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2019年3月16日 (土)

ナショナル・シアター・ライヴ鑑賞記

190316
最近、行ってみたNTLの感想をまとめて書く。
芝居の収録というと昔のNHKの「劇場中継」みたいのを思い浮かべるが、昨今は進化していて、中には映画もどきのカメラワークのものもある。収録を前提にして演出した部分もあるんじゃないか(その上演時だけ?)と思ったりして。
実際の観劇では、役者の顔をアップで見たり、座席とは異なる位置から見ることは出来ないのだから、果たしてそれでよいのか。これも良し悪しだろう。

*「ジュリアス・シーザー」
観客参加型(?)演劇で、フロアで立ち見の客がローマ市民となりシーザーに旗を振ったり、ブルータスの演説に拍手したりする。(立ち見が疲れる人は見下ろす形の二階席がちゃんとある)
美術や衣装の設定は現代の都市になっていて、カフェで噂話のように交わされる密談、大統領を想起させるシーザー--市民「注視」の下に繰り広げられる暗殺と権力争奪戦は今まさに行われているようにスリリングである。

元は男性である人物が何人か女性が演じていて意外に感じたが、今はこういう方式が多いとのこと。確かにそうでもしないとこの芝居はほとんど男優しか出番がない。

進行に従ってステージがせりあがったり沈んだりして形がどんどん変わっていくので、スタッフが常に観客の「交通整理」をしていてご苦労さんだ。
こういうスタイルの舞台ならカメラが中に入って動いて中継するので、鑑賞に有効だろう。

冒頭ではロックバントが数曲演奏して(やや古めの曲のカバー)客を煽る。そのバンドも役者で脇役を演じていたので驚いた。皆さん達者である。
しかし冒頭がそれなら、ラストにはラップで高々と勝利宣言でも一発やって欲しかったところだった。


*「イェルマ」
原作はスペインの詩人ロルカの戯曲だとのこと。第二次大戦前に子どもが出来ない妻を主人公にした作品というのなら、家父長制的な家庭の中で苦しむ話だと想像するのだが(実際に封建的な農村という設定らしい)、この上演は翻案ということで現代のキャリアウーマンになっている。

巨大な水槽のようなガラス板に囲まれたスペースがあって、観客はそれを四方から取り囲むように座っている。最初はどこから人物が出入りしているのかと不思議だった。そこにいる客は当然、自分の座っている側からしか見られないので、舞台上の全てを見ることは不可能である。(役者が背を向けてたら表情や仕草も分からん)
やはりこういう場合は映像で見ると有利である。

設定を現代にしたはいいが、そうするとなぜ主人公がそこまでして自分の血を引いた子どもを欲しがるのか不明である。養子でもダメだと断言する。最初はちょっと際どいカップルもの海外ドラマみたいなノリだったのが、見ていて段々苦しくなってくる。
人工授精を繰り返しても失敗が続き、夫を怒鳴って喚き散らし暴れる彼女は、まるで理解不能な怪物である。最後までそんな調子で、芝居の作り手の意識の方を疑ってきたくなる。
そういや、音楽や効果音もなんだかホラーっぽい。 主役は女優賞取るのにふさわしい熱演とは思うが、水吐いたりして騒ぐのが果たして名演技なのかと疑問に思ってしまった。

演出家がこの脚本の方も担当したらしい。かつて私が段々と芝居を見なくなってしまったのは、小賢しい演出家兼脚本家が過激さを気取って先端的だと勘違いしているのにウンザリしたからだが、それを思い出させるものだった。


*「フォリーズ」

ミュージカルほとんど見ない人間だが面白そうなので行ってみた。
取壊しが決まった古い劇場で、レヴュー・ダンサー達の同窓会が開かれて30年ぶりに顔を揃える。
中心となるのは二人の元ダンサーとその夫たち。彼らは過去に四角関係(?)みたいないきさつがあって、未だに未練が残っているのだ。その未練は同時に失われた時代への哀惜と郷愁に重なるのだが。
その過去のいきさつが4人の若い役者たちによって、「今」の4人と絡むように演じられる。

さらに今回の上演での演出らしいのだが、それ以外のダンサーたちの過去の美しい分身が付きまとうように現れる(もちろんセリフはない)。
廃墟のように崩れかけた劇場のセットの合間に、華やかな衣装を着けた踊り子が幽霊のようにスーッと現れては、奥に見え隠れし佇む。曲もダンスも往年のミュージカルへのオマージュのようで過去と現在が幻の如く行き交う。

中心の二人の片方をイメルダ・スタウントンが演じている。彼女は「メアリーの総て」での優秀なメアリーに対するクレアのようなポジションで、ダンサーとしては大したことなく、ちょっと滑稽な印象を与える人物だと設定されていると思える。
だが恐るべし怪女優(注-褒め言葉である)、彼女はなんと若い自分役の女優さんよりも遥かに可愛く魅力的に見えてしまうのだった。

と、色々と面白いミュージカルだったのだが、撮影では複数のカメラを移動させたりクレーンを使って高い所から見下ろしたりする。おかげで折角の回り舞台の威力が半減してしまった。目の前で装置が回って変化していくのが見てて面白いのに、一緒にカメラが回っていったんじゃしょうがない。
あと、役者中心に映すので背後の無言のダンサーたちがほとんど画面に入っていないのも残念無念であった。
映画と舞台のいいとこ取りのはずが、どっちつかずになってしまった例と言えよう。


*「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」

1962年初上演。映画ではエリザベス・テイラーとリチャード・バートンが夫婦共演して賞を多数獲得した。いずれにしろタイトルのみ知っていて初めて見る。

中年大学教授とその妻、かつては出世コースを目指していたはずが挫折して、今では二人は何かあれば罵倒をぶつけ合っている。そんな深夜に新任の若い教授夫妻が訪れる。
ということで、4人の言葉のレスリングが開始。押しては引き、引いては投げ飛ばし隙を見せたら付け込まれると容赦ない。互いに傷つけあっても気にしない。
そういや、「イェルマ」の演出家がやりたかったのはこれの再現かしらんと思ってしまった。舞台美術の担当者は教授宅の絨毯をリングに例えていたのだが、「イェルマ」の巨大ガラス水槽もリングのようだったなあ。
でも、こんな悪態合戦は一つ作品があれば十分のような……

4人とも夜通しずっと酒を飲み続けている設定で、当然役者たちは酒に似せた飲料を飲んでいるのだろうけど、トイレ行きたくならないのかしらん(?_?)としょうもない疑問を抱いた。
それぞれ少しずつ退場する場面があるのはトイレ休憩用かな、とか(^^ゞ

難点はキャスティング。イメルダ・スタウントンとC・ヒル(「ゲーム・オブ・スローンズ」のハゲの人髪の毛あるので全く気付かなかった)の夫婦が挫折したインテリというより、なんとなく野暮というか田舎っぽい感じなことだ(フィルマークスでもそう評している人がいた)。
若夫婦の夫はエリート臭ふんぷんで鼻持ちならない自信家な設定だと思うが、「ボブ猫」の人なんで頼りない青二才風だし、妻は「地味な若妻」というより典型的「派手なブロンド・ヘアで中身は空っぽの娘」に見えた。

まあ、役者が変わっても一度見たら二度目はもう結構(ーー;)と言いたくなる芝居だった。


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