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2014年6月

2014年6月29日 (日)

「ある過去の行方」:人生、表あり裏あり

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監督:アスガー・ファルハディ
出演:ベレニス・ベジョ、タハール・ラヒム
フランス・イタリア2013年

今や「次作が最も気になる監督」の一人として注目のファルハディの新作は、故国を離れたフランスを舞台にしている。やはり複雑な思惑を抱えた男女の物語だ。
セリフだけでその複雑な設定を分からせる手腕はお見事。もっとも、それだけにボーッとして見ていると何がなんだか分からなくなる危険性もありだ。

「表」の物語をたどれば、こうだ。ヒロインのマリーは若い頃に結婚した前夫との間に二人の娘がいて、今はイラン人の夫サミールと別居状態である。彼女が現在付き合っている恋人と結婚するために、サミールが離婚届にサインしにイランから戻ってくる。
しかし、恋人の男には実は妻がいることか判明する。

相手を次々と変え、子どもの反対を押し切って男と再婚を図り、さらに男の妻の自殺に関わっているか疑わしいマリーは計算高いイヤな女に思える。
しかも、彼女の娘たちはサミールの方を慕っているのだ。ただし、恋人の息子はマリーになついているようである。

しかし、そのままマリーを悪女として受け取ってよいものだろうか? すべての出来事には裏があるようにも見える。見た通りのものは何一つない。
恋人の男と入院中の妻は以前から関係が悪化していた? 果たしてメールを妻は読んだのか読んでないのか。マリーはまだサミールに気があるのか。
長女が頑固に再婚に反対するのは男が手を出したのではないか? サミール(と観客)はそれを一番に想像して遠回しに彼女に尋ねるのだが、キッパリと否定する。しかし、男との二人きりの場面では彼の態度は限りなく怪しい。そもそも妻とマリーと長女はかなり似ているのだが。
語られてないことは山ほどあるようだ。

ファルハディ監督の作品は前々作前作と描かれる関係はますます複雑になり、それだけ晦渋さも増しているようだ。見ているとくたびれてくる感がある。
劇伴音楽もないし、このまま行くとM・ハネケの域に近くなりそうだがあのイヤミさはない。相変わらず子供の描き方はうまい。

この監督のさかしげな部分を嫌う人も多いようである。まあそれは好みとしか言いようがないだろう。
新聞に載ってたインタビューによると、またイランに戻って映画を撮るそうだ。『別離』は一時製作許可を取り消されたりしたが、アカデミー賞を受賞したら政府は態度を180度変えたという。どこの国もお上ってのは同じですな(^・^)

ベレニス・ベジョはカンヌで女優賞を晴れて受賞。イライラした葛藤を常に抱える女を好演しております。長女役のポリーヌ・ビュルレは超美少女。これからが楽しみでやんす。


表度:6点
裏度:9点


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2014年6月28日 (土)

「幸福はぼくを見つけてくれるかな?」、舟越保武「長崎26殉教者 未発表デッサン」

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会場:東京オペラシティ アートギャラリー
2014年4月19日~6月29日

本展の「幸福はぼくを見つけてくれるかな?」というより、特別展示の舟越保武「長崎26殉教者 未発表デッサン」の方を目当てに行った。

こういう映像作品中心の展覧会はなんだかなあという気分にいつもなってしまう。「映画」に比べて観覧者の時間を占有するという意識に欠けていると思ってしまうのだ。
M・ハネケもどきのエピソードを繰り返す「コンティニュイティ」というのが見てて面白かったが、40分ループの作品なのに、10人弱ぐらいしか椅子がない。多くの人が立ったままみていた。まあ床に座ればいいって話だが。
ケータイで母親と会話している男の作品は、正直「バカにしてんのか」と言いたくなってしまった

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舟越保武の作品は近江楽堂にも置いてあるが、私は「舟越桂の父親」として初めて知った。
架刑にされたキリシタンたちの外見についての記録は全く残ってないそうだが、年齢やわずかに残る文書から想像して作って行ったらしい。その作り上げる過程が約100枚デッサンからうかがえる。
ただ、元の26殉教者記念像を知らないので隔靴掻痒の気分あり。
また、ほとんどの人物のまっすぐな眼差しは、後ろめたい気分を抱える人間にはまぶし過ぎて身の置き所がなくなるのであった。
幼くして亡くなったという長男が棺に入っているパステル画もあった。悲愁あふれる作品であり、同時に(皮肉にも)会場で唯一色彩のある作品でもある。

デッサンとは別にイエスやマグダラのマリアの頭部像が、なんだかルオーの宗教画をそのまま彫刻にしたような荒削りさで新鮮だった。

若手シリーズの三井淑香は、南米の革命壁画みたいな筆致とスケールで少女の夢と妄想を描いていて、これも変で面白い。

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「パーセル 3 その音楽と生涯」:天才の聖と俗

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会場:近江楽堂
2014年6月15日

日本ルネサンス音楽普及協会主催のパーセル作品のコンサート、過去に「1」は行ったのだが、「2」は行き損ねていた。
今回の「3」は今谷和徳の簡単な解説が入り、声楽を中心の構成だった。リコーダー古橋潤一、ヴァイオリン出口実祈、チェロ西沢央子、オルガン能登伊津子は脇から支え、ソプラノの名倉亜矢子や青学の卒業生&学生の合唱団(10人くらい)の方が主役っぽかった。

合唱は宗教曲担当、名倉女史はセミ・オペラなどの世俗曲を歌った。
近江楽堂は狭いうえに響きがただでさえいいのに、合唱となると響き過ぎて頭にガンガンと来た。もう少し会場の規模を考えて歌ってもらいたいものでやんす。
名倉女史は当時のドレスっぽい衣装で登場、パーセルにふさわしい透明な歌声を聞かせてくれたが、中世ものをやってる時の溌剌さがなくて、今イチ真面目で面白みに欠けてしまうのは残念であった。

パーセルは60曲ほどの器楽曲を残したそうだが、「4声のソナタ」から一曲演奏された。普段、弦ばかり録音で聞いているのでリコーダーが入るとまた違った印象である。

最後は全員参加で「妖精の女王」より「今や夜が追い払われて」を。まことにラストにピッタリのメデタイ曲でおしまいとなった。


早目に終わったので、ついでにお隣のアートギャラリーへ、「幸福はぼくを見つけてくれるかな?」展というより、特別展示の舟越保武「長崎26殉教者 未発表デッサン」目的に行った。


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2014年6月22日 (日)

結城座「岡本綺堂 半七捕物帳異聞」:兄帰る

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結城座380周年記念公演
脚本・演出:加納幸和
会場:東京芸術劇場シアターウエスト
2014年6月5日~9日

実は直前までこの芝居があるとは知らず、新聞の取材記事を読んであわててチケットを買ったのだった(^^ゞ

岡本綺堂は人形芝居の結城座と交流があり観劇評なども書いていたとのこと。また「半七捕物帳」シリーズの中に、結城座を舞台にしたとおぼしき事件の作品があるそうだ。
それを元に花組芝居の加納幸和が脚本と演出を担当したのが、この芝居である。なんと加納氏が最初から他劇団のために描き下ろしをしたのは初めてだという。そうだったのかとビックリだ。

話の始まりは明治の世、新世代の新聞記者の若造に隠居生活の半七(花組の小林大介)が手柄話を聞かせるという次第。そこから、過去に起こった人形芝居一座の若い異母兄弟の跡目相続がらみの殺人事件へとつながる。

ここで注目なのは、孫三郎と25年ぶりに戻ってきて共演する実兄田中淳がこの兄弟を演じるということである。
正直言って、私などは孫三郎氏に兄がいたとは知らなかった(!o!) 結城座を見始めたのがその後の時期だからだろう。
この二人が人形を操りながら兄弟喧嘩して、しまいには取っ組み合いまでするのだ。これは加納氏は分かってて書いたんだろうから、相当なもんである いや、面白かったですけどね(^v^;

兄弟共演に加えて、古典作品の演目の一部も劇中劇として挿入され、お得感が倍増である。
謎解き自体は大層なものではないが、怪談仕立ての場面などもあり、久しぶりに「面白かった\(^o^)/」感でいっぱいになった。

私が見た回は孫三郎&加納のアフタートークがあった。「380周年」に孫三郎氏がこだわっているのが印象的だった。そう言わずに「390年」「400年」に向けて頑張って下せえ

宣伝のチラシの彼の文章にこう書いてある。「その間、兄と袂を分かち、父・雪斎と母・素京が鬼籍に入り、弟・一糸も離れ、つらいことばかり続きました」
その一糸氏は自分の人形芝居を、隣の会場シアターイーストで直前まで期間を入れ違うようにやっていたのだから、やはり兄弟には色々あるようだ。

次回の記念公演は渡辺えりの『オールドリフレイン』とのこと。見に行くぞ~。


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2014年6月21日 (土)

「レイルウェイ 運命の旅路」:恩讐と鉄路の彼方に

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監督:ジョナサン・テプリツキー
出演:コリン・ファース
オーストラリア・イギリス2013年

この映画、チラシを見た瞬間に「あーっ、これ永瀬隆の話だ」と気付いた。彼については岩波ブックレットの『「戦場にかける橋」の嘘と真実』と、あまりに昔過ぎて書名も覚えていない著作を読み、亡くなる数年前に作られた30分のTVドキュメンタリーを見たことがある。

これは、彼が第二次大戦中、憲兵隊に所属しタイの日本軍の捕虜収容所で通訳をしていた時、逆の立場の捕虜だった元英国兵の自叙伝から映画化したものだ。

主人公のローマクスは元々鉄道マニアで、戦争後も鉄道技師として働いていた。しかしPTSDのため数十年経っても捕虜時代に受けた強制労働や拷問の悪夢に悩まされている。元上官から憲兵隊の通訳だったナガセが戦犯にもならずタイにいることを知り、決着をつけようとタイに向かう。

ここでは主人公が責任を問うているのは日本軍や国ではないようだ。自分に向かって「生きて虜囚の辱めを受けず」などと言っていた男が、敗戦後ものうのうと平和に生きているのが許せなかったのだろう。
これは国家同士が和解したとか、あるいは拷問ではなく諜報活動に対する尋問だとか、強制労働は違法ではないとか、通訳は言われたことを伝えただけだ--というような「論理」の問題ではない。被害者の「感情」はそのようなものでは解消できないのだ。
ナガセが過去の事件を「悲劇」と称するのは彼にとって噴飯ものである。主人公にとっては「犯罪」なのだから。

当地の戦争博物館でナガセを捕まえ、かつての立場を逆転して加害者の行為を反復した時、主人公は初めて悪夢から立ち直ることができた。この時、期せずして「修復的正義」の形を取ったといっていいのかもしれない。だから両者は「この日のために生きてきた」と言ったのだ。
それが不可能だった場合の姿を、S・スカルスガルド扮する上官の行く末に見ることができよう。

原作を読んでいないので両者の和解が何年に起こったのかは不明だが、「40年以上経って」と映画のサイトにあるから、1986年に出版された『「戦場にかける橋」の嘘と真実』よりも後だろうと推測される。ということは永瀬隆の捕虜との和解運動が既にある程度成果を収めていた時期だ。
このブックレットにはこの件についてこう書かれている。

その捕虜は一見よわよわしそうに見え、やさしそうな性格だったが、いざとなると、頑強に否認した。(中略)憲兵は、杖でなぐることもあった。
(中略)そしてその結果が、お決まりの水責めの拷問となる。

「マザー、マザー」と泣き叫ぶ彼を前にして、私も「お母さん、あなたの息子はいま、何をしているか知っているか」と心の中で呟いていた。

映画の場面がまざまざと思い浮かぶようである。もっとも、ナガセの側が何を考えていたのかは映画では分からない。そこでは日本人は徹底した他者として描かれて内実は不明だからだ。

冒頭の方で、捕虜たちを貨物車に大勢閉じ込めて水も与えず運んだ場面が出てくる。そして、見かねた現地の住民が水を与えようすると日本の兵士が殴る蹴るして妨害する。
これは見る者にナチスのユダヤ人移送を連想させる場面だった。かつてイタリアのユダヤ人を強制収容所に運ぶ際に同じようなことがあったと本で読んだことがある。
この二つが同一視されているというのは、日本にとっては相当まずいことだろう。

映画の冒頭は妻(ニコール・キッドマン)との出会いの場面が長くてどうなることかと思ったが、その後が悲惨な展開なので、結構あの純愛部分が救いになるのだった。そのせいか公開時の宣伝は夫婦愛を中心にしていたようだが、それを期待していくと「騙された~」となるだろう。
その二人がいる海辺の風景や緑豊かなスコットランド、タイの風景が美しく撮られている。

実物の年齢を考えると主役のコリン・ファースはなんとか老け演技でまだしも、ナガセ役の真田広之は若過ぎ。外見も似てません\(◎o◎)/!
N・キッドマンはもういい歳のはずなのにシワもなくてキレイ「よっぽどお金かけてるのかしらん」なんて思ってしまった(^o^;) それと美人の女優さんが着るとシンプルな無地のカーディガンも素敵に見えるから不思議。でもシンプルとはいえ、カシミア製の高そうなヤツみたいだったけど。
宣伝されてなかったが、S・スカルスガルドもかなり重要な役どころだった。

暴力の被害者の回復などに興味がある人はオススメだが、日本人としては見たくないことのオンパレードの内容なので(拷問場面もギャーッ(>O<)だ)、「日本は美しい一流国」と思うような人は最初から見ない方が吉であろう。


被害者度:8点
戦勝国度:3点


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2014年6月15日 (日)

バッハ・コレギウム・ジャパン第108回定期演奏会:所沢のツケを初台で払う

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会場:東京オペラシティ コンサートホール
2014年6月1日

期せずしてラ・プティット・バンドの所沢公演と連チャンになってしまったBCJ定期。前日ほどではなかったがこの日も暑くてグロッキー気味であった。

前菜(?)のオルガン演奏は息子ではなく鈴木雅昭御大が担当であった。
カンタータでもチェンバロを担当しつつ弾き振りしていた。(息子)優人氏はポジティフ・オルガンを。さらにチェロは武澤秀平で、(弟)秀美氏の姿はなし。分離独立があったのか、新体制でこのまま行くのか、などなど疑問を残しつつ演奏は進んでいくのであったよ。

今回は今の季節と教会暦を合わせて三位一体節のカンタータを三曲である。二つのオルガン曲に続きBWV20、30番と演奏された。
……のであるが(ーー;)
正直に告白すれば、グロッキーのまま完全に沈没してしまいほとんど覚えていないのであった
なんたることか。バッハ先生許して

これではイカン(> <)と、休憩時に地下のイタリアン・カフェへ直行。エスプレッソをキューッと一杯あおると

効く~~~っ\(◎o◎)/!

さすが本場モンのカフェインは違う(意味不明)。
そして、私は再び後半の大曲75番へと向かったのであったよ。

75番はバッハ先生ライプツィヒ時代最初のカンタータということで、二部編成の長めの曲である。
5曲目、ソプラノのアリアは、三宮氏のオーボエ・ダモーレと組んだ松井亜季の見せ場ならぬ聞かせ場で、技巧にうるさい方々も満足させそうな出来だった。これであともう少し線が細い印象を払拭すれば言うことなしだろう。

12曲目のアリア、バス独唱はこの日歌手では唯一の外人部隊だったドミニク・ベルナーが歌った。この曲では器楽陣でやはり単独外人部隊のトランペットのギィ・フェルベが絡んで、堂々として心に響く力を感じさせた。
綿との席からはよく見えなかったが、トランペットは穴あきだったのか? やはり安定した音で聞きやすかったですのう(^_^;)

プログラムの訳詞の活字だけが大きくてちょっとビックリ。前からこんなだったっけ? 聴衆の老眼対策かねえ


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2014年6月14日 (土)

「チスル」:虐殺のマジックリアリズム

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監督:オ・ミョル
出演:ヤン・ジョンウォン
韓国2013年

韓国・済州島で実際に起こり、長い間タブー視されていた虐殺事件を題材に当地出身の若手監督が映画化したものである。
1948年、南北分断後に南だけで選挙を行なおうとするのに島民が反対したのが発端とのこと。実態がどうかには関係なく、島民はみな共産主義者であるとして処刑しまくったとのことである。

と書くとバリバリの告発調社会派映画のように思えるが、実際に見た印象は全く違った。
何やら切迫感にかけたのんびりとした調子で島民たちの会話が続くかと思えば、冒頭、雪の中で裸で立たされている兵士が登場する政府軍内部の描写はあまりに不条理すぎて乾いた笑いさえわいてくる。

その乾いた不条理はワン・ビンの「無言歌」を思い起こさせる。影響受けているんじゃないかと思ったほど。しかし、やや大げさな音楽が付いているのがワン・ビン作品と大きく異なる点だ。

気が弱い兵士、良心ある兵士は過酷な目にあう。日本兵が来た時も生き延びたという島民は数年後に同胞に殺される。なんという悲劇--いやこれも不条理であろうか。
一方で洞窟に逃げ込んだ人々の様子は牧歌的なほどにのどかでもある。

延々と繰り返すような描写はマジック・リアリズムの様相を帯び、最後には暴力と残虐は幻想へと回収されていく。
確かにこのようにしか描きようがなかったかも知れない。2時間弱の上映時間が脳ミソがしびれるようで、あまり時間感覚がなくなってしまった。

島民の役は実際の現地のシロートの人を使っているとのこと。誰が誰だか名前が全く覚えられなかった(^^;)

最後に太った兵士が、別の兵士を釜に入れてたのは何故?


不条理度:9点
告発度:4点


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2014年6月 9日 (月)

ラ・プティット・バンド:所沢より後悔をこめて

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会場:所沢市民センターミューズ アークホール
2014年5月31日

以前、小劇場通いをしていた頃から間違いはよくあった。違う劇場に行ってしまった、日時を間違えた、一週間ずれて行った、チケットを間違えて持ってった……などなど枚挙のいとまなしである。

しかしこんな失態は初めてである。

コンサートがあるのを完全に忘れていた(!o!)

気付いたのは、当日サービス残業して家に10時近くに戻ってきてからだ。
トホホホホ _| ̄|○
大手町に新しくできたホールでやるってんで、半年も前にチケットを取って楽しみにしてた(^^♪ 佐藤豊彦のリュート独奏会と重なったのもガマンしたのに……

それで仕方なく所沢ミューズでの公演のチケットを二日前に買っていくことにしたのだ。ただ問題はこの会場は デカイ んだよね。
収容人数が2千人とあるから、オペラシティよりも大きいことになる。これでは古楽の小規模アンサンブルなんてロクに聞こえないだろう。これまでここで聞いたことあるのはパイプオルガンやヘレヴェッヘのロ短調ミサ(人数は多い)ぐらいである。

しかし、自分がドジだから仕方ないのであるよ(+_+)ショボ

加えてこの日は日本全国もれなく超が付くくらいの暑い日だった。道路からはブワ~ッと熱気が立ち上り、ご近所の交差点では高齢の奥さんが倒れそうになってた。
もっとも所沢の航空公園駅周辺は街路樹が多いし道路が広いから、まだマシだったかも。

プログラムはバッハの管弦楽組曲全曲にブランデンブルクの5番を挟むというものだ。
音はやはり遠かった。真ん中あたりの座席だったが、なんだか遠くに揺らいでる蜃気楼を眺めて、実体を推し測るみたいな……(ーー;)
LFJの時のよみうりホールは残響がほとんどなかったが、こちらは響きが豊かなだけに逆にボヤッとして輪郭のない音に聞こえてしまう。
バスーンは音が本来なら団子状に聞こえなきゃいけないはずなのに、ただ棒状にまっすぐ流れていくのみであった。

低音楽器はチェロやコントラバスがなくて、バス・ド・ヴィオロンという(ガンバ系?)楽器を使っていた。しかも二人奏者が登場したけど両者の楽器が微妙に形状が違うという謎である。

ブランデンブルク5番ではシギスヴァルトがスパラで通奏低音に加わった。この時のヴァイオリンのソロは娘のサラで、彼女は昔に初めて見た時はなんだか自信なさげな印象だったが、今はすっかり貫禄が付いて「とーさん、あんたはもうスパラ専門になっちゃって戻って来なくていいわよ」と言わんばかりであった(^O^)
もっとも、この曲目での主役は華麗なる鍵盤さばきを聞かせた天才と呼ばれる若手パンジャマン・アラールだったに間違いない。

組曲中最も一般に知られる3番のアリアは、さすが元祖ギコギコ音のヴァイオリン弾きシギスだけあって、よくある美しく優美で下手すると葬式のBGMに使われそうな演奏とは全く異なっていた。他の弦とのアンサンブルを重視しながら、ゴツゴツとやや無骨な趣のアリアであったよ。

ラストはバルトルド以外の奏者が揃って4番。トランペットはBCJでお馴染みのマドゥフ組で最後を盛り上げたのだった。

他の日の公演ではバルトルドが出を間違えたとか、シギスの弦が切れたとか(以前の公演でもありましたな)ハプニングがあったそうだが、この日は何もなく終了した。
やはり大手町で聞きたかったですよ(T_T)
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←ゲットしたトトロあんぱん

さて、最近ツイッターで古楽談義を見かけた。「古楽は所詮二流」「下手でまともには相手にされない演奏家が古楽やってる」みたいな意見--ハテ(^^?)どこかで見たような。なんか昔、2ちゃんねるの古楽スレでも同じような書き込みがあったなあ。もしかして、同じ人が投稿してるのかしらん
まあ、かくいう私も言ってることはパソ通時代から全く変わってないわな(^^ゞ

そういう時に必ずやり玉に挙げられていたのがシギスである。「下手くそ」「一緒にやってる寺神戸さんや赤津さんがかわいそう」とかさんざん言われていたものだ。ここ数年は見かけなくなったが、私の知らない所でやってるのかね。

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2014年6月 8日 (日)

「近江楽堂のチェンバロ」:フランス宮廷からなぜか父子対決へ

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演奏:大塚直哉
会場:近江楽堂
2014年5月23日

大塚直哉は「クラヴィーアの旅」と銘打っていろんな場所のチェンバロを弾いているようだ。過去に聴いた演奏会では、ちょうどこの近江楽堂にチェンバロが入った時にフランソワ・クープラン作品のコンサートをやっている。

17世紀初期のフランス様式ということで、ルイ・クープラン、その流れでラモーが選ばれ、彼らの音楽に影響を与えたということでカベソンとスウェーリンクの小品が演奏された。

やはりルイ・クープランがピカ一だった。偶然、その日の朝にスキップ・センペ盤をで同じ組曲を聴いてたのだが、センぺが金糸の織物を広げ散らしたような華麗さなのに対し、こちらは訥々と語るという風情でしかもミステリアスな香りも漂わせたのだった。
同じフランス宮廷ものでもその後のラモーになると、ややよそよそしい印象であった。

後半は息子バッハのカール・フィリップ・エマヌエルの「ヴェルテンベルクソナタ」から開始。実は息子バッハとなると守備範囲外になってしまうので初めて聞いた(^^ゞのだが、繰り出される音はなるほど洗練されたフォルムで最先端の高速列車のよう。聞いててこれはチェンバロよりもフォルテピアノの方が向いてる曲だなあ、などとも思った。
これでは老バッハが古くさいなどと評されても仕方ない。

がしかし続いてその父バッハのパルティータ5番は……古いとか新しいとかを超えて、な、なんだかよく分からん(@_@;)
自分だけかと思ったら《古楽の小路》でも似たような事が書かれていたので、やはりそういう曲なのかと納得した。
帰宅して、F・ゲリエ盤を引っ張り出して聞いてみたけど、やはりよく分からなかった。

とはいえ、ねじりチョコドーナツのような脚のチェンバロを堪能できたコンサートだった。あと近江楽堂の響き自体もチェンバロに最適である。ここが空調が直ってホントによかったヽ(^o^)丿


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2014年6月 1日 (日)

「奥さまは愛国」

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著者:北原みのり、朴順梨
河出書房新社2014年

なぜ一見普通の女性がヘイトスピーチ・デモに参加するのか?
その実態にあえて踏み込んだルポ本である。共著になっているのは、それぞれに一人でやるのはしんどくて困難だったからという理由もあるようだ。

参加者たちへの直接インタビュー、愛国幼児教室、皇居の一般参賀、かと思えば朝鮮学校見学なんてのもある。いずれも、実際行ったり会ったりしなければ分からないものばかりだ。最近話題の人である竹田恒泰の講演会潜入記なんて驚かされることばかりだ。

そういう点ではためになった。ネットなんかでも、見ているサイトやフォーローしている人は自分と似たような考えや趣味に片寄っているので、わざわざ正反対のところを見に行ったりはしないので決して知ることはないのだ。

著者の二人は共感できない部分、あるいは逆に同感できる部分など正直に書いている。
意外にも朴順梨が割合屈託なく(少なくとも表面的には)描写しているのに対し、逆に北原みのりの方はいささか沈鬱な感情が伝わってくる。それは私も同じ気分だ。この問題を考えていると、ウツウツして暗くなってくる。ウツウツウツ(ーー;)

あえてこのテーマに挑戦した二人には感心した。。
北原みのりはフェミニストの一部(大半?)からは批判されてばかりだが、こういう仕事は評価してもいいのではないかねえ。


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聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 6月版

5月は痛恨のラ・プティット・バンドよみうり大手町ホール公演ど忘れ事件、さらにル・ポエム・アルモニークチケット争奪戦敗退という情けない事件がありました。特に後者は以前のサヴァール独演会を逃したのと同じパターン。学習能力がない--いや、それとも二度あることは三度あるイヤ~ッ(>O<)

*7日(土)溢れるファンタジー(LinGon)
*15日(日)パーセル3 その音楽と生涯
*27日(金)フルートの肖像10 協奏曲の時代(前田りり子)

他にはこんなのも。
*3日(火)木村睦幸リコーダーシリーズ・ナポリからドイツへ
*5日(木)フランス・バロックの歌(鈴木美紀子&つのだたかし)
*6日(金)南仏バロックの巨匠ジャン・ジル(コントラポント)
*7日(土)エンリコ・オノフリ
*8日(日)DANZA MACABRA死の舞踏
*20日(金)日本テレマン協会定期
*22日(日)リコーダー・オーケストラ「デル・ソーレ東京」
*23日(月)マタイ受難曲(アントネッロ&ラ・ヴォーチェ・オルフィカ)
*27日(金)F・クープラン ヴィオル組曲(平尾雅子)
な、なんで狭い日本のさらに狭い古楽界で、よりによって同じ日の同じ時間の新大久保で(しかも会場が教会なのも同じ)、行きたいコンサートが重なっちまうんじゃい。泣いちゃうぞ(/_;) まさか前半後半かけもちで聞く猛者はおらんだろうな。

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