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2018年6月

2018年6月30日 (土)

聞かねばならない時もある マイナー・コンサート 7月版

早くも夏sun突入であります。

*3日(火)フランス音楽の旅 3 ヴェルサイユ盛期(ヴィアッジョ・ムジカーレ):東京中央教会
*9日(月)クープランとその後(天野寿彦ほか):近江楽堂
*11日(水)ミサ・ムンディ 祈りの歌、祝いの歌(セコンダ・プラティカ):日本福音ルーテル教会 ♪14日に横浜公演あり
*13日(金)トン・コープマン パイプオルガン・リサイタル:ミューザ川崎 ♪16日に所沢公演あり
*17日(火)ゴルトベルク変奏曲 弦楽四重奏版(原田陽ほか):近江楽堂
*18日(水)中世の聖なる響き ヒルデガルド・フォン・ビンゲンとノートルダム楽派の音楽(エロディー・ムロほか):近江楽堂
*21日(土)ヘンデル アリオダンテ(日本ヘンデル協会):東京文化会館小ホール
*25日(水)フェードルとイポリト(横町あゆみほか):近江楽堂
*  〃   タブラトゥーラ真夏のライブ 30年後の逆襲:ハクジュホール
*27日(金)アルプスを越えた音楽 ルネサンスノハーモニー(高橋美千子ほか):日本福音ルーテル教会
*  〃   バロックバスーン四重奏 ラ・フェニックス:近江楽堂

これ以外はサイドバーの古楽系コンサート情報(東京近辺、随時更新)をご覧ください。

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2018年6月27日 (水)

「マドリガーレ・コンチェルタート」:夜景サービス付き公演

180627
モンテヴェルディとその周辺
演奏:エクス・ノーヴォ室内合唱団
会場:豊洲文化センターホール
2018年5月30日

このグループの公演を聞くのは初めて。指揮の福島康晴と各パート2名ずつというメンバーである。
19時開演なのに18時20分開場(自由席)とちょっと早いのはどうなのよ?と思ってたら福島氏が出てきてプレトークをやった。
マドリガーレの発達の歴史をたどる内容で、ア・カペラとは現代で言う意味とは違って、四声の曲があれば声も楽器もそれぞれなぞるということだったとのこと。その後、「通底」という概念が出てくる。
やがて歌をなぞるだけでなくなり、器楽の独立したパートが登場する。それが「マドリガーレ・コンチェルタート」ということだそうな。勉強になりました(#^.^#)

このグループは、これまでずっと宗教曲をやってて、今回初めて世俗曲を演奏したそう。全曲、独立したヴァイオリンと通奏低音のパートがある曲である。
全13曲中、モンテヴェルディは4曲で、残りはヴァレンティーニ、マッツォッキ、ロヴェッタ(後者二人は初めて聞く名前)だった。

曲によって、歌手5人になったり器楽も通奏低音だけになったりした。テオルボは佐藤亜紀子、鍵盤の桒形亜樹子はオルガン&チェンバロの二段重ねを使用、加えて櫻井茂のヴィオローネも参加。
前半の最後に歌われたモンテヴェルディ「私は燃え上がり~」は彼の得意技(?)の暗くて激しい曲で、その情念がヒシと伝わってきた。

ヴァレンティーニの「あの小鳥はとても甘美に歌い」では作曲者自身が指定している「水で満たしたクレタ島の小夜啼鳥」という正体不明の楽器が登場chick 衝立の陰から演奏された。かなり個性的な音である(^^;
正体はおもちゃの鳥の形をした笛で、なんでも、福島氏がイタリアの友人にどういうものか尋ねたところ送ってきてくれたそうだ。

続くマッツォッキは3曲とも「濃ゆい」という言葉がピッタリな印象。それにしても、マドリガーレってこういう暗めの詩がやたらと多いですなあ。
ラストはやはりモンテヴェルディの長めの曲で、さすがにコーラスにやや乱れるところがあったような気もした

とはいえ、全体的な感想としては大いに満足full 日本でモンテヴェルディというと鈴木美登里率いるラ・フォンテヴェルデが断トツだと思っていたが、その他にも日本でこれだけ歌えるグループがいたのかいsign03と、正直なところ驚いた お見それしましたm(__)m
次回は「HBS333」にちなんだプログラムらしいが、できたらまた行きたいと思う。
器楽陣のヴァイオリンは二人とも若手の女性。これからの活躍を期待しております。

この会場は初めて来たが、ビルの5階ということで、どこからそのビルに入っていいのかまず戸惑ってしまった。(雨降ってたし)
ステージの奥と右側がガラス張りになっていて、東京湾方面(多分)を見渡せる風景が美しい。視界の半分を隣接のマンションが塞いでいるのが無念だけど(@_@;)
新しくてキレイで座席もゆったりしててよいのだが、そのガラスのせいかやや音がデッド気味なのは残念だった。


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2018年6月25日 (月)

「女は二度決断する」:リベンジ・オブ・ネメシス 嘆きの聖母

180624
監督:ファティ・アキン
出演:ダイアン・クルーガー
ドイツ2017年

これを見た人は、終盤までは『スリー・ビルボード』に似ている--と思うだろう。

双方とも母親である女性が家族を理不尽な犯罪によって殺され、司法や行政が正しく対応せず、犯人は罰せられない。周囲の人々も無理解である。
そしてふつふつと湧き上がる復讐の念thunder

で、結末まで行って「二度決断」とはこういうことかと分かった。でも、何やらモヤモヤするものを感じてしまった。確かに意見が分かれる結末ではあるが、その決断自体よりも「これはこうに決まってて、あれはああなんだから」というような展開がどうも納得できない。ヒロインの人物設定もストーリーに沿うようなものになっている。
結論ありきで、そこに至るまでの描写には何一つ揺らぎはないのである。(ヒロインが決断に迷う、ということを言いたいのではない)
そういう点でも、『スリー・ビルボード』に似ている。
こう感じてしまったのは、この映画の前に『ニッポン国VS泉南石綿村』を見たせいかもしれない。(このドキュメンタリーにも被害者の遺族が登場する)

加えて、映画全体がダイアン・クルーガーの泣きの演技に頼りっぱなしなのも気になった。そりゃ、見ている側はもらい泣きしてしまうわなあ(/_;)
考えてみれば、彼女はこの演技でカンヌの女優賞、『スリー・ビルボード』のフランシス・マクドーマンドもアカデミー賞主演女優賞を獲得している。やはり「母親」役は受賞率が高いのか。

アキン監督作は『消えた声が、その名を呼ぶ』はよかったが、その次の『50年後のボクたちは』今イチどころか今サンぐらいだった。もう次作は見ないかも。

ところで、ヒロインがサムライの入れ墨をするのは、特攻精神を表わしている--って本当かいsign03
それと、ドイツの裁判ものってあまり見た記憶がないが、刑事裁判で被害者も弁護士雇って参加するのは驚いた。しかも、検事はほとんど発言しなくて、被害者側ばかりが反対尋問するってのはどういうこと。控訴するかどうかも被害者が決めるのか(?_?)

朝日新聞の映画欄で、記者がアキン監督に論争を挑むようなインタビューをしたということで話題になったが、どのメディアを見ても同じような生ぬるい記事よりはいいんじゃないかと思ったですよ。


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2018年6月22日 (金)

ヘンデル「アルチーナ」:美魔女じゃダメかしらん

180622
二期会ニューウェーブ・オペラ劇場
演出:エヴァ・ブッフマン
指揮:鈴木秀美
開場:めぐろパーシモンホール
2018年5月19・20日

二期会が若手の歌手を起用してバロック・オペラをやるのは、同じくヘンデルの『ジューリオ・チェーザレ』以来である。
予算方面が苦しいところがあってなかなか開催できない、というチラシがプログラムと共に入っていて色々と大変そうである。

『アルチーナ』自体はヘンデル・フェスティバル・ジャパンでも鑑賞した。
今回は、オーケストラは鈴木秀美指揮で古楽系演奏家で固め、歌手は二期会の若手(ダブルキャストで私が行ったのは20日の方)、演出、装置、衣装はオランダから招いた(3人とも女性)という形だった。

魔女アルチーナは最初から熟女マダ~ムkissmarkみたいなイメージ。セットの中に寝台もあって、ウブな若者ルッジェーロ(登場時は高校の制服みたいな格好)を愛欲でたぶらかし……という濃厚味で開始したのであった。
しかも彼女の頭には赤のハート形のようなカツラが乗っかっている。「ああ、これはラストでこのカツラがぽろっと落ちるんだろうな」と思ってたら、ポロッではなかったけど予想通りになった。まあ、誰でも予想つくだろうけど。
それに反比例するかのように、ルッジェーロはダラけた高校生から段々と紳士風の服装になっていく。

かように衣装やカツラ、靴などに色々と意味が隠されているようなのだ。さらに、妹魔女のモルガーナは登場時からわざとカツラとって見せたり、ブーツを履くのをことさら強調したり、ブトウやバナナをもぐもぐ食べてたりする。(舞台上でバナナbanana完食したのには驚いた)
その意味は見てて分かるような気がするが、分からないような気もする。

今まで散々男たちをたぶらかして動物に変えてきた魔女が、「一人前」の大人の男となった若者に、初めて裏切られて煩悶し破滅する--というのは、ヘンデル先生作品の解釈として正しいかどうかは不明である。
しかし、大掛かりな装置を使ったバロックオペラというのは滅多にないので、見られただけでもありがたいという気分であった。

オーケストラは前回ちょっと不満なところがあったが、今回はヘンデル節がよーく発揮できていた。ピットを休憩中に覗いたら、やはり全体にマイクがセッティングされていた。そうでなければ、広い会場でピットに入っている佐藤亜紀子のテオルボ、あんなによく聞こえるわけないわなear

歌手の方々は「初めて二期会デビュー」などという若手もいたりして、出来は様々のようだったが、タイトルロールの渡邊仁美は「敗れ去る傲慢な熟魔女」を濃厚によく演じていたと思う。

資金獲得など大変かと思いますが、また次回の開催をお待ちしております(^o^)丿


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2018年6月19日 (火)

「ニッポン国VS泉南石綿村」:アンフェア・ジャッジメント 人生に控訴はない

180619
監督:原一男
日本2017年

原一男のドキュメンタリーというと、大昔『ゆきゆきて、神軍』を見たきりである。この最新作は上映時間が3時間半を超えるとあって、見るかどうか迷ったがエイヤッimpactという気合と共に行ったのであるよ。

取り上げられているのは2006年に大阪で始まった石綿(アスベスト)の被害者の訴訟である。建築に使われてきた石綿は吸い込むと数十年後に肺にガンなどを発症する。被害者は工場の労働者、その家族、周辺住民だ。
ただ、訴訟の相手はその工場ではなく、映画のタイトル通り国である。国は以前からその健康への影響がある事を把握していたにも関わらず、それを隠し無作為だったのだ。薬害エイズやハンセン病患者隔離問題と同様のパターンである。

集団訴訟なので原告の数は多いが、その中の十数人に取材あるいは密着していく。当人は亡くなって、遺族が加わっている人もいる。当時の工員には、遠い離島の村の住民や在日朝鮮人も多かった事が描かれる。

前半が人物紹介編だろう。その病状や参加した動機も様々である。
高裁で国は敗訴するが、控訴することを決定する。当時は民主党政権で、裏情報として当時の長妻大臣は反対だったが仙石官房長官が断固として主張して譲らなかったという話が流れてくる。そのため、最高裁へ。
しかし、その間も原告側からは死者が出るのだった。

後半は「行動」編というべきか。
訴訟団の団長が首相官邸へ直訴しようと新幹線の中で仲間に呼びかける。この場面について「原監督がたきつけたのではないか」という意見があったが、確かにかなりそれっぽいと思う。もはや取材を越えて「共犯」関係であろう。
このため、団長と弁護団のいさかいも発生。(心なしか、ここらあたりのカメラからは活気のようなものを感じるon

最高裁でも勝訴したはいいが、年数や立場などによって判決から外されてしまう人が数人出る。その一人(正確には遺族)が厚労省前でメガホンでを通して語る慟哭の訴えには思わずもらい泣きしてしまった。どのくらい泣けるかというと『リメンバー・ミー』に匹敵するぐらいであるsweat02(←しょうもない比較ですいません)

しかしその後、厚労大臣(この頃には自民党政権)と手紙のやり取りしたり面会して、その遺族はコロッと態度が変わってしまう。
観客の側から見てると「えっ!どうして?」と驚く。まこと、人間の行動と感情は度し難いものよ。矛盾のない人間なぞ、フィクションの中にしかないのだなあとつくづく感じたのだった。

国との和解(この場からは、団長と原監督は排除されてしまう)後に、監督は何人かに「不満はないですか」と聞いて回るが否定的な返事は帰ってこない。取材している監督の方の不満だけが伝わってくるようだ。

最後に大臣が大阪の患者の自宅へお見舞いに来る。大臣が間に合わず訪問した時点で、亡くなっていたのだが、その直後にメディアのインタビューに答えた患者の娘さんの感想が、淡々とシラけていてなんだか笑ってしまった。

見る前は上映時間長いと思ったが、実際に見てみるとそんなことはなかった。それよりも登場する方々が多いんで、老化現象でめっきり記憶力が落ちている私には覚えられなくて混乱。字幕で何回か出して欲しかった。(海外のドキュメンタリー見てると、既出の人でも字幕を出す)
「共犯関係」を隠さぬ原監督のドキュメンタリー、扱っているテーマは悲劇だが面白いとしかいいようがない。
なお、詳しい内容は《キリンが逆立ちしたピアス》で紹介されております。

それにしても「息を吸うことも吐くこともできない」とはいかなる苦しみであろうか。恐ろしくて想像することもできない。

石綿被害の訴訟は複数の地区で起こったが、その影響はあった。当時私の職場で自治体からビルの調査が来たのだ。調査、っても別に検査員が来るわけでなく、こちらの施設管理の担当者が目視するだけの話である。
確か、昭和40年代末か50年代に建てられたビルだが、当然石綿が使われている(この時代の建築物はそうらしい)。しかし「表面が塗り込められているから大丈夫」ということになった。
そうなると、もし地震や災害で倒壊・ひび割れなどあったらそこから石綿が出てしまうわけである。実質上の対策なしng さらに、床のピータイルも石綿が使われていて(これも時代によって異なる)、しかも古くて割れているのに、やはり「問題なし」で終了。ふざけるなと言いたくなった。


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2018年6月16日 (土)

「ラブレス」:サーチ・アンド・ロスト 非情の町

180616
監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ
出演:マリヤーナ・スピヴァク、アレクセイ・ロズィン
ロシア・フランス・ドイツ・ベルギー2017年

前作『裁かれるは善人のみ』は国内で非愛国的と非難されるも、国外で映画賞に数多くノミネートされたズビャギンツェフ。この新作もオスカーは取り損ねたものの、米国ではLA批評家協会賞外国映画賞、そしてカンヌでは審査員賞を受賞している。

2012年のロシア、巷では「世界の終りが来る」という噂が漠然とした不安と共に流れている。
主人公は離婚寸前の夫婦で、夫は一流企業に勤める高給取り、モデルのような容姿の若い妻は美容院を経営している。二人にはそれぞれ愛人がいて、特に夫の相手は妊娠中。もはや関係は完全に壊れていて、双方とも別れる気満々fullである。
しかし、問題は小学生の息子がいることだ。夫婦のどちらとも引き取る気はさらさら無いのだ。互いに子どもを押し付け合う二人……。
そんな二人だから、ある夜息子が行方不明になったのに気付きもしなかったのであるdanger

失踪届を出すという騒ぎになって、徐々にこの夫婦の背景が明らかになってくる。
妻はデキ婚で若くして結婚したが、その理由の一つは実家を出たかったらしい。さらに年上の男性に惹かれるのは、不在の父親の代わりを求めているように見える。
夫はかつてはどうだったのか分からないがいい加減な性格で、年下の若い娘に目移りする性癖がある。しかも、離婚騒動が知れれば会社を首になるのを恐れている。

そして妻の実家を訪ねれば、これが恐ろしげなド田舎の一軒家。まるでD・リンチ映画にそのまま出てきそうなたたずまいである(>y<;)コワー
中にいるのは世にも猛烈な毒母bomb 見ている観客も倒れそうだ。
振り返ってみると、妻が息子の朝食の食べ方を厳しく見張って文句をつける場面があったが、実は彼女は全く同じことをこの毒母にされていたのではないかと思えてくる。


 ★注意sign01以下、結末は明かしていませんが、ネタバレ度高し。これから見るので何も知りたくない、という人は避けた方がいいかもです。


やる気のない警察の代わりに、捜索をボランティア組織に頼ることになる。そして市街や周辺の林を探索して回るのだった……。
こういうボランティア団体はロシアに実在するらしい。専門家として冷静に対処する彼らと、事件で内心を露呈しますます傷を大きくしていく夫婦が対比的に描かれる。

その内面を表象するようなそれぞれの家(部屋)の内部、そして周囲の風景--これまでのズビャギンツェフ監督の作品同様、冷徹で容赦ない描写である。

延々と続く捜索の光景、そして遂には、カメラはあきらめたように全く何も起こらない町の風景を映し出す。
廃墟のビル、森の中、川、マンションのエレベーター、バス停--。

これは退屈だろうか? いや、その変哲のない光景にさえ何かただならぬ気配が存在するのが感じられる。それは少年の「不在」の気配である。

”もうあの少年はいない””もうあの少年はいない””もうあの少年はいないのだ”

あらゆる光景がそう囁いてくる。
そして、ラストシーンに至っては……あんまりだー(ToT)と叫びたくなってしまった。
映画を見てこれほど打ちのめされたのは、久々である。私は映画館の出口をヨロヨロと這い出る羽目になった。

しかし、これはただこの夫婦だけの問題ではない。背景には体制の不穏、隣国の戦乱、市民の享楽的生活、社会の不寛容、家族関係の破綻などが存在する。それはいわゆる先進国社会では共通の問題なのだ。

正直、ズビャギンツェフ監督またやってくれたねgoodという気分だ。
特に衝撃が大きかったのは、ビルの廃墟場面。実在するものを撮影に使ったとおぼしいが、恐ろしいほどの迫力で壮絶としか言いようがない。昔の廃墟アートを想起させる。

エンドクレジット眺めてたら、夫役がアレクセイ・ロズィンだったのでビックリ(!o!) 彼は前々作でどうしようもないボンクラ息子、前作ではボンクラ警官の隣人、とボンクラ演技が絶品だった常連役者である。しかし、今回はいかにも高給取りっぽい雰囲気を醸し出してて全く気付かず(ヒゲ生やしてたしsweat01)。さすが役者であ~る。でも、そう言われれば微かにボンクラ味があるような……(^O^メ)
なお主人公の勤める職場で、同僚がくだらない冗談を言ってはヒンシュクを買う場面あり。いやー、ロシアでもオヤジギャグ言う奴がいるんだ。核兵器と共にオヤジギャグを全世界から廃絶banしよう。

さて、夫婦が子どもを押し付け合うという事案について、「これだからロシアは……」みたいな意見を見かけた。でも、こういうことは日本だってあるんじゃないの(?_?)
しばらく前の新聞記事で見たのは、夫婦が別居してどちらも子どもを引き取るのを拒否したために、なんとその中学生の娘は施設に入らざるを得なかったという。両親とも健在なのに、だ。

また、警察が失踪者の探索に熱心でないというのは、日本の警察も同じだろう。というのも、9割の行方不明は二、三日後に見つかるかららしい。
例の「タリウム殺人」の関連で見た報道(かなりうろ覚えでスマン)では、被害者の一人が行方不明になって、警察に捜索願を出したが全く動いてくれず、仕方なく家族が探偵に頼んで探してもらったことから発覚したという。もし、家族が自ら動かなかったら未だに発見されてないかも。

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2018年6月12日 (火)

「バロックリュートリサイタル 「せせらぎ」シャコンヌ集」:弦の切れ目が演奏の切れ目

180612
演奏:佐藤豊彦
会場:近江楽堂
2018年5月17日

しばらく前にCD「せせらぎ~フランスバロックのシャコンヌ集」を出した佐藤豊彦が、同じタイトルのコンサートを行なった。CDの方は全15曲中シャコンヌは10曲で、合間にアルマンドとトンボーが収録されている。
ところが、このコンサートでは全曲シャコンヌ尽くしでしかも休憩なしのイッキ弾きonなのであった。

一曲目は老ゴーティエから、ドイツやフランスの様々な作曲家のシャコンヌを弾いていく。(調弦しやすくできるような順番らしい)
しかし、冒頭から「弦が切れそう」ということで、騙しだまし弾いていたのが、遂に3曲弾いたところでギブアップdanger なんと、ステージ上で弦交換という珍しい事態となった。
佐藤豊彦によると、これまで舞台の脇で交換したことはあるが、客の目の前でやるのはさすがに初めてだそうだ。
そもそも休憩なしにした理由は、その弦が今にも切れそうだったからとのこと。
また、ド・ヴィゼーの曲では調弦と共にフレットの位置も動かしてこれまたビックリimpact トーシロなんでそんなこともするとは知らなんだ。

調弦が手間取っていたのは、一つに会場の気温が高いためだった。外の廊下の方が断然涼しい。佐藤氏がエアコン強くしてくれといっても、なかなか効かないのであった。

シャコンヌは南米経由のダンス……と聞いていたが、CDの解説を読むと、アラブまたはアフリカからイベリア半島へ→「卑猥」ということでキリスト教によって一掃→大航海時代に南米へ伝わる→ヨーロッパへ優雅な舞曲として逆輸入recycleという複雑な経緯を経ているそうだ。
リュート曲だと踊れるような曲ではなく、低音部で繰り返される「せせらぎ」のような循環になる--とのことで、このようなタイトルになったわけだ。

微かに爪弾く繊細な弦の一音一音が耳に届き、その響きや流れを感じ取ることができた。もはや「優雅」を超えた純粋ならぬ「純水」mistの域であろうか。このような小さな会場にふさわしい演奏だった。

本当はアンコールにするはずがうっかりプログラムに曲名入れてしまったという、ヴァイスのシャコンヌで終了。
最後に、もう歳なんで夜の公演は無理、昼にしたいという佐藤氏の爆弾bomb発言あり。そうすると昼間働く勤め人は聞けなくなっちゃうですよ(@_@)


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2018年6月10日 (日)

「野々下由香里 ソプラノリサイタル」:涙のダブルブッキング

180610
フランス古典を辿る
会場:近江楽堂
2018年5月11日

目に付くと面白そうなコンサートのチケットは即購入することにしている。BCJの定期が出たーと買い、野々下さんの十八番おフランスもののソロ公演があると聞けばまた買い--と、気が付いてみれば二つとも同じ日時じゃあ~りませんかっ(!o!)
トホホsweat02全くドジである。しかも、会場が都内の西と東に遠く分かれていればまだしも、同じビルの同じフロアで隣り合っているのだ。悔しさもひとしお。
よーし、こうなったら二つの会場を行ったり来たりするぞー\(◎o◎)/!

……などとできるわけもなく、BCJはまたいくらでも聞く機会はあるということで、今回は野々下公演を選択したのだった。BCJ公演のランたんやギヨンにも未練は残るがのうdown

サブタイトル通り、16世紀から18世紀のフランス歌曲を歌うプログラム。チェンバロ担当は桒形亜樹子である。
前半は時代順に、まずルネサンス期セルミジのシャンソンから。続いてエール・ド・クールはボエセの作品。さらにイタリアオペラの影響を受けてより劇的なエール・セリユー(←この名称、初めて聞いた)は、ランベールとド・ラ・パールの恋愛歌が歌われた。
そしてF・クープランに至る。

後半はバッハと同時代のカンプラのカンタータ「エベ」。フランスのカンタータは、独唱でレチとアリアに当たるものを3回ずつ繰り返す。かなり長めの曲を力唱した。
最後はド・ラランドの「聖金曜日の第3ルソン」で、他の作曲家も同様の形式を書いていて、「エレミアの哀歌」を歌詞にしている。
曲は優雅で美しいが、詞の内容は民族の苦難を綴る。それを野々下由香里はグイッと力技で歌い切ったのであった。

どの時代のどの形式にも即して、フランス歌曲の優雅さと美しさ、そして力強さを充分に味わえたコンサートだった。頭からシッポまでおフランス趣味(^^♪

チェンバロのソロはクープラン家のルイとフランソワ、それぞれ一曲ずつ演奏された。桒形亜樹子の鍵盤さばきは剃刀の切れ味の如くhairsalonでしたよ。
使用したチェンバロの装飾が美しくて目がくらみそうだった。プログラムには何も書いてないけど、こちらの写真のやつ。金色と暗緑色の対比が美しい。(葉っぱはアカンサス?)

次回はぜひBCJと重ならない日にお願いしまーす(^^)/


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2018年6月 7日 (木)

「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」:ロンドン・アンダーグラウンド 首相はつらいよ

180607
監督:ジョー・ライト
出演:ゲイリー・オールドマン
イギリス2017年

『ダンケルク』は未見だし、英国近現代史にも疎い私σ(^^)なので、アカデミー主演男優賞とメイクアップ&ヘアスタイリング賞のお手並みを拝見しに行きましたよ。

チャーチルの実物はよく知らねど、別人のようにふくれあがったゲイリー・オールドマンが、押しの一手で困難な時期の指導者を熱演する。まさに一見の価値はあり。

党内のパワーバランスで首相になったものの、与党内でも嫌われ者につき議会運営に苦闘する。国王ともうまく行っていない。
しかし一方でナチスドイツの脅威が迫るのであった。和平か抗戦かpunch その揺れる数か月(首相就任からは一カ月間)に的を絞って描く。

ストーリーだけだとオヤジな政治家たちが暗い議事堂や地下の作戦本部でウロウロするのに終始してしまうのを、秘書や奥さんなどの女性からの視線や戦場場面を入れて単調さを防いでいる。
英国の議場って今でもあんな狭苦しいの? あれじゃ日本みたいに居眠りなんかしてたら一発でバレますわな(^○^)

ただ、後半の展開はやや強引過ぎではdashとも感じた。
チャーチルがロンドンの地下鉄に乗って市民の声に直に触れ(このことはフィクションらしい)、それに勇気づけられ声を引用しつつ、抗戦の演説を熱くブチ上げる。大変、威勢よく意気上がる展開であるが、地下鉄で職工風の男がドイツが攻めて来たら「棒を持ってでも戦う」と断言する場面を見て、「そういや昔、竹ヤリで首都決戦bomb」などと言って負けた国があったなあなどと思い出してしまうと、その熱気も冷めるというものだ。
まあ、その後ロンドンも空襲を受けるのだが……。

勝てば官軍、勝てば竹ヤリも美談になるというわけか。
そこら辺りは深く考えずに、重厚味あふれるセットや照明、撮影、役者の演技を楽しむべき作品かも知れない。

公開後、インドの評論家(?)が「チャーチルはこんなエエ奴じゃないわい」と批判した話が伝わってきた。それに対して「2時間の映画にテーマと直接関係ない部分まで入れられる訳がない」という反論があった。
しかし、歴史とは過去のものではなく現在の視点に他ならず、実話に基づいた歴史映画の二時間の中に何を取捨選択するかという事自体が、既に「政治」の表出に他ならない。

ということで、インド側からは是非、極悪支配者チャーチルに一矢報いる『バーフバリ』風活劇を作っていただきたい。

ところで、終盤、チャーチルの奥さんが軍服着て写真を撮る時に憂鬱そうな顔だったのは何故? その後何もなくて終わっちゃったんだけど(?_?)


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2018年6月 4日 (月)

「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」:ハーストーリー 男たちと悪だくみ

180604
監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演:メリル・ストリープ
米国2017年

事前の予告や宣伝だと、政府対新聞の衝突impactを描いた社会派映画という印象だったが、実際見たらそうではなかった。
むしろ突然重責を負わされた女性の戸惑いと葛藤がメインであった。

メリル・ストリープ扮するキャサリン・グラハムはワシントン・ポストの社主だが、元々はダンナが亡くなったために仕方なく引き継いだという経緯がある。1971年当時はメディアでそのような地位に着いた女性は皆無だったとのことだ。
経営に不安ある中、銀行が出資するかどうかという時に、ベトナム戦争について政府の不正を暴く文書を入手。編集サイドでは当然掲載したいが、そうなると法廷沙汰は避けられず、銀行は手を引くのが予想される。
彼女は役員会と編集側の板挟みになる。

セレブな私生活の中でもまだ男女の障壁が存在する時代であるのがさりげなく描かれ、ましてや公の場では……という時代、本来はエエとこの奥さまであったグラハムが断固とした決断下す経緯を描いていく。
裁判所を出た彼女を階段で若い女性たちが支持の眼差しで迎える場面に、監督の訴えたいことは端的に表れていると言えよう。
いやー、こんなに女性にエールを送っている映画とは予期しませんでしたよ(^.^)b

メリル・ストリープはもはやアカデミー主演女優賞に毎年特設枠を設けてもいいくらいである。トム・ハンクスも安定の演技だが役柄的にはやや助演寄りだった。

ひょいひょいと動き人物の関係と心理を表わすカメラワーク、家々に飾られた花々が微妙にその場の状況を示唆する、勇気を鼓舞して躍動する輪転機--など、もはやスピルバーグの演出は職人芸とも言うべき見事さである。これがトランプ出現後の米国に危機感を持って、短時間で撮られたとはとても信じられない完成度だ。

ラストは、続いて起こったウォーターゲート事件を描く『大統領の陰謀』へと完全に重なるのであった。
見ていて、現在の日本と重なる部分多々あり。とても他人ごとではないtyphoon しかし、今の日本のメディアには期待できないのであった(+_+)

とはいえ、スピルバーグの天才は疑うところはないけど、やっぱり『大統領の陰謀』の方が面白いよなあ、などと思ってしまうのもまた事実なのであるよ。


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2018年6月 3日 (日)

「ヴィットリオ・ギエルミ ヴィオラ・ダ・ガンバ・リサイタル」

180603
会場:近江楽堂
2018年5月12日

ギエルミ・アンサンブル公演の後にロレンツォとヴィットリオ兄弟はそれぞれソロ公演を行なった。兄のソロは過去に聞いたので、弟の方のガンバを聞いてきましたよ。
会場は定員100名の近江楽堂。いくらなんでももっと大きな所でもよかったろうに--と思うが、日程の都合とか色々あったのかな?
もちろん満員御礼full

様々な作曲家のガンバ独奏曲を取り上げたこの公演、時代順というわけでもなく、冒頭はマレの作品7曲で始まった。
続いて時代を遡り英国に飛んでトバイアス・ヒューム、かと思えばフォルクレ。合間にギエルミ自作を挟んだのはご愛嬌か。「バグパイプ」というタイトル通りにかなり騒がしい曲だった。

数年前に発見されたばかりのテレマンのファンタジアは、かなり難しそう。ちょっとバッハっぽいかなー(^^?) で、続いてそのバッハ作品、無伴奏チェロ曲から。
そして、ガンバの最期を飾ったアーベルでやはり終了となった。アーベルってこうして聞くとかなりぶっ飛んでる印象ですなあ。ここまで爛熟したかという感じ。

ヴィットリオの演奏は穏当なところなしdanger 極端でアクセントが強い。キョーレツなものであった。しかも休憩なし公演で1時間20分ぐらい(多分)弾きっ放しではないですか(!o!) エネルギッシュで圧倒された。

なお、あのサスペンダー氏を目撃。メジャーな公演ではよくお見かけするが、近江楽堂みたいな小さな所では初めてである。しかも、やはり最前列に座っていたsign03(自由席先着順) 演奏者の真ん前で(距離約1メートル半)ひっきりなしにアメを剥いて食べていたのであったよ……。

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