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2013年9月

2013年9月29日 (日)

「王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件」:唐版X-ファイル

監督:ツイ・ハーク
出演:アンディ・ラウ
中国・香港2010年
*テレビ放映

お久しぶりな感のあるツイ・ハーク。一時期は彼の監督作をよく見たものだったが、そもそも香港映画自体の公開本数が減ってきたのと、韓国映画の隆盛もあって見る機会がなかなかなかった。
この作品も日本で公開された時に気にはなったが、あっという間に終了。それに邦題がよくないのも追い打ちをかけた。これでどういう内容なのか分かる人は少ないだろう。そもそもどこが舞台でいつの時代の話なの(?_?)

ただし、これは原作があってサブタイトルはそのまま訳しているようだ。オランダ人が書いた唐時代を舞台にした探偵もので、日本でもハヤカワ・ポケミスから出版されてたらしい。(今はほとんど絶版状態か?)
主人公の判事ディーはなんと実在の人物だという。しかし「DETECTIVE DEE」だと「刑事」とか「捜査官」じゃないのか? それとも大岡越前みたいな人物なのか。
それはともかく、自国の歴史上の人物を西洋人が描いた小説をさらに自国で映画化するという捻じれたいきさつの作品なのである。

そんないきさつをそのまま反映したかのように、香港アクションをパクって発展させたハリウッド映画をさらにパクり直したような作りの映画である。

目指せ中国初の女帝という勢いで即位の日を待つ改革派の則天武后をおびやかすような怪事件。武后と対立して牢獄に放り込まれた判事ディーが謎の解決のために呼び戻される。
謎の真相自体は大したものではないが、アクション攻勢はこれでもかというてんこ盛り。『マトリックス』もどきあれば、『ホビット』……はまだ後の製作だから『ロード・オブ・ザ・リング』もどきあり。これぞ必殺パクリ返しの技が炸裂である。

ただ、往年のツイ・ハーク作品のような口アングリ感や興奮はなく、大仏が倒れるかもという話にもかかわらずスケールの大きさがあまり感じられなかった。
どうせなら、この主人公でTVミニシリーズにしてくれたら面白いかも。そもそも原作がポケミスで出るぐらいなんだから、もっと謎解き要素を入れられるのではないかね。

ツイ・ハークの監督技と主役のアンディ・ラウはあまり冴えず。則天武后に仕える側近役のリー・ビンビンは超が付く美人 その美しさの秘訣をぜひともお聞きしたいものですわ(*^o^*)


人体発火:4点
大仏崩壊:5点

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2013年9月28日 (土)

「慈しみと希望のコンソート」:巨匠来りて調和を弾く

130928
演奏:ヴィーラント・クイケン&ザ・ロイヤル・コンソート
会場:横浜みなとみらい小ホール
2013年9月22日

約一週間の間にサヴァールとW・クイケンのガンバ二大巨頭がコンサート(!o!)とは、日本はどんだけガンバ大国なんだってな状況である。
もっともクイケン兄弟は福岡の古楽祭で来日していて、あわせて色々と活動しているようだ。
そのせいかチケットが瞬殺完売となったサヴァールと違って、この日の入りは会場の70%未満という印象だった。演目が地味という理由もあるだろう。

ホールは真ん中あたりの席でもガンバの音が充分聴けそうだった。しかしあえて前の方の席に座った(そのためにサイドになってしまったが)。奏者たちを間近に見たかったからだ。

ロイヤル・コンソートは通常、上村かおりがトレブル・ガンバを弾くが、この日はずっとW・クイケンが担当していた。他のメンバーは曲によって出たり引っ込んだり休んだり。全員そろったのはアンコールの時ぐらいである。

タイトルが「慈しみと希望の」となっているのは、前半と後半の冒頭曲がそれぞれストーニングという作曲家の「ミゼレレ」、こちらも知らない作曲家パースリーの「われらの希望」から取っている。そしてそれぞれローズの組曲で締めるという構成になっている。間を埋めるのが様々な作曲家の「イン・ノミネ」や「ファンタジア」だ。
配られた解説の中の「個々の感情よりは、普遍的なものへの賛美を芸術で表現しようとした時代の音楽」という上村かおりの文章が特質をよく言い表していると思った。

コンソート作品の演奏というものはそもそもそうなのだろうけど、これまでもメンバーのゆらりとした調和と流動を楽しんできた。この日はクイケンの参加によって、さらにグループの親和性が高くなっていたように思う。
アンコールのパーセル(←だよね)までそれは続いていた。

客は驚くほどに業界人--演奏家や学者などが多かったもよう。振り向けば「あっ、あの人だ」状態である。さらに「また明日ね」などという挨拶が交わされていて、これは翌日のBCJ--じゃなくて「日本ヴィオラ・ダ・ガンバ協会40周年フェス」のことらしかった。

このホールは初めて来たが、駅から直結していて来やすくていいですな。ただ一階に散々並ばせといて(自由席だったので)エレベーターに乗ったらその順番がチャラというのはどういうことよ(~_~;)


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2013年9月23日 (月)

「楽園からの旅人」:さよならイタリアさよならニッポン

130923
監督:エルマンノ・オルミ
出演:マイケル・ロンズデール
イタリア2011年

これもいわゆる「難民映画」の範疇に入るのだろうか。たしかに「難民」は登場するが、少し様相が違うようだ。一言で言えば、棺桶に半分足を突っ込んで衰退するヨーロッパに別れを告げるような映画である。
全編、静謐な寓話といったトーンで貫かれ、舞台が教会内で固定されて外に出ることはない。演劇的でもある。その点ではリアリティある作品ではない。
また独特の深く暗い色彩は絵画を思わせる。「目」をかたどった教会の天井のステンドグラス、音の出ないTVなど登場する様々なモノはいずれも象徴的な意味を持っているようだ。

イタリアのとある街の教会が、信者数の減少によって取り壊されることになった。老司祭は頑なに拒否するが作業は進む。
十字架も祭壇も取り払われた堂内に忍び込んできた一団がいる。アフリカ系の不法移民たちだった……。

信者が来なくなった教会の空隙を埋めるのが異教徒だというのは極めて皮肉である。
さらにその中の若い娘が出産し赤ん坊を抱いている姿に、イエスの誕生を重ね見た司祭は衝撃を受け、よろよろと形ばかり残った祭壇に祈りを捧げる。
彼らの中にはテロリストや裏切り者、娼婦もいる。しかし、ほとんどが若く輝やかしく見える。
対照的にイタリア人たちは司祭を含めみな年老いていて、過去を回想しては現在を嘆くことしか残されていない。(彼の唯一の話相手の医者がユダヤ人であるというのもまた皮肉な状況だろう)
もはや彼らの前に新たな世界は存在しないかのようだ。

数日経つと移民たちはフランスに旅立ってしまう。中には、今までイタリアで働いていたが見切りをつけて自国へ帰るという者もいる。ここはもう通過点に過ぎないのだ。留まる者はなく、司祭を顧みる者は誰もいない。

監督はアフリカ系の人々に新たな神話の創造と若々しい活力の担い手として見ている。もはやイタリアは取り残される年老いた地域となっている。

かつて三国協定を組んだ日独伊は、現在少子化に悩んでいるという点でも共通していると聞いたことがある。老いたイタリアの描写は日本にも重なる部分が多々あり、私は見ていて陰々滅滅(ーー;)となってしまった。
一体、少子化で将来スポーツをやる子どもも少なくなるというのに、オリンピックなどやってどうしようというのか。私には理解しがたいことである。

名匠と呼ばれるエルマンノ・オルミ監督の作品、今まで見たことがない……と思ってたら、『聖なる酔っぱらいの伝説』を見ていた。ルトガー・ハウアーが出演しているという単純な理由からだ(^^ゞ
この作品でも彼は教会の管理人役で出ている。彼もまた取り残される側の人間である。


ヨーロッパ度:3点
アフリカ度:7点


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2013年9月21日 (土)

モンテヴェルディ「オルフェオ」:冥土の土産に聴いてやらあ

130921
構成・演出:宮城聡
会場:静岡芸術劇場
2013年9月7・8日

新幹線に乗って来ちゃいましたぁ~(≧▽≦*)東静岡です

チケット発売当時は行こうかどうか迷ってやめたけど、やっぱりチラシの「歌手と俳優がその存在意義を賭けて激突! オペラというジャンルが地上に生まれた瞬間の興奮を、いま体験する!」という惹句にノセられて、一週間前にチケット買っちゃったんですう。それに昨年の北とぴあで宮城聡が演出した「病は気から」は面白かったし。
行くならさっさと決めとけって話ですよね(^^ゞ

会場はきれいな中型円形状ホール。新しくてピカピカしている。静岡県、お金持ちなのかしらん。
一階席はほぼ完売。ゲットできたのは二階席だった。ステージの上に三台の巨大な移動式の檻(?)というか天井のついた台車みたいなものが設置されていて、開演前からそのうちの一台の屋根の上でジャージを着た男が、小型のモニターでアクション映画だかドラマを見ている。
やがて医者の一団が現れ、白い布に包まれた何者かを手術したり治療している。一体これは何なのだろうかと思ったが、どうも(後で思いついたのだが)男が見ている医療ドラマを表わしているようだ。
手術が終わって布から現れたのはなぜかサルのぬいぐるみであった。そのサルがオルフェオに変身する。一方、エウリディーチェは男がふくらませたダッチワイフである。つまり、この物語自体がジャージ男の空想ということを意味しているらしい。しかし、サルとダッチワイフって……(@_@;)

弦楽器とリコーダー、パーカッションは三人ずつ台車に乗って演奏を開始。その三台の位置はずれているので、コンミスのキャサリン・マッキントッシュは全員を見ることはできない。
通奏低音、鍵盤はそれとは離れた舞台の端に設置してあり、指揮はチェンバロの戸﨑廣乃担当しているよう。しかし台車との間に役者や歌手が行き来するので、演奏者たちはかなりやりにくいんじゃないかと心配してしまう。

オルフェオが登場してからの舞台の設定は東南アジアの仏教国風(?)である。
実はこの公演の出演者には静岡児童合唱団がクレジットされていて(所属団体の創立70周年記念公演を兼ねている)、一体「オルフェオ」のどこに子どもが登場できるんだろう、ハテ(^^?)と思っていたら、ニンフならぬ森の小妖精として登場したはナルホドと思った。羊飼いは森の中の仏像という趣向。全体的にほのぼのした雰囲気だ。

ただ、前半はそれ以外はオーソドックスな進行で目を引くような演出もなく、そのせいか私の隣のオバサンは爆睡していた。

面白くなったのは忘却の川の前での場面だった。渡し守と番犬を役者たちが演じ、オルフェオに色々と絡む。番犬たちが命じられて次々と出撃するが、彼の歌に撃破されて階段を情けなく転げ落ちていくのには笑ってしまった。
さすがオルフェオの歌の威力 もっとこういう場面があったらよかったのに~。

冥界の王とその妃はジャージ男が操る人形のように登場する。
その後、振り向いてしまってエウリディーチェを再び失った主人公は、なんと迷彩服を着た武装組織に勧誘されてしまう。組織のリーダーがアポロンで、やはりジャージ男が操っている。女たちを恨むオルフェオが竪琴を捨てて機関銃を握るに至るというのは、突飛な展開だが心情的には納得できるような気がした。
しかし、最後に彼を音楽の世界に呼び戻したのは小妖精の子どもたちであった--。

かように、演出には納得できる部分と、何やっているのか意図不明な部分の両方があって見ててかなり混乱した。
折角なんだからもっと役者の芝居との絡みを多くしてもよかったんじゃないかと思う。宮城聡にしてこれだから、やはりオペラの演出は難しいってことかね( -o-) sigh...

タイトルロールを歌ったのは辻康介。さすがこれまでにも何度も歌っているだけあって、磨きがかかって絶品であった。
これまで過去に、怒っているオルフェオ、ゴーマンかましたオルフェオ、途中で服脱いだオルフェオ……と幾つか見たが、今回初めてこの男を哀れに思った。それだけ説得力があったということだろう。こういう風に正式に歌劇の形式の中で聴くとなおさら心情的にしみるものがあった。

それ以外にはテノールの福島康晴という人、最近帰国したばかりだそうだが堂々としていてかつ明晰な歌声がかなりポイント高し。
それからカウンターテナーの太刀川昭は初期のBCJで歌っていて、ずっと海外で活動していると思ってたのだが、やはり帰国していたのね。カウンターテナーで「聞ける」人となると数少ないのでこれからも国内での活躍に期待大である。
その他のソリストには若干2名ばかり残念無念な人もいたようだ(と言ってもあくまでシロートの感想です)。児童合唱団はキチンと清冽な歌声を聞かせてくれた。ラストの手作り段ボール楽器は可愛かったぞ

器楽の方は文句なし。その後も奏者を乗せたまま台車が移動したりして大変だったとは思いますが……。
会場は芝居用のホールだと思うが楽器の音がクリアに聞き取れて良かった。特に、舞台の最前列で演奏してたキタローネ&バロックギターの佐藤亜紀子は、これまでも辻康介のユニットの時と同様、いやそれ以上に雄弁であった。人物の心情にぴったりと寄り添い……聴き入っちゃったですよ
太田光子&浅井愛のリコーダーも牧歌的雰囲気たっぷりだった。

果たして、新幹線に乗って行っただけの価値はあったのか(?_?)……不明。


数年前、劇場に隣接する合同ホールで仕事関係の研修会があって、来たことがあったのだがその時は周囲に何もなかった。しかし、現在は企業のビルやら高層マンションなども建ち、なんとコンビニもできてるではないか(!o!) 驚いた~。

さて、以前何かのコンサートに来てた客で「どうもこの人よく見かけたことあるなあ。でも、ステージ上で見かけたような……(ーー゛)ウーム」という男性がいた。で、その人は静岡のこのコンサートにもやはり来ていたのである。でも「ウムムどこかで見たんだが」とずーっと思い出せず、家に帰りついてからようやく思い出した\(◎o◎)/!
ジョングルール・ボン・ミュジシャンの近藤氏だったのである。いやー、バグパイプ持ってなくてフツーの服装してると全く気づかんですよ(^◇^;ナハハ


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2013年9月18日 (水)

「サウンド・オブ・ノイズ」:音まで愛して

監督:オーラ・シモンソン、ヨハンネス・ファーネ・ニルソン
出演:ベンクト・ニルソン
スウェーデン・フランス2010年

史上初音楽犯罪コメディである。
高名な音楽一家に生まれながら(名前がよりによって「アマデウス」)、音痴でおまけに音楽嫌いな刑事が謎の犯罪集団の存在をかぎつける。
それは病院、銀行……突拍子もない場所に侵入しては突然、あらゆるものを楽器にして演奏してしまう六人組の一団なのであった。

元々は音楽パフォーマンスの部分だけを撮った短編とのこと。それが好評だったので、十年後に長編映画に昇格したらしい。
ただ、そうしてストーリー上にパフォーマンスを乗せてしまうと色々と不整合な部分が続出してしまうのは仕方がない。一体六人はそんな演奏で何をしようというのか? 聴衆がいるわけでもなし、ネットで生中継するわけでもなし。演奏すること自体に意味があるというのか。パフォーマンス自体やドラム合戦はとても面白いんだけど……。

刑事の特殊な境遇もあまり生かされていないように思えた。むしろ逆に、彼らの演奏を聴いてもなんとも思わない人間という風に設定した方がよかったのではないの(^^?)

まあ、ジャンルを問わず音楽愛好者なら見ても損はしないだろう。ただしハイドンのファンは怒り出すかも知れないので避けた方がいいかも


音楽度:9点
ハイドン度:2点

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2013年9月15日 (日)

「フルート・デュオの世界」:師弟壇差共演

130915
フルートの肖像 9
演奏:バルトルド・クイケン&前田りり子
会場:近江楽堂
2013年9月7日

チケットは即購入した。師弟共演にして、バルトルド・クイケンを近江楽堂(最大収容人数120人ぐらい?)で間近に聞けるなんてことはこの先ないだろうからだ。
私は夜の回の方に行った。

行った人は誰でもみんなそうだったと思うが、会場に足を踏み入れてビックリ(!o!) 真ん中にステージ台が置いてあって、その四方を囲むように客席の椅子が並べてあったからだ。
これまで三方を囲むというのはあったが、「完全包囲」は初めて。これも空調設備を直したたまものだろうか。以前のままだったら、真上から吹き付ける風が演奏者の脳天を直撃しかねない。

入場してきた客は楽譜台の置いてある方向から、前方となる方を推測して座っていった。当然後方の席は最後になってようやく埋まった(一応、完売)。だが、これが早とちりだったのは後で判明したのである。

演奏中は、バルトルドの足は怪我のせいで台の上に椅子を置いて座って吹いた。さらに身長差があるということでりり子女史はその脇の床に立った。しかも、一曲演奏することに向きを順番に変えて、全方向の聴衆にサービスしたのである! これには会場爆笑であった。

曲目は前半はオトテール、クープランのフランスものの二重奏、そしてバッハの無伴奏とである。
フランスものは抑制のきいた優雅な、まさに対話といった印象だ。バッハ独奏についてはプログラムにその曲名を見た瞬間に「もしかしてこれを演奏するのは!?(@∀@)」と期待するのが当然であろう。すると、それを見透かしたようにりり子女史が登場して「バルトルド先生のバッハが聞けると思った人、ごめんなさいm(__)m」と言ったのに笑ってしまった。

しかし独奏を開始するとそれまでの雰囲気とは一転、何やらキリキリと鬼気迫るものが彼女の背中から立ち上るのが感じられた(ちょうどこの時斜め後ろ方向の座席だったんで背中が見えたのである)。

休憩後のテレマン二重奏は打って変わって伸びやかな流れのようだった。草原を吹き抜ける二陣の風を連想した。
今度こそはのバルトルド独奏は、エマヌエル(息子)バッハのソナタだった。りり子女史の多分に緊張感を含んだ演奏とは異なり、ドッシリと落ち着いた趣きあり。
ステージの四方に客席を配置すると、向かい合う客席がよく見えて--時に見え過ぎて、目が合ったりして(^_^;) そういうことがあるのだが、この時にはちょうど私が座っている反対側の客席へ向いて演奏していた。見ているとそちら側の客の集中度がさすがにすごい 一様に食い入るような目つきでバルトルドを聴いているのであった。
一方、私のいる側は音的にも直接のインパクトがなくてちょっと残念無念であった。

ラストのフリーデマン(息子)バッハのソナタとなると、もはや二人の対話というのではなく剣戟の稽古のようだ。丁々発止で絡み合うという緊迫感あるものだった。

例によってりり子トークは怒涛の勢いで快調 バルドルドの生徒だったころの話も楽しかった。
またお願いしまーすと言いたいところだが、福岡の音楽祭も今年で終了とのことでは、彼らの来日の機会も減っちゃうかね(・へ・)


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2013年9月14日 (土)

「ひろしま 石内都・遺されたものたち」:失われた人々

130914
監督:リンダ・ホーグランド
日本・米国2013年

石内都の『ひろしま』は写真集で見た。原爆で亡くなった人々の遺品を撮った作品集である。被曝した時に来ていた身に付けていた服や所持品もあれば、後から遺族が遺品を寄贈したものもある。
この映画はその写真展をカナダの博物館で行うことになり、準備をする石内の姿や展覧会に来た人々の感想を収めたドキュメンタリーである。

見に来た人はカナダ人だけでなく、他国の観光客もいる。修学旅行中の日本の高校生も偶然に来ていた。日系人で実際に被曝した人も地元に住んでいる。みな様々な感想を語る。

良作ではあるが、写真自体のインパクトを超えるものは感じられなかったように思う。これでは「紹介」の域を出ないような--。折角ドキュメンタリー映画を作るんならもっと鋭く迫るものが欲しい。これでは写真集見てた方がいいことになってしまう。

前半に会場となった博物館が紹介されていた。先住民の巨大なトーテムを収めるために、天井をわざと高く作ったそうである。
そのトーテムの一番上はワタリガラスの頭部で、なんとクチバシに太陽をくわえているのだという。しかもワタリガラスは神ではなくトリックスターなんだとか。面白い 民族の想像力に感心してしまった。


写真度:8点
ドキュメンタリー映画度:6点


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2013年9月 8日 (日)

「処女の泉」:笑う神あれば黙る神あり

130830
ベルイマン祭り第二弾はこれまた名作として名高い『処女の泉』である。
クレジットに13世紀の写本がどうのこうのという記載(英語じゃないんで推測)が出て来て、当時の伝承を元にしている物語らしい。

豊かな農家の夫婦は敬虔なキリスト教信者であり、一人娘を蝶よ花よと溺愛している。一方、下働きの若い女は自らの境遇と比べて娘を妬み、神オーディンに彼女の不幸を願う。純粋無垢で屈託のない娘は女から見ればまさにムカつく(-"-)存在である。

二人が教会へ奉納に行く途中で出会う、カラスを連れた隻眼の小汚い老人は(トレードマークの髭はないが)オーディンその人に間違いないだろう。
そして女の願いはかなった! 娘は襲われ惨たらしく殺されたのだ。

後半は父親が、犯人の男たちに復讐する経緯が中心となる。
娘が暴行される場面は妙に生々しくてドキドキしたが(公開当時はカットされたとか)、父親の怒りの描写もまた容赦のない激しさである。近代的理性の及ぶはずもないその激しい情動こそが、まさにファンタジーの本質であると私には思えた。

ラストの「奇跡」は信仰にこだわり続けたという監督らしい結末であるが、この伝説のそもそもの成立はキリスト教伝播以前ではないだろうか? とすれば、神の許しの件りは後から付け加えられたものになる。
そんな妄想に陥るほどにこの物語には土着性が感じられるのだ。

かつて『エルフギフト』(スーザン・プライス著)というファンタジーを読んだことがあったのを思い出した。あの小説がこの映画の影響を受けて書かれたのだと今回見て初めて分かった。
そこでは北欧神話の神オーディンは至る所に出没しては人間の願いをかなえるが、その後で哄笑しつつもっと大きな代償を奪い取るのである。一方、キリスト教の神は一貫して沈黙し続け、信徒たちがいかに祈ろうとも何もかなえることはない(ように見える)のだった。
この物語では、終盤に登場人物の一人が報復の殺戮をやめる。かわりに、神の許しも奇跡も起こらない。

「見える神」の希求から「見えない神」の受容へと、この変化こそが近代への道程なのだろうか?
……などとまた色々考えてしまったのであったよ。


中世度:9点
近代度:3点

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2013年9月 7日 (土)

「福田美蘭展」:踏めば踏むほどよく分かる

130907
会場:東京都美術館
2013年7月23日~9月29日

これぞ「変な絵」である。変な絵がいっぱい見れて嬉しい~
バカバカしいのから真面目なの(こちらは震災がらみの)まで色々とあってバラエティに飛んでいて楽しい
というか、無節操、でたらめ、ハチャメチャ……(・・;)

G・リヒター風(?)に写真をそのまま絵画に--はいいけれど、なぜか手ブレのピンボケ写真を堂々と巨大作品に。何を考えている?
渋谷や新宿で見かけた落書きを表装して掛け軸にしたり、サブリミナルよろしく企業のロゴが各所に潜んでいる銭湯の風景画があったり。
昔の宗教画の手法にのっとって9.11の際に描いた絵画は、ブッシュにキリストが無用な戦争をやめるように説教している。
冷蔵庫の内部に描かれた絵は、客がいちいち扉を開けて覗いて鑑賞する。
床に置いてあって上を歩ける絵画もある。踏んづけながら見たら、身に染みてよーく鑑賞できた気分になったぞ\(^o^)/ヤッタネ
F・ベーコンの手法で描かれた風神雷神は、これぞ正しいベーコン流のダイナミズムだろう。

破壊してるんだか創造してるんだか訳分からないが、とにかくバカバカしいパワーと茶目っ気にあふれている。しかし、客の数は少なくしかも年齢高めだ。なぜに?
やはり、六本木じゃないと若い人は来ないのかのう。
それと、外人さんの家族連れが来ていたが、キャプションなしだと分かりにくい作品も多いので、英訳も付けてあればいいと思った。


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2013年9月 1日 (日)

「25年目の弦楽四重奏」:めぐるよめぐる片思いの輪

130901
監督:ヤーロン・ジルバーマン
出演:フィリップ・シーモア・ホフマン
米国2012年

私の守備範囲はもっぱら古典派より以前の音楽なので、正統的な弦楽四重奏はほとんど聞いたことがない。なので、この分野には全くの無知な者の感想である。
25年間続いた四重奏団がベートーヴェンの難曲の演奏会を前にして、解散の危機に陥るというのが発端である。突然、リーダー格で一人だけ年長のチェリスト(C・ウォーケン)が病にかかったために脱退すると宣言したのだ。
それをきっかけに元々あったトラブルやらいさかいの種が噴出する。

メンバーの内、二人は夫婦であり、その仲にもひびが入る。他にもオレは第二ヴァイオリンばかりじゃなくてこの際、第一もやりたい!とか。これで解散だ、いや別のチェロを入れて存続だとか、収拾がつかなくなる。しまいには、殴り合いまで勃発である。

こうなると、ロックバンドの解散・脱退騒動と大して変わりはないではないか。まあ同じ人間がやってることだから、そんなに違いはないってことかね。
それを考えると、紆余曲折あれど50周年のストーンズはすごい\(◎o◎)/! ZZトップは40周年で三人のメンバーは不動だ。

同じグループ内の夫婦や兄弟のような身内がいるのも問題である。縁の切れ目がグループの分かれ目となる。夫婦ならいざとなれば別れればいいが、兄弟姉妹となると泥沼に揃ってブクブク……

この映画の大きな売りの一つはそうそうたる面子が演奏家たちを演じていることだろう。ウォーケンの他に、フィリップ・シーモア・ホフマン、キャサリン・キーナーと名優揃い。一人マーク・イヴァニールという人は知らなかったが、気難しい孤独な芸術家をうまく演じている。それぞれ演奏場面も立派なもんである。もっとも、実際に楽器をやっている人が見たらどう思うかは分かりませんが。
娘役のイモージェン・プーツはいかにもオヤヂが鼻の下を長くしそうな美人の娘っこを演じて、役者の平均年齢を下げるのに貢献している。

C・ウォーケンはつくづく歳を取ったなあ、なんて思って見てしまった。だが、よくよく考えたらあの「年寄り」感は演技のたまものではないのかっ それを考えるとさすが名優だとますます感心だ。

このように材料は極上品を揃えたのに、料理法の方は平凡である。キーナー扮する母親が腹を立てて娘をひっぱたく場面は定型通りで、見た瞬間「ひっぱたくぞやっぱりひっぱたいたか」としか思えなかった(^o^;) チェリストが亡き妻を回想する時に、映像として実物を出すのはベタ過ぎである。
演出面をもう少し何とかしてほしかった。

一貫してニューヨークの街が舞台となっているが、アクション映画やTVドラマに登場するようなゴタゴタした場所とは全く異なる、落ち着いた印象の街並みばかり登場する。もっとも、東京だってピンからキリまで色々だから驚くことではないかね。

四重奏団の名前は「フーガ」というらしいのだが、これはメンバーが片思いの連鎖をしているということを示しているのだろう。とすれば、その先頭は誰なのか。


音楽内幕度:8点
恋愛内幕度:5点

【関連リンク】
《やくぺん先生うわの空》

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