
監督:トマス・ヴィンターベア
出演:マッツ・ミケルセン
デンマーク2012年
マッツ・ミケルセン祭り第一弾
同時期に公開された『汚れなき祈り』と間違えやすいことは既に書いた通り。
幼稚園の教員をやっている男が、園児の少女(親友の娘でもある)の些細な嘘によって小児性愛者だと思われてしまう。舞台はデンマークの郊外の町のようだが、古きよき共同体の絆が残っていて、男たちは集団で狩りに出かけたりする。そんな地域であるからして、「絆」は一転「鎖」になってしまうのであった。
たちまちに広がる疑惑と噂……一旦逮捕されるが結局釈放、誤解は解けたはずなのに、しかし一度張り付いた疑惑は二度と晴れることはなく「絆」は壊されたまま回復することはない。
前作『光のほうへ』では都会の中の孤独を描いたヴィンターベア監督、今回は共同体の中の不寛容と、個の尊厳を取り上げている。
実際、いつ誰がこのような境遇に陥ってもおかしくはないような話である。
主人公は「男がやるような仕事ではない」と思われている幼稚園で女性職員に混じって、ただ一人元気な子どもたちの相手をしている。一方で、同世代の男たちと狩猟をし酒を酌み交わすし、近所のスーパーで村八分状態のトラブルにあった時は果敢に逆襲する。
かように硬軟両面を持ち合わせた人物で、しかも映画ファン(一定の年齢層以上の女性)に人気急上昇赤丸付き
のマッツ・ミケルセンが演じているのである。思わずファンならずとも「私のマツミケをいぢめないで~(>O<)」と叫びたくなるのは必至だろう。その耐え忍ぶ姿がまた、萌えさせるのであろうか
それはともかく、かくも「無実なる人」のわりには少女(というか幼女)との関わりには不明な描写がある。彼女が両親と兄から疎外されて孤独というのは分かるにしても、その仕草は既に男をたらしこむ「妖女」の片鱗あり。
終盤の主人公と彼女が向き合う場面は、何やら意味深な短いカットの切り替えの連続で、単に少女の孤独を理解して受け入れるというだけには見えない。一体なぜ監督はこんなシーンを入れたのだろうか? 疑問であるよ。
他の人の感想を読んで驚いたのは、疑われるのがキモヲタのような男ならともかく、ミケルセンが演じるような二枚目で女にモテそうな男が幼女に走るわけがない、というような意見があったことだ。正直言って、衝撃を受けた。
これこそ誤解と偏見ではないだろうか。私が知っている事例を紹介する。
加害者と目された人物とは顔見知りの程度だったが、若くてカッコよく、すっきりさわやかな二枚目の男だった。被害を訴えたのはこの映画より年齢が上で、思春期の少女である。
彼を知っている人間の半数は被害は実際にあったとみなしたが、残りの半数は無実だと思った。なぜなら「彼のようにモテて困る奴がそんなことするはずがない」のだから。そして「モテる男は大変だねー」という結論に至るのだった。被害を申し立てた者も無垢なる幼女ではなく、不安定な思春期の小娘だし。
実際に何があったのかは、未だに不明である。ただ、疑わしいのはそれが一回だけでなく複数の被害者が数年に渡って現れたからだ。
このようにモテるモテないは関係なく疑惑は発生する。そういえばロリコンとしても有名な作家の中勘助は「大人」の女性からもモテモテだったそうではないか。本人にはどーでもよかっただろうが。
さて、もう一つ気になるのはこの映画の男女の描き方だ。
疑惑は幼稚園から発生し、その職員は園長を含め主人公以外は女である。特に園長のドタバタな対応ぶりは(部外者から見れば)滑稽に見えるほどだ。さらに女性職員が一丸となって主人公を追い込む。唯一の例外がインド系(?)の女性だけというのも意味深だ。
友人たちとの付き合いは「男同士の絆」あるいは「ブロマンス」的なものだが、夫婦ものの男たちは妻に扇動されて(のように描写されている)主人公を排斥する。
姿を見せない別れた彼の妻は常に敵対的である。彼を信用するのは自分の息子と、妻がいない友人たちだ。
あたかも、女たちの偏見と悪意によって彼は窮地に陥れられたようである。そして、彼女たちは最後まで(成人祝いの場)疑惑を解消していないのが示される。
とすればラストシーンはどう解釈すればいいのだろうか。男の神聖な場ももはや安住の地ではなくなったってことかね(?_?)
M・ミケルセンは「耐える男」を好演。驚いたのは子役の少女である。監督はどう演技指導したのかっ
てなもんだ。末恐ろしいとはこのことである。でも案外「二十過ぎればただの人」かもしれんけど。
潔白度:7点
忍耐度:9点