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2018年10月

2018年10月30日 (火)

聞かねばならない時もある マイナー・コンサート 11月版

さすがに陽が落ちるのが早くなってきました。

*2日(金)小池耕平リコーダーリサイタル ヴィヴァルディとその周辺:近江楽堂
*3日(土)静かな音楽会(大塚直哉):ウェスタ川越
*  〃  エクス・ノーヴォ室内合唱団演奏会10 HBS333記念:JTアートホールアフィニス
*4日(日)バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲(佐藤俊介):所沢市民文化センター ♪15日に浜離宮朝日ホール公演あり
*  〃  カペラ・デ・ラ・トーレ:武蔵野市民文化会館小ホール
*13日(火)スペイン再発見(ファミ・アルカイ&アカデミア・デル・ピアチェーレ):王子ホール
*  〃   響きの森 ブクステフーデ ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ(戸田薫ほか):旧古河庭園・洋館
*15日(木)VOX POETICA 詩的な声(佐藤裕希恵ほか):ハクジュホール
*  〃   文化財と古楽コンサート 中世スペインの聖母の歌(ジョングルール・ボン・ミュジシャン):カトリック神田教会
*16日(金)巡礼宿アルベルゲ 中世の巡礼者たちが語る聖母マリアの奇跡の物語(女声アンサンブル・コルニクス):北とぴあつつじホール
*17日(土)秋の都電荒川線ライブ(ジョングルール・ボン・ミュジシャン):都電荒川線三ノ輪橋~大塚駅前
*22日(木)フランコ・ファジョーリ&ヴェニス・バロック・オーケストラ:東京オペラシティコンサートホール
*  〃   フォリアとカナリオ(ジョルディ・サヴァール&エスペリオンXXI):浜離宮朝日ホール ♪三鷹公演あり
*23日(金)バッハ クリスマス・オラトリオ(バッハ・コレギアム・ジャパン):東京オペラシティコンサートホール ♪24日に彩の国さいたま芸術劇場公演あり
*23日(金)・25日(日)モンテヴェルディ ウリッセの帰還(寺神戸亮&ボレアード):北とぴあさくらホール
*29日(木)コレッリ礼讃!!(国枝俊太郎ほか):近江楽堂

ジョングルール・ボン・ミュジシャンはなんと4連チャンだそうです。大忙し
これ以外にはサイドバーの「古楽系コンサート情報」をご覧ください(^^)/

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「沖縄スパイ戦史」:ホラーか現実か

181030 監督:三上智恵、大矢英代
日本2018年

離島の村に学校の先生がやって来た。若い男性でカッコ良くて優しく人気者となった。ある日突然、隠し持っていた軍刀を抜くまでは……。
これ、怖くないですか(>O<;) ホラー映画のネタになりそう。

戦争中の波照間島、若い男は皆戦争に行ってるから、いるのは年寄りと女子どもばかり。彼の命令通りに島を出ていくしかなかった。移住先はマラリアが蔓延する島で、多くの人がバタバタと亡くなっていったのだった。
その男の正体は陸軍中野学校(当時スパイを養成していた)の工作員だったのである

一方、沖縄本島では中野学校から正式に若い将校が派遣され、ミドルティーンの少年たちを集めてゲリラ戦やスパイ戦の訓練をした。米軍が上陸して来た時に狙撃したり、わざと投降して潜入し、食料庫や弾薬庫を爆破したという。
その少年兵の部隊を作ったのは降伏の一年前。そんな時から、上陸してくる米軍へのゲリラ戦を予測していた作戦を練ったのかのかというのにまた驚く。

さらに別の地域では、山に隠れた敗残兵が米軍のスパイと思われる人物のリストを作成して殺していく。地元の有力者や教師が「国士隊」を作り協力。かくして住民同士で監視・密告・殺害が起こる。
しかし、このような事実は最近まで協力者が生き残っていたので明らかに出来なかったという。

以上のように3本のTVドキュメンタリーをつなげたような作りになっているが、全て事実というインパクトは十分すぎるほどである。こんな恐怖映画のような話を取材できた二人の監督には感心する。(やはりTV界の人らしいが)

これらの作戦は沖縄の後の「本土決戦」に向けての予行実践であった。決して住民を救うためのものではない。いざとなれば使い捨てだ。映画は、そこから現在の沖縄での自衛隊基地配備への是非へと繋がっていくのであった。
映画のタイトルはもうちょっとなんとかしてほしかった。内容に合っていないし、見る気が減退しそう

 

 

 

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2018年10月26日 (金)

「クピドのまなざし」:教会に音の旋風

181026
モンテヴェルディの系譜をたどって
演奏:村田淳子ほか
会場:日本福音ルーテル東京教会
2018年10月17日

ソプラノ歌手の村田淳子という人、スイス在住だそうである。名前を聞いたことがなかったが、杉田せつ子ヴァイオリン、北谷直樹チェンバロ、高本一郎リュートという顔ぶれにも引かれて行ってみた。

サブタイトルに「モンテヴェルディの系譜」とある通り冒頭に彼の歌曲が4曲歌われ、その後は後輩筋にあたる作曲家の作品を中心に展開した。

村田氏は強力かつ劇的な歌唱で聴衆を引き付けた。この勢いだとヘンデルあたりまで軽々と歌ってしまいそうである。おまけにドレスの裾で最初気付かなかったが、裸足だった
共演の北谷・杉田のご両人のパワーある演奏に、普通の歌手だと負けてしまいそうだが全く押しの強さで引けを取らず、会場圧倒したのであった。
そんな中で高本氏のリュート独奏曲は、さわやかさにホッと一息つけた。

作曲家はカヴァッリ、チェスティなどは知っているが、フェッラーリ、デッラ・チャイアの二人は名前も初めて聞いた。後者は本業の音楽家ではなく航海士で、船上で暇な時間に作曲してたとのこと。ナオキ氏がチェンバロ独奏曲を弾いたが、畳み掛けるような速いフレーズの繰り返しが印象的だった。

プログラム冊子の解説に色々と知らなかったエピソードが書かれていて面白かった。カヴァッリというのは仕えていた貴族の姓を貰ったとか、バルバラ・ストロッツィは当時希少な女性音楽家だったので陰湿な攻撃をされたとか……。やはり(-"-)

ナオキ氏のためにミルコ・ラザールという現代作曲家が書いた器楽作品も披露された。これは杉田氏と共演で(弓を取り替えて弾いていた)もうすぐCDが出るらしい。
彼女は数年ぶりに見た(聞いた)のだが、スカーフ巻くのやめてるのを初めて知った。確かに、あれだと曲ごとに巻き直したりして大変だわな。

村田氏にはバロックオペラでぜひ聞いてみたいと思った。いつかお願いします


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2018年10月23日 (火)

「スターリンの葬送狂騒曲」:バトル・フィールド 継ぐのは誰か

181023 監督:アーマンド・イアヌッチ
出演:スティーヴ・ブシェミ
フランス・イギリス・ベルギー・カナダ2017年

「ヒトラー」の次は「スターリン」映画ブーム来たるというわけではないだろうが、近現代ヨーロッパ史における最悪独裁者一、二の座を争う人物といえる。その彼の死をめぐるドタバタ劇である。コメディ仕様となっているが、シリアスな調子でやったらとても正視できぬ陰惨な史実だ。

強権を振るう彼が別荘で倒れるが、優秀な医者はみんな粛清してしまったんでロクな治療も受けられない--ってマジですか(^^?)と疑いたくなるようなエピソードが続く。
死後は別荘の使用人や警護の兵士は連行&殺害。スターリンの息子は挙動が変で、周囲の後継者争いは熾烈を極める。
その騒ぎの中でフルシチョフは虎視眈々と策謀をめぐらすのであった。

フルシチョフ役のS・ブシェミ他、芸達者な面々がドタバタと権力闘争を繰り広げ、笑い声も随所に上がった。個人的にはもっとブラックな感じが好きだが、事が事だけに調子に乗ってあまり事実と異なることも描けないだろうとは思う。
でも、国葬の棺の横でブシェミが横歩きする場面は、思い出すたびに笑ってしまうのであったよ(^◇^)
監督は英国人でTVシリーズの監督などやっていたらしい。いかにも英国流のユーモアである。

事前にこのあたりのソ連戦後史を予習しておけばよかったと後悔。なお、映画館は満員御礼状態であった。

 

 

 

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2018年10月20日 (土)

「J.S.バッハ 音楽の捧げもの」:最大の謎は終わらない

181020
演奏:寺神戸亮ほか
会場:ヤマハホール
2018年10月13日

土曜の昼間、人波溢れる銀座にてコンサート。プログラムは寺神戸亮を中心とした「音楽の贈りもの」である。他は前田りりこ、上村かおり、曽根麻矢子という面子。
事前には明記されてなかったが、以前、「フーガの技法」を聞いた時と同様、ほとんどレクチャーコンサートと言っていいほどだった。ステージの奥の壁に楽譜映して解説もしたし

ただし、一曲目は同じく王様に捧げられた曲ということで、クープランの「王宮のコンセール」から1曲演奏。その後、バッハに突入である。

バッハがフリードリヒ大王を探訪し、曲の作られた経緯から各曲のカノンの構造まで、それぞれ解説しては演奏という次第。休憩入れて約2時間半という完全にチケット代の元が取れる充実ぶりだった。

2声の螺旋カノンでは、繰り返すたびに音が高くなっていくというのをやれるところまでやってみる--ということで、チェンバロ、ガンバ、ヴァイオリンで始めたのを途中でガンバをヴァイオリンが引き継ぎ、それまでのヴァイオリンのパートはフルートが吹いていった。最後にはフルートの音がか細い高音となって息も絶え絶え状態となって終了した。普通はここまではやりません(^^)b

そもそも曲の意図としては、鈴木雅明の説を採用していた。つまり、大王とバッハが曲を通してチクチクとイヤミをやり合っていたというのだ。

そもそも大王はいきなり「王の主題」を出して即興で弾けと言い、3声で弾いたら次は6声を所望。これはいくらなんでも無茶
対してバッハは「捧げもの」を献呈したはいいが、カノンの模倣の始まる場所を明示していない曲にわざわざ聖書の一節のタイトルを付けたり、使用楽器を指定している「トリオ・ソナタ」を王が得意とするフルートが一番吹きにくいハ短調で作曲するという、これまたイヤミとしか思えぬのであった。

しかし、そのような当時の思惑とは関係なく、解説終了後に続けて演奏された「トリオ・ソナタ」と「無限カノン」は、達者な面々だけあって耳と心に染み入るものがあった。こんなに理詰めで作曲したのに、なんで聴く者を感動させるのか。これこそが最大の「謎」だろう。

狭苦しい印象が抑えられないヤマハのビルを降りて銀座の街に出た時は、はや夕刻。どこを向いても観光客だらけだ~(@_@;)


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2018年10月16日 (火)

「秋のソナタ」:マザー・アンド・ドーター 恩讐のかなた

181016 監督:イングマール・ベルイマン
出演:イングリッド・バーグマン、リヴ・ウルマン
スウェーデン1978年

「ベルイマン生誕100年映画祭」の上映作品の一つ。イングリッド・バーグマンの遺作としても有名である。
早い話が母娘激突の物語である。しかし、どうも不自然な部分が幾つか見受けられる。監督はあまり整合性とか気にしないで脚本書いたのだろうか(?_?)と思ってしまった。

田舎町に夫と共に暮らすリヴ・ウルマン扮する娘が、有名なピアニストである母親(バーグマン)を自分の家に招く。しかし、自ら招いておきながら娘は夫に「なんで平気な顔して来られるのかしら、信じられないわ」などとグチる。
かようにねじくれた母娘関係は再会した最初は波風も立たぬように取り繕っているが、早々に崩れてきて、その深夜に激突する。

この激突場面が「ついにキターッ━(゚∀゚)━!!」みたいに、両者ともに待ち構えていたようでわざとらしいし、部屋で母親が状況説明みたいな独り言を言うのも変である。そういや、別の場面で娘が神秘主義にはまっているような様子を見せるのも唐突過ぎやしないか?
そもそも、ピアニストとしてのキャリアを何より重視する母親が二人も子どもを作るかというのもかなり疑問だった。

両者が言いたい放題で全て言い合い、過去の記憶やら葛藤やら素顔をさらけ出して罵り合った後は、登場人物だけでなく見ている観客もまたバッタリと床に倒れ伏したい気分になっただろう。それほどに「疲れる~」場面である。

もっとも一番の見どころはそれよりも前、まだ表面上の仲の良さを取り繕っている時点での、二人がそれぞれショパンの曲をピアノで弾く場面だろう。
娘の演奏を聞く間に母の顔に様々な思いがモザイク状に交錯する。拒否と肯定、好感といら立ち。一方、娘が聞く側に回った時に浮かび上がる心からの畏敬の表情--お見事としか言いようがない。これだけでも一見の価値はある。そういや、ハネケはこういうところに影響受けたのか、というのも感じた。
このピアノといさかいの場面、誠に理解しがたい母と娘の関係の表裏を表わしているといえよう。

冒頭にヘンデルのリコーダーによるソナタが流れる。これは意外(!o!) あと、バッハの無伴奏チェロも劇中に使われていた。ベルイマンはバロック好きだったのかしらん。

終演後に「こんな映画、金出して見るもんじゃないな」とか文句付けてるオヤジがいて、うっせー、だったら見にくんな(*`ε´*)ノ☆と言いたくなった。

ベルイマン祭りでは他に『魔術師』を見た。あともう一本ぐらい見たかったが、映画館内があまりに寒くて(注-真夏である)行くのがイヤになってしまった。
スクリーンは作品のサイズに関係なく横長のままで、その真ん中に上映していた。両サイドにいわゆるマスクというのは下がっていない。
今までこういうのを気にする人の意見を読んでもピンと来ず「別にいいんでは(^^?)」と思っていた。しかし、このやり方でモノクロ作品の夜の場面を上映すると、どこからどこまでが映画の画面なのか、地のスクリーンと区別が全く区別が付かないのであった。なんとかしてくれい……(+o+)トホホ

 

 

 

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2018年10月14日 (日)

「文字渦」

181014
著者:円城塔
新潮社2018年

何やら文字についての妄想を連ねたような連作小説集である。
ある時、漢字は物や人そのものであったり、遺伝情報のように組み合わせを変えて全く別のものに変化したり、漢字同士が闘ったりもする。文字の歴史を遡り、どれほど先か分からぬほどの未来の姿を見る章もある。
またある時は、本文に対しルビがレジスタンスを企てたり、文字が地層のように集積したり(字層?)、遂には横溝ミステリーのようなオドロオドロな殺人事件ならぬ殺字事件まで起こるのだ。
かと思えば、大量の文字によってプログラムされた世界は、独自の宇宙を形作り、冥王星の側にスターゲートならぬ「文字門」を存在せしめる。

かように、利己的な文字は自らをその界によって自由に形を変えて生成し、生き延びていくのである。
とすればその時、小説とは予め配列された文字によってしか書かれないものとなる。つまり、読むにあたって重要なのは文字そのものであり、「ストーリー」とか「メッセージ」ではないのだ。

そして私がこの本の「参考文献」「初出一覧」まで読み終え、最後のページの奥付にある「文字渦」の文字(明朝体か)を目にした時、その文字がグルグルと渦巻いてピチャンとさんずいに飛沫が撥ね上がるのまで確かに感じたのであった。

そうなると、全てが怪しくなってくるではないか。一体、各ページの余白は本当に余白なのか? 実際はスペースの連なりが余白を装っているのではないか。ところどころ「一行明け」がページの終わりや初めにわざとらしく置かれているのも気になる。そもそも、ページ数を表わす漢数字は正しいページを示しているのだろうか。
加えて、数多く現れる見たこともない漢字の数々--実在するとは到底思えない、でっち上げられたに違いないと思われるようなものが、実は存在したりして。あるのかないのか俄かには判断付け難い文字が目をくらます。
そう、文字は信用できない語り手、なのである。
181014b

と、あちこち本を繰っている間にも文字がスルリと抜け出して、何気ない振りをして裏側へ紛れ込んで張り付いているような気がする。。
しかし、ド近眼・乱視の上に老眼である私には、メガネを外したり掛けたりと読むだけで苦労しなくてはならず、文字のたくらみを見抜くことは非常に難しいのであった。
ああ、残念。


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2018年10月10日 (水)

「ROMEO&JULIETS ロミオとジュリエットたち」:五重人格、ならぬ五倍人格

181010
演出振付:金森穣
出演:Noism1+SPAC
会場:彩の国さいたま芸術劇場大ホール
2018年9月14日(金)~16日(日)

どうもダンスの公演は苦手なのである。見ていると「ダンサーのこの動きの意味はなんなのだ?」なぞと考え始めてしまい、目の前のステージに集中できない。音楽を聞いている時はそんなことにならないのだから、多分受容しているのが右脳と左脳(どっちがどうなのか忘れた)、部位が異なるのであろう。

しかし、この公演はSPACも出ていて「劇的舞踏」と銘打たれているのだから、きっと演劇の成分も多いのだろうと考えて、行ってみることにした。
ノイズムと金森穣については「えーと新潟のりゅーとぴあの……」ぐらいの知識しかなかった。完全シロートですいません(@_@;)

さらに知らなかったのは、今回の作品がシェイクスピアの戯曲というよりプロコフィエフのバレエを元にしているということ。当然、使用する音楽もこちらから取っている。バレエの世界にも疎いので、オリジナルの存在自体初めて知ったのだった。

そんなシロートの感想である。
背景の設定は病院で、登場人物は患者か看護師・医者であり、同時に「ロミオとジュリエット」の役と重なっている。役者は芝居のセリフを喋るが、ダンサーが割り当てられている役は当然セリフはない(字幕が出ることもある)。

ロミオを演じているのはSPACの役者で、車椅子に乗っている患者という設定なので、行動には制限がある(多くは看護「婦」に押してもらっている)。逆に話すことについては能弁--というより、話すことしかできない。ほとんどの場面で彼は行動面からは傍観者である。
唯一、ティボルトを殺す場面は例外だが、それも混乱に巻き込まれウロウロしているうちに成り行きでヤッチマッタ(>_<)ような印象である。

対するにジュリエットは、タイトルが「ジュリエットたち」となっているように、なんと5人の女性ダンサーによって踊られる 彼女はロミオとは逆に、喋ることができず手話で意志を周囲に伝えるしかない。
その言語として発せられない若い感情は爆発するように身体の動きとなって、舞台中に噴出し吹き荒れる。しかも5倍のパワーをもってだ。これは強烈である。

一方で、両親に対しては結婚を勝手に決められても反論する言葉を持たず沈黙し、ただ不満そうな様子を見せて立ち尽くすのが精いっぱいな14歳の小娘なのである。その対比が痛々しい。

ジュリエットに仮死の薬を渡す神父は病院の医者であり、しかも身体が半分機械のマッドドクターっぽい。
看護「婦」役は3人いて--これが昔のモロに「看護婦」といういでたちなので、あえてこう書くのだが--2人は役者が演じており、それぞれ胸と尻にパッドを入れてありえないほど戯画的に強調している。
対称的にもう一人は女性ダンサーで、セリフはなく機械のような動作を見せて、どうやらロボットらしいのだ。このダンサーが実にスラリとしていて美しく動きも鋭くかつ佇まいは優雅で、思わず見入ってしまった。とても私と同じ人間とは思えねえ~(>O<) 後で配役表見たら看板ダンサーの人なのね。納得です。

若者二人の悲劇は芝居の通りに進行するが、さらにその後、外郭の「病院」でも悲劇的結末が付け加えられる。
これを解釈するなら、こうなるだろうか。
言葉に障害を持つ少女と車椅子の若者が患者同士で恋に落ちる。これまで若者の最も傍らにいた看護ロボットは彼に恋していたが、それをただ眺めるしかない。若者が少女の後を追うように亡くなった時、ロボットもまた自らの存在の範疇を超えて死へと向かう。

しかし、言語でこのように語ってもあまり意味はない。--というぐらいに感情を揺さぶり視覚的インパクトがあった。
ただ、舞台上の情報量あり過ぎで一度見ただけではとても「見た」とは言い切れない状態である。
私は彩芸の大ホールはよく知らなくて(音楽ホールはよく行くが)H列の座席を取ったらなんと前から4列目であった。これでは全体を俯瞰できない。ステージ上だけでなく、奥の方にスクリーンがあって、セリフの字幕が出たり、4分割画面で観客からは見えない部分が映し出されたりして、そちらも見なくてはならなかったのに。もっと後ろの席にすればよかったと後悔した。

ところで、シェイクスピア作品で舞台設定が病院というと、昨年に東京芸術劇場で見た『リチャード三世』もそうだったのを思い出した(周囲の壁が崩れる所も似ている)。
シェイクスピアには病院がよく似合う……のか

以下は余談。「大公」はスクリーン上に単純な黒いアイコンと共に字幕のセリフが出るだけなのだが、なんか「悪の帝王」みたいで笑ってしまった(^◇^)
ジュリエットの母親が「私がお前の歳には、お前を産んだのですよ」と娘に言う場面があって、「ということは母親はまだ28歳……」と感想を書いてた人がいた。しかし、その後でアレサ・フランクリンは12歳で子どもを産んだというのを知って、ビックリして腰を抜かしそうになった。

私が見たのは金曜日の公演だった。最初は他に予定もなかったので平日でいいやと思ってチケットを買った。だが、その後から昼間に初台でのコンサートが入ってしまい、新宿経由で与野まで急いで移動するはめに。
夕方の新宿駅のホームは電車が20分遅れとかで、人があふれていて通勤客と観光客でごった返し、前にも後ろにも進むこともできぬ阿鼻叫喚の騒ぎ 通勤で使う人は毎日こんななのか。ご苦労様です_(_^_)_
これじゃ、さいたま劇場へ平日夕方に都心から行くのは大変だとヒシと感じた。

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2018年10月 7日 (日)

「インクレディブル・ファミリー」:男女ヒーロー活躍機会均等法

181007 『Mr.インクレディブル』は当時見たものの、あまり積極的に面白いと思わなかった。何でだろう(?_?) この度続編をやるというので、レンタルで見直してみた。そうしたら、前よりも面白く感じたじゃあないですか。
ということで14年ぶりの新作を見に行ったのだった。

多くの人が同様の感想を述べているように、冒頭がなんと前作の終わりからそのまま続いているのには驚いた。街中で暴れまくってヒンシュクを買い、結局「ヒーロー暮らしはつらいよ」状態で、こそこそとモーテル暮らしに。

しかし、捨てる神あれば助ける神あり 裕福な支援者が現れたのであった。ヒーローの沙汰も金次第ってことか。まったくもって世知辛い。
そこでヒーロー推進の新プロジェクトとして、亭主のボブことMr.インクレでなくて妻ヘレンことイラスティガールを前面に押し出すということになったのだった。

ボブは家事や育児でてんてこ舞い、しかしヘレンの方はこれまでそれらを完璧にこなし、さらにヒーローとしても優秀さを発揮しまくっている。えーと、てことはボブは別に表に出なくていいんじゃないの。
ボブはそれを自覚せずに調子こいたことを発言したりして、妻に睨みつけられる場面もある。こりゃあ、夫婦間の不均衡問題はどうなるよ。
だが結局、夫婦よりも子どもたちが活躍することで、この問題はうやむやになってしまうのであった。

一方、悪役の方はヒーローにこだわりがあったようなのだが、結局何をしたかったのか見ててよく分からなかった。
もちろん、派手なアクションシーンとか赤鬼状態の赤ん坊の暴れ具合など、見てて楽しくて文句はない。

それからジャズっぽい音楽も、背景設定の50年代風にピッタリはまっていた。とりわけエンドロール終盤に、コーラスでそれぞれのキャラクターのテーマが歌われるところはゴージャスですごい迫力。是非最後まで聞き(見)ましょう(^.^)b

このシリーズはそもそもヒーローとその愛好者がヒーローの存在について自己言及する物語であり、私のようにそれに思い入れがない人間にはあまりのめり込めないのではないかと思う。前作が最初気に入らなかったのはそういう理由かも。

冒頭の短編はご時勢か中国もの。中国系監督による家族再生の話である。最初、中華料理がテーマかと思ったけど違った)^o^( 肉まんより小龍包が食べたくなりました

 

 

 

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2018年10月 5日 (金)

「謎解きバロック 1 ヘンデル」:上から目線にも負けず

181005_2
主催:木の器
会場:近江楽堂
2018年9月14日

宇治川朝政と福間彩コンビの新企画はレクチャーコンサートである。講師は藤原一弘、ゲスト演奏者はヴァイオリンの廣美史帆。
昼夜2回の開催で、私は昼の方に行った。

まずは「リナルド」の序曲から開始。その後は曲の前にレクチャー、という形式で進んだ。曲はそれぞれの楽器と通底によるソナタ、チェンバロ独奏、ラストは全員でトリオソナタだった。

レクチャーは楽譜を壁に投影させて詳しく解説するという本格的なもの。曲ごとに音階や調性、和音など注目点をピックアップし、ヘンデルの技巧をこれでもかと示してくれたのであった。
なお、演奏中は現在残されているヘンデルの肖像画の幾つかを壁に投影。そのうちの一つが、真下にあるチェンバロあたりを睨みつけていて、福間彩が「目がコワイ(>y<;)」と悲鳴を上げたのであった。
もちろん、その視線にも負けず皆さん闊達な演奏を聞かせてくれました(^^♪

日頃、ヘンデルというとオペラやオラトリオの声楽曲が中心に取り上げられるが、器楽も負けずに魅力あるのを実感できた。
ただ、講師がやたらと楽譜を示しては「バッハはこんなことはしない」と強調するのはどうかと思った。バッハばかりが偉大とか言われるのが遺憾なのだろうが、でも普通バッハほめるのに「テレマンなんぞ逆立ちしてもできない、バッハ先生\(^o^)/」とか言わないよね。
次回以降の改善を望む。

この日、私は夜に用があって昼間にしたのだが、客が非常に少なかった。これじゃ夜に一回だけにした方がいいのではと思ったけど、昼しか来られない高齢の奥様方のための開催なのかしらん。


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2018年10月 3日 (水)

「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」:男と女の間には山より高いネットがある

181003 監督:ヴァレリー・ファリス、ジョナサン・デイトン
出演:エマ・ストーン、スティーヴ・カレル
イギリス・米国2017年

テニスに縁のない私は「キング夫人」の名前に記憶はあっても、こんな「男女対決」あったとは知らず。
時は1973年、現役女子テニス・トッププレイヤーと、昔は有名でした感あふれる元男子チャンピオン(55歳)の対決。この二人のスポーツ・ネタでグイグイ攻めていくのかと思っていたら、予想に反してそうではなかった。

前段として、女子選手の報酬額が非常に低いのに抗議して、キングが独自に女子だけの団体を結成するというエピソードが登場する。(背景に70年代初めの女性運動の機運がある)
さらに彼女が世に隠れて同性の恋人と付き合い始める。こちらの問題へかなり重きが置かれているのは意外だった。

栄光は過去に遠のき公私ともに下り坂で追い詰められているリッグスの、女子選手にイチャモンを付けることで注目を集めようとする様子が、かなり同情的に描かれている。観客はこの人物に同情しても、あまり反感は抱くことはないだろう。
キングは対決試合の申し出を無視していたが、あまりの彼の悪目立ちぶりに怒り、遂に挑戦を受ける。さらにマスコミのバカ騒ぎも容赦ない。その間に「忍ぶ恋」が絡むという次第。

悪役は全米テニス協会の会長(ビル・プルマン)が一手に引き受けている。悪の黒幕、ラスボスみたいな印象。
あと、キングのライバルで対照的な「良妻賢母」のマーガレット・コート。悪役というほどではないが、かなりワリをくっている。実際はどうだったんだろうね。
終盤、ヒロインが一人で試合に赴く後姿の孤独には、思わず涙が出た(T_T)

タイトルには「男女間」だけでなく当時の性的マイノリティーの葛藤も含まれているように思えた。
ただ、もっとスポーツ界の内幕を見たかったという人もいるかも。対決自体はこの映画のチラシの写真みたいにアッサリした感触である。

正直言って、エマ・ストーンがここまで達者な役者だとは思っていなかった。おみそれしましたm(__)m
S・カレルはもう何をやらせても完璧です

 

 

 

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2018年10月 2日 (火)

なぜ私は真正面からでなく、斜め上からブルース・コバーンを見るはめになったのか

181002a
ブルース・コバーンが9月末の週末に来日すると知ったのは、ピーター・バラカンのFM番組でだった。しかも、チケット発売から一か月も経ってからである。放送時にリアルタイムで聞けずに録音しといたのを後で聞いたために後れを取ってしまったのだ(^^ゞ。
彼の来日はもうないと思っていたのでビックリした。70歳過ぎという年齢もあるが、そもそも彼のアルバムは多分10年以上は国内盤が出ていない。それより前でも出たり出なかったりという状態(もちろん輸入盤では入手できた)。知名度は低いだろう。

ブルース・コバーンはニール・ヤングやジョニ・ミッチェル同様カナダ出身のシンガーソングライターで、やはりギターの名手である。キャリア初期の70年代はアコースティック系フォーク&ブルースで、日本ではこの頃の人気が高いようだ。
その後、さらにロック、ジャズ、民族音楽もまじえたサウンドに変化。歌詞も社会的な意味を含んだものが多くなる。

「くたばれ!汚いIMF」みたいな歌もあったし、チェルノブイリや911を題材にしたものもあった。一番有名なのは「イフ・アイ・ハド・ア・ロケット・ランチャー」だろう。グアテマラの紛争で米国の支援を受けた当時の政府軍が民衆を殺す光景に「この手にロケットランチャーがあったら、奴らに思い知らせてやれるのに」という激越な歌である。
ビデオクリップの出初めの時代にこの曲のビデオを見て、私は初めて彼の存在を知ったのだった。
ただ、メッセージだけでなくそこに抒情性が常に存在するのが特色だろう。

彼は25年前(もうそんなに昔なのか)にも来日していた。ニール・ヤングのコンサートの前座としてである。もちろん、私はチケットを買った。多くの人はニール・ヤング目当てだろうが、私は彼が目的だった。
しかしあろうことかなんとニール・ヤングが公演ドタキャン(!o!)で中。 当然、ブルース・コバーンの出番なし。私はガッカリした。
さらにガッカリだったのは、彼は実は来日して小さなホールで単独ライブをやっていたのた! だが、それを知ったのはずっと後になってからだった。当時はネットのネの字も存在しない時代。知る由もない。

というわけで、25年前の雪辱戦になる。で、これだけなら即買い!なのだが、問題は会場がビルボードライブ東京だということだ。私はライブハウスというと、大昔に狭くて小汚くてオールスタンディングのやつしか行ったことがない。同じ「ライブハウス」とはいえ、広くて優雅に食事できるクラブ風の店など未体験である。
しかも、音が一番良くてミュージャンに近いという自由席は、テーブル席で1時間も前に行って順番取ってフーズやドリンクを注文しなければならない。複数ならいいが一人で行くと、当然相席になるとゆう……エーッ

ハードルが高過ぎ。散々悩んだ末に、二番目に音が良くてミュージシャンを正面から見られるというカウンター席にしようと決めた。しかし、これが結構お値段が高い--というか、お一人様の料金にすると多分一番割高である。しかもやはりフード注文が原則だ。

発売一か月後とはいえ、さすが?最新アルバムも国内発売なしということだけあって、日曜の遅い方の回の真正面真ん中近くの座席が取れた。ヤッタネ(^.^)vと思った。

しかし、直前になって台風が来襲である。天気予報で日曜の夜に関東も直撃と出ていたので、(またもや)散々悩んだ末に、日曜の7時半の回を4時半に変更してもらうことにした。加えて、万が一(日曜がダメになった時)のために土曜の夜も急きょ行くことにした(ただし一番安い席)。
これを店に電話して変更したのが、なんと土曜の昼間(@_@;) 優柔不断であるよ。
グズグズ迷っていた原因はもう一つ、土曜の夜は芝居に行くつもりでチケットを買っていたからである。結局、芝居は捨てることになった、トホホ。

181002b以下は土曜(29日)のステージの感想である。
座席はカジュアルエリアという一番安いカウンター席で、ワンドリンク付き。直前なので真正面は取れず、音が良くない上に距離が遠いステージ真横の奥である。行ってみると、実際狭くてまさに隅に押し込められているという感じ。ここに座っている人はほとんど一人で来ているようすだった。
見回すと、前方の2人用ボックスシートに一人で座っている人がいた。なるほど、これならスペースが広い(値段は高いが)。

唯一良かったのは、ブルースのギター弾いている右手がダイレクトに見られたことだろう。代わりに顔の表情はあまりよく見えず、頭頂部を眺める羽目に……(注-彼の髪の毛はフサフサしていましたよ) 会場の音は、低音が音圧高いだけでなんかモコモコした印象である。(壁の反響?)
演奏はブルース一人の弾き語りで、2009年の2枚組ライブ・アルバムと同じ形式だった。このアルバムがまた素晴らしい出来で、私は一時期毎日のように聞いていたものだ。
CDジャケットの写真だとステージにギターが5本以上あるが、今回は3本で、しかもそのうちの一つはウクレレぐらいの(^^?)大きさ。民族楽器のチャランゴというらしい。

登場した彼は背中が猫背っぽく曲がっていて歩き方もゆっくり。動いている姿は若い頃のビデオクリップしか知らないので、正直おじーさんぽくなったなあと思った。

しかし、歌声は極めて明晰で力強い。どの曲だったかド忘れてしまったが、あまりに声のパワーが直裁にこちらへ届いてきて、それだけで感動してしまった。
ギターは右手を見てても、素人には「あれっ、どうやってあの音出してんの?」と思うほどだった。名ギタリストぶりを発揮。
オープニングは最新アルバムからで、アンコールは70年代の初期アルバムからだった。
個人的には大好きな「ストレンジ・ウォーターズ」と名曲「~ロケット・ランチャー」が聞けてよかった。もう涙がジワ~ッと出てきました
それと前回の来日時に作った「トーキョー」も披露してくれた(歌の内容は、騒然とした都市にビックリみたいな感じか)。

席は悪いが、聞けて見れて満足。よし、明日は正面から見るぞー。曲も幾つか変えてやってくれるだろう。
--と思って帰宅したのだがね(ーー;)

日曜日の回は、結局キャンセルしてしまった。6時ごろ終了だから天気予報とにらめっこして、天候が荒れる前でなんとか大丈夫だろうと思ったのだ。 ところが、なんとJRが早じまいするというニュースが!
私鉄もいつ追随するかわからない。そんな状態ではおちおち音楽も聞いていられん。何故よりによって我が今年最大のイベントを台風が直撃するのだ
泣く(/_;)

会場側にとって不運だったのは、本日開催をアナウンスした直後にJR運休予告が流れたことだろう。ただ、JR公式サイトよりNHKのニュースの方が早いというのはどういうことよ?

店に電話かけたが他にもキャンセルが相次いだらしくなかなか繋がらなかった。 実際には早い回への変更が多かったらしい。都心に住んでいるならいいけど県民にはリスクが高いのよ。
もうガックリである(=_=)

実際には私鉄は結構遅くまで走っていたようで、6時終了ならまだ風雨も大したことなかったから充分行けたはずだった。電車なくなるなんて知らずにディズニーランドで遊んでいた人たちがいたとニュースでやっていたが、どうせならそのぐらい図太くならないといかんのう。
などと、今度は後悔がドッと押し寄せてきたのであった(T^T)クーッ
また来てほしいけど無理じゃろなあ……でもウィリー・ネルソンは80代で現役だ

中川五郎による公演レポート

オフィシャル・サイト
トップページ下方にライブ映像あり。しかし、100万回映像を見ても1回の生のライブにはかないません(v_v)

181002c
←10年前のライブ盤(2CD)、じっくり聞きたい人はこちらをどうぞ。2枚目の冒頭3曲をぜひナマで聞きたかったが、やってくれなかった。残念。
 
 
 
 
 
 
 
181002d_6
 
←最新アルバム"Bone on Bone"

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2018年10月 1日 (月)

聞かねばならない時もある マイナー・コンサート 10月版

大荒れの台風で開幕です。

*6日(土)上村かおり無伴奏リサイタル:石橋メモリアルホール
*7日(日)ナイトミュージアム バロックチェロの魅力(懸田貴嗣):菊池寛実記念 智美術館
*12日(金)バッハ 音楽の捧げもの(寺神戸亮ほか):所沢市民文化センターミューズ キューブホール ♪13日にヤマハホール公演あり
*14日(日)スペインバロックの舞曲と歌(マリア・クリスティーナ・キール&クリシュナソル・ヒメネス):聖グレゴリオの家
*17日(水)クピドのまなざし C・モンテヴェルディの系譜をたどって(村田淳子ほか):日本福音ルーテル東京教会
*20日(土)光の庭プロムナード・コンサート イタリア・バロックのひびき(吉村怜子):彩の国さいたま芸術劇場 ♪入場無料
*  〃   クープラン賛(廣江理枝ほか):東京藝術大学奏楽堂
*22日(月)フライブルク・バロック・オーケストラ&キャロリン・サンプソン:トッパンホール ♪21日に三鷹公演あり
*24日(水)バロックリュート WeissとBaronの世界(水戸茂雄):日本福音ルーテル東京教会
*31日(水)マハのまなざし(ロベルタ・マメリ&つのだたかし):ハクジュホール

これ以外にはサイドバーの古楽系コンサート情報(東京近辺、随時更新)もご覧ください。

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