと前の世代のゴーティエが「ほとんど聞こえないほどかすかな音で、大変素晴らしい演奏」と評されたという紹介もあった。

確かに今そのCDを聴いてみれば、スピーカーから出る音は明らかに会場で聴いた同じ老リュートの音より遥かに大きい。いかに正確に音をとらえたとしても、既にそこで差異が生じてしまう。まさしく繊細にして幽玄の世界だろう。

さて当日の佐藤氏の解説で驚いたのは、ガット弦の代替品としてナイロン弦や合成繊維を使ってみるがどうも代わりにはならない、という話になった。そして「弦に合わせて楽器が作られるのだから、その弦を変えたのでは意味がない」という趣旨のことを言ったのである。

な、なんだって~(>O<)
楽器が先じゃなくて弦が先なのかっ(!o!) 初めて知った。ビックリである。
卵が先かニワトリが先かの話じゃないですけど……
しかし、本当に弦が先であるならそれを変えてしまっては本末転倒である。そして、その逆の楽器はそのままで弦だけ張りかえるというのも、また然りだ。
弦を張った楽器の本質は弦の方にあるということか。(当然と言えば当然のような気もするが)

そんな驚きから後半に突入すると、こちらは弟子の櫻田亨と娘さんの佐藤美紀(美人母親似なのかしらんヾ(-o-;) オイオイ)と共に、英国はエリザベス朝時代のリュート合奏曲を三世代共演。本来はデュエットなのだが、二台だと大変なので三台で分担とか。
エリザベス女王は毎朝お付きのリュート奏者に伴奏させてラジオ体操ならぬリュート体操を踊ったそうな。夜は夜で睡眠導入曲を寝室で弾かせたらしい。

ダウランドの曲も登場したが、彼とド・ヴィゼーは生涯の最後は息子に宮廷の職を譲って行方不明になったというところが共通してるとか……(@_@;)
さ、佐藤氏には古希過ぎても行方不明になったりせずバリバリ現役で弾きまくって欲しいもんです

アンコールはバッハを二曲。ルネサンスリュートは8コースなので、二台でもバッハを引くのはキビシイが、三台ならOKだそうだ。

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2013年4月 7日 (日)

「汚れなき祈り」:地獄へ至る道は信仰で敷きつめられている

130407
監督:クリスティアン・ムンジウ
出演:コスミナ・ストラタン、クリスティーナ・フルトゥル
ルーマニア・フランス・ベルギー2012年

昨年のカンヌ映画祭で主要な賞を取った作品が次々と公開。手始めはこの『汚れなき祈り』である。こちらは主演女優が女優賞を二人ダブルで監督した。
同日公開で、やはりカンヌの男優賞の『偽りなき者』と邦題が似ているもんだから(もちろん原題は全く違う)、間違える人続出。中には間違えて映画館行ってしまう人もいたとか。
私もデータベースで検索しようとして、「汚れなき者」とか「偽りなき祈り」とか「許されざる者」(←違う映画じゃ)「禁じられた祈り」なんて……全然ヒットしねえ~。
これは絶対に観客に間違えさせて両方見させようという公開側の高等戦略に違いないと見たが、どうよ!(^^)!

舞台はルーマニアの田舎村、その辺鄙な地の修道院に一人の娘がやってくる。彼女は孤児院仲間で今は信仰生活をしている友人を訪ねてきたのである。そして彼女たちはどうも過去に同性愛関係にあったらしいことが暗示される。
娘は友人を修道院から連れ出し関係を復活させたいのだが、友人の方は今の生活に満足していてその気は全くない。むしろ、一緒にここで暮らしてほしいと思っているのだ。そこで娘の怒りと敵意は友人が心酔している神父や他の修道女に向かうのだった。

実際にあった「悪魔祓い」事件を元にしているというが、様々な要因が絡み合っていて何が悪いとは一概に言えない。
精神不安定な娘を適当なところで退院させた病院、孤児院を出たら修道院しか行く場所がない社会の貧困、孤児を養子に貰って搾取する里親、中世さながら(何せ電気が来てない)の生活をする閉鎖的な修道院--。
舞台は中世的、とはいっても問題は現代をそのまま反映している。

それらが厳しい冬へと向かう清貧生活の描写と共に静かな筆致で描かれ、じわじわと締め付けるように物語は展開し恐ろしい結末へと至るのだった。明確な「悪人」はどこにもいないのに。

なるほど娘の精神状態は、昔は「悪魔憑き」とはこういうことを言ったのかと納得。(そして確かにその後友人へと乗り移ったようだ)。しかし今は中世ではない。現代である。
個人的な解釈としては、神父がもう少し融通の利く人物だったらこんなことにはならなかっただろうと思えた。修道院に金がなくて困っていると言いながら教会からの俸給を断っているという。そんなエピソードに頑なな一面を見るようだ。

彼がもっと舌先三寸で他人を動かしうまく立ち回れるような人物(それこそ「教祖」タイプ)だったら、娘たちも適当にあしらえたろう。厄介払いもできたかもしれない。
だが彼の視線は神のみに向かい、信仰なき者はもちろん信者にも向けられてなかったようである。
いみじくも運転手のおぢさんが「神父は神に試されている」と指摘した通りなのであった。

貧しくも完結していた小さな共同体は一人の攪乱者によってあっという間に崩壊した。そしてそれはどこにでも起こりうることだと思える。

音響の使い方が非常に凝っていた。ただ、ちょっとうるさ過ぎな印象もあり。
本当に寒そうな修道院の風景が冷厳でありながら美しい。
152分という上映時間の長さはあまり感じなかったが--やはり長い


悪魔憑き度:9点
信心度:8点


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