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2015年8月

2015年8月31日 (月)

「アリスのままで」:ボケは来ても心は錦--だといいなあ

150830
監督:リチャード・グラツァー、ワッシュ・ウェストモアランド
出演:ジュリアン・ムーア
米国2014年

『ブルージャスミン』のケイト・ブランシェットと同様、アカデミー賞の主演女優賞当確と言われて、実際受賞したのがこの映画におけるジュリアン・ムーアである。
で、こちらも彼女の名人芸的な演技を堪能するのが鑑賞の中心となる。

若年性アルツハイマーであることが判明したヒロインは、50歳で発病して急速に症状が進む。大学での教職も続けることができなくなり、辞めることになる。
半分の確率で子供にも遺伝するし、しかも因子が遺伝したら発祥確実というハードな病気なのだ。
家族の中に困惑が広がる。特に夫は50歳代ったらまだまだ働き盛りな時だ。一方、それまで不仲だった末の娘とは距離が縮まる。

特徴的なのは、病気の描写を外からでなく、ヒロインの内面から捉えていることだろう。だから、仕事や対人関係の大失敗などはあまり大きく描かれない。ほとんどは「当惑」として観客も彼女と同じように体験していくことになるのだ。

映画は「知」を扱う職業の人間が徐々に知を忘却していく過程を見せる。しかし、作り手の側はそれでも何かはその人の中に残るはずだと主張しているようだ。

ただ50歳で発病して、寿命から考えればこのままあと30年は生きることになる。これは厳しい(ーー;)
症状に徘徊や妄想とかなくてよかった。少し前の新聞に「土・日曜の休みは痴呆症の父親の散歩に付き合って終わる」という記事が載ってたよなあ。

家族役の助演陣もJ・ムーアを脇から支えていた。
そういや、A・ボールドウィンは偶然にも『ブルージャスミン』でも夫役だった。彼は「知力財力はあるがいざとなると頼りにならんヤツ」みたいなのが定位置なのかね


夫婦の絆度:5点
親子の絆度:7点


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2015年8月30日 (日)

「舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに」

150829
会場:練馬区美術館
2015年7月12日~9月6日

舟越保武の名を知ったのは舟越桂の父親としてである。かつて訃報を聞いてから、たまに行く近江楽堂の中に置いてある彫像の作者であることに気付いた。

昨年「長崎26殉教者」のデッサンを見た時に、実物の記念碑の彫像も見てみたいと思った。この展覧会にそれが出品されているらしい(複製なのか?)ということもあって、終了が迫って来たのでで焦りつつ行った。

戦前はロダンぽい作品、戦後の代表作、そして半身不随となってからの頭部像と時代順に辿って行く。関連するデッサンも多数。全体的に見ごたえありだ。
赤みがかった大理石使った作品は表面が人肌っぽくて面白かった。

展示室には対称的な配置が意図的になされている。「聖セシリアと聖マリア・マグダレナ」。そして迫力の代表作「原の城」と「ダミアン神父」--向かい合って立っているのを見ると何だか似てくるような気がする……。

頭部像の幾つかは、作製のために同じ女性を描いたデッサンが並べられている。完璧に均衡のとれて完成したブロンズ像より、デッサンの方が面白く思えた。何やら紙からしみ出してくるよう表情が感じられるからだ。
それから、最後の部屋の左手によるゴツゴツしたキリストさんの顔の像も、ルオーの絵みたいで引き付けられる。
どうも私は完璧で瑕疵もない美は苦手なんだと自覚したのであった。

舟越桂が、父親が亡くなってからガラッと作風が変化してエロっぽいのやらグロテスクなのやらの作品を作り始めたというのは、やはり清廉にして偉大過ぎる父親の存在が重圧だったのであろうか。偉大な父など持ったことのない人間には想像もつかぬことだが。
なお、ニュースで皇后が来館して鑑賞した時に案内役を務めたことが報道されて、絵本編集者の末盛千枝子が長女だというのを初めて知った。

来館者は圧倒的に中高年女性が多数。中には解説書きの前に立ってずっと意見を戦わしている人たちも。後が詰まってますよ~
美術館前の公園には大きくてカラフルな動物たちが幾つも設置してあった。カバとかキリン、カメとかヘビとか。天気が良ければ子どもたちが乗ったりしがみついてるのだろうが、あいにく雨の肌寒い日で誰も遊んでなかった。残念。

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2015年8月28日 (金)

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(2D字幕版):逃走ではなく闘争を!!とマックスは言った

150828
監督:ジョージ・ミラー
出演:トム・ハーディ、シャーリーズ・セロン
オーストラリア2015年

その昔に「マッドマックス」シリーズは見ているが、既に記憶の彼方で霞がかかっている。そこで事前復習として『マッドマックス2』をTV放映で再鑑賞。なぜ『2』だけかというと、時間とデッキのハードディスクの余裕がなかったからである(^^ゞ
『2』『3』は映画館で見た気がする。覚えているのは『1』と『2』は内容の方向が別物で(主人公記同じだけど)、『3』は見た当時あまり面白くなかったということだ。(ティナ・ターナーの主題歌は当時大ヒットしてビデオクリップをよく見かけた)

再見した感想は……いやー『北斗の拳』ソックリじゃないですかっ(!o!)←冗談です、念為
この荒廃した近未来像は『ブレードランナー』が登場するまで、かなり広範囲に影響力を与えた。今見ると冷戦状況ももろに反映しているのも感じる。
物語は本当にあって無きがごとし、背景の説明もなし。石油持って行く先は一体どういう所なのか? それよりも精製施設を守った方がいいんでは?--なんて思っちゃうのはヤボかいな。善い奴は白系の衣装で、悪役は黒系というのも分かりやす過ぎだろう。
だけど、なんだよ面白いじゃねえかっ。こんなに面白かったとは驚きである(←何を今さら)。
それと、メル・ギブソン若いやせている!お肌もツルピカしているぞ。


さて、この度の新作だが『3』の続きじゃなくて、『2』のセルフ・リメイク仕様となっている。
基本的に一本道をタンク車引っ張っての追跡劇で、マックスは最初はやる気のない傍観者だが、それを行う集団を助けることになる、という点では全く同じだ。
道を行ったり来たりするだけの単純な話--なのに、なんでこんなハラハラドキドキ興奮するんだ(^^?) とにかくハイテンションである。そして感動したっ 映画見てこんなに感動したのは何年ぶりかぐらい。
ラストに至ってはもうウギャ~ッと叫びたくなった\(◎o◎)/!

私が見たのは普通のシネコンだったが、それでも音量がデカく、重低音がビシバシ響いて床を揺るがしていた。興奮度にはこれも関係あったかもしれない。
2度目に見た時は同じ系列の他所のシネコンだったが、そんなに大した音量ではなく、迫力も今イチだった。後で調べるとどうも小さなシアターで音響システムが違ったらしい。映像方式だけでなくて、音響も肝心だと今さらながらに思ったのであるよ(^^ゞ

そして単純な話にもかかわらず見終わった途端に、30個ぐらいいっぺんに語りたいことがドーッと頭の中にあふれ出てくるのだった。視覚的情報が多いからか?
そういや、登場して数カットで悪役の首領イモータン・ジョーがどんな人間か分からせてしまう(勲章でダメ押し)のは、なかなかの技だと思った。

クルマと武器のウンチクを力の限り傾けてもよし。
近年の若年層労働力搾取構造と重ね合わせるもよし。
ジョーの帝国にファシズムの典型を見るのもよし。
フェミニズムの立場から分析するのもよし。
過去の映画の引用場面を数えるもよし。
何でもありだ

人海戦術のアクションは口アングリ状態の凄さ。スタントマンの方々はオツである。
女戦士フュリオサはカッコ良すぎ~ 姐御と呼ばせてくだせえ。一生付いて行きますっ。
ニュークスの顔はどこかで見たなあとずーっと感じてて、後で調べたら『ウォーム・ボディーズ』の主人公だったのね。前半のイカレた「ヒャッハー(@∀@)」モードから、後半の「ボクちゃん、もうダメ(;_;)グスン」と涙ぐんでる弱気な若者までお見事な演技。今後も期待であろう。
女の子たちの中でエキゾチックな顔立ちをしている子は、なんとレニ・クラヴィッツの娘だというのは驚いた。もうあんな大きな子がいるんかい……。私も歳取るわけだわな。

マックス×フュリオサ×ニュークスの三人が鎖を挟んで三つ巴で闘う場面は非常によく出来ている。やってる方は大変だろうが。
なお、マックスとフャリオサ役のスタント同士がこの撮影を機に結婚したそうな。メデタイこって だが一方でトム・ハーディとシャーリーズ・セロンは喧嘩してたらしい。まあ、彼女ぐらいの女優さんはプライドが高いだろうからなあ--などと思ったが、なんとハーディは監督とも喧嘩したらしい。はて、トムハの方がトラブルメーカーなのか?

ウォーボーイズが荒野からワラワラと湧いて追撃を始める様子を見ていると、なぜか『ホビット』のオークたちを連想してしまった。劣悪な環境と待遇でも律儀に戦うオークたち……。やはり同じオーストラリアの監督だから感性が似てくるのか(^o^;)
そういえばこの作品を「ハリウッド映画」とか「アメリカ映画」と言っている人が多いんだけど、これって「オーストラリア映画」だよね?

それから、火炎太鼓ならぬ「火炎ギター」には笑った。あれを「エネルギーが乏しいのにあんなことに電気を使うとは変」と文句付けてた人がいたが、昔から軍楽隊(ギリシャ・ローマ時代にはあったらしい)とか、戦闘の合図として楽器を使用とかあったのだから、別におかしくないはず。

とにかく大画面大音量で見たい一作である。で、監督は続編も作る気マンマンみたいだなー。


フュリオサ:10点
マックス:9点
ジョー:採点したくない

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2015年8月23日 (日)

「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」:強い敵と気の合わない味方、どっちに手を焼く?

150823
監督:ジョス・ウェドン
出演:ロバート・ダウニー・Jr
米国2015年

「アベンジャーズ」の第2作。
格闘技系とかスポーツものマンガでよく「敵のインフレーション」というのがあるけど、こちらではなんと「味方のインフレ」状態。なんかどんどん味方が増えていっちゃう。それぞれのシリーズのサブキャラとか、新登場とか続々加入だ。

こんなんでいいんですかっ! 数多くすればいいってもんではないのでは(?_?) 役者の出演料かさむし、そのうち味方100人敵1人なんてなっちゃうかも。
味方が増えた分、話が薄くなったような気がする。物語の展開に求心力というものがない。画面に色んな物がたくさん出ているけど、どこを見たらいいのやら分からないのだ。
味方同士の内紛も取ってつけたようなイメージあり。

各シリーズをちゃんと見ていないせいか意味不明の部分もあった。例えば、ソーが泉に行って宝石を発見するところ。あれはなんだったのか。その後には登場してこないと思うが。

それから、敵キャラの意図も不明。これは邪悪な人工知能が最強のボディを欲したということでいいんだよね。でも、どうせネット上に存在してるんだったら、次々にボディを乗り換えて逃走してった方がいいんじゃないのと思ってしまう。ん?『攻殻』の見すぎかしらん。

見ている間は面白いことは面白いけど、終わるとなんだかあまり印象に残らない映画だった。次作見に行くかはビミョーなところである。


スタークのTシャツ:9点
ロマノフ&ハルク恋の行方:5点


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2015年8月19日 (水)

「ソラリス」

150819
著者:スタニスワフ・レム
ハヤカワ文庫2015年

感想を書くのは映画やコンサートに押されて、本はどうしても後回しになってしまう。刊行されてすぐに読んだのに、ここまで時間が開いてしまった。

飯田規和訳の『ソラリスの陽のもとに』は、大昔にご近所の公共図書館で借りて読んだ。早川書房の『世界SF全集』(1968年)である。後に文庫版が出た時に買おうかと思って、結局SF全集のその巻を買うことにした。ハードカバーなのに値段があまり違わないうえに、全集の方にはもう一つ長編『砂漠の惑星』(『砂の惑星』と違うので注意)が収録されているからだ。実は『砂漠~』も非常に気に入っていたのだ。
もっとも買った後、ほとんど開かなかったのだが……。

この度の『ソラリス』は、沼野充義訳で2004年に国書刊行会から出版されたもの。それがハヤカワ文庫から再刊された。飯田訳では割愛された部分もある完訳版ということで、××年ぶりに読んでみた。

冒頭はよく指摘されているようにホラー小説のようである。前回読んだ時は全く感じなかったのだが。
ソラリスは表面全てが「海」に覆われた惑星だ。その上空に浮かぶステーションに「私」が到着すると、何やら荒廃した雰囲気が漂っている。しかも、3人いた研究者のうち一人は死亡、もう一人は姿を隠し、残った一人は挙動不審である。
さらにステーション内にはいるはずのない何者かが出没……(>O<)ギャ~~ッ!
そして、遂に「私」の元にもそれは来るのだ

もう一つ感じたのは、人間とソラリスの遭遇経過や、「ソラリス学」の系譜をたどる部分がかなりページを費やしていることである。こんなに長かったっけ(?_?)と思う程で、人によっては退屈で投げ出してしまうかもしれない。しかし、自分でも意外だが結構面白くこの部分を読み進んだ。

執拗なまでに反復される二重太陽からの陽光の描写、刻々と変わる海の形状、一番恐ろしかったのは終盤近くで声が聞こえてくる場面である。やはりここは幽霊屋敷なのか。
確かにそこで人間は過去の亡霊と遭遇するのだ。

そもそもソラリスの海全体が一つの巨大な生命体という設定が驚くべきものがある。
作者の意図は次のような一文に現われている。

われわれは宇宙を征服したいわけでは全然なく、ただ、宇宙の果てまで地球を押し広げたいだけなんだ。(中略)人間は人間以外の誰も求めてはいないんだ。われわれは他の世界なんて必要としていない。われわれに必要なのは、鏡なんだ。(中略)そこで自分自身の理想化された姿を見つけたくなるのさ。

人間は他の世界、他の文明と出会うために出かけて行ったくせに、自分自身のことも完全に知らないのだ。

ソラリスは絶対的な他者であり、敵対的でも友好的でもない。タコとか爬虫類とか分かりやすい生物に似てはいない。そもそもコミュニケーションが取れるのかも不明である。
この小説の書かれた前にもまた書かれた後にも生み出された幾多の物語。そこに出現する友好的で親しみやすい、あるいは敵対的で醜悪な地球外生物、というような範疇から全く外れている。

遥か宇宙へ出て行って他の知性体との接触を目指すが、折角遭遇した相手は予想外の形状でコンタクトもできない。しかも、向こうが一方的に送り付けてきたのは人間の内部に潜んでいるものなのである。
わざわざ手間をかけて宇宙へ出かけ、結局遭遇したのは自分自身である、というのは大いなる皮肉だ。

しかし、意図は必ずしも結果を保証しない。読み手は作者の意図を越えて様々に解釈することが可能である。
それが、他のレムの作品に比べてこの『ソラリス』がポピュラーな人気を博している理由だろう。

レムは恐らく映画好きだと思われる。訳者の解説によると二本の映画化作品(タルコフスキーとソダーバーグ)両方とも気に入っていないと言明している。また別の小説(『枯草熱』だっかな?)では主人公の活躍がハリウッドで映画化されて内容が興ざめだった、みたいなことが述べられている。映画に興味が無かったら、そんなことをわざわざ書かないだろう。

私は二本ともロードショー公開時に見た。確かに、原作の立場から見ると「う~む」と思わざるを得ない。
そういや、タルコフスキー版の方は多分初めて自分一人で見に行った映画じゃないかと記憶している。上映館は岩波ホールで、当時から古~っぽいイメージだった。(出来たばかりだったと記憶してるけど……)

もし3回目の映画化があるのなら、今度はホラー映画仕立てでやると面白いだろう。『シャイニング』みたいな調子で、「到着一日目」という字幕がドーンと出てきたりするとコワくていいかも。


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2015年8月16日 (日)

「涙するまで、生きる」:男同士の絆は民族の壁を越える

150816
監督:ダヴィド・オロファン
出演:ヴィゴ・モーテンセン
フランス2014年

A・カミュの短編を映画化したもの。正直なところ、カミュがアルジェリア出身とは知りませんでしたっ
舞台は1954年のアルジェリア。主人公は元兵士だが、今は山あいの村で小学校を開いている。生まれも育ちも当地で、第二次大戦中はアラブ人たちと共に戦った彼は、原作者を反映してると言っていいだろう。しかし独立戦争が勃発している今はこの地にとどまれるかどうかも微妙である。

ある日憲兵がやって来て、殺人犯であるアラブ人の青年を町の裁判所まで連れて行くように頼まれる。色々と事情があるらしく、仕方なく主人公は小学校を休みにして村を後にする。
復讐のために村人から追跡されたかと思えば、独立側のゲリラに捕まり……と一日で終わるはずの旅は迂回して長くなっていく。

荒涼たる風景と厳しい自然(ロケ場面は天気はいいけどかなり寒そうなのが窺える)の中で、静謐な時間を二人は歩んでいく。それだけに間に挟まれる戦闘シーンは強烈である。反攻する仏軍の容赦ない殺戮の後、軍の中にいるアラブ人兵士に「お前は彼ら(フランス軍)がいなくなったらその後どうするのか」とアラビア語で主人公は問いかける。それは、彼自身にも所在はないのを意味している。
青年は裁判で死刑になるのを望んでいる。主人公は「生きろ」と励ますが、一方で彼はこの地から去るしかない。

ロードムービー風に、荒野をさすらう内に文化と民族を越えて互いに理解する過程が描かれる。ラストでまた孤独に戻った主人公の姿には泣けた(T_T)

主役のヴィゴ・モーテンセンはフランス語とアラビア語を話し、複雑な背景を持つ人物を演じ、役者としての力量を示した。
この時期にちょうど続けて出演作が数作日本公開され、時ならぬ「ヴィゴ祭り」の様相を呈した。近年はイメージや顔の造作が似ているマツミケに押されている感があるけれど、彼も負けずに頑張って欲しいもんである。
音楽はニック・ケイヴが担当。アンビエントっぽいサウンドが荒野に合っている。


--と、ここまで褒めてきたのだが、実は終わり近くに何やらモヤモヤする場面が現れるのだ。
途中で青年は女を「未体験」であることを告白する。そこで、主人公は立ち寄った町で娼館に入って、自らと共に「体験」させてやる。娼婦の部屋からそれぞれ出てきた二人は旅の汚れも落とし、小ざっぱりとして、顔を見合わせて笑う。

ここを見て「男は手軽に再生できる場があっていいのう」と思った。しかしよくよく考えると、娼婦の「体験」を土台にして互いの友愛を高めている……まさにこれは「男同士の絆」に当てはまるのではないか。
つまり、異民族である二人が壁を乗り越え相互理解に至ったのは「男同士の絆」によるものなのだ。逆に言えばその「絆」は民族の壁さえ越えるものなのである。

青年はこの「体験」を契機に死から生へと傾いていく。
帝国主義を背景にした物語では「植民地」とはしばしば「女」の比喩を与えられる。それを思えば植民地の「男未満」の青年が「男」になったのなら、独立して生きていくのは当然であろう。
翻って考えると、主人公は小学校で行なっているのはフランス語による授業であり、冒頭では世界史を教えているものの、地理はフランスの国土をやっているのである。つまり、彼もまた植民地の先兵だといえる。

異民族・異文化の壁を乗り越えたのが男同士の友愛であるという物語の背後には、植民地主義の真実が潜んでいる。とすれば、この映画に登場するのがほとんど男ばかりなのもむべなるかなだろう。

あと、このタイトルはひどい ほとんど何も示していない。単なる記号と変わらないだろう。例えば「生きるまで涙する」でも「涙しても生きる」でも「生きて涙する」でも全く構わない(原題は「人々から遠く離れて」か)。なんとかしてくれえ(-"-)


友愛度:7点
荒野度:9点


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2015年8月13日 (木)

「グラン・モテの系譜」:歴代「副」実力比べ

150813
演奏:コントラポント&フォンス・フローリス
会場:石橋メモリアルホール
2015年8月2日

花井哲郎が指揮する合唱隊フォンス・フローリスとコントラポントの定期演奏会、今回はフランス宮廷礼拝堂で演奏された宗教曲グラン・モテを特集だ。礼拝堂の「副楽長」だった4人の作曲家の作品を演奏した。なぜに「副楽長」かというと、「楽長」とは実は名誉職だったので、本当のトップは「副」の方だったそうな。知らなかった!

その4人はデュ・モン、ド・ラランド、カンプラ、モンドンヴィルで、この順番の通り時代順のプログラムだった。
ルネサンス期のポリフォニーの影響が感じられるデュ・モンから、いかにもフランス風の壮麗さを歌い上げるド・ラランド、カンプラ--。
そして、古典派に近いモンドンヴィルとなると、もはやフランスらしさが薄れる方向に進むのが興味深いところである。

で、私個人はデュ・モンが一番良かったかなあ、と思ったのであります(^_^;) 
「バビロンの流れのほとりで」の最後の合唱は、器楽と共に大きなうねりのようなものを感じさせた。
普段、あまり聞かない大編成の合唱もこうして聞くと心地よい。会場も適度な広さだったせいもあるだろう。
ステージに近い座席に座ってみたら、テオルボの音がよく聞こえた。

チラシの方では独唱者に入っていた花井尚美女史が突如お休みで別の方と交代。どうしたのかしらん。

この日は非常に暑い日でマイッタ(@_@;) 上野駅の周辺は地獄の釜状態、熱風が吹きまくっていたですよ


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2015年8月 9日 (日)

「ジェームス・ブラウン 最高の魂(ソウル)を持つ男」:芸のためなら母も友人も過去も捨てて、また拾う

150809
監督:テイト・テイラー
出演:チャドウィック・ボーズマン
米国・イギリス2014年

最近見た伝記もの(ミュージシャンに限らず)の中では一番出来が良くて満足できた。いや満眼・満耳というべきか

冒頭は中年期、自分の経営する店にラリって乱入して銃をぶっ放し逮捕されてしまうという炎上エピソードから開始する。その後、極貧の子ども時代や、ベトナム戦争で慰問公演に突撃など、時間軸を頻繁に上下して話が進む。もっとも視覚的な面で区別がつくようになっているので、分かりにくいということはない。

140分というのは結構な長さだが、ライヴ場面も多く有名曲をたっぷり聞けるので私のようなJB初級者にも楽しめた。
ステージ部分は既存の映像を参考にしているのだろうが、主演のチャドウィック・ボーズマンのダンス・パフォーマンスはもちろん、編集もリズミカルでグイグイ引き付けられる。
音楽自体は、楽器については当時の録音を使い、JBのヴォーカル部分だけ他の歌手が吹き替えたということでいいのかな?(パンフ買わなかったし、ネットで調べると諸説紛々でよく分からないのよ)
とにかく迫力がすごい。

伝説のボストン公演も再現してある。キング牧師の暗殺直後の公演で、暴動が起こるは必至。中止を勧告されたけども敢行したというものだ。しかし、ステージ上に市長や警官隊まで控えていたとはビックリである。さらにTVで生中継されてたとは知らなかった。そりゃ、確かに暴動の危険性ありますわな(*_*;

一方、掘立小屋に暮らす少年時代は悲惨の一言だ。父親の暴力で母親は出て行ってしまい、やがて父親からも捨てられて売春宿を経営する叔母に預けられて育つ。
長じて名曲「マンズ・マンズ・ワールド」で「やはり女がいなくては--」と歌う場面に、些細なことでJBが妻を殴る姿が挿入される。母親が殴られるのを目撃し、さらに自分も父親に殴られたというのに、なぜ自らも繰り返すのか。その矛盾を容赦なく描く。

また、天才には定番の事態--周囲に対する要求が高過ぎて仲間のミュージシャンの離反を招くエピソードも描かれるが、天才というだけでなく彼の内に潜む妄執が駆り立てているようでもある。

JBがカメラ目線で喋る場面も度々出現。これは『ハウス・オブ・カード』の影響か?
また、金持ちの白人たちが黒人の少年同士をリングで闘わせてそれを見物する(こんなこと本当にやってたのか)という回想が登場する。闘ううちに背後の楽団(もちろん黒人の)が突然イージーリスニングから煽り立てるようなジャズを演奏し始め、リアリズムから逸脱していく。同じような手法が散見されて面白い。

監督は『ヘルプ 心がつなぐストーリー』と同じ人だが、いささかどっちつかずで生ぬるい印象もあった前作と違って、こちらは圧倒的パワーを出している。

JB役のC・ボーズマンは『42 世界を変えた男』で、やはり実在の人物(野球選手)を演じていた。
ハッキリ言って体格も顔も全くJBとは似ていないのだが、強烈なキャラクターを再現し、ついでにあのオーラまで漂わせてしまうのは恐るべし。
コンサート会場の通路を一人歩む場面では、天才の自負と孤独がメラメラと立ちのぼって見えるのだった。
にも関わらずアカデミー賞の男優賞にかすりもしなかったのはなんだかなー(-_-)である。まあ黒人枠は『グローリー』に取られちゃったから仕方ないのか。

ともあれ、JBの濃い~人生に満腹状態となって終了したのであった。

リトル・リチャードがおネエ様とは知らなかった。彼が予言した「白人の悪魔」は結局登場しなかったが、尺の関係で割愛されたのか。
ユダヤ人のマネージャー(ダン・エイクロイドとは気づかず)がいるけど、こちらは悪魔どころか「いい人」として描かれている。実際はどうだったのだろうか。


芸能度:9点
ライヴ度:10点


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2015年8月 6日 (木)

「ゲルマニア」

150806
著者:ハラルト・ギルバース
集英社文庫2015年

ドイツ産ミステリ。ジャンル的には警察捜査ものになるか。
珍しいのは設定である。舞台は1944年の空襲下のベルリン。元刑事の主人公はユダヤ人で公職を追われたが、「疎開」(収容所へ送られること)を免れているのは妻がユダヤ人ではないからである。

ある晩、突然に親衛隊将校に殺人現場に連れて来られる。そこにあったのは極めて残虐な方法で殺された死体であった……。将校は有能な刑事だった彼に捜査の助けを求めたかったのだ。背景にはそれまでの警察が隅に追いやられ、親衛隊情報部、国家秘密警察(ゲシュタポ)が割り込んで混乱をきたしているということがある。
主人公は久々の事件に刑事魂が復活、捜査するうちに連続殺人ではないかと推理する。おまけに、役得で本物のコーヒーにありつけたりもする。

作者は1969年生まれということだが、かなり当時の市民生活が書き込まれている。頻繁な空襲、街の破壊、物資不足、ユダヤ人アパートなど。それと共にこんな描写もある。

 その日はじめて、人々は自らの国の虜囚となったことに気付いた。ヒルデも路面電車で黒焦げになったシナゴーグのそばを通りすぎた。路面電車に乗っている人々が勝利に沸くことはなかった。「反ユダヤ主義はいいが、やりすぎだ」と、乗客の誰かがつぶやいた。だが同調する者はいなかった。みんな、臆病だったのだ。

うむむ、過去の他国の話とも言い切れない(ーー;)

この手のミステリは犯人の意外性よりは、どうやってたどり着くかという過程に重きが置かれるものだ。だが、それにしてもラストは緒と性急すぎた感がある。
でも読ませる力のある作者なので、続編が出たらよろしくお願いしまーす。


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2015年8月 5日 (水)

「アルハンブラの薔薇」:異国の響き

150805
銀のリュート伝説
演奏:常味裕司ほか
会場:ムジカーザ
2015年7月25日

つのだたかし企画(ってことでいいんですよね?)のウードを中心にしたコンサートである。
ウードはペルシャを起源としていてリュートや琵琶の祖先ということらしい。ヴァイオリン、そしてタンバリンのようなパーカッションであるレクという楽器とのアンサンブル曲、つのだ演奏のリュートやラウタとの共演、さらにはヴォーカルも入るなど、アラブの古典曲、民族音楽などが演奏された。
アラブといっても、現在のスペイン半島で当時の文化は栄え、その洗練度については他のヨーロッパの国は足元にも及ばなかったという。音楽についても同様だったのだろう。

楽器の歴史や、ヴァイオリンでもチューニングが違う、などの話が聞けて面白かった。ただ期待していたほどには古楽系ではなく(アンサンブル曲は近代っぽい)、そこが個人的には残念だった。

後半は米国の作家アーヴィングが19世紀中頃に発表した「アルハンブラ物語」から「銀のリュート」についての物語の朗読があった。その合間に古典歌曲を挟んで演奏。
女性歌手がちょっと不調っぽいのと、物語自体があまりにロマンティック過ぎてとてもついていけない(@_@;)ので、こちらもちょっと残念無念な感じだった。
まあ、普段接することのない音楽を聞けてそこら辺は有意義だったです。


この日もかなり暑かったが、会場はエアコンがほどよく効いていた。しかし、最前列のオヤヂ氏二人が暑い暑いとウチワで扇ぎまくっていた。長袖のシャツにさらに長袖のジャケット着ていれば、そりゃ暑いだろう。なんで脱がないのかしらん?などと思ってしまった。

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2015年8月 2日 (日)

「ハンガー・ゲーム FINAL:レジスタンス」:引き延ばし作戦で味は薄いがもうけは2倍となるか

150802
監督:フランシス・ローレンス
出演:ジェニファー・ローレンス
米国2014年

原作は三部作なのになぜか映画は四部作(正確には3作目が前後篇に分かれる)になっちゃった「ハンガー・ゲーム」。遂に戦争開始だ~\(◎o◎)/!ってことで、ヒロインのカットニスが闘いまくるのかと思ってたら、当てが外れた。

捕虜の身となったピータを案じて悶々としつつも、なぜか反乱プロモーションビデオの撮影にいそしむのであった。
えっ、闘わないんかいっ
まあ、確かにジャンヌ・ダルクも実際に戦闘に参加したわけではないからねえ……これでいいのだよ(無理やり納得する)

でも、J・ローレンスが溌剌とアクションこなすところが良かったのに、これでは魅力半減ではないかね。残りの場面も、戦中の窮乏生活みたいな描写だし。
代わりに初登場のJ・ムーア扮する反乱区の首相が、演説場面などでさすが史上初の三大映画祭女優賞制覇は伊達ではないっ!(^^)!という貫録を見せつけております。

一方、パッとしなかったのはフィリップ・シーモア・ホフマン。これが遺作ということらしいけど、後篇には登場するのかな(?_?) 撮影終了してなかったと聞いたが。
なんか、演技というよりストーリー上でほとんど絡んでこないのである。後半出せないから、こんな感じになっちゃったのかねと邪推しちゃう。

そもそも無理やり前後篇に引き延ばしたという説もあるぐらいで、確かに密度が薄いのである。「首吊りの木の歌」は良かったけど……。

しかし、ここまで来てしまったらもう後戻りはできない。続編を見るしかないのだよ。是非ともカットニスには大統領と一騎打ちを派手に見せてもらいたいもんだ。


溌剌度:5点
次回に続く度:8点

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2015年8月 1日 (土)

「コレッリ!!」:文化果つる地にも名演あり

150801
演奏:寺神戸亮&チョー・ソンヨン
会場:松明堂音楽ホール
2014年7月18日

この会場で、寺神戸氏が韓国出身の鍵盤奏者との組み合わせでやるのは2回目とのこと。そういや、確か前回はパスしちゃったような……(^^ゞ

前半はコレッリの教会ソナタ、後半は室内ソナタで、合間にチョー女史がD・スカルラッティの独奏曲を弾くという構成である。
寺神戸氏の話を聞くと、コレッリ前とコレッリ後ではヴァイオリン演奏が激変したと言ってよい印象。そんな熱のこもった演奏を聞かせてくれた。
湿気の多い日だったので、楽器の調整は大変だったと思われる

対して、スカルラッティは技巧的で洗練されてて、ほとばしる才気というものをそのまま音楽にしたようである。チョー女史は率直、何の邪念もないストレートさでそんなスカルラッティの世界を表現した。
ただ、正直なところこの作曲家は隙がなさ過ぎて、個人的にはどうも苦手である。

ラストが「フォリア」である。昨年、「楽器と巡る音楽の旅」レクチャー・コンサートでやはり同じ曲を聞いた時も、楽器を弾き倒している(!o!)と感じたほどの迫力だった。
で、これまで何回も寺神戸氏の演奏で接しているにもかかわらず、やはり今回も熱の塊が奔流のようになっている激越さ。特に前の方の座席で間近だったせいもあるだろうか、聴いているうちに目に涙がにじんできた。
「過激」と言ってもイタリア過激派とは全く違う。流動する音そのものの衝撃。果たしてコレッリもこんな風に弾いたのか、なんて思っちまいました。

だがそんな演奏だったにも関わらず、会場は6割の入り……4人掛けの長椅子に二人ずつぐらいしか座っていなかったのだよ(T_T)

一体これはどうしたことかっ(机をバンと叩く)
本来ならば、埼玉の古楽ファン全員は新所沢に参集すべし(*`ε´*)ノ☆
これだから埼玉は文化果つる地などと言われてしまうのであるよ


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聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 8月版

こう暑いと、行こうかなと思ってたコンサート行くのやめちゃったりして(^^;

*2日(日)グラン・モテの系譜(フォンス・フローリス+コントラポント)

他にはこんなのも。
*2日(日)織りなす想い(夏山美加恵ほか)
*7日(金)テーブル囲んでマドリガーレ(セステット・ヴォカーレ)
23日にもあります。
*9日(日)洋館で楽しむバロック音楽 ダブルリーズ
*13日(木)ラ・ムジカ・コッラーナ
チラシを見る限りでは、イタリア過激派系っぽい(^^?)
*18日(火)いま、君に逢いたい!(高本一郎ほか)
*22日(土)聖母マリアの光(佐藤裕希恵ほか)
*28日(金)オルフェ 18世紀ベルサイユ宮殿にて王に捧げられた音楽(高橋美千子ほか)
これは聞いてみたいけど、まだチケット入手してません。

今月はなんとラ・プティット・バンドの「マタイ」が発売とな

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