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2016年12月

2016年12月31日 (土)

なんとか2016年を振り返ってみたぞ

★古楽コンサート部門
シギスヴァルト・クイケン&ラ・プティット・バンド「マタイ受難曲」
これまで聞いたことも見たこともない「マタイ」であった。孫(?)ぐらいの若い奏者を多く起用しているのも驚いた。それにしても、1000人近い聴衆および共演者を待たせて悠然とガンバの調弦をするなんてできるのは、シギス親爺ぐらいなもんだろう。北は北海道、南は沖縄まで全国津々浦々巡回してほしかった。

「室内楽の夕べ バッハとテレマン」(木の器)
地道ながら、着実な活動を続けている。

「ヴェネツィアの休日」(ベルリン古楽アカデミー)
リー・サンタナの意外な活躍にも注目。

フライブルク・バロック・オーケストラ
素晴らしいの一言。久々に心から「聞けてヨカッタ(^◇^)」と思えたコンサートだった。

*大貫妙子「Symphonic Concert 2016」
フルオーケストラと共演という、相変わらずの「攻め」の姿勢に感服しましたm(__)m


★録音部門
◆古楽系
*「マラン・マレ1689」(パオロ・パンドルフォ)

*「バッハとライバルたち」(バッハ・プレイヤーズ)
ライプツィヒの音楽監督のオーディションにおける提出作品聴き比べ、という企画の勝利みたいなテレマン、グラウプナー、バッハのカンタータ集。

*”A Breath Of New Life”(Saskia Coolen他)
よく分からないけど買ったら当たりだったリコーダー・アンサンブル集。ジャケットのデザインも変わっている。

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◆ロック・ポップス系
*"Dig In Deep" (ボニー・レイット)
さすがに歌声は衰えた印象だが、ソングライティング、アレンジ、演奏、どれも近年にない出来。聞きほれちゃう。でも。これって国内盤出てないのか(?_?) なんてこったい

*"Colvin & Earle"
二人ともベテランだが、その音楽は瑞々しい。

*「ザ・ゲッタウェイ」 (レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)

*「ア・ムーン・シェイプト・プール」(レディオヘッド)
レッチリもレディオヘッドもこれまでとは違う作風で戸惑ったが、聞きこむとやはり完成度は高い。

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★本
「転落の街」(マイクル・コナリー)

*「ランド」1~3巻(山下和美)
確実に現在の不穏な社会状況を反映している。早く続きが読みたーい\(-o-)/

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2016年12月30日 (金)

「ジルヴィウス・レオポルド・ヴァイスの作品を弾く 1」:作曲家の肖像

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演奏:佐藤亜紀子
会場:近江楽堂
2016年12月21日

通奏低音や歌曲の伴奏ではそのリュートを何度も拝聴している佐藤亜紀子、ソロのコンサートを聞くのは初めてである。
……と自分で書いといて心もとなくなったんで(~_~;)過去記事を検索してみると、2008年にも行っているんであった。会場は今年で閉館してしまう松明堂ホールである。もっとも、この時のコンサートは後半は共演者がいたので、やはり完全な単独コンサートはこの日が初めてということになる。

プログラムはヴァイスのみで、冒頭の「ロジー伯に捧げるトンボー」以外は大体時代順に選曲・演奏されてたようだ。後の時代になるにつれ複雑さが増し、ひねくれてくるようだ。

冒頭のトンボーは、彼女の亡くなった恩師に捧げられ、「演奏前と後の拍手はご遠慮ください」ということで静寂の中で演奏された。

前半は気候が乾燥していたせいか(?)あまり楽器の調子も演奏の調子も良くないという印象を受けた。
後半になるにつれ、いかにもなヴァイス節が滑らかに展開。極めつけはアンコールに演奏された、讃美歌を佐藤女史がヴァイス風にアレンジしたというもの。
「なるほど、こりゃヴァイスだわー」と思わず感心したのであったよ)^o^(

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2016年12月29日 (木)

「リトル・ボーイ 小さなボクと戦争」:汝の敵国人を愛せよ

監督:アレハンドロ・モンテベルデ
出演:ジェイコブ・サルヴァーティ
メキシコ・米国2016年

第2次大戦中、カリフォルニアの田舎町の少年の物語を、監督ほかメキシコ人のスタッフが描くという、珍しい作品である。

少年はチビのいじめられっ子で、父親は徴兵されて太平洋の前線へ送られている。父親の無事を願って、彼は司祭からこれをやれば父が生きて戻ってくる--という課題のリストを渡される。そのために、仕方なくよりによって町はずれに住む日系の中年男と仲良くしなければならなくなるのだった。

物語の設定としてはドイツ系の人物でも構わないはずだが、ここで少年のあだ名が「リトルボーイ」だというのが重要になる。原爆が絡んでくるのだ。
ヒロシマに原爆が落とされると、戦争が終わり兵士が戻ってくるぞと町中の人々に「リトルボーイ」(落とされた原子爆弾のニックネーム)と少年は声をかけられて有頂天になる。
しかし、母親から「ヒロシマにも捕虜の米軍兵士がいるのよ」と言われて今度は一転、不安におびえることになるのだった。

果たして司祭が言うようにリストを完成させて奇跡が起こり、父親は戻ってくるのだろうか

監督はノーマン・ロックウェルの世界を描きたかったそうだ。確かに映像的には完璧にその雰囲気が再現されている。しかし、一方で大人同士の嫌がらせや暴力、子どものいじめなどその陰に暗黒面も存在するのも忘れてない。

これを見て、ロックウェルの絵の中の米国というのは、非西欧圏においてはある種の理想的な憧れの世界なのだと再確認した。やはりメキシコ人の監督ならではの描き方だという気がした。

母親役のエミリー・ワトソンやハシモト役のケイリー=ヒロユキ・タガワなど、ベテラン役者の力を感じさせる。主人公の子役はあまりに巧すぎ泣いちまったぜ(T^T)
ただ、難は映画の対象が子供向けか大人向けか今一つハッキリしないことだろう。

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2016年12月24日 (土)

「クリスチャン・ボルタンスキー アニミタス_さざめく亡霊たち」:生存と滅亡の証

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会場:東京都庭園美術館
2016年9月22日~12月25日

ボルタンスキーの作品というと、小さなものを断片的に展示されているのを見た記憶しかない。展覧会を東京でやる(!o!)というならば万難を排して見に行かずばなるまいよ--というわけで、土日は混んでいるかもしれないから平日に行ったのだった。

会場は重要文化財となっている旧朝香宮邸である都の庭園美術館で、「アール・デコの花弁 旧朝香宮邸の室内空間」も同時開催となっている。
……というか、そもそもこの二つは同時に併せて見るようになっているのだ。

1階に「展示」されているボルタンスキーのインスタレーションは完全に音声によるもので、複数の男女によるセリフが流れてくる。それは過去にこの邸宅に住んでいた裕福な一族の盛衰を語っているようである。
観覧者はその声の断片を聞きながら、美しいアールデコ様式の食堂や客間を眺めるという趣向だ。食堂の中央にはかつて実際に使われていたらしい大きなテーブルとビロードの椅子が置かれていた。
黄金色のビロードを思わずさわりたくなったが、監視員さんの鋭い視線が……と、ちゃんと「触らないでください」マークがついていたのであった。危なかった(^O^;)

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豪奢な邸宅と音声インスタレーションの組合せはアイデアの勝利みたいな感がある。
問題は音声のクオリティがあまりよくないこと。セリフは訓練を受けた役者(かな?)が喋っているので、よく聞き取れるが明晰過ぎて逆に嘘っぽい。
しかも声の方向はほとんど上から降ってくるとハッキリわかるので、見上げると小スピーカーの存在が分かるのも興ざめだ。(一部は床に設置)

幾つかのフレーズを繰り返して流しているのだから、もっとスピーカーの設置場所を色んな所にしてみたり、音声も聞き取れないぐらいの音量のも混ぜるとかすれば、声の亡霊が浮遊している感じになったかもしれない。
まあ、文化財のお屋敷だから余り手を加えられないだろうけど--。

写真を撮っている人が多数。なんと平日は自由に撮影できるそうで、シャッター音が結構うるさい。中にはダンナはデジカメ、奥さんはスマホで撮っているという夫婦連れもいた
土日曜は人が多いだろうし平日はシャッター音というのでは、快適な作品鑑賞はやや難しいかも。

2階の二つの小部屋には、小さな紙人形やおもちゃに光を当てて影絵のように投影した「影の劇場」があった。彼の代表的作品とも言えるものだ。片方の部屋の人形は首つりをしていた(^^;)
四角い穴から暗い部屋の中を覗きこむと、ひんやりした空気が顔に当たる。中の様子はクモが巣を張るように悪霊たちが安住の場所を見つけたように見えた。

細長い小部屋である書庫では、香川県豊島で保存されている心臓音のサンプリングが。たまにテンポがずれるところがあって、聞いてて不安になる。

その後は残りの部屋を見て回って、新設されてた新館へ向かう。
こちらでは4種の巨大インスタレーションが展開されていた。何枚もの半透明カーテンが連ねられた中を歩く「眼差し」は、絵本「きりのなかのサーカス」を思い起こさせる。(絵本はトレーシングペーパーを使用したもの)
そのカーテンの真ん中には持ち主不明の大量の衣服の山を、金色のエマージェンシー・ジャケットで包んだ「帰郷」が展示されている。しかし、事前に解説を読んでいない人間には巨大なウ×コの山にしか見えないのが大いなる難点であった

隣の部屋ではワラが敷き詰められた部屋の中央に巨大な両面スクリーンに、チリのアタカマ砂漠と香川県豊島の森の中に、それぞれ吊るされた日本製の多数の風鈴の映像が映し出されている(十数分でループ)。
大切な人の名前を短冊に書いて風鈴をつるすという豊島の企画は今でも続いているそうだ。短冊がキラキラ光って瑞々しい森の風景とは対照的に、荒涼とした砂漠の風鈴はそのまま放置するように依頼してきたので、今ではほとんど残っていないだろうとのこと。

この話は、一室でボルタンスキーのインタビュー映像をやっていたので、それで知った。しかし、このように意図を聞かないとよく分からないというのは現代アートにはよくあるとはいえ、なんだかなあという気がした。もっとも、彼の話自体は興味深いものであったが。
見たことはなくてもそのようなものが存在する、ということを知っているだけでも意義はある、というのだ。

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邸内の一室より中庭をのぞむ。

2019年に国新美で大々的な回顧展が開かれるということで、その露払い的な意味もある展覧会であった。まあ、内容がショボいという意見もあるが、会場の旧朝香邸との組合せによって一見の価値はあったと思う。
2019年に期待することにしよう。

ただ、広げるとA2判の無料ガイドはいただけなかった。デカ過ぎだし、灰色の紙を使用しているので薄暗い場所ではよく見えない。老眼やド近眼の人間の事も考えて欲しい。


【関連リンク】
《はろるど》:写真多数あり。


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2016年12月11日 (日)

「花咲く日々に生きるかぎり」:劇的なルネサンス

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セーゲル・ヴァン・マールの装飾写本とフランスルネサンス音楽
演奏:高橋美千子ほか
会場:近江楽堂
2016年11月24日

ソプラノの高橋美千子と、4人のヴィオールコンソートによる新企画が発動したらしい。高橋女史というと、これまでフランス・バロック専門というイメージが強かったが、この日は同じおフランスといってもルネサンス歌曲である。

テーマの土台となったのは、ヴァン・マールというブルージュの商人が作った写本で、そこに収められたシャンソンが中心だ。
ジョスカン、セルトン、ゴンベール、ジャヌカンなどで、「千々悲しみ」などの有名な曲も歌われた。その合間にこれもよく知られた「若い娘」を元にしたヴィオール合奏が挟まれる。

歌う前にトレブル・ガンバ担当の女性が日本語による歌詞の朗読をして、これがなかなかに良かった。
高橋女史の歌は、ルネサンスというよりバロック曲のようにかなり感情の濃淡を強く示した表現だった。これなら、ルネサンス歌曲は今イチ面白くないと思う人も興味を持って聞けるだろう。
ル・ジュヌの「おお薔薇よ、花の女王」はその最たるもので、劇的な表現に引き付けられた。

リシャフォールの「私の悲しき煩いに」はデュース・メモワールのCDに入っていたので、引っ張り出して聞き直してみた。こちらはやや中世の残り香が感じられるような演奏だった。どちらがよいかは、完全に聞く者の好みだろう。

よく練られた構成で、そういう面でも優れたコンサートだったと言える。プログラムの表紙にD・ヴィスへの謝辞が書かれているが、彼が企画段階から協力していたようだ。


近江楽堂の座席は椅子を並べて、個数も配置もその時によって自由自在なのだが、この時の置き方は通路にあたる部分の幅が狭くてマイッタ(@_@;) 通路分の隙間がないと奥に行けないですよ。
それから、コンサートホールでは折しもフジコ・ヘミングのコンサートがあり、間違えてこちらの列に並ぶオバサマ方が多数。
これが初めての事ではないので、なんとか対策してほしい。


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2016年12月 4日 (日)

バッハ「ミサ曲ロ短調」:合唱の迫力は人数に比例、するわけではない

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演奏:バッハ・コレギウム・ジャパン
会場:彩の国さいたま芸術劇場
2016年11月12日

BCJは一年おきぐらいにロ短調ミサをやっているのだっけか。確か前回はパスしたように記憶している。
今回はオペラシティ公演でなく、翌日のさいたま劇場を選んだ。

以前出したCDよりも歌手の人数が増えているようだ。加えて小さな会場が小さなものだから、迫力満点。合唱は均衡が取れて整然とした美しさがみなぎっている。冒頭からそんな声の渦はホールの壁を揺るがすようで、その中に巻き込まれる気分だった。
そこには美の混沌と秩序の双方が現れていたといってよいだろう。やはり、合唱の曲だとヒシと感じた。

整然としすぎていたという意見も見かけたが、整然としていなければこの混沌を完璧には表現できないはずだ。そのような矛盾を秘めている曲だとも言える。

一方、器楽の人数は変わらないから、アリアを除くと合唱に埋もれてしまっているような瞬間がところどころあった。
鍵盤奏者はガイジン勢で、なんと一人で二役というか左手でチェンバロ、右手でオルガンを同時に弾くという芸当をやっていた。オルガンの上にチェンバロ重ねて載せてそういうことをやったのは見たことあるけど、左右というのは初めてである。なんでも鈴木(息子)優人氏がこの日だけ欠場したせいらしいが……\(◎o◎)/!ビックリ

私の座っていた席のせいかもしれないが、オーボエやファゴットなど管楽器がドーンと直に伝わってきた。また、マドゥフ組のトランペットも堪能できたですよ(^O^)

ソプラノ2のソリストはお馴染みジョアン・ランで6曲目のアリアは、彼女のキャラクターによく合っていた。ただ、他の曲ではやや精彩を欠いていた所があったかも。
もう一人のソプラノ朴瑛美は初めてなので、もうちょっとよく聞いてみたかった。
テノール担当櫻田亮は「ベネディクトス」を超が付くくらいに明晰に歌ってくれた。「神の子羊」については、以前聞いたロビン・ブレイズの時には何やら俗世を離れ身体浮遊しているような印象だったが、今回のダミアン・ギヨンは力強く、生きている感が伝わってきた。

前半第1部は統一感があって形がピシッと決まっているが、後年付け加えられたという第2部以降はそれと比べるとやはり異質な部分がある。果たして実際に演奏されたことがあるのか、という議論もそういう所からも湧いてくるのかもしれない。

古楽の演奏は一声部一人という極端な形まで至るように、歌手の人数を減らしてきた。もちろん、古楽系のロ短調ミサでも大人数の合唱を使うところはある。
BCJの演奏はその狭間を歩んでいるのだろうか--などと考えてしまった。
その反動で、家に帰ってジョシュア・リフキン指揮のCD(一声部一人を完璧に実践)を引っ張り出して聞いた。何やら全く別の曲のような趣きあり。


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2016年12月 1日 (木)

聞かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 12月版

あっという間にまた12月がやってまいりました。なんてこったい

*1日(木)バロックに恋して(阿部雅子+つのだたかし)
*2日(金)ラ・フォンテヴェルデのクリスマスコンサート
*8日(木)デサフィナート(アマンディーヌ・ベイエ&リ・インコーニティ)
公演チラシの、ベイエの豪快なガハハハ笑いに思わず見とれてしまうのであった。
*19日(月)優しいマリア クリスマスの歌(安田久美恵&つのだたかし)
*  〃   マラン・マレ ヴィオル作品連続演奏会6(櫻井茂&桒形亜樹子)
*21日(水)ジルヴィウス・レオポルド・ヴァイスの作品を弾く1(佐藤亜紀子)
*23日(金)華麗なるシャルパンティエの音楽2(アンサンブルコントラポント)
*25日(日)クリスマスコンサート(木の器)
毎年恒例、お楽しみコーナーあるかな
*27日(火)時のはざまで出会う音(アンサンブル’IJ SPACE’)
*30日(金)プラッティのジルベスター(アンサンブル・リクレアツィオン・ダルカディア)

これ以外には「古楽系コンサート情報」(東京近辺、随時更新)もご覧ください。


さて埼玉は所沢の松明堂音楽ホールが今月で営業を終了するとのこと。近江楽堂よりもさらに小さなホールだったが、内容は豊かなものであった。特別なイベントもなく終了してしまうもよう。
また埼玉から文化の灯が一つ消えてしまうのであったよ( -o-) sigh...
過去に印象に残る公演では、パオロ・パンドルフォ、津軽三味線の若手奏者と共演したタブトゥーラ、ホプキンソン・スミス(ペットボトル水やり事案発生)、最近ではコレッリ魂がメラメラしてた寺神戸亮(客は少なかったけど)などなどがあった。
残念無念であります。

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