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2015年2月

2015年2月28日 (土)

「KANO 1931海の向こうの甲子園」:熱くて古き良きアジアを見よ

監督:マー・ジーシアン
出演:永瀬正敏
台湾2014年

戦前の甲子園に台湾の農業高校(KANOとは嘉義農林学校を指す)が出場して、しかも勝ち進んだ! な、なんだって~(!o!)
と驚いたので見てみましたよ。
さらに驚いたのは台湾で大ヒットしたれっきとした台湾製映画なのだが、そのセリフのほとんどは日本語なのだった。
製作と脚本は『セデック・パレ』の監督さんである。

舞台は戦前の台湾なので日本統治下にあり、高校には先住民、漢民族、日本人がいる。当然野球チームも混成部隊だが、グラウンドも何もかもボロボロでやる気もなし。試合に一度も勝ったこともないのだった。
それを、かつての選手であり、指導者としても実績のある日本人が指導することになり、スパルタ式でビシビシ鍛えるのであった。
すると、生徒たちがもともと才能があったからか、それとも指導者が良かったからか、なんと台湾大会で優勝しちゃったのだ

ドトーの3時間である。前半にシゴキ&地方大会、後半に甲子園出場と、野球の場面はたっぷり。
加えて、主人公の生徒の仄かな恋愛エピあり、日本人による用水路建設のエピあり、さらに甲子園で差別と偏見を打破する場面あり--と、もうこれ以上ないぐらいのテンコ盛りなのだった。

そこに描かれているのは、なんだか「理想の大東亜共栄圏」の一端のようだった。三つの民族が協力し合い理想に燃えて進み、栄光と和解を得る。しかし、現実を思えば何か遠いおとぎ話のようにも思えるのだった。
台湾の人々が今なお、そういう過去の理想に郷愁と憧れを抱いているのに驚く。

試合シーンの迫力はなかなかで高校野球ファンは見て損ないだろう。
一方で、高校野球で一人の投手を連投させて使いつぶすというのは戦前から延々と引き継がれてきたことなのか、とか、指導者として選手の不調を見過ごすというのはいかがなものか、などという疑問もわいてくる。そういう現代的視点も欲しかったところだ。

とにかく、長くて熱い 見てて詰まらなくはないのだけど、段々疲れて来てしまった。いやもう、暑苦しいというぐらいか。同じ過去の実在人物を扱った『ジミー、野を駆ける伝説』のアッサリ味が懐かしくなってしまったよ。

永瀬正敏が地道に頑固オヤジな指導者を演じている。セットや小道具は当時を細かく再現しているようだが、野球の解説者(うるさい)はあの頃はいなかったという意見があるがどうなのだろう。

ところで、これは郊外のシネコンに見に行ったのだが、事前の予告が同じ作品でも違っていたのが意外だった。ご家族仕様?なのか、洋画もみんな日本語の台詞になっていた。別の映画の趣きだ。


熱血スポーツ度:9点
簡潔スッキリ度:3点

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2015年2月22日 (日)

J.S.バッハ「フーガの技法」:対位法、してますか

150222
演奏:ザ・ロイヤルコンソート
会場:日本福音ルーテル東京教会
2015年2月13日

バッハ先生の「フーガの技法」といやあ有名曲で、大きなCD屋だったら棚にコーナーがあるくらいである。だが、意外にも(?)ナマで聞く機会は極めて少ない。
過去に一部でも演奏したのを聞いたのは、やはりこのロイヤルコンソート(その時は5人編成)とアムステルダム・ルッキ・スターダスト・カルテットぐらいか。

ここではヴァイオリン寺神戸亮が特出して、レギュラーのガンバが上村かおり(アルト&トレブル)、森川雅子・福沢宏(バス)という4人組だった。

自筆譜と出版譜にかなり異動がある曲だが、この日は出版譜の順序に基づいての演奏とのこと。録音だと4曲のカノンは間に挟まれるパターンが多いが、カノンは後半にまとめられていた。

演奏前に寺神戸氏が登場してきて、そもそも対位法とは、フーガとは何ぞやという簡単な解説をした。ただし、曲毎に解説するとレクチャーコンサートになってしまうので(^^;演奏中は大型モニターに短い文章や楽譜を出すという新機軸の試みをした。これが、追いかけたり抜かれたり繰り返したりひっくり返ったする曲をトーシロでも理解するのに役立つ、なかなかに優れものであったのだよ

弦だけで聞くとなんだか大きな河の流れの中にたゆたっているような気分になってくる。そして、そこにはあらゆる情感が秘められているようだった。
かくも幾何学的に展開される曲に、なぜ感動が湧きあがってくるのだろうか それは演奏者が介在してるから--か。
そんなことを思ったのは、寺神戸氏と福沢氏が二人で弾いたカノン(3度の対位法による10度の)を聴いた時である。普通ならば変な響きの二重奏、で終わってしまいそうだが、寺神戸氏のヴァイオリンが驚くほどにアグレッシヴで圧倒された。力強く切り込むような勢いだった。
なんと鋭い感情のこもった曲かと思えたのだ。

アンコールは出版譜ラストに収録されているコラール前奏曲。
実に「バッハ先生を好きなのは、音楽室に肖像画が飾ってあるからでは決してない!」と心から思えたコンサートだった。

残念だったのは開場時間に遅れてしまったので、あまりいい席が取れなかったこと。こういう時、自由席はキビシイのよ
福沢氏なんかはほとんど姿が見えなかった。楽器を弾いているところを直接見て、目でも対位法してるのを確認したかったな(^^♪

帰宅してCD棚を漁ったら、出てきたのは全てガンバのフレットワーク盤(これは坂本龍一が推薦してたヤツですな)、リコーダーによるアムステルダム・ルッキ・スターダスト・カルテット盤、管弦混合のエスペリオンXX盤が出て来た。もっと掘り起こせばあるかもしれないが行方不明 とりあえずこの中ではリコーダー版が一番気に入っている。
楽器を選ばずなのがまたこの曲の魅力だろう。

それにしても息子バッハはなぜ、この曲を遺作とするような一文を付け加えたのだろうか。虚偽の目撃証人の証言は、CSI科学捜査班の捜査によって覆されたの図ですな……。

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2015年2月21日 (土)

駄文を書き連ねて××年

先日、よく読ませてもらっているブログが10周年を迎えたという話を読んだ。そこで、突然ハッ(!o!)と気付いたのだが、自分のこのブログは何年ぐらい経っているのだろうか。結構、年月が経ってるはずだが……。

というわけで、このブログのサイドバーの下の方をたどってみると「2005/02/06」というココログに登録した日付があった。さらに確認すると最初に投稿した記事は2月16日だった。
なんと10周年だ~\(^o^)/

しかし、実のところはその前にパソコン通信も何年間かやっていたのだった。映画関係や音楽関係のフォーラムである。ブログを始めたのはニフティのパソ通が終了したので仕方なく、だった。

さらにその前は友人たちとともにファンジンやコピー誌(自宅のPCのワープロソフトの「松」で、職場のコピー機を使って作成。もちろん金は払ってましたよ。さらにその前は、ワープロ専用機で印字して台紙に切り張りしてた)、個人誌も作って文章をシコシコと書いていたのだった。
さらにさらにさかのぼると、大学時代の青コピー誌にまでたどり着くのであった。

その間に書き連ねた駄文はどれほどの量になるだろうか。塵も積もれば山となる、ということわざがあるが、駄文はいくら連ねても名文になるわけではない。
そのかけた時間を他の事に使えばもっと有益だったろう。せめて、どうせ書くならもっと別の用途の文章を書けばよかった(T_T)

ブログのアクセス数がずっと低空飛行のため、テコ入れのためにツイッターも始めたが、アクセス統計を調べてみるとツイッターから読みに来る人はあまりいなくて、効果はないようだ。
ツイッターは基本的に「自分語り」と「実況中継」に向いていると思うので、長文の感想はやはりブログに書くしかないのである。

……とまた駄文を書いて終わるのであったよ。

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2015年2月18日 (水)

「ジミー、野を駆ける伝説」:野に棹差せば叩かれる

150219
監督:ケン・ローチ
出演:バリー・ウォード
イギリス2014年

時は1930年代、アイルランドに実在したという無名の市民活動家を描く。
一端は米国に逃走したが、十年後にほとぼりが冷めて母親の元に戻ってくる。今後は大人しく暮らそうと考えていたが、若者やかつての仲間からかつて開いていた「ホール」を再開を要望されるのであった。
ホールとは今の日本だと自主的な社会教育センターか。あと公民館も当てはまる? やっている内容は詩の勉強会とか、郷土料理講座、伝統音楽のコンサートなどである。

しかし、当時大きな力を持っていた教会からは不信心者扱い。さらに地主や行政、IRAからも睨まれる。一方、「こちら」側も組合やら穏健派や急進派がいて、まとまっているわけではない。主人公は板挟み状態だ。
彼自身は急進派ではないのだが、そのリーダー的資質から要注意人物になってしまうのであった。

監督がケン・ローチであるからして、彼の名から予想される作風から大きく外れることはない。
しかし、かの地のトラッド・ミュージックの演奏やダンス・シーンは圧巻 圧巻の迫力と熱気である。なぜ、異国の民謡にこのように惹かれてしまうのであろうか(^^♪ってなもん。さらに、米国産ジャズと違和感なくつながってしまうのも面白い。

たまたま読んだ岩波書店のPR誌「図書」に「〈涙の橋〉を渡ったひとびと」というエッセイがあって、こんな文章が出てきた。

「〈オート麦の畑(ゴータホーク)〉村の教区ホールでは毎週木曜の晩に伝統音楽の会が催されている。子どもから年寄りまで、周辺に暮らす腕自慢の名人から初心者までが一堂に会して、知っている曲をお互いに披露し、交換し、聞き覚える場になっている。」

まさに映画の場面が髣髴と湧き上がってくるようだ。ちなみに州名になっている「ドニゴール」って「異人たちの砦」という意味だというのをこれ読んで知りました(^^ゞ
それにしても一部の宗教はなぜ音楽を忌避するのだろうか。人々を熱狂させるからか? 謎である。

主人公の、今は人妻となってしまった元恋人への想いはやるせない(T^T)クーッ(思わず涙)
そして、淡々と彼は窮地に追い込まれる。唯一、若い世代への希望が明るく残るのであった。この淡々さが良くも悪くもケン・ローチっぽいと言える。私はなんだか物足りないような気がした。(だが、後で別の映画を見てその評価は逆転した)
それから、敵方の頑固者の神父が最後に主人公を誉めるのも、なんだかシェイクスピアの芝居のラストみたいで個人的にイヤン(ーー;)と感じた。

主役のバリー・ウォードは渋くてエエ男である。ヘッヘッヘッ(^Q^)私から下卑た笑いがつい漏れてしまうのを誰か止めてくれい

家に帰ってアイリス・ケネディの「ワン・スウィート・キッス」を引っ張り出して「シューリ・ルウ」を聞いてしまった。映画の中で歌われていたのとは英語詞の部分が違うヴァージョンだが。


社会教育度:7点
音楽熱狂度:9点


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2015年2月14日 (土)

「薄氷の殺人」:ラーメンに指を入れるのは禁止!

150214
監督:ディアオ・イーナン
出演:リャオ・ファン
中国・香港2014年

中国映画に新しい才能出現みたいなあおり文句につられて行ってきた。刑事(元)が主人公のノワール系のサスペンス・ミステリーらしい。おまけにベルリン映画祭で賞を二つも獲得しているではないか。期待しちゃうのよ(@∀@)

結果から言うと、大いに期待外れだった しかも見た後から時間が経つにつれて段々と腹が立ってくるような類の映画である。

事件は二つの時期に分かれている。1999年にバラバラ死体事件が発生。主人公の刑事はその捜査の途中で銃撃戦となり、負傷して警察を辞める。
5年後にまた似たような事件が起こり、男はまたそれに首を突っ込むのであった。

映像の色彩設計が強烈である。一歩間違えばグロテスクに転んでしまいそうな派手さ。また、トンネルを抜けると雪だったかと思うと、カメラがフラフラしてその結果……の場面は映像マジックで驚く。
風呂やら観覧車やら、その他映像的にはすごいものが次々現れるのだが、さてお話の方は……

主人公はいい気な小学生みたい。しかもズルっこい奴だ。その言動は「運命の女」に付きまとい、弱みに付け込んで搾取しているも同然。他の「男」と何が違うんだ?

犯人を警察に売り渡して(も同然だよね)おきながら、陰から警官たちを花火で攻撃する(も同然だよね)。
権力にすり寄りながら、その実おれは本当は権力に屈しないし常識なんか無視だぜポーズを取っているヤツは、現実の世界にもゴマンといるが、休日に金を払ってそんな人間を肯定している映画を見たいとは思わないのだ。
いくら映像でカッコつけても誤魔化されんぞ。ダメなものはダメ

「運命の女」については、あ~男はこういう女が好きなのね(-_-)以外の感想は出て来ない。「ハードボイルドは男のハーレクイン・ロマンス」と喝破した斉藤美奈子の言を思い出してしまう。

主人公の元同僚(上司?)がサッカー選手のカズに似てるかな?っと(^・^)


運命の女度:5点
女の運命度:3点


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2015年2月 8日 (日)

「ドストエフスキーと愛に生きる」:象と格闘中

150208
監督:ヴァディム・イェンドレイコ
スイス・ドイツ2009年

公開時に見逃したドキュメンタリー。ちょうどアップリンクで「見逃した映画特集2014」というので上映したので、行ってみた。

ドストエフスキーの著作を5冊ドイツ語訳したスヴェトラーナ・ガイヤーという翻訳家の半生を描いたものである。ウクライナ出身で現在はドイツ在住。その人生は第二次大戦前後の東欧の歴史の中で翻弄されたものだった。

2009年の時点での彼女は86歳、背中が曲がり足元もおぼつかない。しかしキリリとした眼差しは明晰な知性をたたえている。
翻訳した文をタイプしてもらい、さらに読み上げてもらって何度でも推敲する。その言葉を大切にし検証を重ねるその姿には、日頃ブログやツイッターで駄文いや駄言葉を垂れ流している自分を思わず反省してしまう。

若い頃はかなりの美人 おまけに話にはウィットがあって教師としてもかなり魅力があったに違いない。

さて、とある事件をきっかけに一度ウクライナへ里帰りしようと考える。カメラはそこにもついて行く。
彼女の父親はスターリンの粛清に遭って監獄へ行き、それが原因で亡くなってしまう。戦争でドイツ軍にウクライナが占領されると通訳などで協力する。そして、独軍が撤退する時に故郷を捨てて共に去ったのだった。

したがって、故郷にもドイツ軍にも複雑な思いがあるようだ。当時、彼女や母親の窮状を救ってくれたドイツ軍将校たちの話をする時にはなぜか明晰さが消えて、擁護しているようにも見える。過去に何かあったのか?

知性は限りなく強靭であるはずなのに、魂は過去にとらわれ、肉体は歳月に浸食されていく。一人の人物の中にその全てが凝縮されている。
救いは、行った目的を果たせなかったウクライナの地の高校生たちの率直な明るさと、彼女の娘や孫娘が大勢集まって賑やかなシーン(女系家族?)だろう。

ドキュメンタリーとしての出来うんぬんよりも、「素材」が何より力を持つ作品であった。なお、スヴェトラーナ・ガイヤーは2010年に亡くなっという。
ただ、例の如く邦題は勘弁してほしい(ーー;) 原題は「五頭の象と生きる女」(「象」はドストエフスキーの訳書を指す)だ。


過去混乱度:8点
現在混迷度:8点


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2015年2月 7日 (土)

2014年度日本インターネット映画大賞結果

発表になってました。

外国映画部門

日本映画部門

外国映画部門の一位「インターステラー」は2ちゃんの投票でも同じでしたな。
ちなみに私の投票したベストテンはこちら

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「ベイマックス」(2D吹替版):ベイマックスのお腹にあの人を思い出す

150207
監督:ドン・ホール、クリス・ウィリアムズ
米国2014年

元々は見ようという気は全くなかったのだが、正月に家でゴロゴロしていても健康に良くないということで、ご近所のシネコンに見に行った。本当は字幕版にしたかったのを、そのためには遠くの映画館へ遠征しなければならないので妥協した。

「アナ雪」が女子仕様ならば、次回作のこれは男の子向けと、ちゃんとターゲットを決めて作っているみたい。予告だけ見ているとそんな風にはとても思えないが(「ハートウォーミング」系かと勘違いしそう)、実際はロボットのベイマックスを中心として謎の怪人やらアクションやら戦闘やら戦隊風設定など満載なのだった。

そのせいか日本でもあの「妖怪ウォッチ」を抜いて興行成績1位を独走。ラセター体制のディズニー強し(!o!)の感をますます強めたのである。

個性様々な「戦隊」仲間の得意技を生かして、次から次へと流れるように繰り出される戦闘とアクションがあくまでも中心。「怪人」が実は主人公と相似形であるというようなダークサイドについてはあまり深く突っ込まれなかったのは残念だった。そこまで求めるのは贅沢かね。
もっとも、ラスト近くでは泣いちまいましたよ(T^T)

ということで、結論は予想より面白かったけど、「好き」という程ではなかった。ただ、ケアロボットとしてのベイマックスみたいなヤツはぜひ一つ欲しい。ついでに掃除と洗濯もしてもらえるとすごく嬉しいぞ。
でも、仕事から帰ってきて冷蔵庫をゴソゴソ漁っていると、ムクリとヤツが起き上がってきて「また飲むのですか。今日は休肝日と決めたのではなかったのですか」とか言われそう(~_~;)

舞台が東京もどきの架空都市ということで、「鍋」とか「もつ焼き」みたいな怪しい看板や変な商店が多数登場する。主人公の部屋の窓から見える空に電線と電柱まであるのには笑ってしまった。そんなとこまで描かなくともよろしい<(`^´)>

空飛ぶ場面は楽しかった。似たような場面は過去の映画でも描かれてきたけど、カメラワークに当たる部分がうまくて、本当に飛んでる気分になれた。街や海など風景も美しい。
ただ、エンドクレジット後のオマケ場面については、吹替えだとあまり意味がない。加えて、アメコミ・ファンではない一般の観客にはそもそも訳が分からないんじゃないのか?

それから、原題と邦題が異なることから、なんと字幕版ではラストのキメ言葉が消去されているとか(!o!)→リンク先を見よ。
加えてベイマックスに言うケア終了の言葉も違うそうな。ムムム

冒頭の短編アニメについては、「犬にあんなもの食べさせていいのか(?_?)」などという疑問や抗議を多数見かけた。
私は、件のカップルが結局身体に悪そうな食生活(脂肪分大量な)になってしまったのかと、甚だしく遺憾に感じたのであったよ。


さて、NHKでラセターとピクサー・スタジオに取材した番組で、このアニメ製作中のところを紹介していた。スタッフのミーティングでラセターがベイマックスの動作を真似してやる場面があって、そのラセターの体型が、まるで型取りしたかのようにベイマックスそっくりにプックリしていたのであった……。


戦闘度:8点
ケア度:5点

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2015年2月 3日 (火)

「JR上野駅公園口」

著者:柳美里
河出書房新社2014年

出版された時に幾つか書評で取り上げられて興味を持ったが、その後大きく評判になることもなく過ぎてしまった。気になっていたのでようやく読んでみた。
が、実際読んでみるまで、ここまで幻想性が強い小説とは予想しなかった。

語り手の男は上野公園のホームレスで、公園の一画に座って通り過ぎる人々の会話に耳を傾けているらしい。その合間に自分の過去を回想する。しかし、それは時代を何度も行き来して、読者は断片的にしかつかめない。
彼の意識は浮遊し、取り留めもなく巡回する。

上野には東北出身のホームレスが多いそうだ。男も福島県の鹿島の出身である。家族のために彼の人生のほとんどはオリンピック工事に始まる出稼ぎに次ぐ出稼ぎで、37年間のうち家に戻った日数を合わせると一年分にしかならないという。その半生は日本の高度成長期に重なっている。

回想と共に上野公園の歴史も語られる。西郷さんの銅像や上野の彰義隊など。正式名称は「上野恩賜公園」であり、天皇から下賜されたものだ。
そして、男の人生の節目節目に天皇の事が思い起こされる。そもそも今上天皇と同い歳だし、皇太子と同じ日に息子が生まれて名前をちなんで付けた。また少年の頃にお召し列車から現われた昭和天皇に万歳を叫んだこともある。
だが、その息子を不幸が襲う。

そして皇室関係者が上野を訪れる度に行われる「山狩り」。ホームレスは区切られた時間は公園から退去しなくてはならないのだ(荷物や段ボールを預けるスペースも設定される!とは知らなかった)。

読み進むうちに、この男が果たして生きているのかそれとも既に死者なのかも怪しくなってくる。
過去と現在(それは一体いつのことなのか)を行き交ううち、飛翔する男の魂が最後に故郷の地で目撃したものは……。

終盤、公園口改札前で天皇の御料車を見かける場面で私は涙目になってしまった。山手線で吊革に捕まって読んでいたにもかかわらず、である。
哀切極まりない一編に違いない。

私の実家は上野に比較的近かったので、小学校の社会見学とか写生大会ではよく上野公園に行った。そのころの記憶というと、地下道に「浮浪者」がゴロゴロ寝ていたのが記憶に強く残っている。
しかし、それ以後はほとんど足を運ぶことはなくなってしまった。

歳取ってから、コンサートや美術館に行くので上野で降りることがまた多くなった。それこそ改札は「公園口」をよく出入りする。

あの地は聖俗貴卑入り乱れ判然としないエネルギーが常時発散されているように思える。東京のどの他の公園にも感じられないものだ。その成り立ちを考えれば(それこそ博物館・美術館のそもそもは見世物小屋の類から始まる)当然の事かも知れない。
それを思うとこの小説はまさに上野の地にふさわしい作品だと言えるだろう。

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