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2016年4月

2016年4月30日 (土)

聴かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 5月版

今月はメジャー、マイナー双方でコンサートがテンコ盛りですよ。

*12日(木)フランソワ・クープラン~「クラヴサン奏法」出版300年に寄せて(アンサンブル・レ・フィギュール)
*25日(水)ロイスナーの音楽(佐藤豊彦)
CD発売記念コンサート。数百年の時を経たリュートの生音が聴ける機会は滅多になし。もちろんCDも買うぞっと

他にはこんなのも。
*7日(土)フランス・バロックの魅力(日比健冶郎ほか)
*  〃  ラモー プラテ再々演(ジョイ・バレエストゥーディオ)
いつの間に……やるとは知らなかった
*12日(木)ア・ピアチェーレ(ファミ・アルカイ)
*13日(金)ウィーンのトゥーマ(リクレアツィオン・ダルカディア)
*14日(土)巡礼宿アルベルゲ(上田美佐子ほか)
*14日(土)・15日(日):チェンバロの日!2016
*15日(日)魅惑のルネサンス・フルート(ソフィオ・アルモニコ)
*20日(金)ラ・フォンテヴェルデ定期
*28日(土)イタリア初期バロック音楽(チパンゴ・コンソート)
*29日(日)パーセル 5 その音楽と生涯(川久保洋子ほか)
今谷先生特出。
*31日(火)ヴェルサイユの華~マラン・マレ生誕を祝して(辻康介ほか)
なんでよりによってBCJ公演と同じ日時に同じオペラシティ内で、聞きたいコンサートが重なるかのう。泣くぞ(T_T)

今年もLFJが巡ってきました。それからBCJ定期もあり。
サイトバーの古楽系コンサート情報もご覧くだせえ。

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2016年4月24日 (日)

「オブリガード・チェンバロとヴァイオリンのための6つのソナタ」:金太郎飴的バッハ

160424
バッハ331歳の誕生日に
演奏:大江戸バロック
会場:近江楽堂
2016年3月31日

忙しい年度末!しかし、331年前のそんな忙しい時期にバッハ先生は誕生したのであった。といっても当時は年度末とかなかっただろうがな

昼間「ボッティチェリ展」コンサート聞いて展覧会も見て、それから初台へ。最近の私にしては盛り込み過ぎな一日である。

桐山建志(ヴァイオリン)と、最近NHK-FMの「古楽の楽しみ」で人気急上昇中の大塚直哉(チェンバロ)のコンビでは、タイトル曲はとっくに全曲録音してCDを出している。今イッキに全曲演奏というのは、誕生日おめでとうヽ(^o^)丿企画ならではだろう。

長年一緒にやって来ているお二人なので、もはや息もピッタリで完璧な演奏を聞かせてくれた。どこを切って取ってみてもバッハ風味がぎっしりという印象で堪能させていただきました(^・^)
数百年後の自分の誕生日に、極東の片隅で自分の作品がこんな演奏をされているとは、バッハ先生もあの世で大満足に違いない

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2016年4月23日 (土)

「ボッティチェリ展」記念コンサート 3:公演後にケチがつく

160423
演奏:平尾雅子ほか
会場:東京都美術館講堂
2016年3月31日

年度末の超忙しい時期だったが、行ってしまったミュージアム・コンサートである。
少し前の「カラヴァッジョ展」同様、こちらも講演用のホールである。音楽聴くには国立西洋美術館よりは少しマシかなという印象だ。

こちらでは解説はない代わりに、ルネサンス風のお衣装やアクセサリーなどを着けた4人の女性が登場して華やかに……と言いたいところだが、背景が殺風景なホールなんでやや残念無念な所があるのは否めない。
ガンバ平井雅子以外の面子はソプラノ名倉亜矢子、リュート佐藤亜紀子、もう一人ガンバ頼田麗だった。
プログラムには「ガンバ」と書いてあったが、実際にはその前駆的存在であるヴィオラ・ダルコという楽器を使用した。ガンバよりネックが短い。この日使ったのは16世紀のモデルだそうである。

構成はよく考えられたもので、最初はフィレンツェで同時代に奏でられた宗教曲を。ラテン語のモテトゥスに加えてロレンツォ・デ・メディチやサヴォナローラが作詞したラウダなんてのも歌われた。

次はメディチ家ゆかりの音楽家ということで、デュファイ、アグリーコラ、イザークなど。ロレンツォは美術だけでなく音楽好きで外国から音楽家たちを呼び寄せたりしたとのこと。
グリエルモという人は名前も聞いたことがなかったが、改宗したヘブライ人でロレンツォの作った舞踏も含む舞踏集を編纂したそうである。また、フランス出身のヴェルドロ(この人も知らなかったです(^^ゞ)の曲はなんとマキャヴェリが作詞だそうだ。この曲の後半は器楽だけで演奏されたがこの部分も聞きごたえがあった。

最後は、音楽が盛んだったのはフィレンツェだけじゃなかったんだよ--ということで、イタリア半島の他の都市ミラノ、フェッラーラ、マントヴァの宮廷に仕えた音楽家を取り上げた。ジョスカン、ブリュメル、トロンボンチーノなど。
ダルツァ、そしてブリュメルの曲ではそれぞれリュートとガンバが活躍して拍手喝采を送りたい気分になった。
また、クレマン・ジャヌカン・アンサンブルのやかましい歌唱で知られるジョスカンの「こおろぎ」では名倉女史以外の3人も歌に参加。やかましいという程ではないが、賑やかに曲の終わりを締めた。(これ以外の曲でも皆さん専門以外の楽器を色々と持ち替えたりしてた)

アンコールでは平尾女史によるロレンツォ振付の舞踏が披露されるというオマケつきだった。なんでもボッティチェリの「三美神」が踊っているのがこれではないかと推測されてるらしい。絵画同様のダンス(三人でなくて一人だけなのが残念だったが)に会場が湧いたのであった。

先に書いた通り、会場が殺風景だったのを除けば楽しく華やかな、企画力のあるコンサートであった。


さて、この日も続いて展覧会の方へ--と思ったら「カラヴァッジョ展」の時はコンサートのチケットで入ることができたのに、こちらは別に金を払って入場しなければならないのだ(!o!) しかし、ここまで来て観ずに帰るわけにも行くめえと入ったのだが、大抵の美術館では全員に配布している出品リストが、なんとイヤホンガイド使っている人にしかくれなかったのだよ
け、ケチくさ~(-"-)

ケチくさいと言えば、コンサートの時出演者のCDを、ロビーでなくホール内の狭苦しい所にテーブル置いて売ってたのも怪しかった。もしかして「ロビーで売るのは禁止」とか言われたんじゃないかと疑っちゃう。

展覧会自体は終了日が近かったせいもあってか、かなり混んでいた。人の頭越しでしか見られないという感じだ。さらにそれぞれの作品の解説が貼ってある所には余計に人だかりが……。こういうのを解消するにはもっと大きな字の解説を貼ればいいと思うのだが(作品と張り合うぐらいのスペースで)、なぜかそういうことはしないみたいだ。
えっ作品の鑑賞を損ねるって? でもこんな渋滞してたらそんなことは言ってられないと思いまーす\(-o-)/
そのためにイヤホンガイドがあるんだろうっても、ガイド聞きながら解説読む奴多数……ってのはどういうこっちゃ(?_?)

それはともかく作品数は多く充実していた。主役のボッティチェリの絵は少なくても、弟子や同時代の画家の作品多数で埋める、というのはカラヴァッジョ展と同じだが、全体の見応えはこちらに軍配を上げねばなるまい。作品数が多いというのもあっただろうけど。
混雑であまり集中して見られなかったけど、同じような題材を描いていてもボッティチェリは細部のこだわりが強く、特に衣服の襞とか装飾とか他の画家より群を抜いて細かく描かれている。これまた画集だとあまりよく分からないような部分であった。

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2016年4月17日 (日)

「カラヴァッジョ展」記念コンサート 1:リュートを弾く男を描く男を弾く男

160417
演奏:坂本龍右
会場:国立西洋美術館講堂
2016年3月28日

カラヴァッジョ展にちなんだミュージアム・コンサート。今年度「ハルサイ」ではいつになく古楽系のミュージアム・コンサートが多くて嬉しい限りだが、平日の昼間ではなかなか行けない。この日は、休めそうだったので午後休暇を取って行った。

会場が展覧会場内だったりすると嬉しかったのだが、残念ながら全く音楽向きではない講演用の小ホールである。音がデッドなのは致し方ない。

冒頭に15分ほどこの展覧会を担当した館員の解説があった。
実はこの展覧会では楽器が登場するカラヴァッジョ作品は一枚もないとのこと……と聞いて思わず倒れそうになるが、じっと我慢。
有名な「リュート弾き」は2枚描かれたが、それぞれ見ている楽譜の曲が違い、さらに持っているリュートも違う(6コースと7コース)ということである。
その他、「音楽家たち」など楽器の登場する作品を中心に15分ほど解説。

コンサートの方は、カラヴッジョと同時期に活躍し、ご近所の地域出身であるテルツィのリュート曲から開始。続いて、先ほど解説に出てきた「リュート弾き」の楽譜に載っているアルカデルトのマドリガーレを演奏した。こちらは坂本氏がリュート用に編曲したものだ。
セヴェリーナ、ラウレンチーニなどの作品となると、そんな作曲家聞いたことありません状態である(^^ゞ
ラストのカプスベルガーはカラヴァッジョの次世代に当たるとのこと。確かに曲はより複雑化し、親しみやすいものからより高踏的になっているようである。解説に「テルツィの曲集からわずか12年後で(中略)、そのまま後期ルネサンスとバロック音楽の違いとも言え」とあるのが納得できる。
なるほどカラヴァッジョは激動期に生きた画家であったというのが、音楽面からも納得できるのだった。


さて、ありがたいことにコンサートのチケットで展覧会の方も見られるヽ(^o^)丿ということで、その後は突撃してきました。予想より客が少なかった。
彼の作品は11作品だけで、他は同時代の画家や影響を受けた後輩などの絵画である。それぞれ主題別に展示されていた。

最近、真作と認定されたばかりの「法悦のマグダラのマリア」は、マリアの閉じられているはずの薄眼が微かに光っていてなんだか不気味さが先立っていた。
「エマオの晩餐」は画集などでは分からなかったが、近くで見ると周囲の老人や女の顔や首筋には、長年の辛苦を経たような細かい皺がいっぱい描きこまれているのが分かる。それに比して若いイエスさんの顔はツルリンとして光が当たっているのだった。
ところでパンの下の大きな葉っぱはカシワかしらん?

それ以外に、カラヴァッジョが引き起こした裁判記録が幾つかあったのが面白かった。といってもイタリア語だから読めるわけではないが、1600年前後のものなので完全に古文書である。分厚い(20センチぐらい?)冊子に綴じられている中にある。内容は刀剣不法所持とか食堂での暴力沙汰とか……。ちゃんと保存されているんですなあと、妙な所で感心してしまった。

彼と他の画家を分かつのは、同じ「劇的」とか「光」といっても何か違う……と見ていて感じたのだが、やはりそれは臨場感だろうか? パッとセリフが浮かんでくるような生き生きとした場面が切り取られているのである。

今回は出展されてないが「芸術新潮」誌の表紙になった「ホロフェルネスの首を斬るユディト」なんか見る度に、「あーやだやだ、なんで私がこんな小汚い男の首を斬らなきゃいけないの。服に血が付くと洗濯が大変だから気を付けなくちゃ」とボヤいている言葉が脳内に浮かんでくるのであった。これって私だけか(^^?)

美術館のショップでは関連グッズを売っていたけど、彼の作品をあしらったクリアファイルとかさすがに日常的に持っていたくはないので、シチリア産レモンのジャムを購入。おいしかったです(^^)

ところで、私が初めてカラヴァッジョという画家を知ったのは恥ずかしながらデレク・ジャーマンの伝記映画を見てのことである。(過去に感想を書いてました→こちら
この映画で画家当人を演じたナイジェル・テリーが昨年の4月に亡くなっていたのに全く気付かなかった。今年に入って「昨年の映画人の訃報リスト」みたいのを眺めていて初めて知った。不覚である。D・ジャーマンは常に自分を投影した人物を彼にあてていたようだ。『エドワード二世』もやはりタイトルロールをやってくれと依頼したが、テリーは断って悪役の大臣を演じたとのことである。
他には『冬のライオン』のダメダメな末息子(TVドラマ『エンパイア 成功の代償』のハキームに当たる役)や『エクスカリバー』のアーサー王(ヒゲがないとマーク・ハミル顏になると当時評判に)を演じた。
私が最後に見たのは、ゲスト出演したTVドラマ『法医学捜査班』であった。


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2016年4月 9日 (土)

「禁じられた歌声」:音楽無くして心死す

160409
監督:アブデラマン・シサコ
出演:イブラヒム・アメド
フランス・モーリタニア2014年

日常の視点からイスラム原理主義の支配を描く。
舞台はマリ共和国のティンブクトゥ、武装し装甲車で町中を走り回る原理主義者たちは道往く女たちに髪と手を覆えと強制し、子どもたちのサッカーを禁止する。夜の街をかぎまわる姿はまるで秘密警察だ。
家の中で歌を歌っている男女を摘発し、目を付けた娘を無理やり「妻」にする。一方で。ラッパーだった若者は悔い改め彼らの仲間にならなければならない。中には死刑になる者も。

もっとも、実は彼らは陰でサッカー談義をしたり、タバコを吸ったりしているのだ。さらに「村の狂女」(?)みたいな中年女だけは、長いドレスをまとい髪を振り乱して車の前に立ちはだかっても見逃される。どうも彼らの昔の知り合いで「治外法権」になっているようだ。
その女は建物の屋上に昔の家財道具を置いて暮らしていて、古い冷蔵庫(もちろん電気は通じてない)があったりする。そこだけは古びた西欧の名残りがかすかにあるようだ。

それとは別に、羊飼いの一家を襲う悲劇が描かれる。こちらはやや現実を離れた神話的な作りになっていて、正直のところ羊飼いの父親はひがなゴロゴロしていてこれで食っていけるのかと心配になってしまう。
原理主義者たちはここにも押しかけてきて、母親に色目を使ったりする。(←しょうもないヤツら
予告や宣伝ではこの一家の娘である少女が中心であるかのようだったが、実際は群像劇と言っていいだろう。

羊飼いの一家と、川で漁をして暮らしている一家は、人種も生活様式も言語も全く違う。同じ宗教の下、同じ地域に暮らしていながら様々な人々が存在する。裁判をするにも通訳が二人必要など、大変だ~。そういう複雑な世界の状況を目の当たりにできる映画といえよう。

ただ、テンポや演出があまりにのんびりし過ぎて、一部の役者の演技はなんだか非常に素人っぽい。これはわざとやっているんだろうか(監督はマリ出身の人)。アカデミー外国映画賞にノミネートとは信じられない。

とはいえ、ラストの少女の行く末には泣けちゃったですよ(T_T) 実は『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』と同時期に見たのだが、真にフォースが必要なのはこっちの少女の方だいっ 神様どうかこの子にフォースを与えてやってくだせえ(-人-)


素朴度:7点
求心度:4点

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2016年4月 5日 (火)

「シェイクスピアの時代」:上野・釜・ダウランド

160404
文芸の扉を開くイングランド~シェイクスピアが聴いた音楽
演奏:波多野睦美ほか
会場:東京文化会館小ホール
2016年3月26日

東京・春・音楽祭のコンサートの一つ。数日後の「シェイクスピアと音楽」とセットになっている(後者は古楽ではない)。
しかし疑問なのだが、いわゆるハルサイというのはどういう意図で何をターゲットとしているのだろうか。今一つよく分からない。上野なんか年がら年中お祭り状態だからねえ。まあ、美術館や博物館での企画コンサートなんかは普段聞く機会がないから嬉しいけれど。

この日は、波多野睦美の朗読と歌(&解説も)にリュートつのだたかし、フルート浅井愛、ガンバが福沢宏、坪田一子、譜久島譲、田中孝子が共演。
前半はシェイクスピアの劇中に使われた曲やゆかりのある曲である。『ハムレット』→「ウォルシンガム」、『十二夜』→「俺が小さなガキの頃」、『ヴェニスの商人』→「さようなら、薄情な人」、『オセロー』→「柳の歌」などなど。
喜劇役者ウィリアム・ケンプが幕間に踊ったという「ケンプのジグ」なんてのもあった。また、『マクベス』の中に登場する魔女が、釜の周りで唱える呪文を波多野睦美が英語で朗読したのは面白かった。ガンバがキキキッとオドロな効果音を付ける。言葉遊びみたいな響きで韻が効いているから呪いも百倍(!o!)みたいな感じである。

後半は同時代のダウランドの曲の合間に、T・ヒュームのガンバ独奏曲が一曲入った。時代柄、「闇」とか「死」が好まれたそうで、歌詞も曲調も暗い曲が多い。さらに「ヒューム大尉のパヴァーヌ」は田中孝子がバスガンバで弾いたが、これがまた聴いていると底なしの泥沼に落ち込んでいくような印象でますます暗くなっていくのであった。ハルサイどころか「暗祭」だぁ~っ

シェイクスピアと同時代の音楽の関わりという企画は結構あると思うが、やはりダウランドの歌曲をフルのガンバコンソートと共に聞けるというのはありそうでなかなかないものである。(リュート一本で伴奏なんてのはあるけど)
そういう意味では貴重な機会だったし、構成や演奏も良かった。……のだが、客の入りが六割弱というのはこりゃどうしたこったい(>O<) つのだたかしが「空席以外は満員で」と冗談を飛ばしていたぐらい。
同じ日にサイモン・スタンデイジの公演があったから、みんなそっちに行っちゃったのかね(^^?)

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2016年4月 3日 (日)

「バラカ」

160403
著者:桐野夏生
集英社2016年

読むだけで消耗してしまう小説である。マイッタ(@_@;)

大震災の後、原発4基が全て爆発し、首都は東京から大阪へ移転している。住民が避難した群馬県某市でボランティアが一人残された幼女を発見する。「バラカ」とは彼女が喋った唯一の言葉だ。

その少女をめぐって、震災前そして後も、様々な人の思惑やら事件やらが渦巻いていく。カネ、宗教、家族、愛欲……
登場する人物のほとんどはろくでもないヤツばかりだ。悪意の塊のような人物も現れる(某事件を想起)。原発派も反原発派も彼女を利用することしか考えていない。しかも人間がどんどん消えていく。
読んでて暗澹としてくるのは仕方ない。神も仏もないとはこのことだ。

そして、何やら背後にうごめく陰謀めいたもの。それも明確に姿を見せないまま消えていく。漠とした不安と恐怖……それは震災後に頭上を覆うものを象徴しているように思えた。ドス黒い流れのような何か。

この小説の連載が始まったのはなんと2011年の8月である(構想自体は震災より前からとのこと)。ならば書き始めた時にはまだ原発全部爆発というような事態になる可能性も生々しかったはずだ。作者はよく書いたもんである。オリンピックについての批判も厳しい。

それだけに結末には、いささか気が抜けたような気分になった。だが、ここは素直に近所のオバサン目線で「幸せになってよかったね」と言っておこう。
それと、終盤の「なぜなら、私たちは何も法律を犯していません。(中略)だから、私たちが彼らを助けないで、誰が助けるのでしょう」というセリフの力強さには心動かされたですよ。

決して好きだとは言い難い小説だが、今の日本の暗部を確実に描いていると言えるだろう。

ただ、とある人物の最後の死は理由が分からなかった。後で何か説明が出てくるのかと期待していたが結局何もなかったし。そういう人間だから、では納得できん。

それにしても「きれいな服を着せて可愛がりたい」というような理由で養子を貰おうとする人間が現実にいるのだろうか。いないことを願う。金魚でも飼ってろと言いたい。

カバーの写真は森山大道の作品。強烈である。


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2016年4月 2日 (土)

「チェンバロのひみつ」:埼玉の闇は深まる

160402
チェンバロ・レクチャーコンサート 5 「通奏低音ってなんだろう!?」編
演奏:上尾直毅、荒木優子
会場:松明堂音楽ホール
2016年3月12日

このレクチャーコンサートのシリーズは5回目ということだったが、夫婦共演で通奏低音について教えて貰えるというので、これは是非行ってみなくてはと思ったのである。

まずコレッリのソナタのさわりを弾いて、上尾氏のレクチャー開始。楽器についてという超基本的な部分から、バッハのソナタもまじえて、通奏低音の細かいところまで詳しく説明があった。

プロで楽譜通りに弾く人はいない、必ず装飾音を付けるとか、バッハのソナタBWV1021は、右手の部分を弟子や息子に作らせたらしいとか、コレッリ自身のヴァージョンの装飾は速い曲には付けてない、大変過ぎて弾けないからなどなど。
「通奏低音」という日本語の用語は服部幸三が訳した、というのは知らなかったぞ

レクチャーの中身が大層濃いものだったので、演奏自体はコレッリ1曲、バッハ2曲だった。アンコールはルクレールだった。
上尾氏が話しているのを聞いたのは初めて(^^?)のような気がする。思えば、荒木女史のヴァイオリンも完全に単独で聞いたのは初めてか。結構、重くも鋭い音で弾く人だったんだなあと、外見との差が意外に感じた。

さて、ここで一つ問題だったのはど真ん中最前列に座っていた母娘なんであるが、小学生ぐらいの女の子が飽きたらしくてお絵かきをずーっとやっていたのだ。いや、ほとんど最初からやってて、途中から母親に絵手紙みたいのを書いては何かささやきながら母親に渡し、また母親が返事を書くんだよねえ(^_^メ)

言っておくが、最前列のど真ん中である。
思えば、同じく埼玉某所のコンサートでも、やはり最前列に座った女の子が母親の隣でお絵かきを始めたことがあった。いくら文化果つる地埼玉とはいえ、そんな母娘が何組もいるとは思えないので、同一人物なのだろう。
何考えてるんだろう? あきれたもんである(ーー゛)

折しも少し前にこの松明堂ホールが閉館するというニュースが流れたばかり。埼玉の野蛮度はますます大きくなるばかりのようだ。


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