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2016年11月

2016年11月24日 (木)

「イレブン・ミニッツ」:退屈な人生も何回も繰り返せば面白くなるだろうか

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監督:イエジー・スコリモフスキ
出演:リチャード・ドーマー
ポーランド・アイルランド(2015)

スコリモフスキ監督の新作はその題名通り、とある「11分間」の間に起こった出来事だけを切り取ってを多数の人物ごとに繰り返し描くというものである。
同じように、限定された時間を幾つかの視点から繰り返していくというのはさほど珍しくない手法であるが、11分間という時間の短さと視点をもつ人物の多さを考えると、かなりユニークだと言えるだろう。

その11分間を体験するのは11人と一匹(の犬)である。バラバラに始まる彼らの夕方5時、少しずつそれぞれに進んでいきながら、最後に一点に集束する。
街の上を低空飛行する旅客機や、巨大なノイズや、正体不明の黒い印が不安をかきたてる。世界の終末がやってくるのか……(>_<)

ただ、それらの不安を表象するものがコケおどかし--と言って悪ければ、思わせぶりと言おうか。深い意味を持つという訳でもなく、ただ並列的に描かれているだけなのだ。
正直「最後に一体どうなるのか?」という興味を持って見てない限り、各エピソードはやや退屈に感じてしまう。ラスト自体は見る者の予測を超えるものだったけど。

どちらかというと、アトラクション的でありクールでトリッキーな作品である。最初、映画館に入った時に客席が若者ばかりで驚いたのだが、なるほど若いモンはこういうのが好きなのだなあと思ってしまった(^^ゞ
中高年層で満杯だった『トランボ』とか『ニュースの真相』のように、役者の名演が感動を巻き起こし涙を呼ぶ、みたいなのとは対極の世界だ。

監督ももうかなりのトシ(78歳か)なのに、そういう意味では非常に若々しくて驚く。
それと、「女優」役の女優さんは超美人(!o!)で見ていると目がくらむですよ。

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2016年11月23日 (水)

「フライブルク・バロック・オーケストラ」:看板は老舗でも音は新品

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会場:トッパンホール
2016年10月21・24日

とある日、NHK-FMの「古楽の楽しみ」を聞いていてたら、バッハの「3つのヴァイオリンのための協奏曲」がかかった。それを聞いて私は「ん?この曲ってこんなモッサリした感じじゃなくて、確かもっとテキパキした演奏で聞いた覚えがあるぞ」と思った。
そして、CD棚を探し回ったあげく発見したのが、フライブルク・バロック・オーケストラのものだったのだ。

1993年発売、まだT・ヘンゲルブロックがいた頃の録音である。聞いてみると、冒頭のヴィヴァルディの序曲から始まって、既にこの時代でイタリア過激派に引けを取らないエネルギッシュな演奏だ。ラストのバッハ「3つの~」に至っては煽り立てるようで興奮する。

で、思い出したのが今回の彼らの来日公演。バッハやヴィヴァルディの混合プログラムのはずである。チラシを見るとこの「3つの~」もやるではないか ただし、私がチケット買った月曜日ではなくて、金曜の方である。

かくして私は2回トッパンホールへ足を運ぶことになったのであるよ(@_@;)

21日の金曜日はCD同様、ヴィヴァルディの「オリュンピアス」序曲から始まった。これがまた怒涛のような勢いの派手な曲である。
今回は前の来日時のような管楽器はなくて、弦だけの編成だ。ソロは大体ミュレヤンスとゴルツを中心に回している。

ヘンデルの合奏協奏曲は2つのヴァイオリン(この時はゴルツとP・バルツィ)がナタで空気を斬るが如く。ある意味アバンギャルトと言っていい世界を醸し出して、「えっ、ヘンデル先生がこんな曲を」と叫びたくなった。

ゆっくりと重々しく地を這うような、もう一曲のヴィヴァルディのシンフォニア「聖なる墓にて」に続いて、来たキタキターっバッハ「3つの~」。昔の録音同様にやはり煽り立てるような勢いは変わらず、迫力ある果敢な「攻め」の演奏だった。

コレッリの合奏協奏曲となると、過去にさんざ聞いてきたはずなのだがものすごくスリリングでドキドキ興奮してしまった。
アンコールはヘンデルの合奏協奏曲から別の曲(月曜日のプログラム)だった。

24日の方は、作曲家は同じだが選曲が違うというパターン。この日は早々に売切れになったのだけど、何が違うのだろうか?(と言いつつも、私も最初にチケット買ったのはこちらだった(^^ゞ)

この日は特にバッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」がよかった。色々な録音やナマ演奏で何回も聞いている曲だが、あの美しい第2楽章が美しいだけでなく何か切々としたものを伴って迫ってくるのは初めてだった。思わず聞きほれる

恥ずかしながら、この曲を初めて聞いたのは映画「愛は静けさの中に」だった。主人公の男がレコードをかけてウットリしていると、聴覚障害者の恋人から「どんな音楽なのか」と尋ねられてうまく言葉では説明できない、というシーンである。

同じく有名曲のヴィヴァルディ「4つのヴァイオリンのための協奏曲」では、一同がグルッと客席に向かって半円を描くように立って、めまぐるしくソリストが変化するこの曲を躍動的に弾きまくった。
こういうのを見ると(聞くと)、彼らはイタリア過激派とは違って突出した個人を際立たせるのではなく、あくまでもアンサンブル重視で相互のコミュニケーションを保つようにやっているのだなと感じた。

他にヘンデル、コレッリの合奏曲もやり、アンコールはヴィヴァルディ。この曲は三鷹市公演でやったもののようだ。
どちらかというと、21日公演の方に軍配を上げたい。それこそ調和と刺激のバランスの極限みたいな演奏だった。

全体的には、過去に聞き古したような「名曲」が今新たに洗濯しなおされ、パリッと糊をかけられて新品同様になって登場しなおしたような印象。「ああ、これはこんな曲だったんか~」と眼を(耳を)開かせる。あらためて、古楽を聞き始めた頃の気分を思い出した。
つくづく、聞けてヨカッタヽ(^o^)丿

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2016年11月20日 (日)

「転落の街」上・下

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著者:マイクル・コナリー
講談社文庫2016年

ロス市警の刑事ハリー・ボッシュのシリーズ。邦訳としては15作目ぐらいになるか? 訳者あとがきで「香港で派手なドンパチを繰り広げた前作とは打って変わり」と書かれているように、『ナイン・ドラゴンズ』では主人公は誘拐された娘を救うためにチャイニーズ・マフィア相手に異国で暴れまくったのであった(^_^メ)

しかし、今回は以前の地道な警察小説路線に復帰。(もっとも、さらに前のシリーズの初期はハードボイルド色が強かったが)
殺人課未解決事件班(いわゆる「コールドケース」捜査)として、新たなDNA鑑定によって過去の事件の関係者として浮上した人物を担当することになる。

一方、かつての上司で今は市議会議員のアーヴィングからご指名を受けて、管轄外の転落事件を捜査する羽目になるのだった。
シリーズ初期はかなり以前に読んだきりなのでうろ覚えだが、アーヴィングはボッシュの宿敵であり、さらに自分の父親ではないかと疑ったこともあったという複雑な関係なのである。
議員は今では警察批判の急先鋒になっていて、こちらの事件の結果如何によっては大騒動になりかねない。

二つの事件が最初無関係に見えたのが、物語が進むにつれてその関連が明らかになる--というのはよくあるパターンだが、本作では主人公が同時に担当しているという以外に共通点がないままに進む。これは関係ないまま終わるのか、と思ったところであっと驚く展開になるのだった。こいつはやられました(!o!)

その背後には警察内部の権力争いや過去の因縁などが潜む。決して表面には現れることのない組織内の力学であり、駆け引きである。警察という組織が本来掲げる「正義」とか「規範」というものを完全に反するのだ。

以前、やはり警察組織の勢力争いを描いた日本のミステリを数冊読んだが、正直「組織内の抗争を描くのが主で、事件はそのための道具に過ぎないんじゃ?」と思ったものだ。早い話が、これが警察でなくて広告代理店が舞台で「クライアントが第一じゃないのか~」と叫ぶ、みたいな内容でも全く変わらない。

本作では事件と権力抗争は表裏一体となっている。抗争は事件の陰に隠れて定かには見えない。しかし明らかに存在している。主人公はその渦中にいるはずなのだが、何が起こっているかも分からないのだ。
それが最後になって噴出してくる。事件を利用するなどというのは、犯罪被害者や遺族の益を一義に考えるボッシュにとっては我慢のならないことである。

この状態は二匹のヘビが互いに尻尾を食い合っているようなもので、彼は選択を迫られるが、実はどちらを選んでもうまくは行かないだろう。決然と自分の道を選んでも、絶望感が覆い尽くす。
混沌とした状況を二重構造で描き出すコナリーの手腕を見ると、申し訳ないが前述の日本の警察小説は児戯に等しいとさえ感じてしまった。

それにしても、彼ととある人物の決別は読んでて苦しい 二人の道は完全に分かれたのである。

次作では彼がどのような状況になっているのか、早く知りたい。定年延長問題はあのままか。日本でも刊行が決まっているようなので、翻訳早くお願いします(^人^)


ところで、高校生の娘がショッピングモールに友人と遊びに行くのに、主人公が警備の状況まで細かくチェックするのは驚いた。確かに銃犯罪とか誘拐とか心配だろうけど……。
日本だと、小学生同士でもウロウロしているもんなー。

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2016年11月14日 (月)

「愛の風景」:最高のふたり

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演奏:鈴木美登里&今村泰典
会場:近江楽堂
2016年10月14日

ミドリとヤスノリの「ソプラノとリュートの調べ」の2回目。第1回目の様子はこちら

その時はパーセルとヘンデルだったが、今回はミドリ女史の本領発揮とも言えそうなイタリア歌曲である。
定番カッチーニの「アマリッリ」他、この作曲家の作品が5曲と一番多く、他に近年人気上昇のB・ストロッツィが2曲、ディンディア、フレスコバルディ(彼の歌曲は珍しい?)、メールラ--という布陣だった。

曲の内容に沿って、ある時は激情ほとばしり、またある時は哀愁深く漂わせる歌唱だった。聴衆一同、しんと聞き入った。やはり、ミドリにはイタリアものがよく似合うのであったよ(*^o^*)

ヤスノリ氏のテオルボとの息もピッタリだった。独奏ではカプスベルガーとピッチニーニという、一般にはややマイナーな作曲家を演奏した。

一年後ぐらいにまた第三回があるのかな(^^?) どのあたりの作曲家をやるのか楽しみです それにしても、前回ほどではなかったが、やはり女性客が多数だった。


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2016年11月 6日 (日)

「ニュースの真相」:裏取り一秒、誤報一生

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監督:ジェームズ・ヴァンダービルト
出演:ケイト・ブランシェット、ロバート・レッドフォード
オーストラリア・米国2015年

2004年に米国で起こったブッシュ大統領軍歴詐称疑惑報道が実は誤報だった、という事件を映画化したもの。

CBSのニュース番組で決定的証拠となる文書を入手、裏取りをしてベテラン・ジャーナリストのダン・ラザーが報道するが、ネットで怪しいと炎上して騒ぎになる。

結果的にスタッフのほとんどはクビになってしまう。この騒動をケイト・ブランシェット扮するプロデューサーとロバート・レッドフォードのダン・ラザーを中心に描いている。結局のところ、最初のイチャモンで炎上した案件は言いがかりだったことが判明するのだが、もはや後の祭りであった。ただ、裏取りが不完全だったこともまた事実である。

原作はプロデューサーのメアリーが事件1年後に出した暴露本とのこと。主人公は彼女の方で、決して私は間違ってはいなかったという主張を貫いている。
実の父親に対し複雑な感情をもち、ダン・ラザーは彼女の父親代わりのような立場であった。幸福とは言えない家庭に育ち、強い意志を持ちながらも人間的な弱さをチラチラと見せるブランシェットの演技はやはりうまいの一言だ。
ついでながら、後ろから支えてくれるダンナさんもエエ人やな~。

クビになっても報道陣としての矜持は捨てぬ<`ヘ´>という強い意志を示す終盤に、スター二人の共演を見に来た中高年層(客席のほとんどを占めていた)は、感動の涙を流していたのであった。
確かに感動的だったが、当時の事件を直に知っていると「おお、あの背景はああだったのか」と、新鮮だったかも。
TVドラマ『ニュースルーム』第2シーズンはこの事件も参考にしていたのかな(^^?)

退役軍人でニュースのスタッフという役をデニス・クエイドが演じていた。久しぶりに見た気がする。彼も一時期、トップスターの一人だったのだが……。

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2016年11月 3日 (木)

「奇跡の教室」:人生に解答なし

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監督:マリー=カスティーユ・マンシオン=シャール
出演:アリアンヌ・アスカリッド
フランス2016年

フランスの高校の落ちこぼれクラスが、アウシュヴィッツを題材にした発表で歴史コンクールの優勝に至るまでを描いた作品。実話を元にしているという。
予告では感動系な話になっていたが、見てみるとドキュメンタリー風の淡々とした作りになっていた。

問題のクラスは学級崩壊寸前、ベテラン教師が担任していてかろうじて形を保っているが、若い臨時教師なんか来たらイビリ倒してしまう。教師にとっては悪夢のような光景だろう。生徒同士のいじめや反目もある。
このままではイカンと担任がなんとかコンクールに参加を促すが、離脱するヤツあり、班同士でいがみ合ったりする。

合間にはフランスの学校での宗教問題が挟まれる。毎朝、校舎の入り口には教師が立ってイスラム教徒のスカーフを取らせる。あらゆる宗教シンボルはダメなので、キリスト教の十字架も禁止。それ以外に帽子やイヤホン……制服はないが日本と同じぐらいに厳しいかも。それどころか、放置していると保護者から文句が来るらしくて大変だー。
29もの民族が在籍しているというのだからそれも道理か。
一方で、ISもどきを気取る原理主義者生徒もいて校内を徘徊している。

かような状況をテンポ早く描き、感傷に陥る暇もなく、あらゆる問題がすし詰め状態となって続く。
そして、多くの問題は解決されることなく終了するのだった。問題を抱えた生徒がここに問題を解決できるはずもなく、そのまま続いていくものだからだろう。
従って、ベタな感動を求める人には全く向いていない映画である。
担任役のアリアンヌ・アスカリッドはまるで本物の教師のよう……って、役者なんだから当然ですね、ハイ(^^ゞ

そんなバラバラの一団がなんとか協力する術を見つけ、読みなれぬ資料を読み、ミュージアムを訪れ、コンクールへ参加する。
しかし、私が一番衝撃を受けたのはその本筋ではなく、アウシュヴィッツの体験者をクラスに呼んで話を聞く場面であった。彼は本物の体験者で(撮影後に死去)、生徒を演じる若者たちの前で話しているわけだがその内容は涙なしに聞けないものである。
その彼が生徒の質問に対して「神を信じていない」とキッパリ断言したのである

宗教・民族問題に汲々とする現代の若者たちの前でのその発言は、そのような争い自体を無化してしまう深い衝撃を与えるものであった。
そう言えば、数学者のピーター・フランクルの父親が(母親も?)収容所体験者で、やはり信仰を捨てたということだった。
強制収容所の前には神は存在しない、のであろうか。

かような内容なせいか、映画館内は中高年の客ばかりで若者の姿はなかった(^_^;)


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2016年11月 2日 (水)

「音楽の花束 芝崎久美子メモリアル」:あなたは今日、楽園にいる

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主催:芝崎久美子メモリアル実行委員会
会場:日本福音ルーテル東京教会
2016年10月12日

2013年に亡くなった鍵盤奏者の芝崎久美子の追悼コンサートである。自分のブログを検索して見ると4回ほど彼女が出演しているコントサートに行っている。もっとも、ブログ始める前にも既に何回か行ったはずだが、昔過ぎてよく覚えていない
それからディスコグラフィを見ると、波多野睦美や平野雅子のCDに参加していて、そちらではよく聞いていたのだった。

この晩は芝崎女史のゆかりのある音楽家たちが参加。3人の女性歌手とアンサンブルによる、意外にも明るいパーセルで始まった。わざとそういう曲調の歌を選んだという。

山岡×向江コンビによる、M・マレのリコーダー曲、そして平尾雅子を中心としたやはりマレのヴィオール曲が続いた。ヴィオールの音が聖堂にしみわたる。ラストの追悼曲「メリトン氏を偲んで」では泣いている方もおりましたな。

ライヴ音源では残っているが遂にCD録音はできなかったというカリッシミの曲を、小林木綿が熱唱した。しかし後半の中心となったのは、やはりバッハのカンタータ106番、哀悼のための「神の時こそいとよき時」だろう。
指揮はチェロを弾きながらの田崎瑞博で、この時だけ人数の多いコーラス隊が登場した。教会なので壇上に並びきるかと思ったら何とか乗ったようだ。

有名曲なので録音はもちろん実演でも何回か聞いているが、やはりこういう機会だとしみじみ身に染みるものがある。
「家の整理をしておきなさい。なぜなら、あなたは死ぬことになっていて、生き永らえることはないのだから」なんて歌詞はあまりにキビしくて泣いちゃいそう(T_T)ウウウ
そうよ、CDいくらため込んでもあの世へは持って行けないのだ(>_<)などという、どうでもいい考えが頭の中をよぎる。
曲の後半は穏やかに楽園へ向かう心象へと変わって終了した。
よい追悼コンサートとなりました(-人-)

パンフレットには芝崎女史の様々な友人知人のコメントや思い出話が載っていて、その人柄をしのばせていた。
客席にもかなり音楽関係者がいたもようである。


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2016年11月 1日 (火)

「トーマス・ルフ展」「杉本博司 ロスト・ヒューマン」:写真から遠く遠く離れて

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*トーマス・ルフ
会場:東京国立近代美術館
2016年8月30日~11月13日

*杉本博司
会場:東京都写真美術館
2016年9月3日~11月13日

ルフはドイツの写真家である。ポスターに使われている女性のポートレート写真が印象的で展覧会に足を運んだが、だいぶ予想していたのとは違っていた。

実際のポートレートは巨大に引き延ばされていて、似たような若者を撮ったものが何枚もある。若い頃に学生仲間をモデルにしたとのことだ。

その後の作品は一転、家具や建築を写したスナップ写真といった趣のものだ。このシリーズが一番「写真」らしい。先のポートレート写真を白黒反転させる、といった写真自体を題材にしたものが増えてくる。

近年のものは自分で撮影はせず、天体写真や報道写真など「ありもの」をデジタル変換した巨大作品となっている。
火星の表面を撮影したものに彩色したものなど一見するとミニマリズム系の抽象絵画のように見えた。

そうなると元の写真が何であれ変換した意図がどうであろうと、鑑賞者にとっては大型絵画をみているのと変わらなくなってくる。そこでは既に「写真」という実態は消失しているのだ。
巨大作品の中で写真の存在は融解していた。私は一体何を見に来たのであろうかと、自問する羽目になってしまった。

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写真撮影可ということで、場内はスマホなどでやたらと撮影する人が多数だった。私もガラケーで頑張って撮ってみましたよ(かなりピンボケ)。巨大な「火星」シリーズの一枚。

常設展の方の写真作品を集めた一画にもベッヒャー、リヒター、ルフの別ヴァージョン作品などがあった。
盛りだくさんの常設展を回って疲れた頃に、ジュリアン・オピーの広重(?)風のインスタレーションにたどり着くと妙になごむのであったよ(^o^)丿


久々に東京国立近代美術館行くのに、大手町で地下鉄乗換をしたが、ただでさえ分かりにくいのに工事しててさらに分からなさが増量 遠回りしているのではないかと不安になった。
駅のホームで中年白人観光客の団体が10人くらい、案内板を見ながらずっと議論していた。日本人だって分からないのに、旅行客じゃもっと訳ワカラン状態だわな。

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東京都写真美術館のリニューアルオープン第一弾は杉本博司展。見に行く前から賛否両論の意見が聞こえていた。さて、実物はどんなもんか。

展示は3つに分かれていて、一番大規模なのは〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かも知れない〉である。人間の文明が衰退し、その破滅の様相を様々な立場(職業)の人間が語り、「遺物」を展示するという趣向である。
世界は既に廃墟化しているので、その展覧会場も古いトタン板のバラック状になっている。薄暗いその中を観覧者は解説のリーフレットを読みつつ、ウロウロするのであった。展示されている「遺物」もレトロっぽいものが多く、相当にうさん臭い雰囲気だ。(中には過去の自作も混じっている)

このように特定の設定によるテーマパーク状態の展示だと、人はなぜか見て回ることに熱中し、鑑賞自体はどこかに置き忘れてしまうのであった。30分おきに火花がバチバチ飛んだり、ラジオから歌が流れたりするので、その度に人はそこに殺到する。
現代アートといえ、小学生低学年の子どもも喜んで見て回っていた。

では展示自体はどうなのかというと……ウムム(-_-;)となってしまう。
例えば、ラブドールが語る滅亡は、展示されているのは明らかにデュシャンの作品のバロディなのだが、木の塀に四角く切り取られた穴から長椅子に寝るラブドールを眺めても粗雑な冗談にしか思えない。
意図的に質が悪いものにしているんだろうけど、なんだかなあである。

別のフロアでは「劇場」シリーズの発展形である「廃墟劇場」が展示されていた。前シリーズは営業中の映画館を借り切って上映された映画を撮影したが、今度は廃業して半ば朽ちた映画館で撮影している。
天井が落ち壁が崩壊しているようなホールもあって、こんな所で上映できたのかと驚いたが、プロジェクターなど一式持ち込んだという。忘れ去られ廃墟となった豪奢な映画館で上映される名画--その終末感はかなり迫ってくる。

杉本博司が選んだ映画作品はどれも名作だが(一つだけ『ディープ・インパクト』が名作かどうか疑問(^_^;))、完成した作品上を見る限りでは、実際にはいずれもほとんど差異のない長方形の光としてしか認識できない。
鑑賞者がそこに記された映画名を見た時に湧き上がる想念のようなものが、かろうじてその長方形の光の差異となるように思えた。その想念の上澄みを味わうしかないのだ。
だから、映画についての解説がついているのはその映画を知らない者のためだろう。ただ、文末にある日本古典の一節(「平家物語」など)は言わずもがなという気がした。

もう一つは三十三間堂の千手観音を撮った九枚の大型写真である。これは確か以前にどこか(森美術館か?)で見たと思うが、真ん中に大きな柱があって視角を遮りやや興ざめだった。

ルフにしても杉本博司にしても、既成の写真の概念から逸脱していくことを作品の推進力にしているようである。写真は写真だけで成り立たないのであろうか。写真は写真でなくなった時に記録から真にアートになるのだろうか。
……などと思ってしまった。


リニューアルした写美だが、どう見てもコインロッカーが足りないと思う。私が帰るころには、それほどの混雑ではないのに既に空きが一つもなかった。まあ、混雑しないような企画を目指すというならいいんですけど(^_^メ)


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聞かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 11月版

天候不順で楽器の調整も大変な今日この頃ですかね。

*1日(火)悲しみと情熱のはざまで(エンリコ・オノフリ)
*4日(金)イスラエル・ゴラーニ バロックギター
*5日(土)名橋たちの音を聴く 神田川篇(セステット・ヴォカーレ)
*10日(木)ヴェネツィアの華やぎ(阿部早希子&平井み帆)
*23日(水)諸聖人のミサと晩課(ヴォーカル・アンサンブル・カペラ)
*24日(木)Zeghere van Maleの装飾写本とフランスルネサンス音楽(高橋美千子ほか)
*25日(金)・27日(日)ドン・ジョヴァンニ(寺神戸亮&レ・ボレアード)

北とぴあ国際音楽祭始まっています。
NHK関係で4・5日は放送が幾つかあり。
これ以外はサイドバーの「古楽系コンサート情報」(東京近辺、随時更新)をご覧ください。

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