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2014年3月23日 (日)

「さよなら、アドルフ」:明け方のミルクはなに色?

140323
監督:ケイト・ショートランド
出演:ザスキア・ローゼンダール
オーストラリア・ドイツ・イギリス2012年

これもまた予告と、実際に見た印象が甚だしく違っている映画である。まあ、暗い内容だったり娯楽の要素が少ないものは、そのまま宣伝したら客が来ないかも、ってのはあるだろうけどねえ(ーー;)

予告や広告だと、ドイツが戦争に負けてナチスの幹部だった両親が逮捕。残された子供たちが遠方の親戚の家を目指して歩き続けるうちに、途中でユダヤ人の若者に助けられ自らの偏見を正していく愛と感動のロードムーヴィー、という印象だったのであるが……。

そんな生易しいものではなかったのだよ(>O<)ギャ~ッ

ヒロインは14歳、小さい赤ん坊を含めて他にきょうだい4人がいる。子どもたちだけになって、隠れ潜んでいた田舎家を金の切れ目が縁の切れ目と追い出され、徒歩で遠方の祖母の家を目指す。それまで両親のもとで不自由なく暮らしていた子どもたちにとって過酷な旅である。

その過程で彼女は様々なものを目撃する。
道端に貼り出された新聞でユダヤ人収容所の実態を初めて知って衝撃を受け、さらに自分の父親が直接かかわっているのではないかと恐れる。
一方で、出会う大人たちは旧体制を未だ指示しているようだ。町の人々からは「ヒトラーが生きていたらこんなことにはならなかったのに」という会話が漏れる。
一見親切な老婦人は、現実を受け入れられず(受け入れたら自殺するしかない)狂気に至り、配給を受けるのに有利だから赤ん坊をよこせと迫る。

彼女たちを助けたユダヤ人の青年についても、なぜそうするのかその行動は謎である。信じられるのかどうか(?_?;
米軍の兵士たちは単に旅を邪魔する者でしかない。

その道行きは死と腐敗、恐怖と不信に満ちている。それは外界の光景ではあるが、同時に彼女の内面でもある。それまで信じていたものが崩壊したのだ。

終盤で平安を得た時、数歳年下の妹は全ては過ぎ去ったかのように振る舞う。しかし、ヒロインは妹のように以前には戻れない。崩壊したはずの価値観を変わらずに支持する人々がいることに耐えられない。このままでは生き難い世界である。

この結末に至ってこれは過去の「反省」映画ではなく、現在をも指弾した作品だと分かるのである。そこには感動もカタルシスも存在しない。
見ている間も見終わった後も重苦しく居心地悪くて、私は銀座シネスイッチの階段でパッタリと倒れ伏す思いだった。その気分を何と表現したらいいのだろう。
「晦渋」でもなし、「陰鬱」でもなし……(-"-)

そう、それはまさしくP・ツェランの詩に描かれた「明け方の黒いミルク」がふさわしいように思えた。少女の内面に起こる怒りとも苦痛とも言えない感情は、それを飲む時のものと似ているだろうかと想像するのだ。

ただ、問題なのは見ていて面白く(「楽しく」じゃないよ)ないことなんだよねえ。なんだか苦行に近い。
アップで手ブレするカメラでただでさえ疲れるし、変なアングルの映像も私にはとても「映像美」とは評価できず、長くて退屈に感じた。
ヒロイン役のザスキア・ローゼンダールにはご苦労さん賞をあげたい。
それと、青年が彼らを助けたのは理由不明なまま、ということでいいのかね?


暗黒度:9点
娯楽度:0点

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