「介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析」
数か月間途中で放り出しておいたのをようやく読了した。
親を介護する男性の経験を通して「息子としての男性」、ひいては「男性性」そのものを考察する。さらには一時期盛んに取り上げられた「男性の生きづらさ」も批判するものである。
介護に限らず「ケア労働」(女性が多く担う)に必要な「感覚的活動」とは何か。「食事を作る」という行為にしても、冷蔵庫に残る食材や使い残しの量を勘案し購入するところから始めなければならない。さらに家族の好き嫌い、どの時間に出すか--など「状態や状況を感知すること、それを踏まえて必要な者や人々の関係について思考」しなければならず、ただ料理することだけではないのだ。
夫が妻の家事手伝いをしようとしたが感謝されない、というような事案はこの「感覚的活動」を意識していないからだろう。それは不可視なもので認識されていないのだ。
実際には、男性性は家庭という私的領域ではこのような不可視の関係調整作業を女性にゆだねて依存しており、決して自立・自律してはいない。そして、著者は公的領域だけにおいて理想化され、依存のない男性像を「自立と自律のフィクション」と呼ぶ。
このような性別分業の元では妻は夫の稼得に頼る。そして妻の生殺与奪は夫が握ることとなる。
ここで注目すべきは「だからこそ、妻自身の就労機会や稼得能力は(中略)何よりも「生の基盤」として必要なのである。そして就労機会や稼得能力が構造的に制限されることは、個人としての生存そのものを困難にさせられること」という件りである。
まさにこれこそ、つい先日発覚した東京医大の入試で行われた不正ではないか!生存そのものの困難!「女はすぐ辞めるからなー、仕方ない」どころではない。
もちろんこれは一般論であり、当てはまらない男女は様々に存在するのは当然である。
かように色々と示唆に富む内容であった。(読むのに時間かかっちゃったけど) 興味のある方はご一読ください。
関連して、こちらのツイートでもハッ(゜o゜)と思った。「女性は誰かを愛するのがノルマ」というのは、まさに女性が行なうケア労働の中に「愛すること」が入っているのではないか。だから「男」として愛することを当然のこととして請求するのである。
そういや、確か多木浩二が書いていたな。「愛とは家庭内だけで流通する通貨である」
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