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2016年5月

2016年5月29日 (日)

「マネー・ショート 華麗なる大逆転」:バブルの崩壊を待望する人々

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監督:アダム・マッケイ
出演:クリスチャン・ベイル
米国2015年

評判がよく賞レースにも上がっていたので見に行った。結果は、個人的にはどうも合わなかったとしか言いようがない。最近、こんなのばっかだ(+o+)

そもそも経済が苦手な人間が、サブプライム・ローンの破綻とかリーマンショックなんて題材の映画を見に行ったのが間違い。これは予習が必要であった。

取り上げられているのは深刻な内容だが、語り口はポップで明るく分かりやすいように思える--あくまでも「思える」のであって、本当に分かりやすいかどうかは不明。「マンガで分かる××」という本が、マンガで説明されてもやっぱり「××」の部分が実は難しくて理解できないことがあるのと同じ。
それに、きれいなネーチャンがバスタブつかりながら説明してくれても、だからどうなのよって感じだ。

描かれるのは、実体のないローンのシステムを見ぬき、世の流れに反してバブルの崩壊を見越した方向に投資する男たちである。彼らは浮かれている世情を批判的に眺め、あたかも腐敗した社会に一撃を食らわせようとしているように描かれている(C・ベイル扮するトレーダーは純粋に投資者の利益になると考えていたようだが)。
だが、よくよく考えれば結局は方向は違えどローンをネタに金をもうけるということには変わりないのでは? 向きがどっちかが違うだけの話だ。

別にモラルを求めるつもりはないが、あたかも彼らが反逆者とか英雄であるかのような描き方に、やや詐術的な匂いを感じてしまった。

私はこれを見ていて、昔読んだ『核戦争を待望する人々』(朝日選書)という本を思い出した。キリスト教原理主義者を取材したルポだが、彼らは最終戦争が起こって世界の終末が訪れた時に、自分たちだけは上空から光の柱が降ってきて天国へと吸い上げられていくのだと信じているのである。

まるで同じではないか。ここで描かれる男たちは最終戦争ならぬバブルの崩壊が起こった時に、金の柱で自分たちだけは助かると信じていたのだから。

というわけで、後味悪いことこの上ない映画だった。
それとは別に、ブラッド・ピットは自分が製作に携わっている作品でいい人の役ばかりやるのはいかがなものであろうか、と苦言を呈したくなった。


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2016年5月28日 (土)

「キャロル」:美しい絵画を見る

監督:トッド・ヘインズ
出演:ケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラ
イギリス・米国・フランス2015年

1950年代初頭のニューヨークを舞台に、ヒッチコックのような細心かつ周到な手つきで二人の女性の愛を描いている。
衣装、小道具、街の光景、音楽--どれも見事に決まっている。ややくすんだ色の映像も魅力的だ。
エドワード・ホッパーの絵画を思わせるところもあり、退廃かつレトロな雰囲気だ。

レストランで告白する場面はカメラの切り返しがスリリングで、見ていてドキドキしてしまった。ここではブランシェット扮するキャロルに吸い寄せられるような気分がしたのだが、実際カメラが微妙に近づいているのか?

それにしてもケイト様の眼ぢからには恐れいる。ギューッと引っ張り込まれるようだ。ラストシーンの視線も強烈である。ビバ!ケイトと叫びたくなる。
一方、ルーニー・マーラのテレーズも、なんかオドオドしていてかつキュートという訳の分からない状態をうまく表現している。女優二人が昨年度の映画賞レースを賑わしたのも当然だろう。

この恋は悲恋に終わるのか--と思わせてラストに救いを予兆させて終わるのも良かった。

……と、いいとこだらけのはずのこの映画、にもかかわらず二人の関係がどういうものなのか見ていてさっばり分からなかったのはどういうことだろう。一体、彼女たちは普段何を話しているのか?何をしているのか? 全く浮かんでこないのだ。
愛さえあれば言葉なんか不要だという意見もあるだろう。でも結構長い間、一緒に旅行しているんだからさ。そういう部分の描写もあっていいはず。
二人は階層や趣味嗜好も異なっているだろう。どういう部分が共通する部分だったのだろうか。それが描かれてないから、何やらこの恋物語は美しい一枚の絵を眺めているよう。実体がなく漠然とした印象しかないのだった。

それに加えて、全てに細心すぎ凝りすぎてて見てて気が抜けないのも欠点に思えた。
結論は「ケイト様ばんざい\(◎o◎)/!」で終わるのであろうか。
まあ、そもそも恋愛映画苦手な人間が見に行ったのが間違いということだわな

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2016年5月24日 (火)

「スティーブ・ジョブズ」:天才、功多くして愛され難し

監督:ダニー・ボイル
出演:マイケル・ファスベンダー
米国2015年

あらためて言うまでもない天才の伝記を映画化。しかし通常の描き方ではなく、全てを3回の新製品プレゼンテーション開始前の30分間に凝縮させてしまうという荒業である。さすが、脚本アーロン・ソーキンというしかない。

その3回はマッキントッシュ、Next、アイマック--でいいのかな。いずれも、開始時間押せ押せ、試作品が動かない、ジョブズの癇癪などのトラブルに加え、毎回繰り返し同じ人物たちが訪れて同じような押し問答を繰り返し、回想場面も交えて、時間の経過と主人公の変わったところ、変わらないところを浮かび上がらせるという仕組みになっている。

原作は未読だが、ヤマザキマリがマンガ化したのを読んでいると「こいつ嫌なヤローだぜ(-_-メ)」と目つきが悪くなってしまう(特に子供の認知関係)。ここでも彼はまさにイヤさ爆発……ではあるが、娘との関係を見てみると、父親代わりを求める息子が最後に父親になれたという結末がちゃんとついているのだった。
観客は自然にこの変人を受け入れる方向へ導かれるという次第。
ただ、ウォズニアックについては「僕はあんな喋り方しないよ」と言うかもしれない。

他の人の感想で見かけた意見だが、「芝居」っぽいところがある。舞台装置を変えずに三幕物の演劇として上演できるだろう。もちろんウォズ役は客席の中から立ち上がっていちゃもんをつける。ジョブズ役の役者は大変だろうけど。

ケイト・ウィンスレッのオスカー助演女優賞ノミネートは納得である。エンジニア役のマイケル・スタールバーグなど脇もガッチリだ。
字幕はパソコンに無知な人間でも理解できるように気を使っている。担当者はご苦労さんですm(__)m 「ヒューレット・パッカード」が「ライバル社」になっていた。大体にして、ソーキンの脚本は吹替えでないとあの情報量を処理できないだろう。

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2016年5月23日 (月)

ピクサー展

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会場:東京都現代美術館
2016年3月5日~5月29日

3月中に行けばよかったのに、結局時間が取れず5月になってしまったピクサー展。休日はかなり混んでいるというので(もちろん若冲展レベルではないが)平日に休みを取れる日に行ってきた。お子ちゃまは当然いないのですいているだろう……と思ったのだ。
この東京都現代美術館も久し振り。6年ぐらい行ってないか? 周囲はモロ下町だったのが、こじゃれた店が増えている。

さて、確かにすいてはいた。並ばずに直に入れた。お子ちゃまはいなかった(*^^)v
代わりに若い学生がいっぱいいた(!o!) 6割以上が女子だった。デート風のカップルもかなりいた。
私ぐらいの年齢の人間は、娘に連れられてきたとおぼしき中年の母親2名を見かけたのみ。オヤヂに至ってはゼロ名であった。中高年男性は興味ないのか?

内容はさすが現美というだけあって、ピクサーといってもお子ちゃま向けでは全くなく、クリエーターやデザイナーを目指す人にはさぞ参考になるであろうようなものだった。
ピクサーの歴史を簡単におさらいして、各作品ごとにスケッチ、ドローイング、カラースクリプトという色彩を確認する連続画から、CGの制作工程を見せる映像まで。設定を確認するためのキャラクターのフィギュアなんてのもあった。
また、各部門のクリエイターたちのインタビューも相当数流されている。
すべてビジュアル部門に関して限定されていて、演出や脚本についてはわざと除外してあるもよう。

膨大な枚数のカラースクリプトや、一つのキャラクターの検討に8週間かけたなんてインタビューを聞いていると、これだけの時間と物量と人員を投入してこそ、あれだけの作品ができあがるのだなあと身にしみるのであった。
『カーズ 2』に登場するグランプリ場面一つにどれだけ手間をかけているかを紹介するモニター映像があって、ビックリ&感心してしまった。

作品映像は本当に初期の作品(電気スタンド親子のショートアニメあり)、劇場で長編作品の前にかかる短編、「アートスケープ」という大型スクリーンで見る過去作品のイメージ映像(キャラクターは出てこない)があった。

短編についてはラセターご当人が作っていた初期作品の3つがやっぱり非常に面白かった。どれも2分間の作品だが、その中にユーモア、ウィットが詰め込まれそして最後には人生の悲哀(「人」じゃなくて「物」だけど)まで感じさせる。
特にスノードームのやつ(タイトル忘れた)はストーリーが逆転逆転また逆転、よくも考え付くものだ。場内からはしきりに笑いが起こっていた。
それに比べると近年の短編は、時間は長いけど中身は……。

やはり才能のある人はジャンルとかメディアとか関係なく、本当に【才能】というのがデーンとあるんだなと感じた次第である。

また、アニメーションの元祖ゾートロープでは「トイ・ストーリー」のキャラクターたちが高速回転して浮かび上がり、客から思わず歓声が上がっていた。

私は3時間弱で見たが、全部のインタビュー映像などを見ていくともっとかかってしまうに違いない。
展示場所は細かくパーティションなどで細かく区分けされていたが、細かすぎて大勢の観覧者には対応できないだろうと思った。
また、作品の上映室は広い部屋の前方にベンチが数個置いてあるだけで、現代アートの映像ならいいだろうが、多数の人間が立ち見するとなると不向きだろう。

グッズ売場では、若いコをかき分けてオバハンは奮闘! メモ帳と定期入れをゲットした。クリアファイルは色んなのが家にたくさんあるし、Tシャツは着る機会がないだろうし、トートバッグは5千円近いのであきらめた。

正直疲れ切って常設展や、一部で話題となっている併設の「キセイノセイキ」を見る力は残ってなかった。やはり歳か……(;_;)


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2016年5月22日 (日)

「フランソワ・クープラン」:リュリと呼べばコレッリと答えるクープランの曲の嬉しさよ

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「クラヴサン奏法」出版300年に寄せて
演奏:アンサンブル・レ・フィギュール
会場:近江楽堂
2016年5月12日

ソプラノ高橋美千子と4人の器楽奏者によるアンサンブルのコンサートがあった。一日二回公演だったが、私は夜の方に行った。前回の公演の感想は→こちら(この時はグループ名まだ付いてなかった?)
今回はタイトル通りクープランの曲が中心で、合間にランベール、リュリの作品が演奏されるという構成だ。

エール・ド・クール、モテ、独奏曲、そしてヴァイオリン、フルートの入ったコンセール、あるいは「リュリ讃」……と、クープランの多様な側面が、調性ごとに分けて描かれる。
高橋美千子は劇的な世俗曲と宗教曲をきっちりと歌い分けていた。器楽の方は奏者の皆さん、若手とはいえ既に風格のある演奏。今後も楽しみである。

リュリは短い作品一曲だけだったけど、「リュリ讃」が数曲あったからいいよね(^^) 後者は短い朗読の部分も高橋女史の本場仕込みの華麗なるフランス語の響きで聞かせてくれた。

ランベールは数日前のLFJのレ・パラダンでも聞いた定番歌曲だったが、高橋女史の歌唱は素晴らしいものであった。ランベール、好きですと言いたい。

大変満足できたコンサートだった。皆さんパリ在住とのことだが、またぜひ次回もやっていただきたい。
客層は普段のマイナー古楽系と違って、高そうなブランドのバッグを持っているような若い女性が多かった。そもそも女性比率が多い。どういう筋の方々かしらん(^^?)

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2016年5月18日 (水)

最近見た(というわけでもない)映画感想

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どうも最近、映画の感想の更新が滞ってたまり過ぎております。連休にも消化できなかったので、数作まとめて書いてしまいます。

「ブリッジ・オブ・スパイ」
監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:トム・ハンクス
米国2015年

スピちゃんが登場した時、こんな正統派監督になるとは誰が予想したでありましょうかってなぐらいに、地道でクラシカルな味わいもある作品。
また、主役が民主党・共和党それぞれの支持者から共に一番人気だというトム・ハンクス(もはや米国良識派の顔か)なんだから、ますます正統派っぽい。

冷戦下の1960年にあった実話を元に、米ソのスパイを壁で東西に分かれていた頃のベルリンで交換する交渉の過程を描く。うさん臭い状況が続き、やり手の主人公の弁護士は果たして荒業を使ってうまく交換できるのか。見ていてハラハラドキドキさせる。

照明が美しく、小道具、セット、衣装も当時の雰囲気を完璧に漂わせている。
唯一の欠点は、スキがなさ過ぎるところだろう(~_~;)

スパイ役を演じたマーク・ライランスが非常に印象に残る。オスカーの助演男優賞候補に選ばれて納得だと感じたけど、受賞するのは間違いなくスタローンだろうと思っていた。しかし、ふたを開けたら彼だったのでビックリだ

このように初めてのノミネートで獲得する人もいれば、一方音楽担当のトーマス・ニューマンは13回目の候補で未だ無冠だそうである。

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「完全なるチェックメイト」
監督:エドワード・ズウィック
出演:トビー・マグワイア
米国2015年

チェス史上有名な「天才」ボビー・フィッシャーの、少年時代からチャンピオンになるまでの半生を描く。

彼は奇矯な言動で、チェスで頭角を現すようになってからも周囲を振り回す。姉は精神病院に行くことを勧めるが、薬を飲むと試合ができなくなると拒否。
さらにソ連のチャンピオンと対決となると、冷戦の時代柄、双方の政治家が応援して代理戦争のようになってしまうのだった。

チェスに無知な人間が見ても分かるように作ってあるのは助かる。しかし、これが天才ミュージシャンだったらライヴ場面で盛り上がれるけど、こちらはただ渋面で盤をにらんでいるだけだから今一つ「絵」にならないのが難しいところだ。

主役のT・マグワイアはエキセントリックな役柄で、なんだか『ナイトクローラー』のJ・ギレンホールとカブってしまうのだった。
それよりも、国家の威信を背負わされて立って重圧に耐えているようなソ連のチャンピオン(リーヴ・シュレイバー)や、自身もチェスの才能はあるだろうに主人公を支える側に回る神父(ピーター・サースガード)の方が気になった。

映画では描かれなかった、チャンピオンになった後も主人公は波乱に富んだ人生を送ったもよう。確か日本にも在住してたはずである。

音楽は超ナツメロ大会。懐かし過ぎて涙が出ます(T^T)

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「サウルの息子」
監督:ネメシュ・ラースロー
出演:ルーリグ・ゲーザ
ハンガリー2015年

ユダヤ人強制収容所で、ガス室の死体処理に従事していたユダヤ人がいた。彼らを初めて取り上げた作品。
極めて評価が高く、他のブログでも取り上げられた数が多かったが、私は主人公の言動にイライラしてしまい、どうにも映画の世界に入り込めなかった。

映画というものは必ずしも登場人物に共感して見なくてもいいはずである。しかし、この作品は常に主人公の「一人称」目線(いや正確には「二人称」か?)になっていて、周囲はピントをぼかしたように撮られているという特殊性がある。主人公と同一化しなければ見ていられないだろう。

彼の行動が「人間性の証」であるとはとても思えない。私にはむしろ人間性が失われた行動にしか見えなかった。他の収容者を何人巻き添えにしても執着する姿はまるで幽鬼のようである。

早い話が、もし主人公が「ブツ」をなくさなければ一人か二人は逃走できたんじゃないの?などと思ってしまう。
彼の周囲で起こっているは恐ろしく陰惨なことばかりで、とても正気ではいられないとは分かっていても、やはり彼にイライラしてしまうのであった。
まあ、相性が悪かったとしか言いようがない。


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2016年5月14日 (土)

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2016

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今年のLFJはテーマが「ナチュール-自然と音楽」とのことで、バロック系も多くやるのではないかと期待されていた。しかし、実際にプログラムが発表されると純粋に古楽器による古楽は昨年より少ないぐらいで、いささかガッカリ感があった。

☆「フランス・バロックの「四季」」

演奏:レ・パラダン
会場:東京国際フォーラムホールB5
5月4日

本来は鍵盤+ガンバ+ソプラノ2名でシャルパンティエのモテット「四季」を中心に、同時代の作曲家の曲もまじえて演奏するはずだったらしい。しかし、ソプラノの一人が喉の炎症で休場。急きょプログラム内容を変更したとのことである。
事前に音楽祭のスタッフから説明があった。

変わったのは歌曲の大半がランベールになったことだろうか。マレのガンバ曲4曲はそのまま元プログラム通りだったもよう。

残ったソプラノの人は声量はあった(横に細長い会場に声を均等に届かせようと気を配っていたようだ)が、それ以外は精彩に欠けてウムムム(ーー;)であった。
全体の印象は可もなく不可もなくといったもので、正直日本のグループでもこれぐらいの水準の演奏はできるだろうと思えた。
まあ、来日してから曲目を変更したのだろうから仕方ないのだろう。

面白かったのはクープランの「ルソン・ド・テネブレ」で、短い楽章ごとにオルガンとチェンバロを交互に弾いていたこと。気ぜわしい感じである(^^;

ウメオカ氏のブログによると、もう一人のソプラノが復帰した5日の演奏は素晴らしかったとのこと。聞きたかったぜい

終演後、そばの席に座っていた高齢夫婦のダンナの方が、「音程が悪い、声量がない……シャンソン歌手でも連れてくればいいんだ」と歌手のことを手ひどく罵っていた。そんなにひどくはなかったと思うが(?_?) なんだかビックリしてしまった。


☆「ロワール川のほとりで」

演奏:アンサンブル・ジャック・モデルヌ
会場:ホールB5
5月4日

ルネサンス期の合唱曲というと、タリス・スコラーズやシックスティーンなど有名どころは来日するが、近年それ以外の海外グループはなかなか聞けないのが実情である。
このグループは結成40年を過ぎているというが、生で聞くのは初めてだ。

プログラムはルネサンス期のアカペラでの宗教曲・世俗曲全10曲を取り混ぜて歌うというもの。しかし、全体では一つのミサを成すように構成されているのだ。
作曲家はオケゲム、ジャヌカンといった大御所からカイェタン、フォーグなどという名前も聞いたことのない人まで(!o!)

歌手は全部で10人。宗教曲の時は全員で、さらにJ・スービエが指揮に立つが、シャンソンの時は3、4人で入れ代わり立ち代わり指揮なしで歌う。
聖俗どちらもイケますっという勢いで、コーラスとしてのまとまり重視の時と個々の掛け合い風の時とちゃんと歌い分けているようだった。
できればちゃんとした音楽ホールで聞きたいとセツに感じた。

同じプログラムを4回繰り返して公演したようだが、どうせなら2種類ぐらいやって欲しかったのう。


☆ピエール・アンタイ

会場:G409
5月5日

P・アンタイはLFJで過去数回来日していると記憶しているが、いつも朝一番か夜の遅い回なので行ったことがなかった。しかし、今回は最終日だけ夜の8時半からだったので(他の日は夜10時から)チケットを頑張って取ったのである。

LFJの今年のテーマが「自然と音楽」なので、ラモーとクープランの短いチェンバロ曲でテーマに合うようなタイトルのものを選んで演奏--という趣旨だった。クープランの方が7割ぐらい占めていた。

会場は本来「研修室」として使われている部屋で、天井が低く細長いスペースである。全くもって音楽向きではなくて、アンタイが弾き始めた途端に「あ~」とガックリしてしまった。距離は近いのに、音が遠くにしか聞こえないのだ。レ・パラダンの時はもっと離れていてもチェンバロはくっきり聞こえたのに……。
もっとも、聞こえ方が二つの会場で逆だった人もいたようで、どうも位置や楽器の向きが関係しているようだ。そう考えると、専門の音楽ホールというのは位置で聞こえ方に差がなるべく出ないように作られているのだなと思った。

それはともかく、アンタイの演奏は極めて早く、まるで生き急いで……ではなく、弾き急いでいるよう。聴いてる側もなんだか落ち着いてはいられない。畳み掛けるような鍵盤の音の連なりに、アセアセ(~_~;;してしまうのだった。

なので、短い曲がどんどん演奏されるのでどれがどの曲が判別できなくなってしまうほど。しかも、どこからかドコドコという音がする。と思ったら、彼が床を踏み鳴らしているのだった。見てると、チェンバロの上の譜面台も揺れていた。

ラストのラモーの「めんどり」では鳥を模したエキセントリックな音の連なりを鮮やかに表現し(手の動きもすごかった)、拍手喝采となった。

アンコールは全3曲と大盤振る舞い。スカルラッティは技巧的な曲をものすごい速さで弾きまくり、またもや聴衆を圧倒したのだった。
全編、煽り立てられているようなコンサートだったが、最後のアンコール曲のバッハだけはゆったりとした気分に満ちていた。(最終日の最後だったからかな)

終了は10時近く。LFJでは基本45分間の演奏でチケット代が2600円ぐらいが通常ということで、普通のコンサートと比べて安いわけじゃない、という意見が以前から出ていた。
しかし、このコンサートは2100円で1時間数十分、ビッチリと超絶演奏が聞けたのだから、完全に元は取れた。満足であ~る

終演後は薄暗く、もはや人気もまばらな国際フォーラムであった。祭りの終わりをヒシと感じたのであるよ。
来年のテーマは「ダンス」とのこと。古楽系についてはもう期待しないでおこう。通常の来日が望めないようなグループが来てくれればいいや(^_^メ)という感じである。


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2016年5月 8日 (日)

「消えた声が、その名を呼ぶ」:娘を求めて三千里

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監督:ファティ・アキン
出演:タハール・ラヒム
ドイツ・フランス・イタリア・ロシア・ポーランド・トルコ2014年

トルコで20世紀初めに起こったアルメニア人キリスト教徒の迫害に端を発する物語である。
オスマン・トルコ統治下、職人として家族と平穏に暮らしていたアルメニア人の主人公が、いきなり憲兵によって強制労働に徴収される。一方で女・子供・年寄りは難民キャンプへ送られる。
奴隷同然に荒野で働かされた揚句処刑されそうになり、助かったもののその時の傷が原因で声が出なくなってしまう。

妻と二人の娘が送られたキャンプへと向かうが、そこは名ばかりで収容者が餓死するのを待っているだけの砂漠だった。ここの光景はかなり衝撃的である。
その後、娘たちがまだ生きていることを知った彼は、延々と娘の足跡を追いかける。
アレッポ(ここで第一次大戦終了)→レバノン→キューバ→米国と、延々と移動を続けるのだ。

その間、約十年。そしていかなる場所にも暴力と不正が横行するのだった。
なかでも米国人の描写はいい所のなしの、ひどいもんである。誰もが主人公をいじめまくる。そのせいだろうか米国ではロケしていない。(ラストシーンはカナダ)
さらに中東の地から移住するために人々が海を渡ってたどり着き熱狂するのは、米国……ではなくキューバという描写にもイヤミが含まれているかも知れない。

その様々な土地の光景はどこも美しいというより厳しい。主人公はある時は他人に助けられながら、またある時は悪事を犯しながら、なんとか生き延び娘たちを追いかけるのである。それは執念としか言いようがない。いや、執念こそが彼をかろうじて歩かせているのだろうか。
監督はインタビューで「彼をもっと悪人にすればよかったかも」と語っていたが、そこは難しいところだ。これ以上悪事を重ねたら、ラストに納得いかない観客多数になってしまう可能性がある。

そのラストは、劇中に登場するとある映画の場面とそのまま重なる。その感動を成り立たせているのは、冒頭以外はセリフのない主人公を演じたタハール・ラヒムの「顔力」に寄るところ大だろう。

音楽がレディオヘッドっぽいなあと思ってたら、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの元メンバーが担当とのこと。こちらの方が元祖ですわな。
またしても説明的な邦題来たーっだが、原題はシンプルに主人公の喉の「傷」である。

トルコ系ドイツ人である監督は、いうなれば迫害した側であり、トルコ国内でも論争中というこの事件についての撮影は苦労だったようだ。「難民キャンプに送ったのは彼らを保護するため」とか「自分で進んで家を出たのだから強制ではない」とか論議が闘わされているのだろうか。犠牲者の数についても5万7千人から150万人と諸説あるらしい。
アレッポを始め、この中に登場する土地の大半が今もなお混乱や紛争の舞台となっているのは偶然ではあるまい。

もう一つ印象的だったのは、トルコ兵に「イスラム教に改宗すれば帰してやる」と言われて躊躇しながら数人が進み出る場面だ。背中に「裏切り者」「ユダめ」という罵声が投げつけられる。宗教というものの厳しさを感じさせるのだった。


父親度:9点
悪人度:5点


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2016年5月 5日 (木)

「夏の夜の夢」:多文化主義的夏夢

原作:ウィリアム・シェイクスピア
舞台演出:ジュリー・テイモア
出演:キャスリン・ハンター
米国2014年

ジュリー・テイモア演出というと、過去にヘレン・ミレン主演の『テンペスト』を見たことがあるが、こちらは舞台をそのまま収録したものである(観客もいる)。
とはいっても、複数のカメラを使って客席からは見えないアップや位置の映像も見られるようになっている。

昨年はSPACがらみで2回も「夏夢」を見たので、長尺だし正直もういいかという気分だったが、キャスリン・ハンターがパックを演じるこれは絶対見なくては(!o!)と行ったのだった。彼女はピーター・ブルックの『驚愕の谷』という芝居に出演していた。芝居の内容自体は面白いものではなかったが、その強い個性に驚いたもんである。で、彼女がシェイクスピア芝居をやっているなら、どうしても見たいと思ったのだ。

舞台装置は大きな布を使って役者を持ち上げたり、波を立てたり様々に見せる。その動きがとても幻想的だ。
森の妖精たちは子どもが中心で演じている。白塗りで、オーストラリアの先住民を連想させた。役者の年齢は全体的にかなり若い。また、主要人物の数名はアフリカ系が演じている。

ハンターは非常に小柄だが手足が長くて人間離れしている。傍から見ると年齢も性別も不詳である。実年齢を考えると信じられないほどの身体の柔らかさだ。まことにパックにふさわしい。

4人の恋人たちは最後になぜか下着姿でプロレスを始めてしまう。それまで彼らを邪魔したりからかったりしていた妖精たちは、ここぞとばかりに容赦なくはやしたて、脇からガンガン枕を投げつける。おバカな人間ども(^◇^)もっとやれ~ってなもんだ。

さんざんドタバタしていた恋人たちではあるが一件落着した後は、今度は職人芝居を同様にからかい半分で眺める。職人たちは変なキャラクターを発揮する役者ばかりで、これまたさすがである。
作り物のロバ頭の口が動くのには笑った。空気仕掛けで動かしているらしい。

やはりK・ハンターは一見の価値はあった。超・怪優と言っていいだろう。

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2016年5月 3日 (火)

「ヴィオレット ある作家の肖像」:文系姐御

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監督:マルタン・プロヴォ
出演:エマニュエル・ドゥヴォス
フランス2013年

『セラフィーヌの庭』は女性芸術家の伝記としてはかなり画期的で、影響を受けた作品も幾つかあったようだ。私も後からケーブルTVで見て、ロードショーで敬遠してしまったのを後悔したもんである。

その監督の新作は、今度はヴィオレット・ルデュックという女性作家の半生を描いたものだ。フランス文学に疎い人間としては全く名前も聞いたことがない。
20世紀初頭に生まれ、自分を疎み男関係が派手な母親を憎悪し、バイセクシュアル。大戦中は闇屋をやって稼いでいたが、ゲイの作家に小説を書くことを勧められて文学の道に。そしてボーヴォワールを読んで心酔して、ストーカーという程ではないがしつこく接近する。

ボーヴォワールの後押しもあって小説を出版するが、書店では冷たい扱い。寄宿学校での同性愛体験などを赤裸々に描いた作品で、同時代のジャン・ジュネは人気があるのに、同じような表現を書いても女性作家には検閲が厳しいのであった。

一方で、ジュネやゲラン(香水会社の)と「貧民出身の私生児3人組」としてつるんで遊び、素人映画を作ったりしてる場面も描かれる。

ヒロインは神経質で、別な所では無神経で、やけっぱち気味な行動にすぐ走る。そんな押しかけファンの彼女に対して、冷静に付き合い、才能を認め陰から支援してきたボーヴォワールはかなりな「大人」といえるだろう。

「私が醜いからキライなんでしょ(>O<)」と泣きわめくヒロインに、「私は外見なんか気にしないの!」と断固言い切る彼女は後にサルトルと同棲してその言葉を証明した。「美人なのに、なんであんな醜い男とくっついたかねえ」とはヴィオレットの母の野次馬的感想だが、当時のパリ市民の正直な意見だろうか。(サルトルは作中に登場しない)

ジュネは「所詮インテリ女さ」と軽く切り捨てるが、この映画におけるボーヴォワールはカッコ良くて、超がつく姉御としか言いようがない。フュリオサが体育会系姉御なら、こちらは文科系姉御であろう。
お、お姉さまと呼んでエエですか~(#^o^#)ポッ
でも、お姉さまの著作一つも読んだことないんですけど_| ̄|○ 許して

後年、心身共に不安定な状況から回復し、伴侶を得て、母と和解し、小説も高く評価され、自然に満ちた環境の中で執筆する彼女の半生は、そのままフランスでの女性の地位の上昇と重ね合わせられているようである。フランスはその点で先進国だと思い込んでたのだが、1960年代になっても女性には相続権がなかったというのはビックリだ。

ただ欠点は、ラストが『セラフィーヌ』の光景とちょっとかぶっていること。も少し何とかしてほしかった。
それ以外は、衣装やセットなど見事で、映像による心理描写も巧みだった。女優二人の演技も見ごたえがある。
とはいえ、公開期間の最初の時期に行ったけど客は少なかった。これを最初から期間を決めて上映する岩波ホールはエライ。古いとかスクリーンが見にくいとか客が年寄りばかりだなどと文句を言ったりはもうしません(^_^;)

それにしても、自分の体験を赤裸々に書いていく小説家ってどうなんだろう。そのうち書くことなくなっちゃうんでは(?_?)と余計な心配をしてしまうが。


姉御度:10点
妹度:7点

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「時をかけるジョングルール」:ダンス地獄

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冥界をめぐる放浪楽師
演奏:ジョングルール・ボン・ミュジシャン
会場:求道会館
2016年4月17日

音楽で綴るダンテの『神曲』--しかし、この日の先導役はダンテの師ではなくて、なぜかバグパイプ吹き(近藤治夫)なのであった。

そもそもは仏教の会堂である求道会館の2階から出現した一行は、辻康介を語り役にしていきなり地獄に直行してしまう。地獄、それよりも少しマシな煉獄には当時のトロバドール達も数人いる。彼らのいささかいかがわしい歌曲や聖母マリアのカンティガやクルド民謡などが飛び交う。
そして、なぜか時代的・地域的にはずれているが、後白河法皇やヘンリー8世まで出現するのであった。
梁塵秘抄の歌では、定番となっている上田美佐子の巫女さんも出てきて踊っていた。

なぜかバグパイプ吹きは天国へは行けないそうで、代わりに貴婦人(名倉亜矢子)が案内になった。天国では「カルミナ・ブラーナ」の聖母マリアの歌やフランチェスコ讃歌が歌われてとてもエエ気持ちに~。あれお迎えが来たかしらんてなもんだ。

そして最後は現世に戻り、定番となったカルミナ・ブラーナから「極道の歌」、そして酒だけが元気な真人間にしてくれるバッカスの歌が陽気に歌われたのだった。
地獄天国めぐり楽しかったですう。

アンコールはほぼ全員参加のダンスヾ(^^)/\(^^)ヾすごいねー。
でも板張りの床は飛び跳ねるのは禁止で、おまけにみんなスリッパに履き替えているので暴れている人はいなかった

雨が降ったり、強風が吹いたりと変な天候だったせいか、3台のフィドルをとっかえひっかえしていた上田女史はご苦労さんでした。
それと、休憩中に紙切りの芸人さんがなぜか飛び入り参加で芸を披露。会場のリクエストに応じて(ハープだったっけ?)切り絵をあっという間に仕上げて喝采を受けていた。
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あと、真ん中の前から二番目の席で中年のガイジン男性が「撮影禁止」のアナウンスがあったにも関わらず、堂々と写真を撮ってたのにはあきれた。
小さなカメラで無音ならまだしも、でっかいタブレットを頭上にかざしてシャッター音をさせて、演奏の真っ最中に何枚も取っていたのである。あんなに堂々とやってて何も言われないということは関係者なのか? いくらなんでもひどい
段差のない会場で、ちょうど私からステージを見る方向にそいつは重なっていて、目障りでしょうがなかったのだ。(*`ε´*)ノ☆コロス


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2016年5月 1日 (日)

「G.F.ヘンデルのリコーダーソナタ」:低音の下の力持ち

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演奏:宇治川朝政、懸田貴嗣、福間彩
会場:近江楽堂
2016年4月9日

木の器主催公演、今回はヘンデルのリコーダーソナタが演目である。リコーダー曲というとテレマンがやはり人気で、ヘンデルの曲はなかなかまとめて聞く機会はないようだ。

オペラが得意技だから--というわけではないだろうが、ヘンデル先生の作品は表情豊か。器楽曲でもあるものは哀愁漂い、またあるものは華やかで花見っぽい気分になり、はたまたキリッ!となるものもある。
聴いていて非常に楽しめた。テレマンのリコーダー曲とはまた違った趣だ。

HWV377は鍵盤なしの演奏だったが「リコーダーよりも通奏低音の動きの方が複雑」な曲のため、懸田氏がグッと巧みに下から支えるといった趣だった。
その懸田氏は自らのチェロソナタを、カポラーレ(し、知らん(^^ゞ)という演奏家の曲から選んだ。なんでもヘンデルのオペラや演奏会でチェロを弾いていた人だそうな。
また、福間女史は合間に短いヘンデルの鍵盤曲2曲を演奏した。解説によると「プレリュード」は「楽譜に30個程の和音のみが並んで書かれており、それぞれの和音を分散して演奏」するとのこと。そんな曲があるんだーと驚いた。

前回の公演より客が増えていて嬉しい限りヽ(^o^)丿 次回は6月にオーボエの三宮氏が参加とのことなので、また華麗なるタテ笛共演が聞けそうである。


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