「ナウシカ考 風の谷の黙示録」
マンガ版の『風の谷のナウシカ』を民俗学の立場から俯瞰する解読の書である。論が進むにつれ著者の専門分野を飛び出し、宗教や文学のフィールドも巻き込んで読んでいく。それゆえ、現在マンガ批評の主流である絵柄やコマ割りからの分析はほとんどない。
結末に至るまでかなり詳細に紹介してあるので、マンガ読了者のみにオススメする。
アニメしか見ていないという人は多いだろうが、マンガ版は全7巻。連載途中でアニメ化されたために2巻目の途中までの内容しか入っていない。当然、結末は異なるし「青き衣」の意味も違ってくる。
マンガ後半で登場する人物もいて、クシャナなどは性格も設定も異なる。(赤坂憲雄はアニメのクシャナは『もののけ姫』のエボシ御前に近いと述べている)
途中までは過去にも書かれてきたディストピアSF、エコロジーSFの系列かと思って読んでいたが、結末に至って「えええーっ」と仰天した。それまでのSFにおける《常識》を完全にひっくり返すものだったからだ。
アニメとマンガは似て非なるものと言ってよいだろう。
この論はその結末の読解への導入として、新聞連載されたマンガ『砂漠の民』と絵物語『シュナの旅』の紹介・比較から始まる。昔、新聞連載のマンガなんて描いていたとは知らなかった。
これまで何度となくマンガ版を繰り返し読んでいたが、今まで謎だったことが幾つか理解できた。
ナウシカはなぜ過剰なまでに「母」なのか。
どうして彼女の発する破壊と混沌の匂いに、みな惹かれてついていくのか。
全てが終わった後に指導者ではなく、無名の人となって消えたのはなぜか。
それ以外にも色々と注目すべき指摘がある。
ナウシカはあくまで「族長」であり、「王」ではない。
他の宮崎作品でも同様に「母の不在」が見られる→『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『もののけ姫」『千と千尋の神隠し』。「不在の母がナウシカ的世界を覆い尽くしている」と。
文字で騙られる歴史によって搾取と支配が繰り返される。
……などなど。
最終章は原作のストーリーに沿って「シュナの庭」の主と「シュナの墓所」の主との対話(対決)について論じている。
ここで改めてマンガの「庭」を見てみると、美しい自然・清浄な空気・澄んだ空と陽光・穏やかな耕作地などが描かれている。さらにどうしようもなく下劣で愚かな人物であったクシャナの兄たちが、この地に入ると全てを忘却し、一転して教養あふれる芸術家に変貌するという不思議なことが起こるのだった。
しかし赤塚が指摘するように、そのような楽園の陰には支配と搾取のシステムがセットで存在するのだ。加えて生のエネルギーを甚だしく欠いた世界でもある。
そして善と悪の二元論的な戦いと黙示録的終末観を否定する物語として提示し、読解の手がかりを残して論を終了する。実に説得力ある論考である。そして猛烈にマンガ版を読み返したくなった。
難点をあげると、繰り返しが多いのが気になる(特に後半)。原作のセリフを引用し、それを著者自身の言葉で書き直し、さらに解釈を付け加えている。しかも同じ箇所が数回出て来たりするのだ。
それから、途中に「ウィキペディアで調べると--」みたいな部分がありガクッ💨となってしまった。せめて図書館で専門辞典の類を使ってくだせえ。
さて、冒頭に「関連年表」がある。それを見ると、宮崎駿はマンガ版を連載しつつ並行してその12年間にアニメ版『ナウシカ』と『ラピュタ』『トトロ』『魔女宅』『紅の豚』を作っているのだ……ハヤオ、恐ろしい子❗
以下は、『ナウシカ考』を経て再読してみたマンガ版の感想である。(ネタバレあり)
『ナウシカ考』でも詳しく考察された「シュナの庭」と「シュナの墓所」(の主との対話)--最初読んだ時、特に前者の地についてなぜナウシカがこれを否定するのか私には全く理解できなかった。最終戦争で汚染された世界を清浄化し、美しい場所で学芸を愛する人々が穏やかに暮らす。そのような未来世界が保証されているのなら結構なことではないか。なぜそれを妨げるのか。
そして実際彼女は「墓所」へ行って破壊を選択する。その瞬間も「自分の罪深さにおののきます」と自覚してやっているのだ。
それまでのSFの常識だったら、破壊された世界を元に戻すシステムが確保されていたことが判明してメデタシメデタシとなるはずなのに、完全に逆である。この行為はどうにも解せない。
ところで、先日TVを見ていたら皇居のニュースをやっていた。
映像で見ると都心にまっただ中にありながら、美しい草木に溢れ小動物が生息し穏やかな陽光が降り注ぐ、まさに庭である。
私はその時に「シュナの庭」とはこのような場所であろうかと思い至った。
考えてみればそこに住む人々もよく似ている。
ナウシカと「庭」の主との対話ではこのように語られている。「汚染されていない 動植物の原種 農作物 音楽と詩 それらを生きたままで伝えていく 客人とヒドラ……」
皇族は歌会を催し、文学について語り、クラシック音楽をたしなみ、歴史や環境について研究し、さらに儀式的な農作業(稲作や養蚕)を行う。
一方そこには工業技術に関するものは見当たらないようである。(奇しくもナウシカは「工房の技や知識」が「庭」に欠けていることを指摘している)
しかしひとたび皇居の外に出れば、そこは美とも平穏とも優雅ともかけ離れた都会が広がる。加えて、老後に二千万円貯めておかなければ生きていけない自己責任論はびこる殺伐とした世界である。
『ナウシカ』においても「庭」の外は荒野である。マスク無しに暮らせる土地でも子どもは育たず人口が減り、「森」の厳しい生態系の中では人間は一瞬たりとも生きられない。
このように二つの庭は似通っていて、「墓所」の主の計画した未来をどのようなものか考えるようとすると、皇居のありようが参考になる。
ここで人間は、皇族のように穏やかで優雅な暮らしを選ぶか、それとも過酷な生態系の中で容赦のない弱肉強食の生活をするか、秤に掛けて、どちらかを選ばなければならない。
普通ならば前者?……がしかし、ナウシカは後者を選んだ。それも人類の未来なのに一人で勝手に決めたのだ。果たして彼女にそのような資格があるのだろうか。
今回読み直して初めて気付いたのだが、ナウシカがかつての初代神聖皇帝と同じだと自ら認識する場面が2カ所ほどある。皇帝は世を救おうとヒドラを連れて「庭」から出て行くが、その姿は彼女が巡り会った者たちを引き連れて進みつつある状況と、明らかに重ね合わされている。
逆に言えば、彼女が「救世主」たる資格を持っていることも示す(「墓」でそのように認識される場面あり)。
結局彼女は救世主であることを否定し、それまでの救世主と正反対の行為を行うのだ。
そこで、いつも連想するのが光瀬龍のSFである。多分『たそがれに還る』かと記憶しているが、乗組員が誰もいない宇宙船の中で人々のデータを記録したカードが発見される。いつかそのデータが復元され生き返ることを期待してのことだ。
しかし驚いたことに、主人公はそのカード群を躊躇することなく踏みにじって捨ててしまう。そのようにものは生に値せず、そうまでして自らを残そうとするのは浅ましいと見なしてだろうか。光瀬龍は確か同じモチーフを宇宙年代記の短編でも使っており、強くこだわりを持っていたに違いない。
現在のSFでは彼のこのような考えは古くさいとされている。『攻殻機動隊』のように人格がデータとなってネットの海に漂っているような世界では、紙のカードであろうとデータ化されていれば復元できるのだから、生き続けているとみなされるだろう。
だが私は、データ化したカードを踏みにじる行為とナウシカが「墓」で行なった破壊は極めて似ていると思う。作者二人の年齢差は十数年のようだが共に戦前生まれだ。単に旧弊ということではなく「生」についての認識が通ずる所があるのではないか。
ついでに、もう一つ別の観点から見直してみよう。トルメキアが近世ヨーロッパの絶対王政を模しているなら、土着の原始宗教を駆逐した土鬼帝国はさしずめ近現代中国か(ヒドラを連れて改革を行なった初代皇帝は毛沢東?) とすれば海に近く大国の狭間で独立する風の谷は、宮崎駿が理想とする日本の姿なのか。
やはりハヤオ、恐ろしい子💥……なのである(;^_^A
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