「ソラリス」
感想を書くのは映画やコンサートに押されて、本はどうしても後回しになってしまう。刊行されてすぐに読んだのに、ここまで時間が開いてしまった。
飯田規和訳の『ソラリスの陽のもとに』は、大昔にご近所の公共図書館で借りて読んだ。早川書房の『世界SF全集』(1968年)である。後に文庫版が出た時に買おうかと思って、結局SF全集のその巻を買うことにした。ハードカバーなのに値段があまり違わないうえに、全集の方にはもう一つ長編『砂漠の惑星』(『砂の惑星』と違うので注意)が収録されているからだ。実は『砂漠~』も非常に気に入っていたのだ。
もっとも買った後、ほとんど開かなかったのだが……。
この度の『ソラリス』は、沼野充義訳で2004年に国書刊行会から出版されたもの。それがハヤカワ文庫から再刊された。飯田訳では割愛された部分もある完訳版ということで、××年ぶりに読んでみた。
冒頭はよく指摘されているようにホラー小説のようである。前回読んだ時は全く感じなかったのだが。
ソラリスは表面全てが「海」に覆われた惑星だ。その上空に浮かぶステーションに「私」が到着すると、何やら荒廃した雰囲気が漂っている。しかも、3人いた研究者のうち一人は死亡、もう一人は姿を隠し、残った一人は挙動不審である。
さらにステーション内にはいるはずのない何者かが出没……(>O<)ギャ~~ッ!
そして、遂に「私」の元にもそれは来るのだ
もう一つ感じたのは、人間とソラリスの遭遇経過や、「ソラリス学」の系譜をたどる部分がかなりページを費やしていることである。こんなに長かったっけ(?_?)と思う程で、人によっては退屈で投げ出してしまうかもしれない。しかし、自分でも意外だが結構面白くこの部分を読み進んだ。
執拗なまでに反復される二重太陽からの陽光の描写、刻々と変わる海の形状、一番恐ろしかったのは終盤近くで声が聞こえてくる場面である。やはりここは幽霊屋敷なのか。
確かにそこで人間は過去の亡霊と遭遇するのだ。
そもそもソラリスの海全体が一つの巨大な生命体という設定が驚くべきものがある。
作者の意図は次のような一文に現われている。
われわれは宇宙を征服したいわけでは全然なく、ただ、宇宙の果てまで地球を押し広げたいだけなんだ。(中略)人間は人間以外の誰も求めてはいないんだ。われわれは他の世界なんて必要としていない。われわれに必要なのは、鏡なんだ。(中略)そこで自分自身の理想化された姿を見つけたくなるのさ。
人間は他の世界、他の文明と出会うために出かけて行ったくせに、自分自身のことも完全に知らないのだ。
ソラリスは絶対的な他者であり、敵対的でも友好的でもない。タコとか爬虫類とか分かりやすい生物に似てはいない。そもそもコミュニケーションが取れるのかも不明である。
この小説の書かれた前にもまた書かれた後にも生み出された幾多の物語。そこに出現する友好的で親しみやすい、あるいは敵対的で醜悪な地球外生物、というような範疇から全く外れている。
遥か宇宙へ出て行って他の知性体との接触を目指すが、折角遭遇した相手は予想外の形状でコンタクトもできない。しかも、向こうが一方的に送り付けてきたのは人間の内部に潜んでいるものなのである。
わざわざ手間をかけて宇宙へ出かけ、結局遭遇したのは自分自身である、というのは大いなる皮肉だ。
しかし、意図は必ずしも結果を保証しない。読み手は作者の意図を越えて様々に解釈することが可能である。
それが、他のレムの作品に比べてこの『ソラリス』がポピュラーな人気を博している理由だろう。
レムは恐らく映画好きだと思われる。訳者の解説によると二本の映画化作品(タルコフスキーとソダーバーグ)両方とも気に入っていないと言明している。また別の小説(『枯草熱』だっかな?)では主人公の活躍がハリウッドで映画化されて内容が興ざめだった、みたいなことが述べられている。映画に興味が無かったら、そんなことをわざわざ書かないだろう。
私は二本ともロードショー公開時に見た。確かに、原作の立場から見ると「う~む」と思わざるを得ない。
そういや、タルコフスキー版の方は多分初めて自分一人で見に行った映画じゃないかと記憶している。上映館は岩波ホールで、当時から古~っぽいイメージだった。(出来たばかりだったと記憶してるけど……)
もし3回目の映画化があるのなら、今度はホラー映画仕立てでやると面白いだろう。『シャイニング』みたいな調子で、「到着一日目」という字幕がドーンと出てきたりするとコワくていいかも。
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