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2019年8月

2019年8月19日 (月)

「技巧と調和」

190819 17世紀ドイツ・オーストリア珠玉の器楽作品
演奏:天野寿彦ほか
会場:近江楽堂
2019年8月1日

17世紀のドイツ・オーストリアのプログラムというと、バッハやテレマンの先輩音楽家の時代である。結構ありそうで意外と少ない。
ローゼンミュラー、シュメルツァー、ラインケンなど渋い名前が並ぶ。さらにはベッカー、フィーアダンクとなると耳にしたこともない。
そんな作曲家たちの作品がヴァイオリン天野寿彦&吉田爽子、ガンバ平尾雅子、チェンバロ辛川太一という顔ぶれで演奏された。

中でも印象大だったのは吉田氏の演奏。前半のシュメルツァーで「ヴァイオリン力(ぢから)」とでも形容したいものを大胆に発揮。
後半のラインケン、ビーバーでは天野氏と丁々発止の掛け合いを聞かせてくれた。迫力満点とはこのことだい(!o!)

渋くて地味というこの時代の器楽曲のイメージを吹き飛ばす勢いがあった。
吉田氏は文化庁による海外派遣制度で二年間留学で戻ってこないとのこと。頑張って-。行ってらっしゃ~い(@^^)/~~~

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2019年8月17日 (土)

「荒野にて」:父一人馬一匹子ひとり

監督:アンドリュー・ヘイ
出演:チャーリー・プラマー
イギリス2017年

思い出したのはケン・ローチの『ケス』である。あれは孤独な少年とタカの物語だったが、こちらは競走馬と少年の物語。ロードムービーであるところが『ケス』とは違っている。

米国の田舎町、少年は父親と共に引っ越してきたばかりで完全に孤独である。それまではハイスクールに通っていたようなのだが、父親は全く無関心で、そもそも不在が続き生活費すらろくに渡していない。家の中はまだ段ボールが積んであるままだ。

たまたま馬主の男に気に入られて、その厩舎でバイトすることになる。そして年老いた競走馬の世話を熱心にする。もはや勝てないその馬が処分されることを知って、連れて逃げるのだった。

そして邦題にあるように荒野をさまよう。道もないのでロードムービーでなくて荒野ムービーだろう。馬を連れて出たはいいが、少年自身は乗馬も出来ないのだ。運搬トラックのガソリン代もない。
しかし荒野にいた時はまだよかったかもしれない。本当の荒れ野は広野でも山でも道路でもなく、人間が殺伐と暮らす都会の方だったのが分かる。それが淡々と語られる。

見ていてこの世界のつらさ苦しさがじわじわと迫ってくる。
果たして約束の地はあるのか。わずかに明るい結末が救いであり、それが『ケス』とは異なる部分である。「刑務所に入ってもここに戻ってもいい?」という台詞が泣ける。

しかし、こうして見ていてなんだか私は派手なエンタメ映画を鑑賞しているのと同じように、孤独な少年の苦悩や悲しみを娯楽として消費しているだけではないのかとも思えてきた。
そうしてますますウツウツとなってしまった。だからといって、どうするわけでもないのだが(=_=)

最近、ルーカス・ヘッジスを始め若手の役者が才能を見せているが、この少年役のチャーリー・プラマーもかなりのものである。
父親が入院してしまい、今は疎遠になってしまった伯母を頼ろうと提案するのだが父親に却下されてしまう。その時の微妙な表情が大変うまくて驚いた。瞬時に入れ変わるかすかな期待と落胆……。
ここで演出(監督は『さざなみ』の人)や役者が下手だと、観客は台詞のテキストで判断するしかない。父親の言うことをよく聞く少年の真意は果たしてどうなのか--と疑問に思うより前に瞬時に見る者を納得させる。これって当たり前のようでなかなか実際には難しい。

馬主のオヤジさんは最初帽子かぶっていて、アップの場面がなくてよく顔が分からなかったのだが、喋る声がどこかで聞いたような……と思ったらスティーヴ・ブシェミだと気付いた(^^ゞ(遅い!) いい味出してます。
モロにアメリカな話なのだが、イギリス映画なのね。
原題は馬の名前「リーン・オン・ピート」。「ピートに任せとけ」って感じ?

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2019年8月12日 (月)

「フォリア!」:教会揺らぐ

190812 スペイン、ポルトガル15世紀から伝わる情熱と狂喜の音楽
演奏:高橋美千子ほか
会場:日本福音ルーテル東京教会
2019年7月17日

定期的に行われていたソプラノ高橋美千子とガンバ4人の組み合わせによるコンサートである。今回はパーカッションの立岩潤三がゲスト参加して様々な時代と国の「フォリア」や関連曲を演奏、休憩無しでアンコール二曲を入れて90分というものだった。

冒頭、マレのフォリアに基づくヴィオール曲から開始。その後に登場した高橋美千子は真っ赤な口紅に黒髪を振り乱し、赤いドレスの衣装も含めて完全に「狂気の女」の出で立ちだった。

イベリア半島を股にかけたフォリアの熱は16~17世紀の宮廷に広がり、様々な楽曲を生み出した。
それらを歌う彼女の唱法は、これまで聞いたオペラやフランス歌曲などとは全く異なるもので、その多彩な声を自在に操っていた。
器楽曲の時は呆けたような表情でステージの床に座り、歌う時は取り憑かれたように思い詰めた風で、誠に鬼気迫るものがあった。
しかし、背後のガンバ群やパーカッションの演奏はあくまでもクールな熱気なのである。

さらに終盤になってサプライズあり。なんとプログラムにも載ってないゲストとしてフラメンコの男性ダンサー(奥濱春彦という人だそうな)が登場したのだ。
これには驚いた(!o!)
コレッリやマレなど数曲を踊り、その迫力に会場はやんやの大喝采となった。
全体的に、コンセプチュアルな古楽コンサートとして見応え聴き応えあり、完成度が非常に高かったと思う。

ただ、残念だったのは教会の礼拝堂なのでステージの高さがほとんどなく客席に段差もないため、高橋氏が床に座っていると前の方の席の人しか見えなかったのではないか?ということ。
しかもステージの広さも狭くて通常の礼拝に使用している説教壇(というのか?)などが残っている状態。加えて5人の奏者がいて楽譜台も置いてあるのだから、狭いスペースでダンサーの人はさぞ踊るのが大変だったろう。
彼が足を踏みならすと教会の聖堂全体がガンガンと振動して、床が抜けるとかと思ったほどである(^^; 確か、ハクジュホールではこういう時に補強板を敷いて、その上で踊っていた。
もっと広い会場で見たかったのが唯一の不満である。ハクジュホールぐらいのステージだったらちょうど良かったかも。
あ、あと、空調切ってしまったので暑くってマイッタですよ💦(冷房入ってると今度は寒いのだが💨)

なお、ガンバ4人衆と組んでやるシリーズはこれで終了とのこと。これまた残念である。

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2019年8月11日 (日)

「バイス」「記者たち 衝撃と畏怖の真実」:表裏なき戦い

190811 「バイス」
監督:アダム・マッケイ
出演:クリスチャン・ベール
米国2018年

「記者たち 衝撃と畏怖の真実」
監督:ロブ・ライナー
出演:ウディ・ハレルソン、ジェームズ・マースデン
米国2017年

イラク戦争を扱った二作が同時期に日本公開された。内容は一つの事象の表面と裏面を描いている。さて、どちらが表でどちらが裏かというと……。

先に見た方がいいのは『バイス』だろう。
ブッシュ政権下で副大統領を務めたチェイニーが主人公である。副大統領というとお飾り的ポジションかと思っていたら、彼については違ったらしい。「お飾り」のなのはブッシュ(息子)大統領の方だったのだ(!o!)

元々はチェイニーもどうしようもないダメダメ男であった。だが、しっかり者で優秀な妻に叱咤激励され尻をたたかれ真っ当な(「正しい」という意味ではない)政治家に。で……美談になるはずが、そこからまだ続きがあった。その道は地獄へ(当人ではなく国民が)。その行き着く先は戦争。911に乗じて石油利権獲得のためにイラク攻撃したのである。

有名な役者連が実在かつ健在の政治家を演じるというと、思い出すのはオリバー・ストーンの『ブッシュ』だ。全く同じ時期を描いているが、短期間で撮ったためかなんとなくワイドショーの再現ビデオ風だった。
一方こちらは「語り」が面白い。語り手の正体が謎で最後まで引っ張っていく。かと思えば寝室でシェイクスピアの台詞が出てきたり、エンドクレジットでひっかけがあったり。脚本でオスカー候補になったのは伊達ではない。おちょくりとシリアスが絶妙な配分具合となっている。

主演のクリスチャン・ベールもまたノミネートされた価値はある熱演だ。しかし、例のごとく体重大幅増強(20kgとか💥)で、一部に「C・ベールが実物に合わせて太ったり痩せたりするよりも、元から似ている人をキャスティングすればいいのでは?」という意見があるのも頷ける。(『ブッシュ』ではリチャード・ドレイファスだった)
妻のエイミー・アダムスやサム・ロックウェルの大統領も評判だったが、私が一番すごいと思ったのはラムズフェルドを演じたスティーヴ・カレルだ。物置みたいな場所で泣く場面にほとほと感心した。

なお臓器移植の話は『ハウス・オブ・カード』にも出てくるのだが、あの元ネタはチェイニーなのだろうか? だとしたら恐ろし過ぎである( ̄。 ̄;) そういや夫と妻の共謀関係という点も……。

エンド・クレジット始まったら帰ってしまった客が数人いた。まだオマケがあるので帰ってはモッタイナ~イ。最近の映画はうかつに帰れませんな。


『記者たち 衝撃と畏怖の真実』は『バイス』で政治家たちが暗躍していた時に、市民やメディアはどんな様子だったのかが分かる。
大手メディアが愛国心をあおり国民は熱狂--という中で、中堅新聞社の記者たちが地道な調査報道を続けて事実を暴く、というこれまた実話である。

監督のロブ・ライナーが怒りの自作自演(演出&出演)しているだけあって、不正告発はストレートに伝わってくるが、91分で伝えるイラク戦争の真実、みたいな調子で旨味に欠ける。しかも、ある程度予備知識が無いと何が起こっているのか見ててよく分からないというトホホ(+_+)な状態になるのであった。日本人だと予習が必要だ。従って『バイス』の後に見た方がわかりやすいということになる。
こちらも豪華出演陣なんだけどねえ。

そもそも政治ネタの調査報道なんて地味なものだからあまり映画向きの題材ではない。それを考えると『大統領の陰謀』はよくできていたなと思う。
ジャーナリズムや米国現代史に興味ある人、あるいは主役二人のファンにはオススメか。
音楽がどこかで聞いたような気がすると思ったら、『ハウス・オブ・カード』のジェフ・ピール担当だった。

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2019年8月 8日 (木)

「ネット右翼とは何か」

190808 著者:樋口直人ほか
青弓社2019年

6人の著者による「ネット右翼」の実像に迫る論集。
「ネトウヨ」などというといわゆる「自宅警備員」(私もつい冗談で使ってしまうが)のような二、三十代のニートな若者を思い浮かべてしまう。
しかし冒頭、8万人対象の調査によって浮かび上がってきた「ネット右翼」像はそれとは全く異なるものである。ここで衝撃を受けるだろう。
正規雇用、経営者・自営業の男性で、年齢は中高年が多い。情報源としてよく利用するメディアはネット・SNSでTVのワイドショーや情報番組さらに新聞の影響は少ない。

また同じ排外主義でも与党・現政権を支持せず、政治的に保守でない(憲法や安保問題などについて)集団もあるという分析がなされている。
このどちらにも当てはまらない一般層の統計数値も出ているが、こちらでも驚いたことに嫌中・韓については支持する率が高い。つまり社会全体がそちらに傾いているということだろう。

他の章では、首相のフェイスブックへのコメント者を分析したものが面白い。
2015年12月、日韓での「慰安婦」合意について首相のフェイスブックに、「右」の立場から非難したコメントを書き込んだ1396人について調査。フェイスブックは情報を公開している者が多いので属性が分かる。いちいち調べていったのだろうからご苦労さんである。
学歴は大卒が6割、30~50歳代がほとんど、特徴的なサブカルチャーはミリオタ、宗教、武道ということで、やはり「ネトウヨ」イメージとは異なる。

一番興味深かったのはドイツの研究者の論文を訳した「ネット右翼と政治」だ。
2014年日本の総選挙において、選挙関係のツイートを分析すると60%がコピー(リツイートを除く)だというのだ。
これは主にbotとbot的な行動を取るユーザーにより行われ、複数のハッシュタグを利用して恣意的に異なる集団を結びつける役割を果たした。

SNSの特性として、ハッシュタグ、リツイート、いいねなどボタンをポチるだけで、自分自身の意見を述べる必要はない。それが「習慣的で反射的な高頻度のつながり」をもたらし繰り返されていくと、もはや意見ではなく単に「態度」を伝えることが中心となる。
個々の投稿は脈絡がなくて内容はくだらないけれども、ゆるやかに「つながり」を形成していく。それこそがネット右翼の活動だというのだ。(実際、自民党は2012年にネットサポータークラブを発足、会員数1万5千人)

現政権はナショナリズム的な目標(改憲、安全保障など)を表に出すと票が取れないため、2014年の選挙では経済改革だけを表に出して勝った。しかし、一方ソーシャルメディアではネット右翼がナショナリズム言説を潜在的に広めていった。表の世界での「良いアベ」とネットでの「本音のアベ」の両輪によって支持を大きくしたのである。
当時、首相の最後の街頭演説を秋葉原にしたのはそのような背景があった。「インターネットに長けたオタク(一部はネット右翼として活動している)の聖地で最後の演説をする自分たちの姿を撮らせたい」というアピールだったそうだ。(今年の選挙でもやはり最後の演説は秋葉原だった。同じ戦略を引き続き取っているのだろう)

注意したいのは、これが別に政権から指令が飛んで一斉に動いた、というようなものではないことである。どこそこに抗議電話・メールや脅迫FAXを送れと上意下達で伝えるわけではない。「インターネット時代に政治家からメディアへの直接介入はもはや必要ない」ということだ。

また終章では、歴史認識問題について「慰安婦」「徴用工」「南京大虐殺」などが、目的ではなく手段として使われていることが指摘されている。
すなわち歴史認識問題を正すためにネット右翼になるのではなく、ネット右翼になったらそれらの案件が「つながり」を作るためのツールと設定されていることで、初めて問題として認識することになる。
先日の美術展における「少女の像」の騒動の炎上を見れば納得できるだろう。像自体はどうでもいいし、表現の自由は関係ない。問題はそれが「主戦場」だと定まっているということなのだ。

このように読んでいて極めて興奮する論集であった。

しかしながら、ソーシャルメディアの有り様の分析を信じるならば、重要なのは単に「態度」の伝達なのだから、私がこのような感想をブログに書いてもほとんど意味を持たないのである。

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2019年8月 4日 (日)

「塩田千春展 魂がふるえる」:作品の糸はどこに

190804a 会場:森美術館
2019年6月20日~10月27日

夏休み期間に入ると会場の六本木ヒルズは混雑するだろうということで、その前に素早く見てきた。
チラシにも使われている赤い糸と鉄枠のボート、黒い糸と焼け焦げたピアノと木の椅子、つり下がった旅行鞄の群れなど大規模インスタレーションが目を奪う。
写真などで見るとやや重々しい印象を感じるが、実際に見るとそんなことはなく軽やかであっさりしていた。個人的には重くてどんよりしているものが好きなので、その点ではやや期待からずれていた。
以前評判になった《巨大な泥まみれの服を水が洗う》系の作品はなかった。見てみたかったけど……。一方、初期作品は《自分をいぢめる》系のパフォーマンスだったのか。映像になって残っていて、見てると苦しい。

中程度の大きさの作品で「ふたつのドレス」というのが面白かった。枠の中に二着の同じドレスが下がっているのだが、鏡が真ん中に入っていて、どこからどこまでが実物なのか鏡像なのかじっと眺めていてもよく分からない。ふと気付くと自分の姿が写っている。
舞台美術もかなり担当しているようで、海外だけでなく日本の新国立劇場のオペラもやっていた。

今時の美術展は撮影可能かどうかハッキリ明示するのが普通らしい。ここでも会場図を配って禁止の場所を知らせていた。
映像作品以外は撮影可能(9割以上OKだった)なのはいいけど、他人のカメラに入らないように鑑賞するのが一苦労である。
焦げたピアノをずっと何枚も撮ってる人がいたので、そこに近寄って見られない。宙づりトランクの展示室では、部屋の端から反対側の端に立ってる連れの女の子をずーっと撮ってる人がいて、その前を通らずには奥へ進めない。
どうやって通過したらええんじゃよ(`´メ) ちょっと腹が立った。

撮影に夢中になって、背負ったリュックが作品の糸に引っかかりそうになった人を見かけた。スタッフが必死に監視していたけど、土日曜とか混雑する時はかなり危ないように思えた。

私が行った時点では、図録がまだ出来てなくて予約のみになっていた。それなのに作品リストの配布も無し(撮影禁止場所の案内図は配ったのに)とはあんまりである。
ボルタンスキー展ではちゃんと作品リスト配ってくれたのにさ。これが国立と民間の違いか。
とはいえ同じ六本木で同時期にボルタンスキーと塩田千春を見られるとは幸運✨である。一日に双方を見て回ると面白いかもしれない。(あきらかにボルタンスキーっぽい作品もあった)

190804b
ついでに隣の展望台フロアでやってる「PIXERのひみつ展」にも入った。コンセプトは以前に東京都現代美術館での展覧会で展示していた様々な技法を、解説部分を簡略化して実際に映像を操作して遊べるというもの。
私もいくつかやってみましたよ。素人や子ども対象のものなので、複雑なものはなかった。
この日は天気悪くて人が少なかったが、夏休みに入って家族連れが押しかけたらどうなるのかね。操作台は順番待ちになっちゃうのか。

客のほとんどは若いカップルか友人同士。中高年で来ているのは私だけ(周囲の展望窓を見ている人はいた)だし、一人で操作してたのも私だけだった(^0^;)ナハハ
でも頑張ってグッズ売場にも突入したぞ。若いおかーさんが小さい子そっちのけで、両手いっぱいに細々したグッズを抱えていた。購入用のバスケットありますよ(^^) 多分、ピクサー見て育った世代。きっと自分用ですね🎵

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2019年8月 3日 (土)

「ナポリのサルヴェ・レジーナ」:ナポリを聞いてから死ね

190803 演奏:阿部早希子ほか
会場:近江楽堂
2019年7月9日

ナポリ出身または縁のある作曲家の特集。……というか、チェロの懸田貴嗣が好きな曲ばかり選んだらしい。ソプラノ阿部早希子とチェンバロ渡邊孝は過去に3人で、北イタリアで録音した仲間とのことだ。この日はヴァイオリン、ヴィオラも加えて総勢6人だった。
歌曲はヴィヴァルディのモテット、ポルポラの「サルヴェ・レジーナ」、ヘンデルのモテット。その合間にチェロと鍵盤の器楽曲を挟むという構成である。

ポルポラに関しては懸田氏が「生誕333年記念」のTシャツを取り出してまず宣伝。歌手の弟子が多く、カファレッリは5年間同じペーシを歌わされたという逸話が残っているという。また、ハイドンは若い頃に弟子兼助手をして仕えていた。
「サルヴェ・レジーナ」はヴェネツィアの女性歌手のために作られた曲で、なるほど華やかで歌手の声の聞かせどころが堪能できるような作品であった。

トリの曲となったヘンデルのモテットはイタリア時代に修道院の依頼で作曲され、1707年にローマで演奏されたらしいとのこと。既に炸裂するヘンデル節、感情の盛り上がる部分と抑えた部分の対比が見事で、阿部氏の熱唱で表現された。

器楽の方は、渡邉氏が前半に弾いたチェンバロ曲「トッカータ」の作者N・ファーゴはナポリの音楽学校出身。その弟子のL・レーオが作曲したチェロ協奏曲を、今度は後半に懸田氏が演奏という繋がりだった。
チェロの演奏は熱気と汗ほとばしるといった印象のリキの入り具合で、会場もそれに巻き込まれたようになった。

このように「イタリア熱」あふるるコンサートであった。
合間に渡邉氏の解説が入ったのだが、NHK-FM「古楽の楽しみ」でのムダなく落ち着いた語り口は、実は仮の姿。その正体は、話しだしたら止まらないタイプなのである。
同じく止まらないと言えば、フルート前田りり子はつんのめるように早口で喋るが、彼の場合は全く異なり、その語り口は飄々としている。飄々と話が続き--ひょうひょう--ひょうひょう……客「ありゃ、まだ話が終わらない!?」という次第。要注意だろう。

そういや、開場時間に遅れて(この前に見ていた映画の上映が遅れたため)開演20分前に会場へ急いでいたら(自由席なので遅れるといい席にありつけない)、ドリンク片手にポロシャツ着たおにーさんが悠然と歩いている。その後ろ姿に見覚えがあるような?と思ったらやはり渡邊氏だった。
よ、余裕ですなあ……(^^; それから着替えてチェンバロの調律までしてた。

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