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2017年3月

2017年3月27日 (月)

王妃マルゴとジャンヌ・ダルク

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しばらく前に萩尾望都の『王妃マルゴ』第5巻(集英社)と山岸凉子の『レベレーション -啓示-』第2巻(講談社)が前後して刊行された。
扱っている時代は異なるとはいえ、同い年の二人がフランスを舞台にした歴史物(しかも宗教がらみの)を同時に描いているというのは興味深いことである。

『マルゴ』では遂にサン・バルテルミーの虐殺が勃発。プロテスタント側の死体がゴロゴロと……。
たまたま1995年のフランス映画『王妃マルゴ』をケーブルTVでやっていたので見てみたら、似ている場面がかなりあった。もっとも、両者とも同じ資料(絵画など)を使っている結果なのかもしれない。
マルゴがナヴァル公アンリとの結婚式でなかなか「はい」と答えないので、弟のアンリが後ろから彼女を背後からどついて返事したことにしてしまう--というギャグみたいな話が双方とも出てくるのだが、これって史実なのかね? ビックリである

実はこの映画、私は公開時に見ているのだが、その時は誰が誰やら人間関係がさっぱり分からなかったように記憶している。今は萩尾作品を読んでるからようやく分かった
逆に言えば、複雑な宮廷の人間関係--縁戚関係に加え宗教上の関係が入り乱れているのを萩尾望都はよく描いているということになる。
画的にも極めてエネルギッシュでパワーがコマから溢れているのだった。同世代の女性マンガ家では一番精力的に活動していると言ってよいだろう。

ただ、問題なのは私にはどうもマルゴという主人公が何を考えているのかよく分からないのだ。王女に生まれついたけど、中身は愛を求める普通の女性ということなのかね。むむむ……(=_=)

フランスの古楽グループ、デュース・メモワールのCDにデュ・コーロワ作品集があって、この中に入っている「フランス王のためのレクイエム」というのが、よくよく見ると(ナヴァル公の方の)アンリ4世の葬儀用だったのだ(!o!) 美しいポリフォニーによる合唱や管楽器合奏が再現されていて、なんと僧正の説教まで入っている。
付録のブックレットには当時の絵画・風俗画、豪華な装飾品や剣、さらにはアンリが暗殺された時に乗っていた馬車の写真まで掲載されている。


ジャンヌ・ダルクを少女時代から描いた『レベレーション』は、1巻目ではどうなることか(-o-;)ハラハラ、山岸凉子老いたりなどと思ってしまったが、2巻目ではようやく面白くなってきた。
ここではジャンヌが男装してオルレアンに向かうところまで来たが、物語自体は処刑場に向かう彼女が回想するという設定になっている。神の声を直接に聞いた彼女がどのように神から見放される(?)に至ったのか--早く知りた~い(>O<)が、先はまだ長い。

歳取ってきて視力など色々衰えてきたので、編集部に頼んで隔月連載にしてもらった、とインタビューで山岸凉子自身が語っていたので、ますます時間がかかるだろう。
こちらは精力的に毎月連載を続けている萩尾望都に、「隔月連載って、残りの一か月は何をやっているの!」と言われたという話には笑ってしまった。

以前ネットで、ベテランマンガ家が歴史物を書くのは歳くって「現在」の話を描けなくなったためであり、それは後退だ、というような意見を見かけた。しかし、文学の世界に目を転じれば、高校生でデビューして文学賞取ったような作家が、延々と高校生を主人公にした話を書いているなんてことはない。歳相応に夫婦関係の話になったり子どもネタが出てきたりする。(しまいには若いモンに毒づいたりすることも)
それを思えば描き手も読み手も年齢層が広がっているのだから、「若い子」の話ばかり書き続けるのが少女マンガ家の使命ではあるまいよ。(その点、吉田秋生なんか常に現役だから感心するが)

むしろ感じたのは、二人とも昔から描き続けているテーマをここでもやはり取り上げていることである。時は移り変われども、これはもう執念としか言いようがない。
『マルゴ』では、当然ながら作者がこだわり続けてきた恐ろしい「母」の存在である。マルゴの母カトリーヌ・ド・メディチ、強大な支配者にして策謀家である。その前には娘の生命さえどうでもよいのだ。
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『レベレーション』を読んで初めて気付いたのは、山岸凉子は常に天才あるいは特殊な能力を持った人物が集団(共同体)のヒエラルキーの中でどう生きていくのか--を描き続けてきたということだ。そしてある者は成功し能力を発揮するが、またある者は挫折する。それは『アラベスク』の頃から一貫したテーマである。
ただ、かつては「従者」となる人物がいたのだが、近年の作品ではそういう人物は登場していないようだ。

いずれにしても「三つ子のテーマ百までも」とはこのことか。両者とも今後の展開が楽しみである。

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2017年3月25日 (土)

アカデミー賞授賞式をようやく見終わったぞ

今年のアカデミー賞授賞式、WOWOWで当日放送された字幕版を録画してチビチビと見ていたのだが、ようやく見終わった。
いつも映画祭や音楽賞の授賞式の類を録画するのだが、どれも長時間なので最後までたどり着かず途中で見るのをやめてしまうのがほとんどである。
メリル・ストリープのスピーチが話題になったゴールデングローブ賞も録画したが、結局力尽きて消去してしまった。

しかし、アカデミー賞は最後の作品賞発表でハプニングがあって、ニュースにもなった。それを目指してなんとか見ることができたのだった。

NHK-BSでも放映されて見た人も多いだろうし一か月近く経ってしまったので、単にどーでもいい感想を書いてみる。

*「最後の追跡」がますます見たくなった。

*デンゼル・ワシントンが終始不機嫌な顔つきだったのはなぜ? 二枚目が台無しで頑固オヤジみたいだった。(ノミネート作の役柄もそんな感じだが)

*昨年に続き一般人登場。前回はピザの配達員だったが、今年は観光ツァー客。展示会に連れて行くと言ってだまして連れてきたらしい。列の先頭の黒人男性がスマホをいじりっぱなしで(ラインかツイッター、または写真撮ってた?)、司会者のジミー・キンメルが「スマホ離しなよ」と言っても止めない。折角、実物のスターが目の前にいるのにね……。
来年からは一般人イジリはやめた方がいいんじゃ?

*そのキンメルがメリル・ストリープを讃えるスピーチをした後に、客席にいる彼女に「そのドレスはイヴァンカ?」(トランプの娘のブランド)と声をかけた。これは単なるジョークではなくて、数日前に伝えられた「ストリープのドレス・ドタキャン事件」(高価なドレスを発注していたのに、別のブランドがドレスを無償提供するというのでキャンセルしてしまったという)というのが起こったらしいので、それに引っかけて皮肉を言ったのかね。

*主演男優賞候補のヴィゴ・モーテンセンが隣席に座った若い長髪の男とイチャイチャしている様子が流れた。ビックリして「あれ(?_?)ヴィゴってゲイを公言してるんだっけ」などと飛び上がってしまったが、調べるとその男性は息子らしい。でも身長も体重もヴィゴの三割増しぐらいであまり似てるようには見えないけど(痩せたら似ているかも)。いやー、驚いた~。

*ラストの作品賞取り違え場面は、私が見たニュース映像では省かれていたが、W・ベイティが封筒開けて本当に困っていて、もう一度封筒の中開いて別の用紙が入っていないか調べてみたり、舞台の袖の方に目をやったりキョロキョロしてて、フェイ・ダナウェイから「どうしたの?」などと声かけられてたのだった。
あの混乱が収拾できたのは、「ラ・ラ・ランド」のプロデューサー(一番目にスピーチしてた)のおかげだろう。オロオロしているベイティから発表の用紙をひったくって会場に見せたのである。

*その時、会場は全員あっと驚愕したのに、なぜかライアン・ゴズリング一人がクククと忍び笑いをしていた(*^m^)という画像がネットに流れていた。そもそも、最初から主役なのにステージの端に立っていたし……ちょっと変わってる人?

来年度の授賞式もぜひ早目に、最後まで見るようにしたいものだ(^.^;)

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バッハ・コレギウム・ジャパン第121回定期演奏会:ルターの流れは絶えずして

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教会カンタータ全曲シリーズ71
会場:東京オペラシティ コンサートホール
2017年3月11日

今回は宗教改革500周年記念と連動したルター500プロジェクトの3回目。
前半ではルターからバッハへの流れを辿る--ということで、同じコラール「平安と喜びをもって、私は逝こう」に基づいた曲が、ヴァルター→プレトリウス→シュッツと演奏され、最後はバッハの同名カンタータBWV125となった。バロック声楽曲の発展史をたどっているようでもある。

冒頭合唱からして複雑なアレンジでフルートとオーボエが絡み合う。その次のアルトのアリアでは二本の管がやはりかけ合う背後でチェロとコントラバスのド低音がゴンゴンゴンと響き続ける。ダミアン・ギヨンの歌とあいまって、三者がそれぞれに強烈な磁場を放っているようだった。
テノール櫻田亮とバスのD・ヴェルナーがフーガ風に追いかけあって歌う二重唱アリアも聞きごたえあった。

後半のBWV33でもギヨン氏活躍。続くBWV1は受胎告知の祝日用ということで、コルノが2本入ってそこにオーボエ・ダ・カッチャも加わり祝祭的な雰囲気を盛り上げた。

全体的にはヴェルナー氏が出番も多く活躍してたかなー。なお、同じバスパートで彼の隣に加来徹がいて、部分的にソロで歌う場面があったが、身体の幅がヴェルナーと比べて二分の一ぐらいなのはちょっと笑ってしまった。

会場で調布音楽祭のチケットを売っていたので、つい買ってしまったですよ。
ところで、プログラムの後ろの方にギヨン氏のインタヴューが載っていて、「日本でのコンサート後のサイン会はシュールなひとときですね」とあるのだが……公演後のサイン会って日本しかやらないの(?_?)


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2017年3月19日 (日)

「沈黙 -サイレンス-」:わたしが・棄てた・神

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監督:マーティン・スコセッシ
出演:アンドリュー・ガーフィールド
米国・イタリア・メキシコ2016年

スコセッシが遠藤周作の『沈黙』の映画化を熱望しているという話を耳にしたのは十数年前だろうか。しかしその話は立ち消えになったり復活したり……その度に出演者として上がる名前も変わっていったように記憶している。
ロケ地がニュージーランドから台湾に変更されたのも、途中で大物プロデューサーが手を引いてしまったかららしい。大変である。

その間に彼は雇われ仕事作品の『ディパーテッド』でオスカーを取ってしまった。その後もあきらめることなく、まさに執念の一言であろう。
実際には原作を読んだのは28年前ということで、その長さにさらに恐れ入る。

私が原作を読んだのは、昔の「狐狸庵先生」ブームのおかげで、そこから読み始めてシリアスな作品に至るというパターンだった。やはり『イエスの生涯』を読んだ高校の同級生と共に「イエス萌え~」になったりした。
しかし、あまりにも読んだのが昔過ぎて(ウン十年前)原作の『沈黙』はおぼろげにしか覚えていないのであった。

人によって感想は様々なこの映画、私は感動よりも見ててウツになった。
『闇の奥』よろしく異文化の未知の土地に上陸した若い司祭二人が住民と関わり、その地の海辺から緑深き山の中を徘徊した揚句、片方の主人公がたどり着いたのはオドロオドロな恐怖の王国--ではなくて整然とした奉行所、清潔なお白洲、人情のかけらもなき役人が支配し、強固な官僚主義が存在するゆるぎなき帝国だったのである 全くもってイヤーンな「日本」そのものだ。これでウツにならずして何であろうか。(しかも史実を元にしている)

加えて、そこで繰り広げられる言説が「日本スゴイ」っぽいものから踏絵を「踏めばよいのだ、踏めば」とか「彼らが苦しんでいるのはお前のせいだ」まで、現在でも立派に通用している論理ならぬ理屈ばかりである。
期せずして(いやもしかして意識して?)、監督は原作にもあった「日本イヤン」な部分を描き尽くしているのであった。

民衆にしてもお上にしても異文化たる宗教を飲み込み同化していく。その圧力の「洗礼」を受けて遂に屈して踏み絵を踏んだ後の、A・ガーフィールド扮する主人公の呆けたような表情が印象に残る。(或いは彼の師フェレイラの後ろめたい表情も)
とすれば、ラストシーンはまさに主人公が完全に日本に「同化」できたということなのだろうか。つまり、日本的なキリスト教の受容を会得したという意味で、彼は真に日本人になったということか。

「踏み絵」について「そんなもの踏むだけなら踏めばいいじゃないか」という意見を幾つか見かけたが、警察によるでっち上げで有名な「志布志事件」では「踏み字」や「踏み絵」(一説に家族の写真を使用したとか)が使われたというから、現代でも十分に使用可能な手段なようである。

かようにシリアスでヘヴィな題材ではあるが、過去の日本の描写はガイジンにここまで描かれちゃっていいのか~、日本映画負けてるよと思ってしまうレベルなので、一見の価値はあると言っていいだろう。
ただ、主人公が水面に映る自分の顔をイエスに重ねる場面とか、踏み絵をやった後の衝撃描写などはやや「やり過ぎ」に思えた。
登場する日本人がみんな英語(劇中設定はポルトガル語)うまいのは……突っ込まない方が吉であろう。

見ていて「こりゃ、客入らないだろうなあ」と思ったのも事実。有名俳優が出ているとはいえ、ウツ展開であまりに暗い話だ。
実際、監督が28年間かけた渾身の一作、米国ではコケてしまい次作はネットドラマを撮る羽目になったとか……(-_-;) 当地で公開が遅れたそうで、アカデミー賞に撮影賞しかノミネートされなかったのもマイナスだったか。

役者に関しては窪塚洋介やイッセー尾形の世評が高いが、後者についてはオーバーアクトにいささか辟易した。ただでさえ芝居がかった人物なのに、それを芝居っ気タップリに演じたら屋上屋を重ねてどうするよってなもんである。
窪塚のキチジローはなんか子どもっぽくて何も考えてない印象。あれ(?_?)原作ではもっと狡猾で複雑なキャラクターだったんじゃないの(かなり記憶薄れているが)と疑問に感じた。
どこかで見たようだなあと思ったら、なんと『アーロと少年』の「少年」を連想したのだった。
そもそもワンコぽい。飼い主にワンワンと付いてきて、他所からエサをぶらつかされると我を忘れてそちらに走って行ってしまい、食い終わるとまた飼い主にワンワンとすり寄ってくる。飼い主は「トホホ、しょうがないなあ」と頭をなでてやるしかないのだ。

よかったのは塚本晋也と笈田ヨシだろう。失礼ながら塚本晋也がこんなにうまい役者だとは知らなかった。大昔に『鉄男』見たきりで……すいません、『野火』はコワくていまだに見てないんですう(>y<;) 許してー。あの海での処刑の場面には驚いた。CGとは思えないし、ホントにやってるのか 死ぬ~(@_@;)
笈田ヨシは最初の登場場面から目を引く。まあ、彼ぐらいの年季の役者なら当然ですかね。
ガイジン勢ではアダム・ドライヴァーが、あれこの人こんなだったっけ(?_?)と思うぐらいになんだか顔つきが違って見えてビックリ。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』でライトセーバーでコンソールぶっ叩いていたヤツとは別人としか思えん。

あと、片桐はいりの老婆とスモウレスラーのような刑吏が登場するところは、数少ない笑う場面ということでよろしいんだろうか(^○^) PANTAも出ていたらしいが、全く分からなかった。

音楽はほとんどノイズか環境音楽か?と言っていいほど、目立たない使い方をしていた。そもそも「音楽」だったのかも分からん。冒頭とラストの虫の声と合わせているみたいだ。

それにしてもスコセッシはつくづく「青二才」の人物が好きなんだなあと感じた。映画マニアに熱狂的な彼のファンがいるのもこういう点からかと納得した。


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2017年3月12日 (日)

ヘンデル「デイダミーア」:英雄、色よりも戦いを好む

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主催:日本ヘンデル協会
音楽監督・演出:原雅巳
会場:東京文化会館小ホール
2017年2月25日

毎年お馴染みの日本ヘンデル協会のオペラ・シリーズ。前回行ったのは2015年の「フラーヴィオ」であった。

今回はヘンデル先生最後のオペラと銘打たれた「デイダミーア」である。なんと客の入りが悪くて3回しか上演されず、これ以降はオラトリオへと活動を移したという因縁の作品なのであった。

これまでと同様、登場人物はヘンデル先生時代の衣装を着けてジェスチャー付きで歌う。大西律子をコンミスとしたオーケストラは舞台の右端に陣取り、全体の指揮は原雅巳がやっていた。
内容はギリシャ神話から題材を取っており、トロイ戦争を背景に英雄アキレウスやオデュッセウスが登場するというものである。

タイトルロールの王女・藤井あやは堂々の貫禄を見せて(聞かせて)くれました。その親友役の加藤千春は対照的に明るく、ややコケットな印象が好感。
英雄(将来の)アキッレ(民秋理)は女に化けてる若者という設定だから、子どもっぽく線が細くっても納得だが、ウリッセ役の佐藤志保はちょっと現役の英雄には見えないのが難だった。
バリトンの春日保人はプレイボーイ英雄役なのだが、毎度この手の人物にはホントにハマリ役である。あまりにハマリ過ぎなので思わず笑ってしまった。

身勝手で子供っぽい男に振り回されて苦労するヒロインはヘンデル作品には定番だが、この物語では遂にヒロインは救われずアンハッピーエンドで終了(!o!) ええー、これで終わりですかと驚いちゃう。
一方で、女同士の友情は強調されているのだが。

とはいえ、他のヘンデル作品と比べて詰まらないということは決してなく、なんで3日で終了しちゃったのか謎である。解説を読むと、当時の政治情勢などが絡んでいるとのこと。色々あるんですねえ(=_=)

全体的には完成度高く、カッチリとヘンデル先生の世界を再現して見せてもらえました。また来年もよろしく

ところで、アキッレが女装している姿がどうも既視感あるなあと思ってみてたら、終盤になってようやく思いついた。そう「竹の子族」\(◎o◎)/!(死語) 髪型や衣装がクリソツなのであった。


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2017年3月 5日 (日)

「ブルーに生まれついて」「MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間」:吹く前に吸え!

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「ブルーに生まれついて」
監督:ロバート・バドロー
出演:イーサン・ホーク
米国・カナダ・イギリス2015年

「MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間」
監督:ドン・チードル
出演:ドン・チードル
米国2015年

誰でも思わず比較してしまうこの2本、同時期に活躍した有名なジャズ・ミュージシャンを取り上げたものである。生涯を描く「伝記」形式ではなく、特定の数年間を切り取って描く手法も似ているという--。偶然としたら驚きだが、製作年が同じなのでどちらかがパクったということもなさそうだ。

「ブルー~」はイーサン・ホークがトランぺッターのチェット・ベイカーになり切り演技している。
チェットは主演映画を撮ろうというぐらいに人気はあれど、クラブで先鋭的な演奏を繰り広げるマイルスを聞かされるとどうも分が悪い。
おまけにヤクがらみの暴力沙汰で顎を骨折して楽器を吹くこともできない羽目になる。

が、捨てる神あれば拾う女あり。役者志望の女性が現れて彼を支える--はずであるが、彼女は架空の存在ということだ。その後ラブロマンスと再起の物語が展開する。
ラストはミュージシャンの業を感じさせるものだ。素晴らしい演奏ができるのなら、十字路で悪魔に魂を売ることぐらいなんだというのか。かくして愛に背を向けて再び破滅の道へ進むのであった。
このラストには思わず涙目になっちまったい(/_;)

ただ、実際のチェットはどーしようもない人間だったみたいで、ここに描かれたエピソードは彼の音楽のイメージにふさわしく、かなり甘味にコーティングされたもののようだ。
楽器の演奏は現在のミュージシャンが吹いているそう。
納得いかないのは、父親から「オカマのような声で歌う」とケナされた高音の歌声なのに、イーサン・ホーク自身が普通の声で歌っている点だ。ぜひとも再現してほしかった。


「マイルス~」の方となると、ストーリーはもっとハチャメチャだ。実際にあった活動休止の「空白の五年間」に何があったのか、を明らかにするという趣向。その時盗まれた新作テープを探して、銃を振り回し車で追跡劇をしたり暴れたりするアクションもどきになっている。
珍道中のお供は落ち目の音楽ライター(ユアン・マクレガー)であるよ。

主演のドン・チードルに至っては監督・製作も担当というのめりこみ振りだ。
実際にあったマイルスの逸話の断片がちりばめられていて、ファンならより楽しめるらしい。そのせいか客席の9割が中高年男性だった。
トランペットの演奏は実際のマイルスの録音を使用。ラストは時間を超えたセッションとなり、歳取ったH・ハンコックやW・ショーターと《ドン・チードル》マイルスとの夢の共演が繰り広げられる。音楽担当のR・グラスパーも嬉しそうに参加していた。(ついでながらベースの女性がカッコ良かった

「ブルー~」との共通点をあげると、特定の期間を取り上げていること以外に、
過去の回想が錯綜する。
妻の活動(こちらはダンサー)を妨害する。
主役のなり切り度高し。
事実をあえて変えている部分も多い。
共演者の支えが大きい。ユアン・マクレガーはユーモラスでいい味出している。「ブルー~」では妻役のカーメン・イジョゴ(「ファンタスティック・ビースト」の議長役でしたな)が非常に魅力的で、評価5割増しにしたくなるぐらい。
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どちらもミュージシャンとその音楽が生み出す、ファンの妄想をそのまま映像にした印象だ。
例え、事実と違ってもどうだというのだと開き直っているようである。確かに、ファンの数だけミュージシャン像は存在するのだろう。


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2017年3月 4日 (土)

聞かずに死ねるか:マイナー・コンサート編 3月版

花粉の季節がやってまいりました~(> <)

*4日(土)チェンバロの魅力5(大塚直哉):神奈川県民ホール小ホール
*5日(日)室内楽の楽しみ アンネ・フライターク氏を迎えて(木の器):近江楽堂
*8日(水)フックスとその周辺(リクレアツィオン・ダルカディア):近江楽堂
*12日(日)ソプラノとオルガンによるチャリティコンサート(野々下由香里ほか):神田キリスト教会
行ってみたいが、電話かけるのが面倒な私(^^ゞ
*17日(金)「ティツィアーノとヴェネツィア派展」記念コンサート1(つのだたかしほか):東京都美術館講堂
*21日(火)国際音楽学会記念演奏会 古楽の夕べ(大塚直哉ほか):東京藝術大学奏楽堂
藝大のホールは立派だけど、古楽アンサンブルには広過ぎなんですよね。
*  〃   フリードリヒ大王の宮廷音楽(前田りり子ほか):近江楽堂
*31日(金)「ティツィアーノとヴェネツィア派展」記念コンサート3:(太田光子ほか)東京都美術館講堂
*  〃  バッハ 無伴奏ヴァイオリン全曲演奏会(桐山建志):近江楽堂
バッハ先生お誕生日10日後記念

これ以外には「古楽系コンサート情報(東京近辺、随時更新)」をご覧ください。

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