
演奏:シギスヴァルト・クイケン&ラ・プティット・バンド
会場:東京オペラシティコンサートホール
2016年3月5日
聖金曜日にはBCJが「マタイ」をやる予定の会場に、一足早くラ・プティット・バンドがやってきた。
今まで彼らの演奏で聞いたのは器楽曲、合奏曲ばかりで、声楽は初めでてある。
「マタイ」というと、通常は(特にモダンでは)大規模編成なわけだが、この日はそれとは対極的な布陣だった。
基本、一人一パートで主要な歌手は第1・2グループそれぞれ4人ずつである。通常ならばグループから外れるはずの福音書書記も第1グループに入っているのだった。それ以外にピラトや女中などの「端役」を歌う3人の歌手がいる。
また、左右対称でない変わった配置のオーケストラも最小限。しかもチェロやコントラバス(あとチェンバロや、ファゴットも?)がいなくて、代わりにバス・ド・ヴィオロンがひとりずつ。これは過去の公演でも同じだった。
と、これはどこかで見たような……とおもったら、ジョシュア・リフキンが指揮した日米合同公演でやったのとよく似ている。同じ研究成果に基づいてやってるのだろう。
その編成に比例するように、演奏自体も極めて簡素で、「そっけない」と言っていいほどにさりげなく、そして全くもって「劇的」ではなかった。リフキンの時だって、歌手の人数が少なくても非常に劇的だったというのに。
過去にこれほどまでにドラマティックでない「マタイ」は聞いたことがない、と断言していいくらいだ。
やはり受難曲といえば劇的なのが「売り」ではないか。大編成で迫るモダン演奏はもちろん、少なめの編成のBCJの演奏でだって、合唱がグサグサと入れる鋭い突っ込みは迫力があって聞くたびに飛び上がる心地だ。そのようなものさえなく、物足りなく感じてしまうかも知れない。
しかし、さらに演奏が始まる時に驚いたのは
指揮者がいない
ということであった。8人歌手たちが舞台前方に並んだ後にS・クイケンがヴァイオリンを抱えて登場し、なるほど弾き振り
なんだーと思って見ていたら、そのまま最後列のヴァイオリン組の端に行ってしまったのである。
た、確かに指揮台のようなもんは存在しないわ~(@_@;)と気付いた時には、冒頭曲が始まっていたのであった。
クイケンの真ん前に背中向けて座っているフルートやオーボエの奏者は、全く彼が見えないだろうからどうやって演奏のタイミングを得ているか不明。もっとも、見えていたとしてもほとんど指揮っぽいことはしていなかったのだが。
実質な出だしなどは第1オルガン担当のパンジャマン(天才)アラールがやっていたようである。それでもコーラスの始めが乱れるところあり。第二ソプラノのマリー・クイケン(娘さん?)など、終始ジギスの方を覗きこんでいた。
アッサリ風味の演奏にふさわしく、進行もサクサクと進んでいった。例外はバスのアリアで、クイケンがヴァイオリンからガンバに持ち替えた際に調弦する間、他の奏者も聴衆もジッと静かに待っていた。そして、イエスの死の直後に長ーい沈黙の休止を取った時である。
私の席からは方角的に彼がよく見えたのだが、終始ヴァイオリンの調弦を気にしていて、一度など弾いてる途中に自分だけ演奏を止めて調弦してたこともあった。それほどやっているのに、ヴァイオリン独奏になった時はやはり例のギコギコ音なのであった
不思議である。
歌手では、エヴァンゲリスト兼第1テノールのS・シェルベはまだ若くて、明るい声質の人である。他人のアリア以外は歌いっぱなしなのだから、若くなければやってられないだろう。ごくろーさんm(__)mとしか言いようがない。それでも最初の頃は高音が割れたり、後半は声がよれたりしてた。
イエスをやったバスのS・ヴォックもやはりあまり重くない明るめの声だった。こちらは終始、安定してた。
全体的な感想としては、怒涛のようなドラマティックな大感動
というようなものはない。そして権威的でもない。代わりに、質素で胸に染み入ってくるような感動があった。
聴衆もフライング拍手などはなく、雑音は時折入ったが、満員御礼とは信じられないほどの集中力で驚いた(!o!) 長い休止の時も静かだったし、最後も拍手をできる限りこらえていたのだった。ただ、受難曲でブラボー連発はいただけませんな
日本公演はこの日以外は神奈川でやっただけで、折角来日したのだからせめて関西方面でもう一回ぐらいやって欲しかった。採算の関係とかあるんでしょうか。