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2015年10月17日 (土)

SPAC「室内」:死者の時間と生者の空間

151017
作:モーリス・メーテルリンク
演出:クロード・レジ
会場:KAAT神奈川芸術劇場
2015年10月2日~4日

ほとんど事前知識なしにチケットを買ってしまった。まあSPACだから外れはないだろう(@∀@)ぐらいの考えである。

整理番号順に並ぶ時に「静けさも演出の一つですので」のアナウンスと共に、のど飴が配られたんで驚いた。会場に入ると照明は薄暗く、案内係のおねーさんが声もなく指さし体勢で空席を指示していく。「ここ空いてますか」と聞くのもはばかれる雰囲気だ。
あまりに暗すぎて座席の列に入る時にコケる人が結構いた(段差があるので)。せめて足元は明るくしてほしいもんだ。
薄暗くてステージ上は--というか、どこからステージなのかも判然としない。

開演すると舞台がかろうじて判別できるような薄暗さになる。さらに物音がほとんどせず(客席からも)まるで無音室にいるような息苦しさを感じた。
この前日の公演では話し声やら何やらが聞こえて演出家が苦言を呈したとのことだが、この日は少なくとも喋る者は一人もいなかった。

舞台に登場する役者の動作は極めて緩慢である。暗いステージが二つに分かれ、奥の方は家の中らしい。家族は無言でゆっくりと部屋の中を行き交っている。
家の外側の庭から数人の人物が中を見ている。こちらはあまり動かず、代わりに抑揚もなくくぐもった声でゆっくりと喋る。

どうしてか、どうにも私には庭にいる者たちが死者のようにしか思えなかった。死者たちが生の世界である家の中を覗き見ている。死者の目を通しているから、生者たちの動作も緩慢に見える。家族は幸せにも不幸にも見えない。
しかし、なぜか郷愁のようなものが感じられるのは、きっと死者たちが生の世界を懐かしんでいるからだろう。そうして、彼らは死が家の中にも浸食してくるのを待っているのである。
その証拠に中央で眠っているはずの小さな子どもはピクリとも動かないではないか……。

極限まで引き延ばされたような時間と、曖昧とした空間が覆う。
というわけで、私にとっては終始、息苦しさと不安がへばりついた芝居だった。
肉体(声も含めた)の極限まで酷使したような役者さんたちはお疲れ様でしたm(__)mとしか言いようがない。もっとも、一番大変だったのは最初から最後まで身動き一つせず舞台の中央で寝ていた子役だろうsweat01

作者のメーテルリンクというと「青い鳥」ぐらいしか知らないが、こういう芝居も書いていたのね。驚きである。

チラシや解説を終演後に配布したのは賢明だった。前に配ったら絶対落としたり、ガサガサする奴がいるからな。
逆に、のど飴をわざわざ全員に配ったのはどうかと思う。芝居の途中で包み紙をむいている者が数人いた。離れててもよーく聞こえちゃう。
芝居ではそうではないだろうが、クラシック系のコンサートでは飴の包み紙問題は刃傷沙汰annoyになってもおかしくはない案件である。私もよく「なんで休憩時間じゃなくて、演奏始まってからガサガサするんだよっ(`´メ)コロス」とイライラすることがある。

この芝居を見て「芝居脳」というのが脳内に存在するのが分かった。日頃、映画を見たりコンサートを聞いた時に活動するのとはまた違った脳ミソの部分が、大いに刺激されているのが感じられたのだ。
「芝居脳」の活動が何やら異なった感覚を心身にもたらす。特にこのような作品では。
そうなると、また別の芝居を見たくなるのだが……コンサートと映画だけで手一杯でなかなかそうはいかない。残念down


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