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2019年9月11日 (水)

「新聞記者」:ヒューマン・ドキュメント スクープしなけりゃ意味ないよ

190911 監督:藤井道人
出演:シム・ウンギョン、松坂桃李
日本2019年

過去に度々「日本では社会派映画の伝統は途絶えた!なんてこったい(>O<)」みたいなことを書いてきたので、その手前どんなもんかと見てきましたよ。
結論から先に言うと、これって「社会派」なのか?と思わざるを得ない内容であった。

まず、女性記者の設定に驚く。日本人と韓国人のハーフでしかも米国からの帰国子女(母語は英語のようである)、失脚した記者であった父親の復権のためにわざわざ日本で自らも新聞記者となる--って、どうしてこういう複雑な設定にしたのか、事情を理解するだけで既に我が脳みそはオーバースペック状態だ。

彼女が取材しようとするのが内閣情報調査室の若手官僚で、外務省時代には上司がトラブルに巻き込まれた体験あり。
で、内調って何をしているのかというと、薄暗い大部屋で大勢がパソコンに向かってSNSに誹謗中傷や怪情報を書き込んでいるらしい。外部に指令飛ばしているシーンもあるけど(『ネット右翼とは何か』によると、実際には政府は直接に操作や指令はしていないもよう)。これがなんだか、よくある「悪の巣窟」っぽいイメージなのだ。
しかもSNSしか操作対象のするメディアはないようで、あたかもネットが世界全てのよう。

皆さん優秀な頭脳を持った超エリートなのに暗い所でゴソゴソしているだけなんて、人的資源の無駄遣いではないか。モッタイナーイ(~o~)
しかも、内調の場面は直接の上司と官僚男しか顔がハッキリ出てこない。同じ職場に考え方正反対のヤツとかいれば、ドラマ的に対立点が明確になると思うんだが。

一方、記者の職場の描写も判然としない。周囲の同僚は突出して動き回る彼女を、あたかも異星から来た「困ったチャン」の如く生暖かく見守るという風情。同僚たちについて個々に明確に描かれていないので、役者の顔でしか区別できない。上司のデスクの立ち位置も不明である。
さらに驚いたのが、主人公が書いたスクープ記事について、上司が大手新聞が後追いしたので「よくやった」と褒めたこと。記事の価値は大手紙が認めるかどうかなのか? ちゃんと裏取りして構成も考えて見事に記事にしたとかじゃないのか。
部外者には全く理解できない業界である。

加えて、劇中に原作の望月記者など実在の人物たちのトークがTV番組として背後に流される。わしゃσ(^_^)既に脳の老化が始まっているので、劇中の台詞とトークを両方同時に聞き取れる能力はないのよ。
あと、意味のない手ぶれカメラ止めて欲しい。それも手ぶれの域を超えたかなりの揺れで目が回る(@_@)かと思った。

それ以外にも???印が付く場面や設定がある。
しかし裏話を聞くと、実はなんと最初の段階では半ドキュメンタリーの造りになっていて、トークの場面と実名のドラマを組み合わせたものになっていたという。それを監督が脚本を書き直したというのだ。
ええーっ、それじゃかなりとっつきにくい特殊な映画では(?_?) 『バイス』みたいな感じでもなさそうだし。

記者と官僚男が協力して闇の真相に迫るという形を取るが、結局のところ疑惑の解明とか社会への影響などはあまり重きを置かれてない。そもそも立ちはだかる外部の障害は上司の恫喝ぐらいである。
中心は謎やサスペンスではなく、困難にあった時の個人の慟哭とか煩悶という人間ドラマを描きたかったようだ。

190912 たまたま最近、斉藤美奈子の『日本の同時代小説』(岩波新書)を読んだのだが、それによると明治二十年代に近代文学なるものが勃興した時「ヘタレな知識人」「ヤワなインテリ」が主人公であった。「グズグズと悩み続けるハムレット型の「青年」たち」である。
これって、まさにこの映画の若手官僚そのまんまじゃないの。
文学では戦後から現代に至るまで様々に変遷してきたが、まだ映画にはそのような主人公像が生き残っているのだろうか。

しかもグズグズと悩み続けて、生まれたばかりの赤ん坊と一緒にヨメさんにハグしてもらう始末。この嫁さん大変だな、子どもがもう一人いるんだもん。自分だって帝王切開して大変だったつーのに。
私だったら、妻は何も分かってない設定にして「この子には習い事二つぐらいはさせたいし、いい学校にやりたいから、○○くん(←名前忘れた)のお給料だけに頼るのは心配。私もそのうちパートで働くねー」と無邪気に語って、主人公をさらに追い詰めるようにしたい。

ということで、ここに至って記者がなぜオーバースペックな女性であるのか分かった。
漱石の『三四郎』の主人公を翻弄するのが、明治時代の「都会派のギャル・美禰子」ならば、現代の超エリート官僚男に対するのは出自も文化も全く異なるバイリンガルの帰国子女でなくてはならないのだ。

かくして社会派映画ではなく「文学」を見たのであった。
そもこういう題材が選ばれること自体少ないので批判するのもマズイかなーと思うが、褒めている感想が多いのでこれぐらいいいよね。

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