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2015年10月

2015年10月31日 (土)

聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 11月版

粛々と冬が近づいてきます

*17日(火)室内楽の夕べ ダブルリード楽器の饗宴(木の器)
オーボエ、ファゴット、リコーダー夢の共演。縦笛ファンは是非どうぞ。目指せ近江楽堂満員。

なんと今月チケット獲得しているのはこれだけ(!o!) 芝居数本の予定を入れちゃったもんで……
他にはこんなのもあり。

*4日(水)マラン・マレ連続演奏会(櫻井茂+桒形亜樹子)
*14日(土)バロック音楽のひととき(大塚直哉)
チェンバロ演奏とお話で千円ナリは安い。羽村市近隣のバロック・ファンは参集すべし。
*15日(日)ヘンデル メサイア(渡邊順生)
*17日(火)モンセラートの朱い本(ラ・ヴォーチェ・オルフィカ)
*21日(土)華麗なるバロック・オペラ(ジョン・エルウィスほか)
*  〃   D・スカルラッティ 悲しみの聖母(エクス・ノーヴォ)
*27日(金)タブラトゥーラ
*28日(土)ヴェルサイユ楽派、栄光の始まり(アトナリテ・クール)
*  〃   ドイツ・バロック 華やかなるフィグレーション(菊池かなえ&ミケーレ・ベネッツィ)

北とぴあ国際音楽祭開始ですよ。
28日の「ららら♪クラシック」はパイプオルガン特集。また、29日にはNHK-BSで「アルチーナ」の放送予定あり。これは録画保存案件ですね。

サイドバーの「古楽系コンサート情報」もご覧ください。随時更新で、今のところ来年の1月まで見られます。

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MUSEパイプオルガン特別講座 第2回 「オルガンの歴史、時代と楽器と作品」:素人はオルガンのストップに頭ぶつけて玉砕

講師:松井直美、梅干野安未
会場:所沢ミューズ キューブホール
2015年10月18日

所沢でパイプオルガンの講座がある、筆記具持参ということで、かなり勉強になりそうということで、第1回目は行ってないのだが、あえて参加してみることにした。歴史や楽器についてよく知らないので知識を深めたいというのもあった。

市民講座みたいな内容かと思ってたのだが、実際に行ってみたら全く違った(!o!)
ミューズでは以前、実際にオルガンを演奏する人に対して連続講習会みたいのをやっていて、要望があったのでその講義部分だけもう一度再開することにしたのだという。

で、配られた資料を見るとトーシロにはほとんど分からないような詳しく濃い内容で、思わず冷汗がタラ~リと流れるのであった。
しかも、休憩10分入れて3時間強と、長さの方もかなりなもんだ。
それをスクリーンにオルガンや教会の写真などを映し、CDもちょこっと流しながら講師二人が話すという次第である。

国別に時代ごとに有名なオルガンやビルダーを辿っていく。私はここで、ストップというのは鍵盤ごとにあるのだと初めて知った
……(>_<)キャーッ、無知な私を許して。

イタリア、スペイン、フランスと進んできて、私はここでかの国ではフランス・バロックとは言わず「フランス古典音楽」と呼ぶのだと初めて知った
……(>O<)ウギャーッ、無知な私を許して。

しかし、フランスを時代ごとに分けて詳しくやり過ぎたのか、時間が足りなくなって肝心のドイツが駆け足になってしまったのは残念無念である。
オランダでは北部がカルヴァン派のプロテスタントが主流だったので、オルガンは教会ではなく市の所有するものだというのは初めて知った
……ウ(以下略)

とにかく、オルガンが非常に複雑で、国・時代どころか個々の楽器ごとに全く違うというのだけは理解できた。人間の歌手の声が皆違う以上に異なると言ってよい。

かように高度な内容だったが、最後の質問コーナーで初歩的な基本事項を質問してた人がいたので、シロートは私だけではなかったと安心したのであったホッ

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2015年10月28日 (水)

大貫妙子と小松亮太「Tint」:音楽を二乗すると

151029
会場:オーチャードホール
2015年10月16日

大貫妙子とタンゴのバンドネオン奏者小松亮太がガップリ四つに組んだCD発売記念のコンサートツァー、その東京公演である。
バックのミュージシャンはター坊の常連ミュージシャンはおらず、小松氏のグループ4人が演奏するという次第。それと、やはりCD同様ピアノの国府弘子が数曲ゲスト参加した。

会場に行ってみたら、かなり後ろの方の席だったので、オペラグラス持ってくれば良かったと後悔したがもう遅いのであった(T_T)
ター坊は最初、調子が上がらなかったようだが、2曲目からは通常運転という様子だった。

小松氏のグループによるインスト曲も全体の半数近くやった。TV主題歌などの仕事も結構やっている人なんですね。知らなかった
私も含む、タンゴをよく知らないター坊ファン(多分客席の大多数)に対して懸命なアピールをし、演奏の方も大熱演だった。ヴァイオリンやコントラバスがパーカッション的な音を出して、リズム面を補強しているのが興味深い。
特に、ピアソラを2曲(「リベルタンゴ」→「五重奏のためのコンチェルト」)連続してやった時は、特に後者の曲は大曲だけあって、客席を引き込む迫力があった。

違うフィールドのプロ同士、ぶつかり合う時の爆発力や衝撃度が二乗となるのを目撃できた思いである。

ウラ話の暴露を小松氏は結構好きみたいで、坂本龍一の「Tango」という曲を取り上げた時は、タイトルと異なって全くタンゴらしい曲ではないので、必死に改造アレンジしまくった、なんて話も出た。それを聞いた坂本龍一は素晴らしいと、メールで「!!!」と三つも付けて寄こしたが、その後に自分の曲と全然違いますねえ、みたいなコメントを付けてきたとか。

アンコールで12月にWOWOWに放映されるドラマの主題歌である新曲をやって終了した。
残念だったのは、なんだか大貫妙子のヴォーカルの音響があまり良くないように聞こえたこと。それとも、気のせい?座席の位置の関係かしらん。
それから、隣に座ってたオヤヂが臭くてマイッタ(@_@;) 風呂入ってくれい。

この日は天気が悪かった。雨の金曜の夜の渋谷なんて歩きたくもねえ~という感じであるよ。


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2015年10月27日 (火)

「ひとときの音楽 ソプラノとリュートの調べ」:女性支持率9割の謎

151026
演奏:鈴木美登里&今村泰典
会場:近江楽堂
2015年10月9日

鈴木美登里(ソプラノ)と今村泰典(リュート、テオルボ)という意外(?)な組合せで、パーセルをというさらに意外なプログラムのコンサートである。
鈴木女史というと、自らのグループのラ・フォンテヴェルデでは最近はモンテヴェルディをやってるし、今村氏はフォンス・ムジケではフランスもの中心で、どちらも大陸の音楽という印象が強い。

前半はパーセル一本勝負で、様々な歌劇などから世俗歌曲を。最後の「夕べの讃歌」だけ宗教曲だった。途中に今村氏の独奏による組曲が入った。パーセルにはリュートの曲はないので編曲したとのこと。
鈴木女史の力強い歌声は小さな近江楽堂の円天井いっばいに満たした。

休憩後はヴァイスのソナタから開始。今村氏がリュートを持ちかえて独奏した。
続いて歌曲は、テレマン、そしてヘンデルを一曲ずつ。アンコールもヘンデルだった。

こうして聞いてみると、やはり鈴木女史のキャラクターとか歌唱スタイルなどもあって、パーセルよりヘンデルの方が生き生きとして合っているように思えた。
逆に言うと、一見(一聞)ヘンデルほどにはクセがありそうには思えないパーセルも歌う人を選ぶ一筋縄ではいかない存在ということだろう。

今村氏のヴァイスはこれまで録音では散々聞いてきたので、ナマで聞けたのは非常に嬉しいッ(*^o^*) チェンバロとリュートの響きに関しては、近江楽堂は最適。弦の音がシンと染みわたっていくのだった。
10年以上も前、新宿でやはり彼のソロ公演を聞いたことかあるけど、曲目をよく覚えていない。バッハだったかな……(-_-) 会場がひどかったことだけは覚えている。

この日は古楽系の公演が幾つか重なっていたせいかも知れないが、客の男女比が1:9ぐらいなのには驚いてしまった。もっともラ・フォンテヴェルデも女性客が多いが、鈴木女史のソロでもこの比率というのはビックリ。波多野睦美も女性ファンの方が多数とはいえ、これほどではない。

それから、歌詞カードがプログラム内容の紙とは別に、チラシの間に挟まっていて気付かないまま前半経過してしまった なんとかしてくれい。

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2015年10月23日 (金)

「フレンチアルプスで起きたこと」:雪崩が怖くてかき氷が食えるかっ

151023
監督:リューベン・オストルンド
出演:ヨハネス・バー・クンケ、リーサ・ローヴェン・コングスリ
スウェーデン・デンマーク・フランス・ノルウェー2014年

スキーに行った親子四人。外に面したテラスみたいな眺望レストランで食事していると、突然に見物用の人工雪崩がコントロールを失ってレストランに迫ってくる。
と、なんと夫は妻と子供を放り出したまま自分だけ脱兎の如く逃げ出したのであった

雪崩が収まった後に夫は何事もなかったように戻ってくるが、妻の心の中にはそれこそ雪崩の如く不信が湧き起ってくる。夫婦間のいざこざはさらに同じホテルの若いカップルも巻き込んでいく。

なんだかM・ハネケがコメディを作ったらこんな風になるのではないかというような作風である。
頻繁に一家の歯磨きやトイレの場面を繰り返し撮るのもそうだし、雪面で起こす爆破?の反復やら、冷めた目で観察する従業員の存在なんかもそうだ。
それをアコーディオン演奏によるヴィヴァルディの『四季』がワサワサと盛り立てる(でも、使われてるのは「冬」じゃなくて「夏」だよね)。
加えて、『シャイニング』みたいに「一日目」とド~ンと文字が出てくるのも笑える。

夫の弁解はバカらしくてみっともない。さらに途中で延々と号泣する場面に至ってはもう大爆笑してしまった。
……いや、正直に言おう。大爆笑したかったのだが、映画館内はシーンとして誰も笑ってなかったのだ(なんで)。そのため必死に笑いをこらえたのだった。
でも、あれ笑うところでしょう(@_@;) もう最後は子供もつられて泣きだして、お前は3人目の子供かっと言いたくなるぐらい。
もっとも、あそこで「一緒に泣いてしまった」と感想書いてた人もいるので、やはり大声で笑わなくてよかったかも。

ところが終盤の展開はどうだろう。吹雪の中をスキーに出る場面では亭主の沽券復活みたいだし、ラストのバス場面は--やっぱり妻も判断を誤るってことなのか(?_?)
かなり不満である。

この映画は男は家族を守らなければならない、という規範に疑問を投げかけ、必ずしもそれを守れない男もいても仕方ないと、肯定的かつシニカルに描いている。
一方で「母親は必ず子どもを守る」という規範には全く疑問の余地がないものとしているんだが、どんなもんかねー。

例えばこれが逆で、雪崩が起こった時に妻が一人で一目散に逃げ出し、戻ってきて「だって、男なら子どもを二人抱えて逃げられるでしょう。私は無理。それに家族が万が一怪我したら、看病するのは私の役目なんだから私は怪我できないわ」とでも言ったらどうだろうか。

スタイルは面白いが、導かれる結論は何だかなあ(ーー;)で終わるのだった。


夫の喜劇度:8点
妻の悲劇度:4点


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2015年10月18日 (日)

「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」:一作見て二作分のおいしさ、とはならず

151018
監督:ビル・ポーラッド
出演:ジョン・キューザック、ポール・ダノ
米国2015年

ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの半生を、なんと二人一役で演じるという伝記映画である。
グループが人気が出てリーダーとして活動していた若い時期をポール・ダノ、そして表舞台から引っ込んで変な医者にとっ捕まった時期をジョン・キューザックが演じている。

ダノとキューザックはどう見ても似ている所は皆無だが、実物のウィルソンの当時の写真と見比べるとそれぞれ似ているという不思議(!o!)
……と納得しようとしても、やはり正直言って
ダノとキューザック、別人です!
と大いに違和感あるのだった。

それはともかくB・ウィルソンについては、天才で驚異的サウンドを生み出しながら様々な障壁に邪魔されたミュージシャン、というぐらいしか知識がない。ビーチ・ボーイズの曲もほとんど知らない私にとっては、なるほどこういうことだったのかとよーく分かりました。

前半は、音楽というより「音」に対しての鋭敏さという点から描かれていて興味深かった。その感覚がサウンドを作り出す一方で、周囲と齟齬をきたし、さらには病いへと追い詰められていく。その音響が彼の内宇宙を描き出している。
ファミリー・グループで暴力的な父親が支配しているというのは、ジャクソン・ファイヴにも似ている。当時の音楽産業システムの産物なのだろうか。

後半は怪しい精神医をポール・ジアマッティが演じて(怪演)悪役を一手に引き受け、その悪の手からエリザベス・バンクス扮する恋人が救出に奔走するという次第である。
こちらの方は音楽はあまり登場せず(というか、医者に無理やり作曲させられている場面ぐらいしかない)なんだか中年男女のメロドラマっぽい展開だ。

かように内容が分裂している(意図的だろうけど)この作品、一粒で二度おいしいとはならなかったのが、ちと残念。最後に元気なご本人が登場してくるとはいえ。
音楽ファンとしてはやはり前半部分が面白かった。P・ダノが実際に歌っているというのはスゴイ
後半は--B・ウィルソンのファンならどう思うのであろうか。


ダノ度:35%
キューザック度:25%
ジアマッティ度:40%


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2015年10月17日 (土)

SPAC「室内」:死者の時間と生者の空間

151017
作:モーリス・メーテルリンク
演出:クロード・レジ
会場:KAAT神奈川芸術劇場
2015年10月2日~4日

ほとんど事前知識なしにチケットを買ってしまった。まあSPACだから外れはないだろう(@∀@)ぐらいの考えである。

整理番号順に並ぶ時に「静けさも演出の一つですので」のアナウンスと共に、のど飴が配られたんで驚いた。会場に入ると照明は薄暗く、案内係のおねーさんが声もなく指さし体勢で空席を指示していく。「ここ空いてますか」と聞くのもはばかれる雰囲気だ。
あまりに暗すぎて座席の列に入る時にコケる人が結構いた(段差があるので)。せめて足元は明るくしてほしいもんだ。
薄暗くてステージ上は--というか、どこからステージなのかも判然としない。

開演すると舞台がかろうじて判別できるような薄暗さになる。さらに物音がほとんどせず(客席からも)まるで無音室にいるような息苦しさを感じた。
この前日の公演では話し声やら何やらが聞こえて演出家が苦言を呈したとのことだが、この日は少なくとも喋る者は一人もいなかった。

舞台に登場する役者の動作は極めて緩慢である。暗いステージが二つに分かれ、奥の方は家の中らしい。家族は無言でゆっくりと部屋の中を行き交っている。
家の外側の庭から数人の人物が中を見ている。こちらはあまり動かず、代わりに抑揚もなくくぐもった声でゆっくりと喋る。

どうしてか、どうにも私には庭にいる者たちが死者のようにしか思えなかった。死者たちが生の世界である家の中を覗き見ている。死者の目を通しているから、生者たちの動作も緩慢に見える。家族は幸せにも不幸にも見えない。
しかし、なぜか郷愁のようなものが感じられるのは、きっと死者たちが生の世界を懐かしんでいるからだろう。そうして、彼らは死が家の中にも浸食してくるのを待っているのである。
その証拠に中央で眠っているはずの小さな子どもはピクリとも動かないではないか……。

極限まで引き延ばされたような時間と、曖昧とした空間が覆う。
というわけで、私にとっては終始、息苦しさと不安がへばりついた芝居だった。
肉体(声も含めた)の極限まで酷使したような役者さんたちはお疲れ様でしたm(__)mとしか言いようがない。もっとも、一番大変だったのは最初から最後まで身動き一つせず舞台の中央で寝ていた子役だろう

作者のメーテルリンクというと「青い鳥」ぐらいしか知らないが、こういう芝居も書いていたのね。驚きである。

チラシや解説を終演後に配布したのは賢明だった。前に配ったら絶対落としたり、ガサガサする奴がいるからな。
逆に、のど飴をわざわざ全員に配ったのはどうかと思う。芝居の途中で包み紙をむいている者が数人いた。離れててもよーく聞こえちゃう。
芝居ではそうではないだろうが、クラシック系のコンサートでは飴の包み紙問題は刃傷沙汰になってもおかしくはない案件である。私もよく「なんで休憩時間じゃなくて、演奏始まってからガサガサするんだよっ(`´メ)コロス」とイライラすることがある。

この芝居を見て「芝居脳」というのが脳内に存在するのが分かった。日頃、映画を見たりコンサートを聞いた時に活動するのとはまた違った脳ミソの部分が、大いに刺激されているのが感じられたのだ。
「芝居脳」の活動が何やら異なった感覚を心身にもたらす。特にこのような作品では。
そうなると、また別の芝居を見たくなるのだが……コンサートと映画だけで手一杯でなかなかそうはいかない。残念


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2015年10月11日 (日)

F.クープランでめぐる「諸国の人々」:音心一体

151011
演奏:寺神戸亮ほか
会場:石橋メモリアルホール
2015年10月3日

フランソワ・クープランの合奏曲オンリー一本勝負という滅多にないコンサートである。
「諸国の人々」からは「フランス人」と「スペイン人」、「趣味の融合」からは「劇場風」が演奏された。
寺神戸亮と前田りり子、戸田薫・菅きよみの弦管ペアがそれぞれ左右に分かれて、中央にガンバの上村かおり、その奥にチェンバロの曽根麻矢子、という豪華布陣である。

「諸国」からの2曲はどちらも長い組曲で、トラヴェルソの二人がパッと出ては弦と掛け合い--と繰り返していく。それ自体が華麗なダンスのように見えた。長いだけに集中力を要するだろう(聞く方も)。

あと一曲、四重奏の名曲「スルタン」(「の妃」は付かないの?)では、笛の二人の抜けた代わりにガンバで櫻井茂が入った。こちらも完璧なアンサンブルを聞かせてもらいました。

全体的には流麗ながら生真面目な印象。「政治的策略が渦巻いていた当時の音楽事情の中で器用に立ち回れるタイプではなかった」というクープランの作曲家人生そのままを反映しているようである。まさに音は体を表す、といったところだろうか。

なお、上野学園では「古楽21世紀シリーズ」としてこれからも古楽コンサートをやっていくらしい。楽しみよ
それから、どうでもいいことだが、戸田女史の髪の毛が一すじ、顔の前にたれて来てしまうのが非常に気になった。できれば音符型の大型ピンなんかで留めるといいんじゃないかなっと(^^♪


この日は夕方から親戚の結婚式も行かなくてはならず、グッタリしていたがなんとか頑張ったですよ……(+_+)


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2015年10月10日 (土)

バッハ・コレギウム・ジャパン第114回定期演奏会:ゾンビ現われて舞台死す?

151010
世俗カンタータ・シリーズ6
会場:東京オペラシティ コンサートホール
2015年9月26日

今宵の世俗カンタータは『農民カンタータ』である。有名曲だが、いざナマ公演となると過去にはこちらで聞いたことがあるぐらい。この記事内でBCJで聞いたと書いているが、プログラムによると今回初めて演奏するとのことなので、他の演奏団体と勘違いしてたようだ。

「農民」は後半で、前半の方はバスとソプラノ、それぞれイタリア語による独唱カンタータだった。
BWV203は器楽はチェンバロのみというバッハのカンタータとしては珍しいもの。実際バッハ作かどうか疑われているそうだが、聞いてみると確かになあ……と思ってしまう。ものすごく細かくて技巧的なチェンバロ(雅明御大が弾いてた)に、D・ヴェルナーのバスの歌が乗っかっているという印象。チェンバロに耳を持っていかれてしまう。

BWV209は既にネットでは話題沸騰だったソプラノのモイツァ・エルトマン登場。なるほど美人であ~る。
オペラで主に活躍してる人だそうだが、確かに宗教カンタータにはやや「濃い」歌唱である。曲自体がイタリア風ということもあってここではピッタリ。菅きよみのトラヴェルソも同じくらいの活躍だった。

ご存じ「農民」は新領主を祝って、若い農民の男女が夫婦漫才風にゴマをすったり、税金まけてチョーダイ(^人^)などと喜劇仕立てで歌うという設定である。
エルトマンは美人過ぎて、まるで若いおねーさんが農民コスプレをしているように見えた。しかし、さすが演技はお手の物風である。ヴェルナーは若者という年齢には見えないが、いつもの謹厳実直とは正反対のおとぼけイメージで笑わせてくれた。

途中では天使風の衣装を着た菅きよみが踊りながら笛吹いたり、ホルンの福川伸陽がエルトマンにキスされちゃったり(大変だ~)というドタバタぶりである。

開始して少ししてから黒服黒帽子黒メガネの男が登場し、望遠鏡で二人を眺めながら舞台上をウロウロしだす。私は最初、新しい領主さんが下々の生活を覗いているという設定を表わしているのかと思った。
だが終盤になると、5、6人の同じように黒服黒メガネの男女が出現し、舞台の真ん中へと進んでくるのだった。彼らはゾンビみたいなメイクと動作、歩き方をしていた。ここに至ってようやく、プログラムの巻頭言に鈴木雅明が紹介していた「アクトゥス・トラギクス」の演出を模したものだと判ったのだった。すなわちバッハのカンタータを通して「私たちの日常が地下室の骸への道筋でしかない」示すことである。
だけど、日常に潜む「死」がゾンビとは……あまりに直球過ぎではないでしょか

意図はわかるけど、演出家を置いてまでやったにもかかわらず、正直成功しているとは言い難かった。
この公演の感想を幾つかネットで読んだが、そもそも黒ずくめの集団が何なのかも分からない人もいたようだ。私はたまたま事前に巻頭言を読んでて、前方の席だったから分かったけど、そうでなくて後方の席にいたら黒メガネの人々がウロウロしているとしか見えないだろう。
さらに、折角エルトマン&ヴェルナーのコンビが絶妙の喜劇的演技を見せて(聞かせて)くれてるのに、気が散って甚だ興がそがれた。台無しだ~(;一_一)

どうせだったら、最後に黒集団が二人に襲いかかって舞台暗転→照明が付くと、二人がゾンビメイクになってたぐらいしてくれないと、中途半端で面白くない。

BCJには余計な小手先の「演出」などせずに、正攻法で邁進していただきたいもんである。


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