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2018年8月

2018年8月29日 (水)

「甘き歌声、天使の響き」:曲より長い解説禁止!

180829
演奏:中原智子ほか
会場:近江楽堂
2018年8月3日

サブタイトルは「ソプラノ、リコーダーと通奏低音によるバロックアンサンブル」となっていて、楽器の方の編成はリコーダー二本(D・ブラジェッティ、田中せい子)、チェロ(懸田貴嗣)、チェンバロ(松岡友子)である。

ブクステフーデの宗教歌曲に始まり、取り上げた曲は独仏伊の作曲家のもの。他にボノンチーノ、バッハ、ラモーなど。ボノンチーノのカンタータのアリアはリコーダーが鳥の声のようで流麗さにウットリ
ソプラノ担当の中原智子の歌はどちらかというと清楚な印象で、各国の曲を歌いわけてましたな。

バッハはリコーダー2本あるならこれでしょう(^^)bという定番「狩りのカンタータ」から。
器楽曲では、コレッリの合奏協奏曲をリコーダー2本用のトリオソナタへとシックハルトが編曲したものや、リコーダー2本だけのテレマンのソナタを演奏した。

各曲の合間に交代に演奏者が解説を入れるのだが、おかしかったのはチェロの懸田氏によるA・スカルラッティのソナタの話)^o^( 「短い曲なので、解説していると曲よりも長くなってしまう」などと言いつつ、それでも喋っちゃうという……

アンコールはブクステフーデのカンタータだった。
開演前に入口のあたりで小さい子を遊ばせている若いお母さんがいたなあと思ってたら、始まるとその人がドレスに着替えてチェンバロの前に座ってたんで驚いた。子育て中の演奏会、お疲れ様ですm(__)m

あと一つ謎だったのは、ブラジェッティ氏が日本語で挨拶したり解説しようとしたら笑い声が起こって、結局彼は日本語で話すの止めちゃったこと。なんで笑うの?
確かに流暢な日本語ではなかったけど、ワハハと笑ういわれはないだろう。海外の演奏会で日本人が同じような目にあったらどう思うかね。


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2018年8月27日 (月)

「白暮のクロニクル」1~11巻

180827
著者:ゆうきまさみ
小学館(ビッグ コミックス)2014~17年

歴史の陰で連綿と生きてきた謎の種属がいた--というのはSFやファンタジーではさほど珍しい設定ではない。ましてや、それが吸血鬼に似ているとなれば、である。

オキナガ(息長)とは不老不死、太陽光に弱く、主に生肉を食し、ごくたま~に吸血することもあるが、彼らが仲間を増やすのはむしろ自らの血を相手に与える行為によるのだ。日本に10万人程度在住、長いものでは千年以上生きている者もいるという。
彼らはその存在を古くから知られ、現在の日本では登録されて厚労省の管理下にあるのだった。

で、オキナガを管轄する部署に配属された新人公務員伏木あかりは、一見18歳の若者、実年齢は88歳の魁と共に、オキナガ周辺に起こる怪事件の解明に関わることになる。

各巻ほぼ一つの事件が起こり、それが解決される過程には謎解きミステリーの面白さがある。しかも、巻が進むにつれて主軸となる連続殺人事件が浮かび上がってくるという、凝った構成である。
さらに、ハラドキ感満載のサスペンス展開に続き、最終巻まで読み進んだ時にはアッと驚く意外な真相にたどり着く。これは、ほとんどの読者に予想が付かないのは間違いないだろう。

また、この手の物語だと謎の種族の設定の説明だけでページを費やし、特殊な設定がさらに別の設定を呼ぶみたいな事態になることが多いが、そういう混乱もない。

加えて、時々に現われる回想場面に伴って日本の歴史の実相が見え隠れする。応仁の乱、キリシタン弾圧、太平洋戦争の沖縄戦……そして、主人公の魁が受ける人体実験は731部隊を想起させるのだ。
彼が追う連続殺人で冤罪により死刑になったエピソードも、実際の同じような事件がモデルだろう。

また、終盤には戦争直後の浮浪児となった戦争孤児たちが登場する。ちょうど最終巻を読んだ同時期に、新聞記事で「狩り込み」という行政による浮浪児の強制収容が行なわれたという話が載っていた。上野駅で捕まえた子どもたちをトラックに乗せて、なんとそのまま山奥に捨ててきたというのだ! 野良犬猫扱い 恐ろしい事である。
一方で、作者は真珠湾攻撃のニュースを聞いて喜ぶ市民(主人公を含む)の姿も忌憚なく描くのも忘れていない。
そこに存在するのは陽光の下にはさらせない歴史の暗黒面だ。

死にかけた人間に血を与えることによってのみ仲間が増えるというオキナガとは、すなわち日本の歴史の血にまみれた暴力による暗部と共に連綿と生きてきた、それを象徴する存在である。陽の当たる表には出られないのも当然と言えるだろう。
それを考えると千六百年も「宮仕え」してきたという、あかりの上司・竹之内の人物造形も興味深い。

こう書くといかにも重苦しいシリアスな作品だと思えるが、全体のタッチはあくまでもユーモラスなのだから恐れ入る。エンタテインメント性も完璧だ。
特に笑っちゃったのは、3巻に登場するオキナガの画家。狩野派から始まって浮世絵、西洋画と三百年間もその時々の「先端」を描いてきた--ってスゴイことではないの。
逆にシンミリしたのは、母親がオキナガになっちゃって娘だけがどんどん歳を取ってしまったエピソード。娘の方は今にも倒れそうな老人なのに、母はいつまでも若いままなのである。

とにかく、これは超力技作品と太鼓判をドンと押したい。
願わくば、復帰したあかり&魁の凸凹コンビによる怪事件捜査ものというスピンオフを描いてもらえんかなあ。新作始まっちゃったから無理だろうけど(ーー;)


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2018年8月25日 (土)

「彼女が泣いているのを見た、そして 愛は朽ちていった。」:女王陛下のイタリア

180825
アルプスを越えた音楽 イギリスとイタリアに昇華するルネサンスのハーモニー
演奏:高橋美千子ほか
会場:日本福音ルーテル教会
2018年7月27日

テーマはルネサンス期英国におけるイタリア音楽の受容、ということでいいのかな。
英国で流行ったイタリアの曲や、フェラボスコのように作曲家自身が渡英して活動していた、また、イタリアの影響を受けた英国人の曲などが演奏された。
声楽曲は高橋美千子担当、合間に挟まれる器楽曲が品川聖など4人によるガンバ合奏である。

アッツァイオロとかヴェッキとか初めて聞くイタリア人作曲家や、トマス・ルポ(イタリア系英国人)、コプラリオ(イタリア人ではないのにそれ風の名前を自称)なんてのもあって、全16曲色とりどりに様々だった。しかし、結局はイギリス風メランコリーに吸収されていくのである。

そのような観点を元に、高橋美千子は従来の英国風でもなく独自の融合された世界を歌って作り上げていた。
プログラムの歌詞の古めかしい文語調の訳も、なんとなくそれ風の雰囲気を盛り上げていてよかった。
公演のタイトルが長過ぎなんで、チラシを見た時宣伝コピーかと思っちゃったのはヒミツである。

会場の教会は近江楽堂ほどではないが、夏はエアコンの冷風が直撃するんでマイッタですよ(@_@;)
しかし、新大久保はまたいろんな店がやたらと増えて人出もすごいねえ。一時期、人が減ったんだけど(ヘイト騒動の頃?)、以前より盛り返したようだ。

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2018年8月23日 (木)

「マルクス・エンゲルス」:ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス 萌える革命

180823 監督:ラウル・ペック
出演:アウグスト・ディール、シュテファン・コナルスケ
フランス・ドイツ・ベルギー2017年

マルクス生誕200年ですよ。原題は「若きマルクス」で邦題は「マルクス・エンゲルス」。当然『マルクス=エンゲルス全集』があるんで、こういうタイトルになったんだろう。しかし、これだとフ女子ならずとも「で、どっちが攻めでどっちが受けなんですか~(^^?)」と質問したくなるのは仕方あるまい。

実際、見てみるとそういう内容……ではもちろんない
19世紀中ば、若いマルクスはドイツで政治活動のため検挙→パリで出版事業、エンゲルスと意気投合→退去命令を食らってベルギーへ→食い詰めて英国にも出没する。
貴族出身の奥さんを伴い(駆け落ち?)子どもも生まれるが、常に生活不安定。

エンゲルスは金持ちのブルジョワの子弟で、英国では工場の運営を任される一方で、階級搾取問題に目を向ける。
私生活はぶっ飛んでいたもようで、伝統的男女関係なんかは無視である。さりげなくマルクスの金銭的援助もしたりする。

二人とも若いんで思想的師匠や政治活動の先輩にケンカ売ったり、豹変したり、暴走気味だ。そんな彼らが欧州を行きつ戻りつしながら、政治結社「正義者同盟」の内部抗争に打ち勝ち「共産党宣言」へと至るまでを描く。ヤッタネと喜びに燃えたくなる。

ただ、ヤクザの抗争とは違ってそれほど起伏ある物語とはならないため、なんとかメリハリをつけようと苦労している様子がうかがえた。最初の方のベッドシーンはなくてもいいんじゃないの?という意見に、私も賛成である。
マルクスの奥さん(ヴィッキー・クリープス好演)は同志的存在で、討論などに加わって堂々と意見を述べている(エンゲルスのパートナーのバーンズも同様)のは、そうだったのか!と驚いた。女はすっこんでろい<`~´>とか言われないのね。
ハリウッド映画ではないので、作中で使われている言語はそのまま独・仏・英三か国語が入り乱れる。ま、日本ではそのまま全部字幕だからあまり齟齬を感じないが

エンディングは突如ボブ・ディランが流れて、歴史物から急に現代へと直結するのが新鮮だった。
監督のラウル・ペックは日本で同時にドキュメンタリーの「私はあなたのニグロではない」も公開されるという珍しい事態。私は、ディランが最後に流れたのを取り違えて書いてしまった。こちらの方でしたな(^^ゞ
作った作品数は少ないが、今後も注目の人だろう。
岩波ホールは珍しく(!o!)若い人もかなり来ていて混んでいた。

エンゲルス役のシュテファン・コナルスケは青い瞳が大きくキラキラしていて、何やら熱に浮かされたように人を引き込む魅力がある。マルクスが意気投合して思わず額にキスしてしまうのもむべなるかな、という感じだ。実物のエンゲルスもこんなだったのだろうか。
というわけで、やっぱり「どっちが攻めでどっちが受けなんですか~(>O<)」と聞きたくなってしまうのであるよ。

 

 

 

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2018年8月21日 (火)

「フェードルとイポリト」:しばしの別れ

180821
”フレンチ・カンタータの時代”の音楽 3
演奏:横町あゆみほか
会場:近江楽堂
2018年7月25日

休憩なしの1時間コンサート、昼夜2回公演で昼の方に行った。
このシリーズは、ルイ14世の死後イタリア様式が入ってきて影響を与えた形の一つであるフレンチ・カンタータを演奏するものだとのこと。

まずはクープランとルクレールの器楽(4人)で導入編。
クープランの「夜鳴き鳥」は結構知られている曲だが、「シテール島のカリヨン」というのは、チェンバロ独奏でまさにカリヨンを真似た音を出していて面白かった。
ルクレールは佐藤駿太&根本卓也によるヴァイオリン・ソナタ4-11だった。後で解説読み返したら、「第2楽章のコレンテはあまりに強烈で変態的な性格のため」省略したとあって、思わずたじろいだ。ルクレール……お前は何者(@∀@)

いよいよメインのカンタータはトマ=ルイ・ブルジョワ(←初めて聞いた人かも)の「フェードルとイポリト」である。ラシーヌの戯曲『フェードル』の後半部分を楽曲化したもので、プレリュードに続きレチとアリア3曲ずつで構成されている。歌手は横町あゆみだった。

普段の近江楽堂のセッティングと違って、客席は壁に沿って円を描くように並べられ、歌手がドーム型の天井の真下に来て歌っていた。これだと声がよく響くのはいいけど、響き過ぎのきらいがあったようだ。難しいね
内容はギリシャ神話に登場する悲恋と詩の物語である。とはいえ、あくまでも優雅にして甘美。この抑制された感情表出がフレンチ・カンタータの醍醐味と言えるかもしれない。
アンコールは同じ題材の、ラモーの「イポリトとアリシー」より。

なお、ヴァイオリンの佐藤駿太は、秋からフランスはヴェルサイユ地方音楽院へ留学するとのことである。やはり若い優秀な人たちはみんな行っちゃうのね。
頑張ってくだせえ(^^)/~~~


余談だが、私がラシーヌの『フェードル』って存在を初めて知ったのは、森川久美のマンガ『シメール』だった。それまではラシーヌのラの字も聞いたことなかった。
パリのサロンで「マルセイユで田舎芝居やってた」などと陰口を叩かれた役者の主人公が、『フェードル』を完璧に暗唱してみせて周囲を黙らせるのである。

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2018年8月18日 (土)

「ウインド・リバー」:スノー・アンド・デッド 闇に向かって撃て!

180818 監督:テイラー・シェリダン
出演:ジェレミー・レナー、エリザベス・オルセン
米国2017年

半年前ぐらいだろうか、米国映画情報番組で興収ランキングに入っていて紹介されてて、是非見たいと思ったのがこの映画である。
その後日本で音沙汰なくて、果たして公開されるのか危ぶんでいたのだが、ようやくロードショーの運びとなった。
メデタイヽ(^o^)丿

で、実際見た感想はというと……うーむ、正直期待し過ぎたのかなあ(+_+)というもんだった。

米国はワイオミング、先住民の居住地で若い娘の死体が発見される。雪の中、極寒なのに裸足で手袋もなし。近くに住居はなく、レイプの痕跡あり……。
FBIの女性捜査官が派遣されてきて、死体発見者のハンターに協力を依頼する。なにせ、広大な地域なのに地元の警察は6人しかいないのだ。

雪の広野の中に横たわる死体--極めて興味を引く発端で期待も高鳴るというものだ。
しかし、この捜査の中心となる二人ともが白人というのは何とかならんかったのだろうか? どちらかが先住民かまたはその血を引いているぐらいの設定にしないと、物語の趣旨に合わない。
しかも、エリザベス・オルセン扮するFBIは、その人物のバックグラウンドがほとんど描かれず(「フロリダ出身」というぐらい)、「若い/女性/事情を知らない/捜査官」という記号的な存在以上のものではないのである。
いくらオルセンが涙を流して熱演しても、これはいかんともしがたい。

それから、石油掘削地って企業の私有地扱いなのか? 武装した警官何人も連れて行かねばならないということは治外法権みたいになってるのか? ほとんど説明がないのでよく分からない。(そこで、騒動が起こりそうになった時に、警官の一人がFBIに「見なかったんだな!」と詰め寄るのもなんの事か分からなかった。私がどこか見逃したかしらん)

西部劇っぽいという意見を幾つか見かけたが、私もそう思う。往年の西部劇に倣うなら主人公二人が白人なのも納得だろう。
一方、西部劇ならキモと言えるはずの撃ち合いの場面は、何が何やらよく分からずあっという間に終了。ライフルの場面は迫力あったけど。
西部劇をなぞるならそういう所もキチンとやって欲しい。

ところが、事件の解明部分はほとんど唐突に捜査側とは全く無関係に挿入されたように描かれる。この部分はその後の顛末を考えると誰も知りえない状況である。
そんな知りえない描写を事細かに描いたという目的は、ただ一つ、ラストでの主人公の行為を正当化するためであろう。
そういや、唐突に事件の真相が明らかにされてしまうというのは『ビューティフル・デイ』でも、同様だったのを思い出した。
順を追って事態を徐々に明らかにさせていくという手順を描くのが、面倒くさいのか。
監督は脚本家として名を上げてきた人らしいけど、かなり問題である。

あと、見てて気になったんだけど、娘が雪原に倒れてて、その足跡を逆にたどって犯行現場を見つけるのは、吹雪が頻繁に起こるがら無理というのは分かる。しかし、それだったらスノーバイクとか雪上車の痕跡も消えちゃうと思うんだけど……。事件から何日も経ってるよね(?_?)

かように細かいことが気になってしまった。世評では高評価の作品なんだけどねえ。
最近、こんなんばっかである(+o+)トホホ 

加えて、映画館でラストのいちばんいい所で、高齢のオヤジが3回もスマホの呼出音鳴らして、集中力が削がれてしまった。最悪だ_| ̄|○
鳴ったら即切って欲しい(というか、最初からバイブか電源オフにしてくれ)。相手の名前確認してんじゃねーよ

なお、先住民の女性が殺されて発見、という事件は頻繁に起こっているらしい。この映画見た後にも5人の子の母親が殺されたというニュースが流れた。米国の暗黒面だろう、コワ過ぎだ。

 

 

 

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2018年8月16日 (木)

「介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析」

180816
著者:平山亮
勁草書房2017年

数か月間途中で放り出しておいたのをようやく読了した。
親を介護する男性の経験を通して「息子としての男性」、ひいては「男性性」そのものを考察する。さらには一時期盛んに取り上げられた「男性の生きづらさ」も批判するものである。

介護に限らず「ケア労働」(女性が多く担う)に必要な「感覚的活動」とは何か。「食事を作る」という行為にしても、冷蔵庫に残る食材や使い残しの量を勘案し購入するところから始めなければならない。さらに家族の好き嫌い、どの時間に出すか--など「状態や状況を感知すること、それを踏まえて必要な者や人々の関係について思考」しなければならず、ただ料理することだけではないのだ。
夫が妻の家事手伝いをしようとしたが感謝されない、というような事案はこの「感覚的活動」を意識していないからだろう。それは不可視なもので認識されていないのだ。

実際には、男性性は家庭という私的領域ではこのような不可視の関係調整作業を女性にゆだねて依存しており、決して自立・自律してはいない。そして、著者は公的領域だけにおいて理想化され、依存のない男性像を「自立と自律のフィクション」と呼ぶ。
このような性別分業の元では妻は夫の稼得に頼る。そして妻の生殺与奪は夫が握ることとなる。

ここで注目すべきは「だからこそ、妻自身の就労機会や稼得能力は(中略)何よりも「生の基盤」として必要なのである。そして就労機会や稼得能力が構造的に制限されることは、個人としての生存そのものを困難にさせられること」という件りである。
まさにこれこそ、つい先日発覚した東京医大の入試で行われた不正ではないか!生存そのものの困難!「女はすぐ辞めるからなー、仕方ない」どころではない。

もちろんこれは一般論であり、当てはまらない男女は様々に存在するのは当然である。

かように色々と示唆に富む内容であった。(読むのに時間かかっちゃったけど) 興味のある方はご一読ください。

関連して、こちらのツイートでもハッ(゜o゜)と思った。「女性は誰かを愛するのがノルマ」というのは、まさに女性が行なうケア労働の中に「愛すること」が入っているのではないか。だから「男」として愛することを当然のこととして請求するのである。
そういや、確か多木浩二が書いていたな。「愛とは家庭内だけで流通する通貨である」

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2018年8月12日 (日)

「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」:プロミスト・ランド おかあさんといっしょ

監督:ショーン・ベイカー
出演:ウィレム・デフォー
米国2017年

フロリダのディズニーランドのすぐそばに安モーテルあり。外壁はディズニー風味でキラキラした色に塗られているが、住民の実態は支援団体の食料無料配布車が回ってくるほどに貧しい。観光客を乗せた航空機がひっきりなしに行き交い、その落差が甚だしい。
日本だとモーテルは一時的な宿泊と思うが、かの国では常泊している人が多いそうなのだ。

そんな中に若い母親と娘がいる。母親の方は定職を持たず、その日暮らし。娘は小学校低学年だが、折しも夏休み、ご近所の悪ガキどもと一緒にやりたい放題に遊びまくる。
彼らを見守るのがW・デフォー扮する管理人だ。きちんと規則を守らせ、文句をつける時はちゃんと言うが、一方で施設の保守点検に修理をし、さらには子どもたちの安全にも目を光らせる。

--と、書けば連想するのがケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』である。
若いシングルマザーと保護的立場の中年男性という組み合わせは似ているし、特に母親がやる行動はほとんど同じと言ってよい。
ただ、ローチ作品の方は意図的に母親を真面目な人物で好感度高く描いているが、こちらの母親は正反対。無軌道で粗暴でプッツンしてしまう。若くて学歴も金も職もなく、やる気も持久力も持てないまま、貧困から抜け出せない。
幼い娘を愛してはいるが、母親もまだガキっぽさから脱していないのだった。

このような状況が、子どもたちと母親が遊び&暴れまくるシーンが続く中で、徐々に浮かび上がってくる。
正直なところ、この一連の「遊び」の場面は退屈だった。演じている子どもたちをそのまま遊ばせて撮ったっぽくて、メリハリなくただ長い(ーー;)
もちろん、この映画は好評で見た人の多くは面白かったんだろうけど、私個人からすればこれに付き合うのは退屈で疲れるという印象だった。

でも私は、珍しくアカデミー賞の助演男優賞に選ばれたW・デフォーを目当てに見に行ったのだよ。
いやー、彼の演技は素晴らしかったですよ\(◎o◎)/!
安モーテルでも完全に断固として管理しようと心を砕き、子どもたちには厳しくしながらもちゃんと見守る。しかし、一方でモーテルのオーナーには頭が上がらずヘコヘコとしてしまい、落ちてるゴミをコソコソと拾い集めるという正反対の態度を、矛盾なく演じていた。彼に助演男優賞取って欲しかったぜい。(あくまでも私見)

この映画の作り手は当然分かって描いているはずだが、いかに母親が娘を愛していようが彼女がやっていることは虐待と見なされるなるだろう。(だから、管理人は終盤で肩の荷を下ろしたように一服しようとする)

そんな、娘と母親の夢の世界は今や崩れた。そして……向かったのはファンタジーの国だった。このラストにはさすがに驚いた。
もうそこにしか彼女の行く場所はないのである。

 

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2018年8月 8日 (水)

ヘンデル オペラ「アリオダンテ」:夏休み宿題・原稿用紙5枚で感想文を書け

180808
主催:日本ヘンデル協会
音楽監督・演出:原雅巳
会場:東京文化会館小ホール
2018年7月21日

ほぼ毎年見ている日本ヘンデル協会のオペラ(前回はこちら)、今年は「アリオダンテ」でヘンデルが個人でオペラ興行を始めた第1作だという。
となれば当然リキが入った作品--ということで、成功をおさめたそうな。

前回同様、大西律子をコンマスとするオーケストラ陣は舞台の右側に配置、管楽器はその時によって出たり入ったりしていた。
歌手は上演当時のようなジェスチャー付きで歌う方式である。

スコットランドの王女ジネーヴラは父王公認で騎士アリオダンテとラヴラヴ婚約して、幸せいっぱいという第1幕だったのに、第2幕から3幕途中にかけて運命急転直下
アリオダンテはまさかの死亡(!o!) 王女は不貞の疑いをかけられて逮捕、暗雲漂う中、決闘騒動へ。--と、激動の展開であった。

王女役の佐竹由美は以前、バッハのカンタータで聞いたことあるが、キャラクター的にはヘンデルのヒロイン向きかどうかやや疑問。別の作曲家(パーセルとか?)で聞いてみたいと思った。
また、タイトルロールのメゾソプラノ中村裕美は歌唱の方は頑張っていたが、男役としてはどうよな印象だった。
あと、歌い始めの出だしを数回間違えた人もいたりして……。
バロック・ダンスが入ったのは楽しかった。

一番目立ったのは、やはり敵役のCT上村清仁。堂々たる悪役振り発揮の歌唱で、もはや貫禄付いてましたよ(^o^)b カーテンコールでは拍手喝采

音楽監督の原雅巳は一応指揮をしていたが、細かい所は各奏者に任せていたっぽい。レチとアリアの間隔が微妙に間延びしていて、あまりいただけなかった。間髪入れずにアリアへ移行--という所で興が乗る面もあるので。

ステージで歌手が歌い始めているのに、遅れてきた客を入場させることが数回あった。他のタイミングなら、調弦直している時など合間があったのに、全く関係ないタイミングで入れるのである。
他会場のオペラでもそういうツイートを見たことがあるので、遅れてきて入れないと暴れる人がいるのだろうかなどと思ってしまった。

あと謎だったのは制服姿の男子中学生がやたらといたこと。なんで(^^?) もしかして、夏休みの感想文提出課題かしらん

もう一つ、このシリーズは毎回自由席で、早い人は1時間ぐらい前から並んでいるようなのだ。ほぼ満員に近いのだから、指定席制にしてほしい。色々、システムや費用の関係などあるかもしれないが。席を取った取らないで揉めてた人もいたしね。

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2018年8月 1日 (水)

J・S・バッハ「ゴルトベルク変奏曲 (弦楽四重奏版)」:名作を4で割っても名作だ

演奏:原田陽ほか
会場:近江楽堂
2018年7月17日

バッハの鍵盤曲を合奏曲に編曲して演奏するのは珍しいことではない。例えば、オルガン曲の「トリオソナタ」とか--。この「ゴルトベルク」も、フレットワークによるガンバ・コンソート版のCDを持っている。
解説文によると、ブラスアンサンブル版もあるとか。

原田陽が編曲したこの四重奏版は、ヴァイオリン2人(もう一人は上野美香)、ヴィオラ(島田玲)、チェロ(高橋麻理子)という編成である。
各曲ごとに4人全員でやるものもあれば、2人だけというのもある。

楽器同士の組合せや受け渡しも面白く、バッハ先生の対位法が生き生きと表現されていたと思う。原田氏の編曲の手腕に負う所も大きいだろう。
弦の響きも心地よかった。


なお、ヴィオラの島田女史より最後に、西日本豪雨で水没した児童施設への支援の呼びかけがあった。そしたら、会場出口の募金箱には札がドーンと投じられていて(諭吉でなくて英世の方だと思いますが(^^;)正直ビックリした。この会場に来ている方々の生活レベルが何となくうかがえましたよ、ハイ。

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