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2017年12月 3日 (日)

東京芸術劇場でシェイクスピア劇二題

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ほとんど映画と古楽ネタを書くだけで精一杯な当ブログであるが(それもかなり遅れ気味)、芝居もたま~に観に行っているのだ。ただ、結局感想書く暇がなくてそのままになっている。今回は頑張って書いてみる。


「リチャード三世」
演出:シルヴィウ・プルカレーテ
出演:佐々木蔵之介

この芝居をナマで見たのは多分初めて。以前、イアン・マッケラン主演の映画は見たことはあった。
……と思っていたら、なんと劇団新感線がやったのを見ていた(!o!) すっかり忘れておったよ 自分の書いた感想読み直して、あまり出来が良くなかったのを思い出した。

今回の舞台の背景は何やら昔の精神病院のような、収容所のような陰鬱たる灰色の壁に囲まれている(血痕もついてる)。手術台は拷問室もイメージさせる。テーブルがストレッチャーだったり、王座が車椅子になったりする。
演出家がルーマニア出身ということで、過去の独裁政権下の抑圧を重ね合わせているらしい。
まことに陰々滅滅と芝居は進行する。主人公のリチャードは陰謀の限りを尽くして王位の座に着くという筋書きのはずだが、政争や謀略というよりホラー劇を見せられているようだ。
結末では、悪人リチャードに観客がいささかの哀れを感じるはずだ。しかし、この演出では最初から最後まで全く共感できるところはない。なんだか陰惨なお化け屋敷を覗いた気分になった。

面白かったのは、亡霊たちがリチャードの前に出現する場面。カラオケ大会みたいにそれぞれ歌を歌って過去の悪行を責める。役者の皆さん、ここぞとばかり美声と罵声を発揮。
それから主人公がバッキンガム公とやたらとブッチュリとキスを繰り返す。同性愛関係にあると示しているのだろうか。そうではないという意見もあるらしいが、味方でも他の奴とはしないのだからやはりそうとしか思えん。

「ほぼオールメールの日本人キャスト」であったが、その効果があったのかはよく分からない。「ほぼ」というのは代書人の役だけ渡辺美佐子がやっているのだが、その意図も不明である。
まあ、この抗争劇を男同士のド突き合いとして見なせば納得いかなくもない。

個人的には手塚とおるのアン夫人がどんなもんかと期待していたが、出番が少なくて残念だった
とはいえ、最初から最後までほとんど出ずっぱりの佐々木蔵之介を見ていると、長時間あれだけの人数の視線をステージの中心で一身に浴び続けるのはよほどタフでないとできそうにないなと思った。それ自体が快感の人もいるだろうけど。

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「オセロー」
演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
出演:トネールグループ・アムステルダム
2017年11月3日~5日

こちらはオランダの劇団によるオランダ語上演。日本語字幕付き。演出家は欧米で引っ張りだこの人とのこと。

この演出では「ムーア人」のオセローを白人が演じている。見た目が変わらないことによって、さらに差別がハッキリする--ということはあまり感じなくて、むしろ「軍隊」という狭い世界や「男女」の差というものが浮上してくるようだった。

先日の『オセロー』ではないが、男たちはかなり過剰に親密ぶりをイチャイチャと見せつける。主要人物はみな軍服を着ているので同質性が強調される。しかもやたらとその服を脱いで抱き合うのだ。

デズデモーナはそんな中で細っこくて華奢で小柄な女優さんがやっているため、対比が甚だしい。しかも衣装が避暑地の有閑マダムみたいなんである(余り趣味よくない)。
この夫婦の家は完全ガラス張りの巨大な箱になっていて、連想されるのは鳥カゴだ。確かに、彼女は小鳥のようにきれいな声で鳴いて、それを愛でられても、誰もその言葉の意味を聞こうとはしない。

前半のイアーゴーがオセローを騙そうと嘘を吹き込む場面はかなり単調で、会場を眠気虫が跳梁していたようだ。ツイッターでも「前半眠かった」という意見を幾つか見かけた。
後半になると、舞台の真ん中に位置していた巨大ガラス箱が前方にせり出してきた。この中でデズデモーナ殺しが行なわれるわけで、なんだか犯罪現場を直に覗き込んでいるような気分でドキドキする ワイドショーの再現ドラマか。まあ、モロに夫婦の寝室ですからなあ……(・.・;)

それに応えるように(?)殺人の場は2人とも下着一枚のみ--どころか、本来は全裸で演じるそうなのだ(!o!) しかし日本では「自粛」となったらしい。
ここでは、オセローは軍の認識票を首から下げたままで、その音がシャラシャラと客席に聞こえてくる。全裸で認識票だけ身に着けて妻を殺す、となればかなり衝撃度は増すだろう。オリジナル通りでないのは残念だった。そういや、デズデモーナの「全裸」死体演技もかなりなものであった。

ラストでは主人公が再び軍服をきちんと着こんでから自害し、その「大義」への忠誠ぶりが強調される。

後で、原作戯曲を確認してみたらかなりセリフが削ってあって、脇の人物も数人消えている。そのため、オセローが自分のセリフではないのを喋っていたりした。
このような仕掛けにも関わらず、全体的な印象はかなりオーソドックスな芝居というものであった。
座席の背後の方からずっと鼻をすする音が聞こえていて、風邪をひいてるのかと思ったら、泣いているのだと分かった。泣く この演出で(@_@;)泣けるか?
だが、泣いたという人は結構いたらしい。

それだったら、むしろ誇張された人情劇として演じるべき芝居ではないだろうか。今思えば、新感線の「港町純情オセロ」みたいなのが一番ふさわしいのかも。
それと、劇中で使われている「柳の唄」を野々下由香里の歌で聞いた時に号泣ものだったのを思い出した。今回の公演では、デズデモーナが歌詞を朗読しただけだったが。

私は初日に見たが、この日だけ演出家がカーテンコールに登場した。来日して12時間ぐらいしか滞在しなかったそうだ。それほど多忙な人らしい。


さて、シェイクスピアの時代、一般市民は平土間で立って観ていたって本当か? どの作品もオリジナルに忠実に演じれば4時間はザラになりそうである。倒れそう~


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