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2016年2月

2016年2月27日 (土)

「ハンガー・ゲームFINAL: レボリューション」:仏の顔も三作まで

監督:フランシス・ローレンス
出演:ジェニファー・ローレンス
米国2015年

ここまできたからには、最後まで見ねばならぬ--的な義務感にかられて見た最終作。三部作のはずが前後篇に分かれて結局に四部作に、というのもよくありそうな話ですわな。まお、過去の感想はこちらを見るがよろし「1」と「2」「3」

遂に反乱軍が総決起、帝国に攻撃をかけるのであった--というのもどこかで聞いたような話だが、気にしない(^O^)b
となれば、ヒロインの派手な一騎打ちが見られるかと期待していたが、やっぱりアクション場面自体少なく、後半に至ってようやく出てきたと思ったら、あまりメリハリなく終了してしまった。そもそもストーリー的にも、見てスッキリと割り切れるようなものではないから仕方ないのかもしれないけど。

終盤でのヒロインの意表を突く行動、そして結末を見ると、第1作に感じられた「大人社会への不信」が濃厚に打ち出されているように思える。ヒロインはそれに背を向ける道を選んだわけだ。

で、その「大人」の代表がフィリップ・シーモア・ホフマン演じるプルタークで、彼はゲームメーカーこと陰の黒幕として存在するはずだったようだ。つまり、この巨大ゲームで最後まで残るのは彼だったのだろう。ただ、肝心のホフマンが亡くなってしまったもんだから、CGで出演場面を合成するわけにもいかず、何やらテーマが曖昧なまま終了しまったように思えた。(ヘイミッチにそれを語らせているが、言葉だけである)

最後まで見ても、やはりジェニファー・ローレンスありきの映画だったことは否めず。日米でのあまりにもの人気の差(米国では大ヒット、というかヒットしなかったのは日本だけか?)に驚いちゃう。どうしてあちらではそんなに人気あるのか分からん

もっともJ・ローレンスのファンなら見て損はないだろう。
同じ「闘う(若き)ヒロイン」といっても『スター・ウォーズえぴ7』とは大違い。小学生と高校生の差ぐらいある。


大人の事情度:7点
若者の犯行度:6点

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元祖文壇ゴシップ

知人が小島政二郎の本を読んでいたのをきっかけに、私も読んでみた。恥ずかしながら、それまで彼の名前を聞いたことがなかった(一応、学校ではその方面を専攻したんですが(・・;))。

小島政二郎は1894年生まれ、同い年には江戸川乱歩、高群逸枝がいる。戦前戦後と直木賞の選考委員を長くやっていたが、トラブルが多くて委員を辞めた時には一同がバンザイヽ(^o^)丿を叫んだ--というのは本当かい。

読んだのは『鴎外荷風万太郎』(文藝春秋新社刊、1965年)で、そのタイトルで想像つくように5人の作家についての回想録となっている。もっとも、一部は「見てきたような嘘を言い」ではないが、第三者が知りえないような部分が小説もどきで書かれている(荷風と芸者富松の会話など)。

文書は読みやすくて、これがまためっぽう面白い。身近に付き合っていた芥川龍之介が死に傾いていく様子や、軍服を着てカイゼル髭の森鴎外を電車の中で初めて目撃したエピソードなど、丁寧に描かれている。この二人についてはだ……。

一方、鈴木三重吉となるとこりゃひどい(!o!) これを読んだ誰もが「三重吉サイテーとんでもないDV野郎だ。雑誌『赤い鳥』の話なんて二度と聞きたくない」と思うに違いない。

私はこの年になるまで、三重吉ほど冷酷で無慚な人間を見たことがなかった

と断言しているほどなのだから相当なもんである。

続いて荷風については若いころ読んで心酔したと書きながら、荷風が鴎外の「舞姫」事件について自分なら女に後を追わせるようなヘマはしない、と自慢げに語るのを聞くと思ったのは

いつでも女があとを追ってこないように用心して付き合っていたからだ。(中略)主人公の女に対する態度を見るがいい。一人として女を自分と対等に見ている者はいない。荷風ほどの文明批評家が、女を見ること無頼漢に等しい。

最後の一文など実に痛烈な批判である。まさに二重規範のというものの一面をついて現代でも通用しそうだ。しかも、本人に向かって言ったら激怒されたそうな。……本人に言うかね(^^;)

なお、学生時代には勉強もしないで荷風を読みふけっていたために、父親に本を庭に投げ捨てられたそうだ。しばらく前にネットで、子どもがさぼったためにゲーム機を親に壊されたというのが話題になっていたが、昔荷風で今ゲーム機(^O^) 親のやることは本質的に変わっていないようである。

久保田万太郎に関しても手厳しい。

一面センチメンタルであるくせに、一度弱い立場に立った者に対しては、実に冷酷無慙だった。

そして若い頃は「気が弱く、女々しい、移り気な」で生活下手で、作家としてだけ生きていたら落伍していただろうが、戦後に演劇界、芸能界に勢力を築き君臨し「文化勲章を背景に翳した偉大なボス」となったのを皮肉交じりに描いている。

もっとも、万太郎にしても荷風にしてもキビシイことを書いていても、愛憎半ばという様子がチラチラする。
てなわけで非常に面白かった。

小島政二郎のヒット作となった「食いしん坊」も少し読んだが、冒頭、下戸の甘いもの好きとあって、現在も東京にある老舗の和菓子屋について書いている。
それらの店の餡を「震災後からダメになって、戦争後はもっとひどくなった」などとクサしている。震災というのはもちろん関東大震災のことだ。餡が小豆の味がしないのだという。
そんな昔からダメなら現在となってはもっとひどいのだろうか

それを読んでいるうちに、私の母親の作ったお汁粉を思い出した。母親は、実家から送ってきた小豆をゆでて、甘さを控えて小豆がた~っぷり入ったお汁粉を作って食べさせてくれた。今でもあの小豆の舌触りを覚えている。
あのお汁粉をもう一度食べたーい(>O<)

なに?自分で作ればいいじゃないかって? そんなことができれば苦労はせんよ

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2016年2月21日 (日)

「ヴェルサイユ・ピッチで奏でる華麗なフランスの室内楽」:湿気と共に伸びぬ

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演奏:有田正広&千代子、武澤秀平
会場:松明堂音楽ホール
2016年2月14日

毎年早春恒例の有田夫妻の松明堂でのコンサート。今年はガンバで武澤秀平が参加である。
タイトル通り、ルイ14世の時代とその少し後ぐらいの作品をヴェルサイユ・ピッチ(A=395Hz)で演奏するという内容で、クープラン作品を3曲。他はマレとオトテール、そしてやや時代を下ってルクレールだった。

3人で演奏されたクープランのコンセールや有田夫人の独奏チェンバロ曲は雅な雰囲気だが、オトテールの組曲やルクレールのソナタとなると、しっかり華麗なる名人芸を披露するといった世界である。
その伝で言うと、ガンバ+チェンバロでやったマレの「迷宮」については何やら奇矯な世界か。武澤氏によると、あちこち移調する作品で聞いてる分にはそうでもないが、弾くのは大変だそう。

ということで、フランス・バロックの様々な面を垣間見せてくれたコンサートだった。
なお、この日は気温が非常に高く(ジャケットを手に持って家を出たが、結局手を通さなかった)、異様にジメジメした日(湿度80%)だったので、チェンバロの調律に時間がかかっていた。もちろんガンバやフルートも一苦労だったもよう。なんとガンバの弓の毛が湿気で伸びちゃったとか。こんなの初めて聞いたです……((+_+))

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2016年2月20日 (土)

「ロレンツォ・ギエルミ オルガン・リサイタル」:譜めくり無用

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バッハ名曲集
会場:東京芸術劇場コンサートホール
2016年2月11日

最近はパイプオルガンのコンサートからめっきり足が遠ざかってしまった。これではいかん!と行きましたよ。この会場で過去に聞いたことがあるのは、鈴木雅明とグスタフ・レオンハルトだったような。(記憶曖昧(^^ゞ)

ギエルミは過去にラ・ディヴィナ・アルモニアの公演で聞いた。
今回はかなりタイトな日程での全国ツァーで、それも単独でオルガン、チェンバロ双方を弾くのもあれば、グループのメンバーであるヴァイオリンの平崎真弓と共演するプログラムもある--と大活躍である。
私は今回、全曲バッハのオルガンソロ公演を選んでみた。

プログラム自体は親しみやすい、というか穏当な選曲だろう。
ライプツィヒ・コラール集からの曲が多く(さらにシュープラー・コラール集からも一曲)、あとマルチェッロとヴィヴァルディの協奏曲を編曲したもの。マルチェッロの編曲版は初めて聞いたような。

珍しかったのは「前奏曲とフーガBWV545」に初期稿にあったラルゴを付け加えたもの。「ん?なんか聞いたことあるなー」と思ったら、「トリオ・ソナタ」に転用された曲なのであった。

トリの大曲はお馴染み「トッカータとフーガニ短調」。お馴染み過ぎて「この曲やらないと客が入らんのか(@_@;)、他の曲が聞きた~い」と思っちゃうほどなのだ。

テクニックの方はトーシロなのでよく分からないが、全体的にグイグイ個性を押し付けてくるようなタイプではなく、曲に即して解釈をさらりと流していくような印象だった。
同じオール・パイプオルガン公演でも、京都の方は他の作曲家の作品も半分やったようなので、そちらも聞いて見たかった。
珍しいと思ったのは譜めくりの人がいなかったこと。ヴィヴァルディ編曲版だけは途中でストップ操作しなければならないので登場した。

なお、アンコールの二曲目はフレスコバルディの「ガリアルダ」という短い曲をやったが、オルガンの真ん中上方についている星がカラカラと音を立てながら回り、鳥の鳴き声の音色を使ったかわゆい曲で、聴衆に大いにウケていた。
NHKのカメラが入っていて、3月30日の「クラシック倶楽部」で放映されるそうである。
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10分押しで始まり、演奏自体は正味一時間ちょっとだった。早目に終わったので、芸術劇場のホール入口の同じフロアで、たまたま森山大道の写真展をやっているのを発見し入ってみた。
しかし、なんだか彼を取材したドキュメンタリーDVDのプロモーション会場みたいだった。正直言って600円損した(ーー;)

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2016年2月18日 (木)

「白鯨との闘い」:クジラに負け○○に負けた

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監督:ロン・ハワード
出演:クリス・ヘムズワース
米国2015年

大学の英文科を出た(ウン十年前に)知人二人に、この映画に出てくる『白鯨』の話をしたら「それってヘミングウェイの?」と二人とも反応したのには驚いた。そりゃ『老人と海』じゃっ(!o!)
とはいえ、私も作者を間違えて言っちゃった……(´・ω・`)ショボーン(誰と間違えたかは恥ずかしいのでヒミツ) それに私も『白鯨』読んだわけじゃなくてグレゴリー・ペックの映画を子どもの頃に見ただけなのだ。(でも、あのラストシーンだけはよーく覚えている)

かように現代日本ではマイナーな『白鯨』ではありますが、もちろん世界文学全集の類には必ず入るような名作なのであるよ。
さて、この映画ではその作者、若きH・メルヴィルがこれから書こうとする小説の取材のために、とある男の元を訪ねる。彼は実際に30年前に起こった捕鯨船の漂流事件の生き残りである。その男からなんとか話を聞こうとするが問答無用で断られてしまう……。

時代は19世紀初頭、捕鯨の盛んな米国ナンタケット島(ボストンに近いらしい)から鯨油を求めて捕鯨船が旅立つ。出港したからには、船倉に鯨油の樽が満杯にならなければ戻らない覚悟。しかし、その船には出港前から船長と一級航海士の間にトラブルの種があったのだ。
というわけで、対照的な男二人が指揮を執り何かにつけて対立したまま、航海を続けること一年以上(!o!)

現在から見ればあまりにちっぽけな帆船に全てを預け、長期間をかけて航行し、小さな手漕ぎボートで海に乗り出し巨大なクジラを追って銛を打ち込む。なんとも恐ろしい。
もっとも、大昔にはカヌーで大海原を渡った人々もいたんだから不思議ではないのだろう。

物語の展開で驚いたのは、巨大なクジラに帆船が体当たりされて沈没--はまだ序の口で、実はその後に延々と漂流譚が続くことである。大海のど真ん中で漂流、となれば当然行き着くのは……(>O<)ギャー

そんな悲惨な話であるにもかかわらず、印象に残っているのは船員たちのキビキビとした動きだ。嵐が来るとなればそれに備え、船が沈むとなればありったけの食料を運び、帆を素早く切り取り持って行く。
このようにして人は海の中で生きてきたのかと思える。前近代に足を半分まだ置いているような彼らのそんな営みは、結末で終焉を迎えることを告げられるのであっだ。巨大クジラに負け、時代の波にのまれて消え去るのが彼らの運命である。

良かったのは、一番肝心なところは言葉で説明しないところ。あのクジラの眼--というよりマナコを見る場面である。あれを見たのは航海士と語り手の少年だけなのだが、そこに何があったのか起こったかということは、全く言葉では語られない。観客一人一人が想像するだけだ。

クジラが体当たりする原因となったのはクリス・ヘムズワース扮する航海士の行為のせいだろう。いささか不満なのは、彼にもう少し演技として「怒り」とか「執念」を垣間見せて欲しかった。ちょっとアッサリし過ぎ。
ブレンダン・グリーソンやキリアン・マーフィの助演組の演技は着実。マーフィは体格からすると海の男というイメージではないが、意外にはまっていた。

ロン・ハワードの演出は手堅い。ただCG、特に航海士の家からの遠景が安っぽい印象だった。海の場面になるといいけど、その前に見た『ザ・ウォーク』の出来と見劣りがしてしまう。(船が難破する場面は迫力あった)
あと、この邦題も最近増えてきた、説明的なタイトルだよなあ(v_v)

見終わった後、例の『白鯨』をモーレツに再見したくなった。ジョン・ヒューストンが監督で、レイ・ブラッドベリが脚本に加わっているのである。ケーブルテレビでやってくれんかな(^^)/


一難去ってまた一難度:10点
船頭多くして船山に登る:8点


【関連リンク】
実際に捕鯨船エセックス号がたどった航路とその後について(激しくネタバレあり)
《「白鯨」の元ネタは小説より壮絶だった》


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2016年2月13日 (土)

「ザ・ウォーク」(2D版):空中戦とはこのことか

160213
監督:ロバート・ゼメキス
出演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット
米国2015年

最初は見る予定ではなかったのだが、世評が良いので行ってみた。ということで、同じ実話を扱ったドキュメンタリー『マン・オン・ワイヤー』は見てない。

ニューヨークの(今は無き)ツインタワーを遥かにに臨みながら、自由の女神の上からジョセフ・ゴードン=レヴィット扮するP・プティが、アクの強いフランス訛りの英語で自分のことを語り出す。
子どもの頃から綱渡りに引き付けられ、パリの寺院の塔の間を渡り、遂にはニューヨークの完成間近なツインタワーの間に綱を張って渡ろうと企てる。

全ての状況や心理を主人公が語り倒すという「一人称映画」であるゆえに、実際にあった出来事というより、よく作りこまれたお話のように思える。(『グランド・ブダペスト・ホテル』みたいなイメージ) 一人称だから、実話と言ってもあくまでも主人公の目から見た世界が全てなので、それが真実なのかは分からない。それどころか他者の目を通せば全く別の物語になってしまうかもしれない。
確かにツインタワーがもはや存在しない今、寓話っぽくしたのは正解だろう。
そのこと自体は別にいいのだが、あまりに「語り」の威力が強すぎて作品全編を網の目のように覆っている。しまいには見ていて息苦しくなって辟易してしまった。

ビルに侵入したり(犯罪!)協力者を探すという準備は非常に大変だが、その肝心の「渡る」という行為自体はあっという間に終わってしまって、拍子抜けに思えた。ただ、その後にビルの間を行ったり来たり、さらには綱の上に寝そべったりまでする。このあたりの場面は3Dだったら、非常に恐ろしかっただろう。だが、私が見たのは2Dだったので、落ちやしないかとハラハラするぐらいなもんだった。
失敗した(>_<) 3Dにすればよかった

見ていて気になったのは、こんな企ての資金がどこから出ていたのかということである。旅費やニューヨークの滞在費だって安くないだろうし、あんなワイヤーや機材買うのもかなりの金額必要だろう。大道芸して稼げる金額ではないはずだ。

ゼメキス監督はもうベテラン監督の域なのに、こういういささか変わった感触の作品作りに打って出ている事自体は感心した。それを好きかと問われれば、好きではないけど。
結果として、高所にいるのに解放感よりも、一人語りによる窒息感が勝った。もっと空気をくれい

街並みのCGの映像はよく出来ていて、違和感が全くない。一方、室内場面は照明が印象的。
ジョセフ・ゴードン=レヴィッはほぼ出ずっぱりで、画面の多くを占めている。主人公に綱渡りを教える師匠の「怪しいガイジン」はベン・キングズレー。こういう役で彼の右に出る者はいないようだ。


高度恐怖度:6点
郷愁のニューヨーク度:8点


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2016年2月 8日 (月)

「裁かれるは善人のみ」:非国映画上等!

160208
監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ
出演:アレクセイ・セレブリャコフ
ロシア2014年

オスカーは逃したが、昨年度の外国映画賞の多くを獲得したロシア映画。その前作『エレナの惑い』が優れものだったので、本邦公開をひたすら待っておりましたよ

海辺の町で修理工を営む主人公は、若い後妻と息子と共に暮らしているが、彼が自分で建てた家の土地の買い取りについて市ともめている。
軍隊で部下だったモスクワの弁護士に頼んで裁判中だ。妻は正直モスクワへ出て行きたいし、弁護士もそう言ってくれているのに、主人公は頑固に土地にこだわるのだった。
その閉塞感が少しずつきしみ始める。

妻は常に疎外されている。弁護士は夫と戦友で男同士の絆で結ばれているし、義理の息子は若い都会人の彼に憧れている。彼女は家事をやりながら勤務する工場と家を往復するだけだし、反抗期の息子はやたら突っかかってくる。(この息子は彼女の最後の行動のきっかけとなる暴言を吐いたはずなのだが、その後も反省なしだ)

この邦題には嘘があるぞ(!o!) ここには善人など誰一人いない。みな、少しずつ悪く少しずつ愚かで少しずつ弱いのである。友人の警官夫婦も気のいい人物だろうが、結局主人公を追い詰める役を果たしてしまう。妻も後に禍根を残す行為に走る。
どう見ても悪代官な市長でさえ、時折弱気になっては司祭に頼る。唯一、神の威光を背後にしょった司祭のみがブレることなく冷徹である。もちろん、利益は結局彼のところに転がり込んでくるのだ。

市長は警察や判事も抱き込んで主人公への包囲網を狭めてくる--こういう話だといかにも混沌としたロシアでありそうだと思ってしまうが、実際にはこの物語の元となったのは米国で起こった「キルドーザー事件」とのことである。
市側ともめた修理工が外装補強したブルドーザーに乗って警察署や市役所、市長の自宅などをぶっ潰したというのだ(男は最後に自殺)

この映画の中では主人公はブルドーザーに乗ったりはしないが(ブルドーザーは別のところに登場する(>y<;)ウウウ)、権力の前に消えていく。
実際、日本で起こってもおかしくはないような事件だ。

浜辺に打ち捨てられた船の残骸、クジラの巨大な骨、廃墟となった古い聖堂。美しくも荒廃した風景はこの腐敗した社会の象徴か、それとも現代人の心の反映だろうか。
いずれにしろ全てを飲み込む悪の巨獣はもはや海で死に絶え、代わりに別の悪が陸の上で繁栄しているようである。
そんな状況をシビアに描いている。

登場する男たちがウォッカ飲みまくっているのには驚いた。これこそさすがロシアとしか言いようがない。
別の意味で驚いたのは浮気事案。亭主がすぐそばにいるのにようやるよ(~_~;)である。もっとも『ヒトラー暗殺、13分の誤算』でも、すぐ目の前を亭主がウロチョロしているのに浮気してる場面が出てくる。危険がある方が燃えるというヤツか。小心者には到底できません。

『エレナの惑い』でもボンクラ息子を演じていた役者さん(アレクセイ・ロズィンという人)が、こちらでもボンクラ亭主を立派に演じていた。さすがである。
また、弁護士役の男優と後妻役(『エレナ』で娘だったエレナ・リャドワ)がこの出演がきっかけで結婚したとか。メデタイヽ(^o^)丿

なお、この作品でズビャギンツェフ監督は政府から「反愛国的」と非難され、公開禁止映画リストに入れられてしまったという。
ストーリーもさることながら、さらに問題シーン(^o^)があったせいだと思われる。それは、主人公と友人たちがウォッカをたらふく飲みながら、歴代の大統領(スターリンもいたか?)の肖像画を標的にして銃を撃ちまくるのだ。ただ、プーチン(とおぼしき肖像)だけは「これはまだ熟成させなくてはな、ククク(^<^)」と、取っておくのだった。代わりに、悪徳市長の部屋の背後にはプーチンの写真がしっかり飾ってあるけど。

「ロシアでよくこんな政府批判した映画が撮れたものだ」という意見を幾つか見かけたが、冗談ではない。今の日本で歴代首相の写真をダーツの的にして遊び、アベ首相の写真だけ「これはもっと後のお楽しみ」なんて映画が撮れるかね? 他所の国の事を言ってる場合じゃないよ。


善人度:3点
悪人度:9点

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2016年2月 7日 (日)

「シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語」:喫煙者とお子様禁止

160207
監督:カアン・ミュジデジ
出演:ドアン・イズジ
トルコ・ドイツ2014年

最近、洋画の邦題でやたらと説明的なのが増えてきたが、これもその一つといえるだろう。
タイトルだけ見れば児童向けのような内容に思える。しかし11歳の少年が主人公でも子ども向きでは全くない。子どもと動物が登場するからって感動的な物語でもない。殺伐とした現実をシビアに描いた作品である。

舞台はトルコの田舎町、小学生の主人公は負けん気だけは強いが実際は身体も小さくて、家も貧しく全くパッとしない。学芸会で好きな女の子と主役をやりたいが、それは村長の息子の役だと既に決まっている。
彼の将来は、歳の離れた兄を見ている限り暗澹たるものである。兄はロクな職もなく、グータラと時間を過ごすのみ。

そんな少年がひょんなことから闘犬(当然、非合法)で負けて死にかけた犬を助ける。シーヴァスとはその犬の名前だ。少年の手当てで復活したシーヴァスは再び闘犬に挑み、勝利を続けるのだった。
そうなると、もう学校なんか行く必要はない。大人たちにまじって闘犬の試合へ行くのだ。村長の犬にだって勝ったし--。

荒涼たる風景、殺伐とした人間関係、いい加減な教師、無力な両親。少年は決していい子ではない、自分が負け犬なのを半ば自覚して常にイライラしている。そんな光景がかなり激しい手ブレカメラで描写される。
その中に登場する巨大なシーヴァスは、少年にない「力」の象徴であり、一度負けたのが復活するというのは彼の希望のよりどころに他ならない。

もっとも、闘犬自体はなんだか殺伐としたものである。人目につかぬ荒野に男たちが大勢車で乗りつけ集まって札束が行き交う。巨大な犬の片方が瀕死状態になるまで闘うというのは、闘争の美学なんて観点とは程遠く、気が弱い人間には見ていられないだろう。

ラストで、少年が唐突にとある決断をして大人たちを驚かせる。それまでの全てをひっくり返す決断だ。だけどそれがあまりに伏線もなく唐突過ぎて、観客もやはり「」状態になってしまうのであった。
もう少し、そこら辺の過程や心理状態を丁寧に描いてほしかった。

監督はこれがデビュー作とのこと。ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞獲得。
この映画で一番驚いたのは、少年がタバコを吸う場面が出てくるのだが、そのタバコの部分にモザイクがかかっていたことである(!o!)
な、なんで……(?_?)
レイティングのためなのか? エロやら暴力ならともかく、タバコ吸う描写自体がダメなんかい。事前にネットでそういうモザイクがかかるのを知ってたのでまだしも、突然あの場面を見たらなんのことか分からず混乱しただろう。あきれたもんであるよ。

そういや、『木曜日のフルット』というマンガに出てきたエピソードで、映画を見に行ったら途中にやたらと「未成年者の喫煙を奨励するものではありません」とか「役は未成年ですが俳優は成人です」とか「投げ捨てたパンはスタッフが回収しておいしくいただきました」などという注意書きが登場してきて興ざめした、というのがあって大笑いしてしまった(^○^)
そういう状況になるのも近いかも


人間度:6点
犬度:9点

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2016年2月 6日 (土)

「室内楽の夕べ バロック音楽の素敵な世界」:バロックとモダンの間には暗くて深い川がある~

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演奏:有田正広ほか
会場:東京文化会館小ホール
2016年1月18日

「都民芸術フェスティバル」というのが存在するとは知らなかった。約三か月間にクラシック、演劇、古典芸能の舞台を都の文化事業として開催するらしい。
その中の「室内楽シリーズ」の一つとしてこの日の「室内楽の夕べ」をやるのだった。よく知らずに演奏者4人の顔ぶれでチケットを買った私は、貰ったリーフレットをふむふむという感じで読んでいた。

だが開演時間になってステージに一同が出てきた時、私はギャッ(>O<)と叫びそうになってしまった。
なんと、有田正広の持つフルートが銀色に輝いているではないか あわてて山本徹のチェロの方を見てみると、立派にエンドピンが付いている。そして桐山建志のヴァイオリンにはアゴ当てがあり、弓はモダンのものだった。
つまるところ、チェンバロ(曽根麻矢子)以外はモダン楽器だったのだ

詐欺~(~O~メ)
嘘つきーっ\(-o-)/
お金返せ(*`ε´*)ノ☆

プログラムがテレマン、バッハ、ラモー、ブラヴェで、この演奏者の面子でなんでモダン楽器でやるかねえ。「楽器はモダンでお願いします」とか言われたのか?
しかも、奏法自体は古楽にのっとっていたんだから余計に謎である。まあ皆さん、元々モダンと古楽両刀でやってる方々なので、演奏自体に文句はなかったのだが。

ただ、私は相変わらず熱が下がらず頭がモ~ロ~としていたのと、ショックで内容をよく覚えていないのであった。

ということで、気付いたことだけ列記したい。
やはり、近代的なホールにはモダン楽器の方が合うなあと感じた。音量的にちょうどいい塩梅である。
一方、チェンバロだけ他の楽器に埋もれてしまって単なる「伴奏」風にしか聞こえなかった。どうせだったら、ピアノかフォルテピアノにすればよかったのでは。
ピリオド楽器との差が一番大きかったのはやっぱりフルートだった。

これからは「都民芸術フェスティバル」には要注意である。熱が出てるのを押して行ったのに、もうやってられねえ


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