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2019年9月

2019年9月30日 (月)

聞かずば死ねない!古楽コンサート 10月版

早くも芸術の秋でコンサートラッシュですよ。

*4日(金)LA PARTIDA(出帆)~渡邊さとみさんを偲んで(アンサンブル・デルフィヌス):近江楽堂
*5日(土)佐藤俊介とオランダ・バッハ協会管弦楽団:彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール
*  〃  甘美なるイタリア・バロックの響き(レ・タンブル&ハルモニア・レニス):小金井宮地楽器ホール
*6日(日)爛熟のイタリア 楽器を彩るディミニューション(ソフィオ・アルモニコ):近江楽堂
*  〃  ジルヴィウス・レオポルド・ヴァイスの作品を弾く3(佐藤亜紀子&本村睦幸):ソノリウム
*8日(火)テレマン ベスト・オブ・トリオソナタ(レ・タンブル&ハルモニア・レニス):近江楽堂 ←5日の小金井公演に行きたかったけど他と重なってしまったのでこちらへ行くことに
*10日(木)ジョスカン・デ・プレ 諸聖人のミサ(ヴォーカル・アンサンブル カペラ):東京カテドラル聖マリア大聖堂
*16日(水)クリストフ・ルセ&パリの仲間たち:ヤマハホール
*19日(土)ピエール・アンタイ チェンバロ・リサイタル:ハクジュホール
*20日(日)ミューズの力 恋する女性たち フレンチカンタータの世界(クレール・ルフィリアートルほか):石橋メモリアルホール
*30日(水)イベリアの吟遊詩人マルティン・コダシュ(メネストレッロ):近江楽堂
*31日(木)18世紀を彩ったフランスバロック黄金期名曲集(アンサンブル・マレッラ):近江楽堂
*  〃   ジャン・ロンドー:王子ホール ♪バッハ&スカルラッティ篇

何も同じ月に人気チェンバリスト3人一度に呼ばなくてもいいんじゃないのと思ってしまいました(^^;ゞ
これ以外はサイドバーの「古楽系コンサート情報(東京近辺、随時更新)」をご覧ください。

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2019年9月26日 (木)

「イギリスのリュートソング」:埼玉に英国の香りが~

190926 演奏:冨山みずえ、ゲイブリエル・ゴットリーブ、つのだたかし
会場:松明堂音楽ホール
2019年9月15日

文化果つる地埼玉には貴重な小ホールでのコンサート。主にダウランドを中心としたソロとデュエット曲のプログラムである。他の作曲家はトマス・キャンピオンとジョン・ダニエルで、後者は全く知らなかった。

冨山みずえのソプラノは優しく清澄で、ちょうどこの小さな(というより狭い?)空間によく合っていた。バリトンのG・ゴットリーブの大柄な身体から繰り出される声量は豊か、会場からあふれんばかりだった。
つのだたかしの独奏タイムもあり。恒例の彼の語りはもはや老人力が入ったぼやきに近かったですよ(^-^;

J・ダニエルについては、ダウランドと違ってかなりひねくれた曲調で歌いにくそうではあるが面白そう。もっと聞きたくなった。

そもそもこのコンサートの始まりは、ゴットリーブ氏の父親がリュート製作者でつのだ氏が3台作ってもらったそうな。で、その時なぜかゴットリーブ家に転がりこんで数か月滞在していたという。
さらにゴットリーブ氏学生時代に日本に留学経験あり、この度英国ロイヤル・オペラの一員として来日するに当たって、いきなり「何か一緒にやろう」とメールをつのだ氏に送ってきたとのこと。
会場には留学時代のホストマザーの方と実際の母上も来ていた。
ちなみに彼はかなりの長身。日本の電車だと乗り込む時に入口で引っかかっちゃうんじゃないの?というぐらいだった。

ということで和気藹々として親密なコンサートだった。休憩なしの90分なのに、プログラム記載も事前アナウンスもなかったのはちょっと不親切かなと思った。
会場は以前、暑い時期に行ったらエアコンが効きすぎてかなりの寒さで心配だったのだが、今回はそれほどでなくてヨカッタ(^。^;) ホッ

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2019年9月23日 (月)

「アートのお値段」:ノー・モア・マネー 芸術家のラスボスはあの人

190923 監督:ナサニエル・カーン
出演:アート界の皆さん
米国2018年

現代アートに興味のある人は見て損なしの面白いドキュメンタリーだった。
金、かね、カネ……の面からアートの価値を徹底追求。アーティスト、コレクター、サザビーズの担当者(オークショニアっていうの?)、評論家が様々に語る。「ギャラリスト」というのは「画商」のことか(?_?)

教科書に載るような過去の古典的名画は供給が限られているが、現代アートは作者が生きてて作品が作られ供給され続けるので、投機の対象となるのだという。
しかし、いくら高額で転売されても作った本人自身の儲けになるわけではないのがまた問題だ。
もはや「作品=カネ」はこの社会のシステムの一部として定着しているようだ。

実際に本人が登場して語るアーティストはJ・クーンズ。大きな工房を持ち何人ものスタッフが絵筆を握って制作。本人は直接描いたりしない。でも作るのは巨大インスタレーションだから莫大な金が動く。
売れっ子クーンズの逆がラリー・プーンズという画家(私はこの人知らなかったです)。過去に人気があったが忘れ去られている。
アフリカ系女性のN・A・クロスビーは、自分の絵画の値段が高騰していくのを達観したように眺めている。「アフリカ系」と「女性」というキーワードがさらに価値を押し上げているのかも知れない。

G・リヒターは作品はコレクターが持っているのではなく、美術館にあるのが望ましいと語った。サザビーズの担当者(リヒター押し)はその話を聞いて「倉庫で死蔵されるだけ」と笑った。
……だが、待ってくれい。バブル期に日本で民間に買われた大作アート(キーファーなど)は結局画商の倉庫で「塩漬け」になったという話を聞いたぞ。その後どうなったのか神のみぞ知る、である。

それ以外にバスキアやダミアン・ハーストの名が上げられ、高額な彼らの作品が紹介される。あの「牛の輪切り」はもはや過去の栄光になっているみたいだが。

一方、「多くの人がアートの『値段』は知っていても『価値』は知らない」と語る老コレクターが登場。彼の高額そうなマンションには高そうな作品がいくつも飾られている。彼はシニカルだがアートを愛しているのは間違いないだろう。
彼の出自が明らかになるくだりは興味深い。そんな彼でも監督のインタビューの果てにたどり着いた「芸術とは何?」という問いには答えられないのだ。

彼が熱心に自分のコレクションについて語る姿や、実際にアーティストの制作過程見せることによって、現代アートがよく分からない人への入門にもなっているようなのは面白い。
だがその現代アートというテーマにもかかわらず、それをひっくり返すオチ(ダ・ヴィンチの某作品がらみ)が最後に来たのには笑ってしまった。

なお、先日イギリスの宮殿に展示されていた黄金の便器(約1億3500万円の価値)が盗まれる事件が起きたが、この便器も作中で紹介されていた。材質は黄金なれど普通の便器のように配管され使用可能。
米国の美術館で展示されている場面では長蛇の列ができていた。個室で実際に使用できたらしい。それなら私も使ってみたいわい( ^^)/
なお、これ自体は「過剰な富を批判した作品」とのことだ。

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2019年9月19日 (木)

「フィンランド・リコーダー四重奏団《ブラヴァーデ》」:笛の嵐到来

190919 会場:武蔵野市民文化会館小ホール
2019年9月8日

フィンランドのリコーダー・カルテットが来日。初来日かと思ったら過去にも来ているようである。(NHK-BSで放送されたらしい。これも会場は武蔵野ですよね?)
外見はもろに北欧系おねーさま4人組という感じ。主に低音担当のメンバーは産休で、別の若手が急遽入ったとのことだった。

全体に感じたのはリコーダーのアンサンブルだけの演奏で飽きたりしないように、色々と工夫を凝らしているということ。
大抵は椅子に座って4人で演奏しているが、曲によって舞台前方で立って吹いたりソロでやったり。また曲目もフィンランドの民謡、ルネサンス、バロック、現代曲を区別付けることなくプログラムしている。

ダウランドから始まってルネサンス曲が続いたかと思ったら、いきなりソロで笛2本くわえて吹く現代曲になるという意外な展開。かすかにステレオ効果も感じられたりして。最後の気合いのような息を吐くのも指定されているのか?なんて思ってしまった。こんな曲芸のような曲があるのねー。石井眞木の作品だそうな。

かと思えば、バッハのライプツィヒ・コラールからの曲は対位法バリバリで、その響きの中にたゆたう気分になった。それからパーセルを経て、また風をイメージした現代曲となるという次第である。

後半でも、現代曲から途切れることなしにいつの間にか静かにヴィヴァルディの「夜」へと続いていたという場面があった。
「四季」もやったのだが、これが「5分で分かる四季」みたいな調子でえらい勢いで「春」から吹き始めたと思ったら、あっという間に「冬」まで行ってしまった。速い!
編曲の面白さもこの手のアンサンブルの醍醐味ですね(^_^)b

あと印象深かったのは廣瀬量平の「イディール」という曲。本当に吹いているのかというぐらいのささやくような極小音を出していた。後ろの席まで聞こえるのかと思っちゃうぐらいだ。
メンバーは色々な笛をとっかえひっかえして、様々なアンサンブルを楽しむことができた。なおアンコールは「フィンランディア」だった。

この日は夜に大型台風🌀が来ると予報が出た日。そのためかポコポコ空席があった。休憩時間に私鉄が10時で止まるという掲示が出たせいもあってか、サイン会もあまり人が並ばなかったのは残念。
私は長傘、雨靴という装備で来たけど帰宅するまでほとんど降られなくてヨカッタ。

ところで、グループの正式な名称は「ブラヴァーデ」なのかそれとも「ブラヴァデ」?
他の地域での公演では後者だったらしい。まあ、招聘元によってアーティストの名前の読み方変わってしまうのは珍しくないことだけど、なんとかしてくだせえ。

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2019年9月17日 (火)

「COLD WAR あの歌、2つの心」:生きて別れし物語

190917 監督:パヴェウ・パヴリコフスキ
出演:ヨアンナ・クーリク、トマシュ・コット
ポーランド・イギリス・フランス2018年

イーダ』の監督の新作はカンヌで監督賞受賞、オスカーも3部門ノミネートという高評価だった。どうも恋愛映画っぽいということで、二の足を踏んでいたのだが評判が良かったので見ることにした。

戦後数年経ったポーランドから始まる。冒頭農民たちによって歌われる、野卑にして強烈なエネルギーを持つ民族音楽に引きつけられる。
場面はそのまま歌手のオーディション場面に繋がり、一人の若い女が注目される。年齢は若いがどうも過去に色々ありスネに傷持つ強烈な個性の人物のようだ。
その女と、彼女を採用した作曲家兼合唱団の指揮者の男との長きにわたる複雑な関係が描かれる。

くっ付いては離れ、離れてはまた片方が追いかける--ということを繰り返すが、その間女は他の男と結婚していたり、と一筋縄ではいかない男女の仲である。
私は恋愛ものが苦手なので、どうにもよく理解できない。その心理は不可解である。
特に後半、ケンカを繰り返した挙げ句に男が投獄されると分かっていて女を追っていく件りとその後に至っては、性急すぎる展開もあってよく分からん。
と思っていたら、終わった後に近くの女性客が「なんで(男が)あそこで戻っちゃうのよ~」と話していて激しく同感だった。
理解できないのは私だけではなかったようだ。ホッ(^o^)

当時のポーランドの政治状況は直接語られることは少なく、音楽の有り様を通して描かれている。素朴な民謡がアレンジされて合唱曲になり、やがて政治体制を翼賛するような大がかりな舞台公演と化し、最後にはエンターテインメントとして他国でも上演する。
しかし最初の野卑なテイストは失われても、やはりその音楽はそれぞれに魅力はあるのだ。「2つの心」という古い曲の変遷がそれを表す。
それ以外にもパリでヒロインが当時流行始めた「ロック・アラウンド・ザ・クロック」で踊り狂ったり、故国の「サマーフェスティバル」でボサノバをやる気なさげに歌う場面などあり、面白い。
まさに「歌は世につれ世は歌につれ」🎵である。

そしてパリでの生活だが、『ホワイトクロウ』ではあれほど魅力的に描かれたあの街が、時代がずれるとはいえ、薄汚くスノッブで鼻持ちならない場所となっているのは興味深い。両方足して2で割ればちょうどいいのかね(^^;
また全編モノクロの映像は強烈である。特に日差しを映した場面が印象に残る。さすが撮影賞にノミネートされただけはあると感じた。
ヒロイン役のヨアンナ・クーリクはジェシカ・チャスティン似の強気っぽい美人。『イーダ』にも歌手役で出ていたらしいのだが、覚えていないです(^^ゞ

見た後で監督のインタビューを読んだら、この物語は監督自身の両親をモデルにしていると知って驚いた。なんと二人はヨーロッパを股にかけ40年もの間別れたり復縁したりを繰り返していたのだという。映画よりもさらにスケールが大きい。ビックリである。

私はそれを知った時、二人の子どもである監督はそれをどう思っているのかなあと疑問に思った(事実を述べているだけで彼の心境は特に語っていなかった)。
それをモノクロ90分にまとめ上げた手腕はかなりのもの。
そうなると、あの理解に苦しむラスト(あの場所に行って○○して●●する)も、彼にとって親に対する心情の決算だったのだろうか……。

ただエンドクレジットに「ゴルトベルク」を流したのはさすがに意味不明。『イーダ』でもコラール前奏曲使っているからバッハ好きなのかしらんとは思うけど。最近「ゴルトベルク」やたら使われ過ぎ💢という意見をいくつか見かけた。
普通だったらショパンの「マズルカ」だと思うが。当たり前すぎ?

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2019年9月14日 (土)

「バルバラ・ストロッツィ 生誕400年記念コンサート」:400年目の復権

190914 演奏:ディスコルシ・ムジカーリ
会場:豊洲シビックセンターホール
2019年9月2日

生誕400年だったとは知らなかったストロッツィ。結成されたばかりのグループによって記念公演が行われた。
主催者は佐々木なおみという研究者で、そのため曲間に詳しい解説が入ってレクチャーコンサートと言っていい濃い内容になっていた。
コンサート全編ストロッツィというのはさすがに聞いたことがない。しかも日本初演というのが数曲入っている。

以前は、彼女はパッとしないまま認められず忘れられた作曲家という見方をされていた。しかし最近では全く異なるストロッツィ像が浮上している。
使用人の私生児として生まれるも実の父親の養子に入り、音楽教育を受け自作曲を歌う。当時の文化人が集うサロンを開き、貴族の愛人としてシングルマザーとなり、投資の才能を生かして大いに富を築いた。その間に七つの曲集を作ったという。
まさに公私ともに充実していたわけだ。

プログラムは主に彼女のマドリガーレ集、カンタータ集から。ほとんど世俗歌曲だが、一つだけ宗教曲も歌われた。
歌手は一声部一人(ソプラノ阿部早希子、CT村松稔之、テノール福島康晴、バス目黒知史)で曲によって組み合わせが変わる。当然ながらソプラノ独唱曲が多く、カンタータ集7からの「ラメント」、大作と言える「2台のヴァイオリン付きセレナータ」は阿部早希子の力唱熱演がとりわけ映えていて✨感銘を受けた。
曲自体はイタリア語の歌詞と密接に結びついて作られているとのこと。イタリア語は全く分からない私には、初期バロックと後期のどちらにも振り切らない「重さ」のようなものが感じられた。

ラストの「恋する場をあきらめた老年の恋人」は男声3人によるユーモラスな曲。オヤジはいつの時代もあきらめ悪くて困ったもんよ💨な内容で会場を笑わせたのだった。

合間に同時代のマリーニの作品や、レグレンツィとカッツァーティがそれぞれ作ったストロッツィの名を冠した器楽曲も演奏された。
器楽はヴァイオリン2人、通底3人の編成。最初の予定ではヴァイオリンの片方を先日亡くなった渡邉さとみが担当するはずだった(チラシには写真付きでクレジットされている)。惜しい方を亡くしました。合掌(-人-)

リキの入った内容に比例して長さも2時間以上(休憩含む)、聴き応え大いにあり。年1回ずつコンサートをやっていく予定らしい。
「関係者席」がかなり数が多くて驚いたが、それだけ業界内注目の公演だったということだろう。歌手や演奏家を何人もお見かけした。

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2019年9月11日 (水)

「新聞記者」:ヒューマン・ドキュメント スクープしなけりゃ意味ないよ

190911 監督:藤井道人
出演:シム・ウンギョン、松坂桃李
日本2019年

過去に度々「日本では社会派映画の伝統は途絶えた!なんてこったい(>O<)」みたいなことを書いてきたので、その手前どんなもんかと見てきましたよ。
結論から先に言うと、これって「社会派」なのか?と思わざるを得ない内容であった。

まず、女性記者の設定に驚く。日本人と韓国人のハーフでしかも米国からの帰国子女(母語は英語のようである)、失脚した記者であった父親の復権のためにわざわざ日本で自らも新聞記者となる--って、どうしてこういう複雑な設定にしたのか、事情を理解するだけで既に我が脳みそはオーバースペック状態だ。

彼女が取材しようとするのが内閣情報調査室の若手官僚で、外務省時代には上司がトラブルに巻き込まれた体験あり。
で、内調って何をしているのかというと、薄暗い大部屋で大勢がパソコンに向かってSNSに誹謗中傷や怪情報を書き込んでいるらしい。外部に指令飛ばしているシーンもあるけど(『ネット右翼とは何か』によると、実際には政府は直接に操作や指令はしていないもよう)。これがなんだか、よくある「悪の巣窟」っぽいイメージなのだ。
しかもSNSしか操作対象のするメディアはないようで、あたかもネットが世界全てのよう。

皆さん優秀な頭脳を持った超エリートなのに暗い所でゴソゴソしているだけなんて、人的資源の無駄遣いではないか。モッタイナーイ(~o~)
しかも、内調の場面は直接の上司と官僚男しか顔がハッキリ出てこない。同じ職場に考え方正反対のヤツとかいれば、ドラマ的に対立点が明確になると思うんだが。

一方、記者の職場の描写も判然としない。周囲の同僚は突出して動き回る彼女を、あたかも異星から来た「困ったチャン」の如く生暖かく見守るという風情。同僚たちについて個々に明確に描かれていないので、役者の顔でしか区別できない。上司のデスクの立ち位置も不明である。
さらに驚いたのが、主人公が書いたスクープ記事について、上司が大手新聞が後追いしたので「よくやった」と褒めたこと。記事の価値は大手紙が認めるかどうかなのか? ちゃんと裏取りして構成も考えて見事に記事にしたとかじゃないのか。
部外者には全く理解できない業界である。

加えて、劇中に原作の望月記者など実在の人物たちのトークがTV番組として背後に流される。わしゃσ(^_^)既に脳の老化が始まっているので、劇中の台詞とトークを両方同時に聞き取れる能力はないのよ。
あと、意味のない手ぶれカメラ止めて欲しい。それも手ぶれの域を超えたかなりの揺れで目が回る(@_@)かと思った。

それ以外にも???印が付く場面や設定がある。
しかし裏話を聞くと、実はなんと最初の段階では半ドキュメンタリーの造りになっていて、トークの場面と実名のドラマを組み合わせたものになっていたという。それを監督が脚本を書き直したというのだ。
ええーっ、それじゃかなりとっつきにくい特殊な映画では(?_?) 『バイス』みたいな感じでもなさそうだし。

記者と官僚男が協力して闇の真相に迫るという形を取るが、結局のところ疑惑の解明とか社会への影響などはあまり重きを置かれてない。そもそも立ちはだかる外部の障害は上司の恫喝ぐらいである。
中心は謎やサスペンスではなく、困難にあった時の個人の慟哭とか煩悶という人間ドラマを描きたかったようだ。

190912 たまたま最近、斉藤美奈子の『日本の同時代小説』(岩波新書)を読んだのだが、それによると明治二十年代に近代文学なるものが勃興した時「ヘタレな知識人」「ヤワなインテリ」が主人公であった。「グズグズと悩み続けるハムレット型の「青年」たち」である。
これって、まさにこの映画の若手官僚そのまんまじゃないの。
文学では戦後から現代に至るまで様々に変遷してきたが、まだ映画にはそのような主人公像が生き残っているのだろうか。

しかもグズグズと悩み続けて、生まれたばかりの赤ん坊と一緒にヨメさんにハグしてもらう始末。この嫁さん大変だな、子どもがもう一人いるんだもん。自分だって帝王切開して大変だったつーのに。
私だったら、妻は何も分かってない設定にして「この子には習い事二つぐらいはさせたいし、いい学校にやりたいから、○○くん(←名前忘れた)のお給料だけに頼るのは心配。私もそのうちパートで働くねー」と無邪気に語って、主人公をさらに追い詰めるようにしたい。

ということで、ここに至って記者がなぜオーバースペックな女性であるのか分かった。
漱石の『三四郎』の主人公を翻弄するのが、明治時代の「都会派のギャル・美禰子」ならば、現代の超エリート官僚男に対するのは出自も文化も全く異なるバイリンガルの帰国子女でなくてはならないのだ。

かくして社会派映画ではなく「文学」を見たのであった。
そもこういう題材が選ばれること自体少ないので批判するのもマズイかなーと思うが、褒めている感想が多いのでこれぐらいいいよね。

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2019年9月 7日 (土)

「Ut/Faコンサート」:リコーダーが登場する推理小説はあるか?

190907 演奏:宇治川朝政&福間彩
会場:近江楽堂
2019年8月31日

二人組ユニットのウトファ、今回は「やりたいものをやろう」と選曲していったら、国も時代もバラバラになってしまったという。
ただ唯一の共通点はリコーダー❗である。

18世紀ベルギーのフィオッコという作曲家に始まり、17世紀のファン・エイク(リコーダー独奏)、16世紀はバード(こちらはチェンバロ独奏)。ロンドンのイタリア人バルサンティ、さらにオトテール、テレマンといった次第だ。
リコーダー曲というのが共通と書いたが、使用楽器はそれぞれ異なっている。宇治川氏が嬉しそうに「持っている全てを公開ヽ(^o^)丿」と言わんばかりにとっかえひっかえして解説しては吹くのであった。

あ、チェンバロはいつもの会場備え付けのとは違ったので、こちらの方の説明も聞きたかったですなあ。
福間氏によるとバードの曲は左右で拍子が違い、クルクル変わるのが弾いてて面白いとのことだった。

一番の聞き所はファン・エイクの「夕暮れ時に何をしよう」だったろう。9つの変奏から成る曲で最後は指が目に止まらぬほど(やや大げさに言っております💦)の強烈な早吹きであった。なお、元は歌詞が付いている曲なのだが「ヒワイな内容で(^^ゞ」と宇治川氏は若干嬉しそうに繰り返していた。
あと初めて聞いたフィオッコはいわゆる美メロ✨な曲。

なお、ファン・エイクは本業はカリヨン奏者だったとのこと(リコーダーは余技?)。
カリヨンという楽器をナマで聞いたことも見たこともないが、初めて存在を知ったのは、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』による。館の塔にカリヨンがあって、演奏途中で奏者が失神して倒れちゃう。物騒な楽器であるよ(~o~;)

次の木の器主催公演は恒例クリスマス・コンサートとのこと。プレゼント当たるといいなあ。

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2019年9月 3日 (火)

「訣別」上・下巻

190904 著者:マイクル・コナリー
講談社文庫2019年

刑事ボッシュ・シリーズの19作目が早くも出た。
前作では心ならずも犯罪者の弁護側調査員として働いてしまったボッシュであったが、今は私立探偵の免許を取り直し、さらに近隣の小都市サンフェルナンド市の警察でボランティアとして働く日々である。

警察にボランティア(?_?)と驚くが、財政問題から人員を減らしたことへの対応策だという。完全無休で月2回出勤する代わりにバッジを持てるらしい。多分、実際にこういうボランティア制度が存在するのだろうが、作中で『ブレードランナー』の台詞が引用されているように「警官じゃないなら、お前はただの普通の男だ」という状況に耐えられない者が少なからずいるということか。
やはり刑事は3日やったら止められないようである。

二足のわらじを履く主人公に、ほぼ同時に探偵と刑事の案件が起こる。全く性質の異なるものだが、どちらも重大なネタである。
その二つがどこかで交差するのか、それともしないのか。
途中で起こるトラブルには、ボッシュが二足のわらじを履いていたのが原因ではないかと思われる節があり、彼がほぞを噛む思いをすることになる。
銃撃戦の場面があるが、描写はお見事で惚れ惚れする(^^)b

ボッシュはベトナム帰還兵という設定だが、これまでそれについての詳しい話は語られてこなかった。今回、ベトナムに派兵されていた男について調査する中で当時の思い出が登場する(少しだけだが)。
それで初めて知ったのだが、当時ベトナムの米兵(それも「戦闘経験者」)の間でトールキンの『指輪物語』の人気が高く、よく読まれていたという。
「自分たちがいまいる場所と自分たちがやっていることという現実から連れ去ってくれる」
これを読んで、私は太平洋戦争中に徴兵された若者が『黒死館殺人事件』を背嚢に入れていったという話を思い出した。

次に日本で刊行予定の作品はボッシュものを離れて、LA市警の女性刑事が主人公の作品になるとのこと。でももっと後の作品では二人は共演してるようなので、これまた楽しみである。

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