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2019年10月

2019年10月31日 (木)

聞かずば死ねない!古楽コンサート 11月版

なんとなくドタバタしている秋の日々であります。

*2日(土)模倣か独創か パーセルとイタリアのマエストロたちのトリオ・ソナタ(コリーヌ・オルモンドほか):近江楽堂
*3日(日)ジャン・ロンドー:東京文化会館小ホール ♪フランス・バロック篇
バッハ&スカルラッティも行けばよかったかなあ(ーー;)
*6日(水)ランチタイム・コンサート エマー・カークビーを迎えて:石橋メモリアルホール 🎵入場無料❗
*7日(木)エマ・カークビー:北とぴあさくらホール
*11日(月)ガブリエーリとシュッツ 神聖なる響きの大伽藍(エクス・ノーヴォ室内合唱団):東京文化会館小ホール
*12日(火)カッチーニ 新音楽(鈴木美登里&今村泰典):近江楽堂
*14日(木)バルトルド・クイケン バロック・フルートリサイタル:浜離宮朝日ホール
*15日(金)・17日(日)ベルカントオペラフェスティバル・イン・ジャパン A・スカルラッティ「貞節の勝利」:テアトロ・ジーリオ・ショウワ
これはいまだに行くかどうか迷っています。
*19日(火)フランス宮廷恋のうた 17世紀フランス音楽の楽しみ(村上惇ほか):旧古河庭園・洋館
*27日(水)ラモー プラテ…ジュノンの嫉妬(ジョイ・バレエ ストゥーディオ):ブリリアホール
*28日(木)リュートの古風な楽しみ(つのだたかし&瀧井レオナルド):近江楽堂
*29日(金)・12月1日(日)北とぴあ国際音楽祭 ヘンデル リナルド:北とぴあさくらホール

これ以外はサイドバーの「古楽系コンサート情報」(東京近辺、随時更新)をご覧ください。

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2019年10月30日 (水)

「ソフィオ・アルモニコが綴る 爛熟のイタリア」:装飾なしでは始まらぬ

191030 器楽を彩るディミニューション
演奏:ソフィオ・アルモニコ
会場:近江楽堂
2019年10月6日

ルネサンス・フルート集団のソフィオ・アルモニコ、この日はリュートの坂本龍右を迎えてディミニューション特集である。
そもそも「ディミニューション」って何(^^?などとシロートは思ってしまうのだが、ルネサンスから初期バロックへと音楽が変化する中でより劇的に複雑化していった装飾--ということでいいんですかね。
ジョスカンの時代に対位法完成→後は装飾音を使いまくり→遂に崩壊→メロディと和声のバロック世界へ、となるとのこと。

前田りり子を始めとするメンバーの解説によると、フルートという楽器はルネサンス期が最盛期。しかしその特性として劇的ではない、柔らかい音、そして音量も小さい……ということから、バロックの過渡期の音楽の変化について行けない。
ルネサンス・フルートでは複雑な曲の演奏は難しく、装飾が付いている曲は装飾音を抜くと間延びしてしまう。ツィンクやヴァイオリンなら全く問題ない。で一度は衰退して、フルートが復活するのは17世紀後半になってからだそうだ。

このコンサートでは、そんなフルート激動の時代を実際に曲を演奏し、装飾音を通してたどった。古くはオルティスの変奏曲(リュート独奏曲はもっと古いダ・ミラノ)からフレスコバルディの四声の曲まで。フルートはどう生き残ってきた(あるいは生き残れなかった)かが目の前(耳の前)で明らかになる。
低音の特注楽器も登場、野崎真弥によるハーディガーディの特別出演も交えつつ、ルネサンス・フルートの限界に立ち向かうのであった。

しかし古楽に興味のない人からすれば、なぜ不自由な楽器を使って困難な曲をわざわざ演奏しようとするのか全く理解できないに違いない。全く意味の無いことに思えるだろう。
だけど、それが古楽人の生きる道よ(T^T)クーッ
もちろん実際に聞こえてきた音楽は全く「不自由」ではなかったのであるが。


本日の失敗は休憩時に会場へ再入場する際に、バッグの中のチケットつかんで出して通ったら、後で見ると昨日のオランダ・バッハ協会の半券だったこと。わざとじゃないんですう(>O<)
教訓:終わったコンサートの半券は素早く処分すること

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2019年10月28日 (月)

「Tommy/トミー」:ケバい・派手・悪趣味の三重楽

191027 監督:ケン・ラッセル
出演:ロジャー・ダルトリーほかザ・フーの皆さん
イギリス1975年

『ロケットマン』の公開記念?それとも原作であるザ・フーのアルバムが発売50周年だからなのかは不明だが、HDリマスター版でリバイバル上映! ケン・ラッセル監督のファンとしては見に行かずばなるまいて。
年齢が分かってしまうけど、ロードショー公開時に見ている。もちろんまだ学生の頃である。(←なぜか強調) その後ビデオソフト買って何度か見ているがデッキが壊れしまい今はそれもできない。(ブルーレイ入手できるなら買おうかな)

第二次大戦中の英国はロンドン、少年トミーの父親は出征して戦死、その後母親は他の男と付き合い始める--というところに突然、死んだと思っていた夫が帰還。二人が父親を殺す現場を目撃した少年は三重苦の世界へ……。
ザ・フーのアルバムはロックオペラと銘打たれてはいるが、明確なストーリーがなく、ケン・ラッセルが脚本を書いて肉付けしたらしい。原作では第一次大戦だったのを変更、またそもそも殺されるのは愛人男の方だった。

それでも正直分かりにくい話ではある。虐待されて成長するも、ピンボールゲーム始めて突然回復、奇跡として持ち上げられて新興宗教の教祖に。金儲け主義が祟り信徒が反乱して全てを失う。たった一人残された彼は山中で覚醒するのであった。
……というようにかなり宗教的である(特に後半)。昔見た時も首をひねったが、今回もよく分からなかった。
ただし、終盤の高揚感はすごい。ロジャー・ダルトリー扮する主人公が裸足でグイグイ岩山を登っていき(スタント無しだったとは信じられない)、朝日に向かう一連のシーンは名曲のせいもあっておおーっ(>O<)と気分がアガるのだった。

後から考えてみると、これは終始父親を求める息子の話となっている。誕生時には既に父は不在で、再会したと思えば殺されてしまう。折々に彼の幻想に父親が現れる。
私は見てて気付かなかったのだが、冒頭で父親が山登りして朝日を見る場面とラストでのトミーの姿は完全に重なるのだという。
とすれば、父を求めて青年期に教団を率いる→破壊行為にあって全てを失う→復活して父親と合一……これってイエス・キリストの復活譚と重なるのでは?
そも、原作の設定と異なり実の父親が殺されることへとケン・ラッセルが変更したことからして怪しい。この違いは大きい。ピート・タウンゼントはよく認めたもんである。

だからといってシリアスなわけではない。全編ケンちゃん流のド派手でケバい映像と毒々しさが躁病的に展開する。
パンの代わりに錠剤を与えるエリック・クラプトンの怪しげな伝道師、注射器構えるティナ・ターナーの娼婦風アシッド・クイーン、キラキラ眼鏡に巨大なブーツ履いたエルトン・ジョンのピンボールの魔術師、あとミュージシャンじゃないけどジャック・ニコルソンのうさん臭くてイヤらしい目つきの医者も見どころだ。
当時の雑誌に「皆あまりにそのまんまっぽい役」と書かれていたぐらいのハマり具合だが、なんと最初はアシッド・クイーンはD・ボウイ、ピンボールの魔術師はS・ワンダーが予定されていたと聞いて驚いた(!o!) えーっ信じられん。

クラプトンの教会はM・モンローが聖像になっていて、あの有名なスカートがめくれるのを押さえているポーズを取っている。以前見た時は気付かなかったのだが、その台の表面は鏡張りになっていて、信徒が腰をかがめて像の靴の部分にキスするとスカートの中身の奥が鏡に映って見えるようになっているのだった。(もちろん何も履いていない)
なんたる不謹慎、改めてケンちゃんの悪趣味に感心した💕

ミュージカル定番のモブシーンは踊りではなく、破壊と暴力が荒れ狂う。こうでなくちゃね(^^)
なお、作中ではタウンゼントの定番ギター壊し場面もちゃんと見られる。

役者では母親役のアン・マーグレット(美しい)が迫力。チョコレートまみれになってのたうち回る場面で耳の穴までチョコまみれの狂躁的熱演を見て、昔「役者ってスゴイなあ」と感じたのを思い出した。その甲斐あってアカデミー賞候補になったのは当然のことだろう。
ケン作品常連のオリバー・リードは歌唱はナンだがアクの強さは抜群で存在感。
今回認識を新たにしたのは父親役のロバート・パウエル(『マーラー』で主演)である。ケンちゃん好みの繊細な顎、そして薄幸そうな蒼い眼……う、美しい(^0^;) 『マーラー』も再見したいもんだ。
ロジャー・ダルトリーは演技の経験なくて自信がなかったそうだが、立派なもんである。浴槽に沈められたのはご苦労さん。

当時、英米で大ヒットしたのだがザ・フーのファン、映画ファンにはあまり評判がよろしくない。「ケン・ラッセルはロックが分かってない」などなど批判多数。ザ・フーのメンバーもピート以外はクサしていた。今、ネットの感想サイト覗いてみても評価は低い。
それではケンちゃんマニアはどうか?と昔買った特集本引っ張り出してみたが、こちらも「ケンらしさが希薄な映画」などと言われちゃってるではないの。

ケンちゃんマニアが評価しなくってどうすると言いたい。まさに傑作✨かつ怪作♨(やっぱり)に間違いなし。
「駄作」と評する人も多いけど、名作・佳作・良作・問題作・珍作・奇作・迷作……はあっても駄作だけはあり得ない!!と断言したい。
ケンちゃんのケバケバしく毒々しい映像の光を浴びて全身の細胞が賦活、10歳ぐらい若返った気分となった。あー、やっぱり好きだなあとつくづく感じた。
もっとケンちゃんをプリーズ! 他の作品の再上映、ソフト再発を望む。


さて本作で当時聞いたウラ話と言えば、この映画は英米でかなりヒットした……のはいいが、日本ではザ・フーは知名度が低い。公開されるか微妙だったのを、配球会社の若手社員が「これは絶対にヒットする!」と力説して公開されることになったという。
しかし結果は……日本では惨敗であった(T^T)クーッ
件の若手社員氏がクビにならずその後も活躍できたことを祈る。

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2019年10月23日 (水)

佐藤俊介とオランダ・バッハ協会管弦楽団」:楽器それぞれ演奏者もそれぞれ

191023 会場:彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール
2019年10月5日

老舗オーケストラに若い日本人が抜擢!で話題のコンサートに行ってきた。一週間前に浜離宮でも同じ内容であったのだが、県民愛に燃えて💕彩芸の方を選択。ただ後日、行きたかった別のコンサートとバッティングしたことが判明……(T-T)

結論は「若くて才能のある人が本当にいるもんだのう」と感心したのであった。
冒頭、バッハ先生管弦楽組曲第1番を弦・管・通底それぞれ3人という少人数で演奏。会場の特性のためか輝くように響くオーボエ2本に対してバスーンの突っ込みがグイグイと強引で、思わず笑っちゃうほど。元々そういう曲とはいえ、ここまでやるかー(!o!)と言いたくなるほどの暴れ方だった。このバスーン氏、前半だけで引っ込んじゃったのは残念である。
その後も弦と管が対話をするように続き、こういう曲だったのかと認識を新たにし、新鮮に感じる展開と響きを聞かせてもらった。

続くピゼンデルの「ダンスの性格の模倣」では全員(11人)出場。様々な舞曲が勢いよく続き、ハッと気付いた時には曲が終わっていた。
再びバッハ先生はヴァイオリンとオーボエの協奏曲は、二人いたオーボエのうち女性の方が独奏したが、なんだかクセのある吹き方が気になった。全体としてはブラボーが飛ぶ出来だったけど。

後半のヴァイオリン協奏曲2番は、いよっ待ってました( ^o^)ノとかけ声をかけたくなるほどの、佐藤俊介の見せ場(聞かせ場)だった。まさにヴァイオリン弾きのための曲。バッハが作った当時もこんな風に優秀なソリストが弾きまくったのであろうかと思いをはせたりして。
他の日には第1番をやったそうなので、そちらも聞きたかった。

ドレスデンで活躍したビュファルダンの曲ではフルートが、次のブランデン5番では加えてさらにチェンバロも--とそれぞれに活躍。曲ごとに楽器の配置を変えて、楽器同士の対話と個人技が生き生きと調和していた。

グループ内の息の合い方もピッタリ、佐藤氏がさりげな~くリーターシップを取っているのがうかがえた。しかし彼はこの後モダンオケと共演の公演もやったりするのね。大したもんである。そのためサイン会は長蛇の列が出来ていた。

ところでチェロ担当の女性がすごく大柄な人だったのだが、隣のコントラバスの男性が非常に小柄(多分メンバー中で一番身長低い)というすごい差があった。
近くの客が「一番小さい人が一番大きな楽器をやってる」とポツリ一言もらしたのがおかしかった。どういう経緯でその楽器を選んだのか。人それぞれなんでしょうなあ。

本日のコンサートは前方に背が高い人が座ることもなく、両脇に雑音を発する人もいなくて、真にストレスなしで聞けてヨカッタ。
開演前と休憩終了時にスタッフの人が通路に立って注意事項を言ってたけど、反響のせいでほとんど聞き取れなかった(帽子と前のめりについて言っていたらしい)。放送でアナウンスした方がいいのでは。

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2019年10月19日 (土)

「ロケットマン」:黄昏のスター路

191018 監督:デクスター・フレッチャー
出演:タロン・エガートン
イギリス2019年

「見たいエルトンより見せたいエルトン」--なんとなくそんな言葉が浮かんでくる。そりゃそうだ、自伝ミュージカルにご本人が製作総指揮で入っているのだから。

父に嫌われ母に疎まれ、音楽の才能を発揮するも家族の愛情は得られない。つらい、苦しい、暗い……信田さよ子の『〈性〉なる家族』に出てくる事案そのままみたいな家庭に生まれたエルトンの恨み節。冒頭から次から次へと見せつけられる。

名コンビとなる作詞家のバーニー・トーピンと出会うけど、ゲイとしての愛情は受け入れては貰えず。しかし、そのエルトンの心境をトーピンが成り代わって詞を書いて寄越し、また彼が曲にして歌うっていうのは……どういう関係なんだ? 当時は二人がそんな微妙な関係とはつゆ知らなかった。
さらにミュージシャンものでは定番とも言える悪徳マネージャーに引っかかって、大ヒットしてスターになっても幸福ではない。見ているこちらはどんどん落ち込んでくるのであった。

「伝記」ではなくて、エルトンの過去に対する想いを自作曲と共に描く、と言った方がいいだろうか。依存症治療の施設で自分を振り返って語るという形式で、あまり正確な時系列に沿ってはいない。
脚本の問題なのか、その想念の描き方が身の上話を独白で語り、再現映像で見せ歌でも歌う。屋上屋を架すがごときだ。
最後は「幸せになりました」でカタルシスには乏しい。落ち込む上にスッキリしないのではなあ……。
ということで、『ボヘミアン・ラプソディ』の大ヒットで起こったクイーン特需のようなブームを洋楽市場は狙っていたようだけど、残念ながら不発に終わったようだ。

主演のタロン・エガートンのパフォーマンスは演技・歌唱(自分で歌っている)共に素晴らしかったので、そこが今ひとつ残念だった。オスカー候補確実の評はダテではなかったといえる。

見ていて、歌詞の字幕の付け方に疑問が残った。劇中で人物が歌う場面はコンサートの場面も含めて付く。ただしそれはエルトン作の曲のみで、他人の作品だと出ない。(例-ピンボールの魔術師)
劇伴でバックに流れる当時の曲などはエルトン作かどうかに関わらず出ない。
なんだか基準がよく分からないんだけど(^^;ゞ

さて思い出話になるが、私は当時全米トップ40を毎週チェックするのに熱中し、ラジオでFENをかけっぱなしにしていた。その頃のエルトンほど売れに売れたミュージシャンは知らない。ビートルズのレコード売り上げやチャートの記録を吹き飛ばし、自家製ジャンボジェットを初めて購入。さらに全米で収入(主にライブによるもの)ランクでも第1位となった。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことだ。
なので、この映画ではその時代のことがあっという間に通り過ぎてしまったのは肩すかしだった。きっとご本人にとってはいい時代ではなかったのだろう。

なお、作中でキキ・ディーとのデュエット場面が出てくる。あの曲のビデオクリップをそっくりそのまま流用しているような感じだ。
彼女はエルトンの婚約者として売り出した。でもいつまで経っても婚約者のままで結婚することはなかった……💨
変だなあとは思っていたが、後から考えるとゲイであることを隠そうとするための攪乱作戦だったのか(?_?) しかし、実は「誰それの婚約者」というのは新人売り出しによく使う手法だそうである。

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2019年10月14日 (月)

「ベルリン古楽アカデミー×ソフィー・カルトホイザー」:歌心あればオーボエ心あり

191014 会場:トッパンホール
2019年9月29日

ベルリン古楽アカデミーのコンサートは多分5回目。(前回の感想はこちら
今回のコンマスはベルンハルト・フォルクという人である。武蔵野でも公演あり、完売という人気だった。

前半は器楽のみのプログラム。J・SならぬJ・B・バッハって誰(?_?)と思っちゃうが、「ヨハン・ベルハルト」でバッハ先生の又いとこだそうだ。その「管弦楽組曲」の第1番は6楽章からなる。1730年頃にコレギウム・ムジクムで演奏されたものらしい。
バッハ先生の同名タイトルの曲に比べると流麗で滑らかな聴き心地である。ただ、それ故に面白味に少し欠けるような印象だった。

続いて息子カール・フィリップ・エマヌエルの作品よりオーボエ協奏曲。独奏として前回公演でも神業で吹きまくっていたクセニア・レフラーが登場した。第1楽章での空間を埋めるような重層的な弦の躍動感に続いて、第2楽章ではレフラーのオーボエが叙情たっぷりに歌ったのだった。

後半はソプラノのソフィー・カルトホイザーも加わり、ヘンデルのソロ・カンタータ「愛の妄想」を演奏。イタリア時代の作品とのこと。
歌の内容は恋人を亡くした女の悲痛な嘆きである。それを怒濤のようにたたみ掛けて歌い上げる。まだ若い頃の曲なのに、器楽には煽り立てるようなヘンデル節が既に潜んでいるようだ。オーボエ、ヴァイオリンとの絡みも見事。

しかし、歌詞は冒頭と最後のレチだけ第三者からその女を描写している。狂的な一人称の愛情表現から終盤の三人称による描写の冷静さへと、内容に則した微妙な切り替えをカルトホイザーは巧みに表現していた。
ヘンデル先生の時代もこのように強力なソプラノが聞き手を圧倒していたのだろうな、などと考えつつ拍手したのだった。アンコールは「ジュリオ・チェーザレ」より。

彼女は古楽畑での公演や録音が多く古楽歌手と言えそうだが、もっと後の時代のオペラでも十分通用しそうなタイプの歌唱だと思えた。


コンサート自体は良かったのだが、参ったのは隣の女性が最初から最後まで口に指突っ込んで歯に挟まった食べカスを取ろうとして(多分)、ずっとクチャヌチャ音を立ててたこと。
全ての音符と音符の合間、カルトホイザーの声と重なって、それが聞こえてくる。照明も割と明るめなので何してるか丸見えだったのだ。
気になってしまってかなり消耗した(-_-;)

休憩時間中は隣の印刷博物館でやってる「現代日本のパッケージ2019」というのが入場無料なので覗いてきた。デザイン大賞を取ったのはソニーのアイボのパッケージだった。
全体的には今は「和もの」が流行っているんだなあ、と。
191014b

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2019年10月10日 (木)

「未来を乗り換えた男」:終着の港

191010 監督:クリスティアン・ペッツォルト
出演:フランツ・ロゴフスキ
ドイツ・フランス2018年
*DVDにて鑑賞

久方ぶりに「映画館で見ておけばよかったと大後悔」案件に出会ってしまった。思えばハネケの『ピアニスト』以来である。
どうしてロードショー時に見なかったかというと、同じ監督の作品『東ベルリンから来た女』『あの日のように抱きしめて』は見ていた。しかし「面白いけど今ひとつ」な感じだったのである(特に『あの日』の方)。それで今回はどうしようかと迷っているうちに公開終了……と見送ることに。
とっころが(!o!)そういう場合に限って面白かったりするのだ。

冒頭、カフェで二人の男がドイツ語で会話している。その内容からどうもドイツからパリに逃げてきているらしく、ドイツ軍が迫りつつあるので新たな逃走先を探している様子だ。
となればこれは時代は大戦中、パリのユダヤ人の話かと思うが、人々の服装も街中を頻繁に疾走するパトカーも現代のものにしか見えない。

主人公の男はたまたま自殺した作家の遺品を手に入れ、その身分証や旅客船の切符を利用しようとする。そしてマルセイユに向かうのだった(これも命がけ)。
港町では国外脱出を図る人々であふれ、米国の領事館ではビザを得ようと長い行列が待っている。時間だけが経つ。残された時間は少ないというのに。
そこで、別れた夫を探して街中をさまよい歩く女に出会うのだった。

原作はユダヤ人作家によって1942年に書かれたにも関わらず、背景である街並は現在のものである。従って過去の話ではなく、新たにこれから発生する難民問題を近未来的に描いているようにも見える。

さらに不思議なのは、語り手のナレーションと映像の描写が異なることだ。
全てを観察しているとある登場人物が語り手で、「その日はすごく寒かった」と語っているのに映像では初夏の日差しで人は袖を腕まくりして歩いている。「二人は熱烈なキスを繰り返し」とあるが、彼らは喋っているだけだ。あるいは既に知り合いである親子について、初めて会ったような説明が入る。
そのような矛盾した語りが幾度も挿入されるのだ。これは恐らく原作の文章から取っているのだろうが、映像との齟齬が強烈な違和感を生む。ほとんどめまいに近い感覚である。

明るい陽光の下、大きなトランクを転がす観光客たちが闊歩する。窓から臨む輝く青い海と高層ビルそして客船、バルの外の舗道を行き交う乗用車--ここに何かが起こっているとは到底思えない。
しかし明るい港町は同時に暗い迷宮であり、主人公はその地を亡霊のようにさまよう。彼が隠れるホテルは沈鬱で、国外へ逃れようとする人々が絶望と共に息を潜めて待つ。何を待つ?--破滅なのか。この落差は大きい。
不穏、不穏、いずこにも不穏さが充満している。そこから逃れようはないのだ。

遂に町へ侵攻してきたドイツ軍は、同時にテロリストを捜索する警官のようにも、また反政府デモを鎮圧に向かう機動隊のようにも見える。もはや区別は付かない。
だが、それらの全ては明晰で影一つない風景の下で起こるのである。

それにしても終盤の展開には意表を突かれた。ええーっ(>O<)と驚いてしまった。加えて、断ち切られたようなラストがまた衝撃。その後のクレジットにかかるトーキング・ヘッズが明るい曲調にも関わらず(歌詞の訳が付いててよかった)ますます不安をかき立てる。
とにかく全編緊張感に満ちていて目が離せなかった。

さて、船旅で脱出がダメならピレネー山脈を越えるルートがあるというセリフが出てくるが、ベンヤミンは実際に米国へ渡航しようとするもビザが下りず、徒歩でスペインに向かうが国境で拒否されて山中で自殺したそうである。

主演のフランツ・ロゴフスキは見ただけでは思い出せなかったけど、ハネケの『ハッピーエンド』でプッツン息子をやってた人。あのカラオケ(?)場面には笑った。
希望の灯り』では内向的で地味でサエない若者だったが、本作ではもっとアクティヴで外見もスッキリしていて別人のようだ(同じ顔なのに)。ただ、双方とも人妻を追いかけるという点では似ている。
出演作まだ4本? 今度は全く違う役柄で見てみたい。今後の注目株だろう。
相手役のパウラ・ベーアは、同じ監督の過去作に出ていたニーナ・ホスに似ているような。

思えばデュラス原作の『あなたはまだ帰ってこない』と、この映画は表裏を成しているようだ。『あなたは~』ではパリが舞台で女が捕らえられた夫を探してさまようが、こちらはマルセイユで夫を捜し回る女を、さらに主人公が追い求める。
ただ前者はフォーカスをぼかしたり鏡を使うなど凝った映像で幻惑する女の心理を表していたのに対し、こちらは明るい陽光の下、鮮明な光景の中で全てが繰り広げられる。
いずれも戦争の混乱の中で現実が溶解していく。両者を見比べてみるのもいいかもしれない。

最初に書いたように、大きなスクリーンで見たかった--特に明るく迷宮的な町並の映像を。
一方でDVDなら不明に思った所を何度も後戻りして見られるから、このような謎めいた構造の作品を見るには向いているとも言える。
よく映画館でリアルタイムで見てて分からない部分があったりすると「TV放映かDVDでまた見直すぞー」と思うんだけど、実際に見直すことはほとんどないからね(+_+)

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2019年10月 3日 (木)

「クァルテット in Paris 2」:風が吹けば……

191003 パリジャンを魅了したエスプリの香気
演奏:AYAMEアンサンブル・バロック
会場:近江楽堂
2019年9月20日

後期--というより終期バロックにおけるパリの音楽状況を、粋すなわちエスプリという観点からそのままに体現してみせた4人の女性奏者によるコンサートである。
取り上げられた作曲家はギユマン、カンタン(二人とも知らなかったです)、ラモー……と聞いてみるとなるほど、ここにおいてはバッハも古くさくて野暮というしかない。

さらに、何よりもテレマンの「パリカル」が見事。当時の人気作曲家としてパリに招かれた彼の「最先端」ぶりがよく分かる演奏だった。
しかし実は、私個人はもうちょい古めかしいのが好きなんである。古風なヤツと呼んでくだせえσ(^_^)

この日の会場内の配置は奏者がドーム型の真ん中に位置して客が周囲に座るという形だった。チェンバロを中心にフルート、ヴァイオリン、ガンバが囲む。
何回かここで同じような配置でやったのを経験したことがあるけど、この方式の問題は奏者を見てるとついでに反対側の客を凝視してしまうことである。しかも時折目👀が合ったりして……恥ずかし(>ω<)キャッ

さらに、中心にエアコンの風が来るようになっているのだが、会場の気温が上がってきたのでエアコンを強くしたら、なんと楽譜がその風で飛ぶという事案が発生したのであるよ(!o!)
長らく近江楽堂で聴いてきたが楽譜が飛んだのは初めてだ~。人生何が起こるか分かりませぬ。

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2019年10月 2日 (水)

「ドッグマン」:ホール・ロッタ・ラヴ で、飼い主はどっちだ?

191002 監督:マッテオ・ガローネ
出演:マルチェロ・フォンテ
イタリア・フランス2018年

ガローネ監督は『ゴモラ』が衝撃で、その後も『リアリティー』『五日物語』も見た。後者は映像はキレイだけど話自体はなんだかなあという印象だった。
今回の作品はどれかと言えば『ゴモラ』系ではある。

舞台となるはイタリアの田舎町。これがまた、よくぞこんな場所見つけてきたものよと言いたくなるほどの寂れ具合である。
主人公は街の商店街の一角で犬のトリミングサロンを開いていて、腕前は良いようだ。時折商店街の仲間とサッカーしたり飲んだりする。妻とは別れているようだが、小学生ぐらいの娘を溺愛していて、訪ねてくるとエラいかわいがり様だ。

一方、彼には長い付き合いの友人がいる。こいつが大男で非常に乱暴で凶悪で、犯罪も平気で犯す。小柄で優しく気弱な主人公とは対照的。彼を脅しつけては様々なことを命じる。で、主人公は常にあらゆることでその大男に追従してしまう。悪事にもだ。
しまいには男をかばって刑務所にまで入っちゃう。娘が前科者の父を持つことになるのを考えないのだろうか? ご近所から冷たい目でで見られてもいいのか(?_?)

正直、見ててこの主人公の心理や行動がよく理解できなかった。大男に引きずられるだけではなくて、わざわざ自分の方から近寄っていく。さらには仕事でやってる犬相手のように対処しようともする。出来るわけはないのに。
これは一体どういうことなのだろうか。
……と訳ワカラン状態なのであった。

しかしSNSでとある人が若い頃の回想をしているのを読んで、男性同士の友愛の一形態として「支配-服従」というものがあるのではないかと私は感じた。このような関係に互いにとどまることこそがまさに友愛の印なのである。
「男性」だけでなく女性にもあるのかも知れないが、私は現実でもフィクションでも女性については見た記憶がないからとりあえずそう考えた(家族内の関係はまた別として)。

そう考えると、この主人公の言動は分からなくもない。
彼と大男の関係は、そのまま彼と犬との関係に逆転写されている。自分が危ない状況になるのに犬を助けに行く場面は極めて示唆的だ。

これはなんと実際にあった事件を元にしているそうだ(!o!) 多分、監督なりの解釈ということなのだろう。
空虚さと小汚さのまじった町、安っぽくケバケバと浮遊してるようなクラブ、居並ぶ各種の犬たち--そんな光景の中で不条理な人間たちが不条理な行動をとるのを、顕微鏡で微細な所まで拡大する。見てて決して心地よくはならない、快作ならぬ不快作だろう。
あと私は犬がどうも苦手なので、その点でも見るのがちと苦しかった。

主演のマルチェロ・フォンテはカンヌで男優賞取っただけのことはある「小心者」演技である。
なおカンヌではパルムドッグ賞も受賞。初めて見る人はどのワンコ🐶が取ったのか当ててみましょう(^o^)b

 

ところで、監督に「8月に日本公開されますが日本の観客に一言」とインタビューしたツイートが流れてきた。監督の答えは「えっ、8月公開。イタリアじゃ8月に映画なんか誰も見ないよ」だったそうな^^;

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