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2015年6月

2015年6月28日 (日)

「コレッリとリュリへのオマージュ」:先輩、萌えてもエエですか

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演奏:天野寿彦、石井弓奈、平尾雅子、石川由香理
会場:近江楽堂
2015年6月10日

フランソワ・クープランの「コレッリ賛」「リュリ賛」は録音が結構出ていて、私も複数持っている。初めて聞いたのはクイケン兄弟のものだったろうか。(ちょっとうろ覚え)それぞれ楽章ごとに表題が付いていて、その朗読が入っているのが常である。正直、朗読部分はあまりちゃんと読んでない事が多かった。輸入盤で買うことがほとんどで訳(英語の)がついてないし。

この二つの作品を中心にしたコンサートだが、タイトルになっている作曲家であるコレッリの室内ソナタと、リュリのトリオ曲も合わせて演奏するという趣向である。
さすがに朗読はなかったが、プログラムに訳と子細な解説が書かれているので、内容がよーく理解できた。

「コレッリ賛」はクープランが自らのコレッリ萌えそしてイタリア趣味を、公に1724年に告白したものであった。
そして翌年の「リュリ賛」はやはりリュリ萌え宣言と共に、フランス趣味とイタリア趣味を融合する過程を二人の先輩作曲家を「対決」させるという設定で音楽で示すものであったのだ。
今までいい加減に聞いてきてすいませんm(__)m 先輩二人へのクープランの萌え、ヒシと感じました。

さらに後輩作曲家にしてクープランの理想を体現したという、ルクレールのソナタも演奏された。通奏低音なしの2つのバイオリンによる曲で、天野氏と石井女史の熱演には思わず場内ため息がもれたのであった。

演奏に文句なく楽しめたが、楽器の保護のためか会場が寒くなったり暑くなったりしたのにはいささか参りました(@_@;)
それにしても、オペラシティには10日間ぐらいに4回も通ってしまった。定期券買おうかしらん(^<^)

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2015年6月27日 (土)

「皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇」:愛と音楽とドラッグは国境を越える

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監督:シャウル・シュワルツ
米国・メキシコ2013年

極めて衝撃的な内容のドキュメンタリーである。『アクト・オブ・キリング』に匹敵するといってよいだろう。

二人の人物を中心として描く。
一人は、米国との国境にあるメキシコの街の警察官である。彼が子どもの頃は平穏な街だったが、近年麻薬組織が台頭してあっという間に治安が悪化したために、なんと殺人事件年間3000件にのぼるようになってしまったという。

現場に赴く捜査官といっても聞き込みなどするのではなく、いわゆるCSI、日本だと鑑識に当たる作業を担当する。それでも、危険なので武器を携帯し顔が分からないようにマスクをかぶるというから驚きである。
毎日、現場へ行って証拠を採取し、その結果を送るが、事件が解決することはほとんどない。
その間にも上司が脅されて職を辞めざるを得なくなったり、仲間が殉職したりする。さらには若い捜査官がインタビューに答えた場面に、この後彼は殺されたなんて字幕が出るのであった。

もっとも、その取材されている捜査官は別に強面ではなくて、両親と共に暮らす穏やかそうな青年である。(30代半ばらしいが、10歳ぐらい年上に見える

すぐ間近に見える国境の向こう側、米国のエル・パソでは年間の殺人は5件だというからその差は大きい。しかし、実際は麻薬は国境を越えて米国へ流れていくのである。

もう一人、米国ロサンジェルスに住むメキシコ系の若い歌手が交互に描かれる。彼は「ナルコ・トリード」という麻薬王たちを讃えるジャンルの歌で売出し中だ。
多くの人々は虚構としてその歌を楽しんでいるようだが、彼は平和なこちら側では実感がないということで、メキシコに行ってまさに「体験」を謳歌してくるのであった。映画を作る場面は悪趣味で笑ってしまった。

まあ、日本でもヤクザ映画など大衆娯楽のジャンルになっているが、ここまで来るとやり過ぎとしかいいようがない。ヤクザ映画に本物のヤクザが出演してるのと同じだ。
「ナルコ・トリード」はTVドラマの『CSI科学捜査班』で取り上げられたことがあるというのだが、そう言えばあったかなあという記憶力なのであったよ。

映画はこの対照的な両者の姿を淡々と描く。対照的ではあるが、双方とも暴力の中にある。暴力は恐怖の世界を支えるように底に淀んでいる。その原因の一つは、メキシコが米国に最も近い「裏庭」であることは間違いないだろう。
なお、死体がゴロゴロと画面に出現するので、気の弱い方は避けた方がよろし。


暴力度:9点
正義度:4点


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2015年6月22日 (月)

「聖コージズキンの誘惑展」

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会場:ちひろ美術館・東京
2015年3月1日~5月24日

こればっかりは絶対見に行かなくちゃ(@_@;)と思いつつ、結局行ったのは終了直前。さらに感想を書くのがこんな時期になってしまった。なんてこったい

スズキコージ大好きですう\(^o^)/
画集も前に買いました……けど見る余裕がない

会場は二つに分かれていて、片方は過去の絵本(絶版状態も多い?)の原画、あわせて絵本自体も置いてあって一緒に見ることができる。
若い頃の作品は今のタッチからは想像できないような繊細なものもあった。
それから一角にはトイレの便座に絵を描いたのが並べられていて、こんな便座に是非座ってみたいなー(^○^)なんて思ってしまった。複製作って売って欲しいぞ。

もう一つの会場はアトリエの一画を再現してあり、周囲は布に描いた中南米の壁画を思わせるような巨大作品で覆われていた。こちらは撮影OKだった。

会場は元々いわさきちひろの家だったそうで、周囲は住宅と田んぼである。行き着くのが大変だったが、周囲が似たような風景なので帰りもどちらに進んでいいのか混乱してしまった。現在は長新太の展覧会をやっているらしい。

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2015年6月21日 (日)

バッハ・コレギウム・ジャパン第113回定期演奏会:音楽と改革の日々

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教会カンタータ全曲シリーズ 69
ルター500プロジェクト 1
会場:東京オペラシティ コンサートホール
2015年6月6日

2017年はルターの宗教改革500周年だそうで、それに向けてBCJもプロジェクト開始とのことである。

冒頭はルターが讃美歌として作ったコラールをパイプオルガンで演奏、それを元に作曲家ヴァルターが合唱曲にした作品を、交互に3曲ずつ演奏した。
弦楽器の代わりにコルネット×1とトロンボーン×3が入る。合唱がこの管楽器と混ざり合って非常に気持ちいい響きである。教会のような場所で聞いたらさらに一体となってきっと区別はできないだろう。

その後はバッハが1724年に初演したコラール・カンタータ3曲だった。BWV101、7、38--いずれも先のコラール3曲と関連がある作品である。その時点で宗教改革からは200年経過していたわけだ。
7番の冒頭コラールに、なんだかクルリンとした弦のフレーズが入っているなと思ったら、洗礼の話で川の流れを表わしているらしい。

今回は珍しくソリスト4人のうち3人が日本人だった。ソプラノ藤崎美苗は広い会場では残念ながらややパワー不足の感があった。CTはやはり合唱常連の青木洋也だった。歌手唯一のガイジン勢のダン・コークウェルは初登場か(?_?) 重々しくなく軽快なテノールの印象。
バスの加耒徹は、先日の『ジューリオ・チェーザレ』では、人形メイクに膨張した衣装だったので全く分からなかったけど、なんと素顔はスッキリさわやかな好青年ではありませぬか。ビックリよ。ただ外見に反して、歌の方は重厚か?(これまでのBCJ基準比較)

ゲストの管楽器隊は、トロンボーンのシャルル・トゥートは大ベテランだが、それ以外はコルネットの上野訓子も含めて若い女性ばかりであったな。次世代奏者が着々と登場というところか。
二人目の鍵盤担当は久し振りに大塚直哉だった。2日前に近江楽堂で聞いたばかりで、こちらも大活躍中のようだ。


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2015年6月16日 (火)

「JIMI:栄光への軌跡」:天才の証明

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監督:ジョン・リドリー
出演:アンドレ・ベンジャミン
米国2013年

早逝した天才ギタリストのジミ・ヘンドリックスの伝記映画--正確に言うとモンタレー・ポップ・フェスでブレイクするまでの2年間のみ(1966~7年)に的をしぼって映画化したものである。
小規模で公開されてもう見られないかと思ったが、なんとか間に合った。

当時のキース・リチャーズの恋人であったリンダがニューヨークでバックバンドをやってる彼を見出して、デビューさせようとするが、なかなかうまく行かず、英国へ行って、バンドメンバーを集めてエクスペリエンスでの正式活動開始となる。

クラプトンと共演したくて、彼のギグに飛び込み参加したらクラプトンが逃走--なんてエピソードが紹介されるものの、ほとんど女性関係に重点が置かれているのにはちょっと驚いた。
ロンドンで付き合ったのはリンダ(ただし男女関係はなし)→グルーピーのキャシー→アフリカ系のイダ、という女性遍歴(とトラブル)が描かれる。NY時代の恋人も含めて、その生活の描写を見る限りDV野郎と言ってよい。

ロック史の天才が実はどうしようもないDV野郎だった(!o!)というような話はいいんだけど、それに終始してはどうなんだという気分になる。
「天才」の証がクラプトンが逃げた、ビートルズも褒めた、それと「新しい音楽をやる」と喋っているTVインタビュー再現だけでは、あまりにも心もとない。

ロックファンならぬ一般の観客には音楽のネタはあまり受けないだろうとは思っても、この手のミュージシャンを描く映画が私生活ネタに片寄ってしまうのは、正直不満を感じざるを得なかった。
ジミはノエル・レディングのベースを信頼していなくて、自分でベースラインも一緒に弾いていた、というような話を聞いたことがあるが、そういう「天才」ゆえのエピソードも知りたかったなあ。

ラストのコンサートは、ピーター・バラカンが中学生の時に実際に行って聞いたとのこと 「初めて見るようなすごい人数の人だった」とのことだが、こちらの映像ではなるほど満員だけどそこまでの印象ではない。
キース・リチャーズがワンシーンだけ登場するが、自分の恋人の行状を彼女の父親にチクるという情けない役回りなので、ファンは見ない方がよろし。

ただし、映像は斬新。人物が喋りつつ動くのをカメラを動かさず固定させて撮る、というような方法で心理的な不安をうまく表現している。
主役のA・ベンジャミンは完璧にジミ再生に成功している。髪型とかファッションにも助けられているだろうが、歌声や喋り方もクリソツである。ギターの音自体はワディ・ワクテルが担当とのこと。

権利の関係で、彼自身が作った曲は使用できなかったらしい。でも、彼は他人曲のカバーも画期的だし、歌手としても味があるアーティストなので文句はない。
彼の不幸は、死後ながながと曲の権利をめぐって裁判沙汰になったことと、生前に出たアルバムは4、5枚なのに残された音源で作られたアルバムが山のように出たことだろう。もっとも、当然彼自身は知る由もないことだが。

予告で、ブライアン・ウィルソンの伝記映画をやっていた。これも見たいぜっ(鼻息も荒く) ポール・ダノはピッタリだが、中年期をやるジョン・キューザックはどう見ても違うような気がする(@_@;)


天才度:5点
再現度:9点


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2015年6月14日 (日)

「大塚直哉チェンバロリサイタル」:「古楽の楽しみ」問題はさておいて

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会場:近江楽堂
2015年6月4日

以前から近江楽堂はチェンバロの音が素晴らしく美しく聞こえるホールだと思っていた。その良さが発揮された公演だと言える。

ルイ・クープランを中心に、古い時代ではバード、スウェーリンク。後の時代ではブクステフーデ、そしてバッハ--を、小型の一段鍵盤チェンバロで演奏する。さらに調律はミーントーンで行う、というものだ。

大塚氏によれば、このようなチェンバロだからこそできる音楽があるはずだとの意図から演奏するとのことであった

クープランは一音一音粒立つような音、そしてブクステフーデの畳み掛けるような対位法。そしてエウェーリンクの「半音階的幻想曲」はこれまで録音で聞いてきたどの演奏よりも、生き生きときらめく流れに聞こえた。

まさに演奏者・楽器・会場が一体となり相乗効果を生み出したといえるだろう。聞いた後は何やら、スッキリと洗い流されたような気分になった。

なお、この公演はルイ・クープランのクラヴサン曲集CDの発売記念を兼ねていた。そのせいか若いお弟子さんなども来ていたもよう。終演後はサイン会もあって、皆さん並んでおりましたな。


さて、ここ最近、NHK-FMで朝やっている「古楽の楽しみ」での大塚氏担当週の選曲が話題になっている。他の担当者のような特定のテーマを決めて構成するわけではないようだ。ではどういう基準で……(?_?)
このモヤモヤを解決するには直接、ご本人に聞くしかない それにはサイン会がうってつけの機会である。誰か勇気を出して突撃するヤツはおらんのか
私は、温厚そうな大塚氏にそんなこと聞く勇気ないですけどね(^^ゞ

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2015年6月13日 (土)

「親密な語らい」:揺れにも負けず放送にも負けず

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フルートとリュートによるフレンチバロック
演奏:前田りり子、佐野健二
会場:近江楽堂
2015年5月30日

バロック・フルートとリュート……よくよく考えるとこの二つだけの組み合わせのコンサートというのは珍しい。というか、聞いた記憶がない。
前田りり子によると、よくあるチェンバロとの共演だと、音の大きさで負けてしまうという。また、ガンバだと低音だからあまり大きく聞こえないが、実際はかなりなものだとか。

そこでリュートの登場ですよ(^O^)b よく「聞こえない」と文句を言われることではお仲間ということらしい。
これはそんな小さな音量の楽器同士でしかできないプログラムである。17世紀後半から18世紀にかけてフランスで活躍した作曲家たちを中心としている。

冒頭のピエール・ゴーティエはお二人ともてっきりリュート曲で知られるゴーティエの親戚かと思ってたら、全然関係ない人でマルセイユのオペラ作曲家兼オルガン奏者とのこと。彼の組曲でまず耳慣らしだ。

それからモンテクレールの「第2コンセールハ短調」はチェンバロとの組み合わせだと、演奏後に「よくなかった」と言われてしまう曲だそうだ。
チェンバロの両手分をリュートだと片手でやらなければならないから大変。途中でリュートどうやって弾いているんだ\(◎o◎)/!みたいな部分もあり、思わず真剣に聞き入ってしまうのであった。さらに佐野氏の指もじーっと注視したりして

休憩を挟んだ後の、オトテールの組曲となるとりり子女史の笛の音はもはや嫋々という形容がピッタリなほどであった。艶のある、しかしそーっと消え入っていく音が、近江楽堂のドームに反響していく。

佐野健二のリュートを生で聞いたのは実はこの日が初めてである。以前から聞きたいと思っていたのだが、なぜか東京近辺では公演がなく(結界でも張ってあった?)これまでは無念さをかみしめていたのだが、晴れてナマで聞けてウレシイ
飄々とした関西弁の解説も相まってか、ナマでは録音よりも攻めの演奏に聞こえた。
で後半、彼がド・ヴィゼーのリュート曲を独奏していた時にハプニングは起こった。

地震である。
一度揺れたのがいったん収まりかけたのが、また大きくなってかなりの震度になった。客はキョロキョロと周囲を見回す(>y<;) しかし、佐野氏は揺れる会場と動揺する聴衆もなんのその、淡々と弾き続けていたのであった\(◎o◎)/! だが、揺れが収まらず遂にオペラシティ全体の緊急放送が入るに至って、ようやくその手を止めたのである。

それは……コンサートの主題であった小さな音が放送という大きな音に負けた瞬間でもあった(T_T)
ま、仕方ないよね。地震なんだもん。

もっとも、今思い返してみると地震の最中にじっとしていたのが良かったかどうかは怪しい。建物が耐震構造になっていても、天井に下がっている照明の付いた巨大な輪っかが落下する可能性もあったからだ。
せめて、近江楽堂の椅子にもれなく置いてある白い低反発座布団を頭に乗せて頭部を守るべきだったろうか

一旦おさまったのでまたリュート独奏から再開された。しかし、次のプログラム最後のドルネルの組曲の途中で、エレベーターの休止や交通の状況を知らせる放送が再び入って、さすがにりり子女史はあきらめて中断、のち再開ということになってしまった。アンコールを二曲やったが、もはや聴く方も気もそぞろという状態だっのは仕方ないだろう。
地震が起こるまでに、プログラムの意図はちゃんと理解できたし「小さな音」も楽しめましたよ(^o^)/


帰りの交通は京王線が走っていたのに、新宿に着いたらJRがほとんど全部止まっていたのにはビックリ 待っていても仕方ないので、改札をまた出て地下鉄に行ったらちゃんと動いていた。それで帰ったのである。

後で、六本木の森ビルのエスカレーターが停止して、さらに誘導が全くなかった--という報道を聞いたが、それを考えるとオペラシティ(ビルとしては五十数階ある)の方はちゃんと普段から防災体制ができているようだったなあ、と後から考えなおしたのであった。


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2015年6月 8日 (月)

「偽りの果実 警部補マルコム・フォックス」

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著者:イアン・ランキン
新潮文庫2015年

イアン・ランキンのファンとしては、ジョン・リーバスものの新作の直後に、こちらのマルコム・フォックス新作が出て、まるで盆暮れ正月がいっぺんに来たような状況である。

原作が出た順番で見ると、こちらの方が一年ばかり早いようだ。『他人の墓の中に立ち』ではリーバスの敵役として登場した内務調査班(といっても、警察上部の都合で名称がコロコロ変わる)のフォックスが主人公だ。

ある警官がヤク中の女性に特別な「サービス」を強要したという事件を調査することになった調査班の3人、問題が起こった警察署で聞き取りを始めるが、当然協力を得られるはずもない。悪戦苦闘するなか、関係者が次々死亡……。
一方で、老人ホームでフォックスの父親が倒れたりして公私ともに大変である。

やがて、事件を調べるうちに80年代にテロリストと関係があったらしい弁護士の事故にたどり着くという次第。
日本で過激派というと60年代末から70年代初めが思い起こされるが、スコットランドだと独立運動や環境問題などで80年代が盛んだったらしい。その陰で色々となことが起こったが、今は忘れ去られているという背景がある。

昔の事件が引きずり出されるという展開で、前作よりかなり面白かった。ただ、警察内部の事件とは関係なくなってきてしまう展開なのに、どうして主人公が鼻を突っ込んでいられるのかは謎であった。あちらの警察はそんなに勤務にうるさくないのか?

色んな人物が次々登場するので覚えきれんよ(@_@;) 登場人物リストは2ページぐらい使って載せて欲しい。

次作ではこのシリーズでもリーバスが登場とのことで、これはぜひ訳してもらわんと。新潮さんなにとぞ頼んます(-人-)オネガイ 今後何年も盆も暮も来ないという事態だけは避けたいのう

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2015年6月 7日 (日)

ヘンデル「ジューリオ・チェーザレ」:ワニが踊れば舞台が回る

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二期会ニューウェーブ・オペラ劇場
指揮:鈴木秀美
演出:菅尾友
演奏:ニューウェーブ・バロック・オーケストラ・トウキョウ
会場:新国立劇場 中劇場
2015年5月23・24日

ヘンデル先生の「ジューリオ・チェーザレ」というと、二期会では10年前にBCJとやった公演を見た(聞いた)。この時は演出がかなり問題あったようである。
それ以外ではダニエル・デ・ニースが評判を取ったグラインドボーン音楽祭の映画館での上映に行った。

今回は二期会が主催で、鈴木(弟)秀美が招かれて指揮という形のようだ。オーケストラは実際には主要なところはBCJのメンバーと重なっている。一方で学生も参加してるということで平均年齢はかなり若い。

全体の特徴は、まずワニの被り物をつけたダンサーたちが黒子やら兵士役やらその他をやって全編で活躍し、開演前や幕間にもパントマイムみたいなことをしていた。(コーラスは舞台上に出て来ない)
人物は人形という設定で衣装やメイクが皆それっぽくて、巨大な人形劇を見せられているようである。さらに、ファンタジー系RPGの登場人物のように尖ったエルフ耳をしているので、ゲームの場面を見ているようでもある。

これは多分、小柄な女性歌手が英雄やら暴君を演じる違和感をなくすためではないかと思った。ゲームのキャラクターというのなら気にならないよね(*^^)v
ただ、コルネリア役は絶世の美女なはずなのに、変な人形のメイクや髪型・衣装なので「美女」とはかけ離れて見えたのは残念無念である。

それと回り舞台を頻繁に使用した演出は場面転換が激しくて、繰り返しが長いアリアでも退屈するなんてことはない。ただ、見ている方に気を取られて耳の方が散漫になっちゃったりして 加えて、歌手は歌いながらの動きが多くて大変だー。
チェーザレ(とワニ)が客席に出て来て歌うなんて場面も。間近に見るとチェーザレ役の人、すごい美人でピカピカと光り輝いて見えた。
さらに照明が巧みに舞台に彩りを与えていたのも付け加えておこう。

オーケストラは……なんか音が重たい。覇気がないとかいうのではなくて、会場のせいだろうか。考えてみれば、中劇場は基本的に芝居用のホールだよね。
しばらく前に行った『優雅なインドの国々』の時はそもそも多目的大ホールだから、音が良くなくても仕方ないので書かなかったのだけど、今回の中劇場はステージ上の歌手の声もオーケストラ・ピットも音質的には練馬文化センターと変わらないようだった。まあ、こちらの方が狭いから若干身近に聞こえるかな、という程度だ。
でも、ホルンが勇ましいチェーザレのアリアはカッコ良かったですけど(^O^)

休憩中にピット内を観察したらテオルボ(佐藤亜紀子)とチェンバロ2台(上尾直毅&福間彩)にマイクが立っていた。録画している(記録用?)とのことで会場の最後部にカメラがあったのは確かだけど、他の楽器の所にマイクはないのでもしかして局所的にPAシステム使ってた(?_?)などと疑ってしまったです。

終わりに残念な部分を書いておこう。
歌手の半分ぐらいはヘンデル先生のアリアを歌うにはまだ修行不足なようだった。今後の修練に期待します(+_+)
それから全体に喜劇仕立てなんだよねえ。舞台の展開もドタバタしているし。それはいいんだけど、クレオパトラがなんだか権力が好きなだけのキャピキャピ娘にしか見えないのには困ったもん。これはダニエル・デ・ニース版が当たりを取った悪影響だろうか。
中盤、チェーザレが死んだと誤解したあたりは良かったのだけど、その後また元に戻ってしまった。いくら、必ずしも原作者の意図に沿う必要がないとはいっても、これじゃヘンデル先生も浮かばれめえってなもんだ。

--と文句をつけたが、今後もバロックオペラをよろしくお願いしまーす(^人^)


ところで、この公演で新国の中劇場は全くバリアフリーではないことに初めて気付いた。客席の傾斜がかなり激しいのに出入り口は後ろしかなくて、前の方の座席に行くにはその急な階段を降りていくしかない。
芝居なら若い人も多いだろうが、二期会のオペラとなると高齢者多数。杖を突いたお年寄りが係員に案内されて必死に階段を上り下りしていたのだった。
そんな古い施設でもないのに、いやしくも「国立劇場」がこの有様はどうよ。さらに劇場入口にたどり着くまでもやたら長い階段で気に入らねえよ<`ヘ´>


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2015年6月 4日 (木)

「セッション」:私はあなたの犬になりた~い

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監督:デイミアン・チャゼル
出演:マイルズ・テラー、J・K・シモンズ
米国2014年

オスカーの助演男優賞を始めJ・K・シモンズが演技賞を総ナメにして話題になったこの映画、絶賛意見多数の中でミュージャンが批判して騒動になった事もあって、大いに期待して見に行った。

しかし結果は……こりゃとんでもないモンを見ちまったな、というのが正直なところである。
例えて言えば、中華屋で麻婆豆腐を頼んだらやたらに辛過ぎて、豆腐の味も野菜や肉も何も分からなかったというのと同じだ。「あ~辛っ(~Q~;)」で終了。

音楽学校でジャズ・ドラマーを目指すもあまりパッとしない若者が、名物教授に彼のクラスのバンドへと抜擢される。
だが、その教授は実は『フルメタル・ジャケット』の鬼軍曹みたいなヤツだったのだ~っ、ウギャーッ(☆o◎;) そして、若者をシゴキまくりイジメまくるのであった。
追い詰められた彼は「芸のためには女は要らぬ」とばかり、折角できたカノジョをも振ってしまうのであった。勿体なや(>_<)

まるでスポ根マンガか『ガラスの仮面』かみたいな展開であるが、ここで不思議なのは件の教授がバンド全体の演奏とか曲の仕上がりとかには全く気を留めてないことである。普通、チームの監督とか芝居の演出家だったら試合やステージ自体を壊すようなことはするはずはないのだが、才能があるかどうかも分からないのドラマーの卵にそれをやっちゃうのである。
意図不明である。全てをブチ壊しても構わないという破壊願望を持っているとしか思えない。大体にして舞台の上のまんじゅうを泥団子にすりかえるような事を月影先生がするかっていう話ですよ。
教師として、バンドの指揮者としても完全失格であろう。

しかし、この映画ではそれはどうでもいいことなようだ。

優しいが冴えない父親の下では世に出ることはできない。最初から母親は不在で、女の子も切り捨てて、若者はもう一人の強大で厳しい父を選ぶ。
ラストの長いソロ演奏の結末は、決して試合に勝って天才を発揮したとか、互いに和解したなどというようには見えない。飼い主に骨を遠くに投げられて、咥えて戻ってきた子犬が褒められるようなもんである。
その証拠に最後の若者の表情は飼い主にすり寄る子犬の如き恭順と従属の喜びにあふれているのであった。
「ご主人様、ようやくできました
それだったらエンドクレジットに流れるのはイギー・ポップの「アイ・ワナ・ビー・ユア・ドッグ」の方がふさわしいだろう。

さらに一番の問題は作中で演奏されている音楽がどうにもつまらないことである。見ている途中もいいとは感じないし、見終わった後もまた聞きたいなどとは思わない。こんなつまらないものに必死になっているという登場人物たちはなんなのだろう。
そんなにリズムがピッタリじゃなくちゃイカンのなら、打ち込みでも使うか、巨大なメトロノームでも置いとけばいいと思っちゃう。

『フォックスキャッチャー』はレスリングが主題の映画ではないが、その試合や練習の場面は迫力があった。『3月のライオン』で、将棋の場面が手抜きだったら興ざめだろうよ。

さらに、他の感想を読むと教授の過激で刺激的な言動がこの映画の全てであるかのような評価をされている。
『フルメタル・ジャケット』は鬼軍曹の登場する前半だけを高く評価し、後半が詰まらないとする意見をよく見かけるが、その理由が初めて分かった。
本来、あの映画では前半後半は互いに補完関係にあって、双方があって初めて成り立つはずである。しかし「刺激」だけを基準にして見たら、なるほど後半は退屈だろう。

でも、辛いものだけを食いたいなら麻婆豆腐じゃなくて唐辛子でもかじってればよいのではないか?

J・K・シモンズは確かにオスカー獲得も納得の演技である。
彼を初めて見たのは、監獄ドラマの『オズ』で恐ろしい囚人シリンガーを演じた時だった。どのくらい恐ろしいかというと、道で100メートル先に彼を見かけても、ギャーッと叫んで直ちに逃げ出すほどだ。もっとも、その後『クローザー』の食えないオヤヂで笑わせてくれたりもしたが。ようやく公に認められてメデタイこってす。
シモンズの陰で割を食ったのは若者役のマイルズ・テラーだろう。ドラムも叩きまくって熱演なのにねえ。レッドカーペットの写真見たら、普通に好青年であった(ただ、あの顔の傷は?)。これからも頑張って下せえ。


辛味度:9点
旨味度:1点

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