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2015年12月28日 (月)

ヘンリー・パーセル「妖精の女王」:古楽の女王は留袖で三々九度

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北とぴあ国際音楽祭
原作:ウィリアム・シェイクスピア
演出:宮城聡
指揮:寺神戸亮
出演:レ・ボレアード&SPAC
2015年12月11&13日

今年度、最大の期待はこの公演であ~る。事前にSPAC単独の『真夏の夜の夢』まで見に行っちゃったりして(*^^)v ただし、こちらは野田秀樹が潤色したヴァージョンだったけど。

今回はさすがに原作に沿って演じるんだろうなあと思ってたが、新聞紙を使った舞台装置や衣装はそのままだった。ただし、森は照明でモノクロではなく色彩豊かな表情を見せている。
「セミ・ステージ形式」ということで、ステージの上にオーケストラが乗り、さらにその上に高いもう一つのステージを組んでそちらが「森」となっている。

パンフの解説を読んで「『妖精の女王』の決定版というのは存在しない」というのを初めて知った。上演する度に書き換えたり追加削除したり、組み合わせたりするものなのだという。
従って、かつてBS放送でやったグラインドボーン音楽祭ヴァージョンは、シェイクスピアの戯曲を若干省略していたが、ほぼもれなく芝居部分が入っていて(従って上演時間は非常に長い)そんなものかと思って見てた。しかし、そういう演出をしていたわけだ。

北とぴあヴァージョンは芝居の部分は簡略化され、さらにドタバタ度が上がっているようだった。登場人物の鬱屈度が大きい野田版を見ていてた目には、演じている役者は同じでももうおマヌケ度アップ 特に男性陣はおバカとしか言いようがない言動だ。
なにせ、冒頭から寺神戸亮がいよいよ開始と指揮棒をサッと振り上げた瞬間に、四人の若い恋人たちがオーケストラの前へドドーッとなだれ込んでくるのである。後は推して知るべし(^O^;)

その後、芝居の相談をする職人たちも同じく「下」に登場。「上」の森では妖精たちが楽しく遊んでいる。合間には詩人が登場する短いコントのような寸劇が挟まれる。人間たちが森へ上がって行って、騒動が起こるという次第だ。
オベロンが大木に化していたり、恋人たちが棒(樹)をよじのぼるのはSPAC版と同じである。

ここで妖精役の歌手たちもセリフを喋るのを聞いて、当然のことだけど同じ声を出すと言っても歌手と役者じゃ全然違うというのを改めて実感した。歌手は歌えばホール全体に届くような声を出せるだろうがセリフでは難しい。ソプラノの広瀬奈緒はセリフが多くてご苦労さんでしたm(__)m
一方、昨今の芝居は大劇場ではマイクを使うのが普通となっている。音楽にも演劇にも向いていない北とぴあのようなホールで、あれだけ生声を届かせられるSPAC陣はやはり役者やのうと感じたのであった。

物語が進行するにつれて段々と芝居から音楽の比重が増えてくる。
オベロンとタイテーニアの和解の後、森と人間の世界が逆転して、「上」が人間界となって婚礼の儀が行われる。
お祝いに来た女神のジュノー(波多野睦美)が、妖精パックの押す台車(荷物運びによく使われるヤツ)に乗って現れたのには笑ってしまった。しかも、帰りは自分で押して戻るとゆう……(^o^;)

ここで劇場のスタッフと何やら話していたオベロンが指揮の寺神戸亮に近寄り、「折角のエマ・カークビーさんがいらしてんだからここで一曲歌ってもらいましょうよ。お客さんも期待してますよ、ね、ね」などと声をかけると、エマが登場して「嘆きの歌」を歌うのであったよ(!o!)
彼女は中盤から妖精の合唱に加わったり、ソロを歌ったりしていたが、正直なところ歳のせいか声に勢いがあまりなかった。しかし、銀色のほつれ髪に黒いショールを羽織ってヨロヨロと現われた彼女は、婚礼には全くふさわしくない暗い内容の歌を熱唱した。でもって、寺神戸氏の独奏する泣かせのヴァイオリンがこれまた嘆き節を盛り上げる。
なんでこんな暗い歌を……と思うが、嬉し楽しの婚礼と対比させるように元々ここで挿入される曲なのだという。
あれ、そうだったのか すっかり忘れてました(~_~;) ともあれ、歳は取ってもやっぱりエマ・カークビー、彼女の威光が劇場をヒタヒタと満たしたのであった。

妖精だった歌手たちは一転、婚礼の招待客に。ガイジン勢は紋付き袴、日本人歌手はよくあるフォーマルドレスで登場。テノールのケヴィン・スケルトンはその格好でそこここの棒をよじ登りながら「中国人の男の歌」を歌っちゃって大したもんである。(彼はダンスも得意技とのこと)
そして、留袖姿のエマと波多野睦美が二組のカップルの盃に三々九度のお神酒を注ぐという驚きのパフォーマンスまで こりもうゃ二度と見られません(キッパリ)

かくして人間と妖精、現実とファンタジーの境が融解し、何の苦しみも悩みも屈託もない幸福な世界が出現する。数百年も前に異国で人々が楽しんだと同様に、この時も劇場の客はそのマジックを楽しんだに違いない。

寺神戸亮は途中演奏しながら、クマのお面付けたり色々と指揮の合間に芝居絡んでましたな。器楽は管楽器が迫力あった。チェンバロは上尾直毅で、今回もギター抱えて二刀流だった。
テオルボの高本一郎の椅子の横にマイクがある写真をアップしてた人がいた。録音用?それともやっぱりPAシステム使ってたのか(?_?)
NHKで収録放送してくれないかしらん。過去の北とぴあ音楽祭で色々と素晴らしいステージがあったけど、一度もそういうことはなかった。音楽祭の方針なのか

歌手陣では波多野睦美が時折エマに寄り添うようにしながらもさすがの貫禄を見せていた。大山大輔というバスが、「詩人」や「結婚の神」なども演じてやたらと達者だなあと感心していたら、オペラとかミュージカルもやっている人なのね。納得です。
ダンスも見せたK・スケルトンに比べて、もう一人のガイジン組CTヒュンター・ファンデヴェンの方は冴えず。そういや出ていたなあぐらいの印象しか残らなかった。
CTと言えば、中島俊晴が大柄なオネエキャラで寸劇にも登場してキョーレツだった。

演出については、芝居部分が出しゃばらず歌手たちを引き立てるようになっていたのがよかった。演出があまりに突出してしまうと、そちらに気を取られて何を見に(聞きに)きたのか分からなくなってしまうのでね。

来年はロベルタ・マメリ参加でモーツァルトですか……。私は守備範囲外なので、1回休み
また宮城聡と組んで何かやって欲しいです。
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←照明のマジックがなくなれば、意外に素っ気ない装置だった。

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