« 2020年1月 | トップページ | 2020年3月 »

2020年2月

2020年2月29日 (土)

映画落ち穂拾い 2019年後半その1

200228a「ペトラは静かに対峙する」
監督:ハイメ・ロサレス
出演:バルバラ・レニー
スペイン・フランス・デンマーク2018年

邦題は違っている。全く「対峙」していない。悪人と弱者の物語である。スペインを舞台にしたイヤな気分満載の作品だ。
いきなり物語の途中から始まって驚かされる。ブツ切りならぬブツ始まりである。また映像が人物からずれていくカメラの視線も面白い。そういう映像や構成は個性的である。

だが見ている間はいいけど、並ではない悲劇が次々と起こり過ぎだ。で、その結末がどうなるかと思うと、結局生ぬるい和解になっちゃうのであった。

問題の彫刻家があまりに悪人過ぎてここまで来ると、「幸福なラザロ」が善人過ぎるのと同様にファンタジーの範疇で処理しないとどうしようもないほどである。

フィルマークスで「シェイクスピアにハネケ混ぜたような」と評している人がいて、確かにその通りだけど、ハネケの悪はここまでファンタジーではないよな。


200228b「トイ・ストーリー4」(字幕版)
監督:ジョシュ・クーリー
声の出演:トム・ハンクス
米国2019年

これも今さらだけど、一応感想を書いておく。
見て泣けはしたけど、色々と問題が多かった。これまでの設定がなかったようになっているのはどうよ? ウッディは友情に厚いから仲間を助けるんじゃなくて、単に役目がないんで新人のお世話係になったみたい。バズに至っては「1」の最初の頃のキャラに初期化されてしまったような気の利かなさである。
「3」で一旦片が付いたのだから、無理せずともスピンオフにすればよかったのではないかね。

そもそも玩具の縛りがなくなって、なんだかもう妖精みたい。それから凸凹コンビのダッキー&バニーは最初の目的がどんどん変わっちゃうのもよく分からん。

友人が「旧作でボーが突然消えた時点で、もうこの話考えてたんじゃないの」と言ったんだけど、本当にそうなのか?
子ども部屋からはトトロが消えていた。J・ラセターの縁の切れ目がトトロの切れ目💥


200228c「Girl/ガール」
監督:ルーカス・ドン
出演:ヴィクトール・ポルスター
ベルギー2018年

トランスジェンダーの少女がバレリーナを目指す。そのためにはバレエ学校に通わねばならぬ。
見ててつらい・苦しい・つらい……の連続な気分になる。特にテープの描写が身にこたえる。
だがラストの行為は「えっ、これで大丈夫なの!?」と驚いてしまった。あれでいいのなら、長い時間をかけての投与とか手術とか要らないのではないか。
当事者や医療者はどう考えるのか知りたいと思ってネットを調べたが、配役の問題(若い男性のダンサーが演じている)しか出てこなかった。

同じバレエ学校の若い娘っ子たちの自覚なき悪意がコワい。見終わった後はどっと疲れた。


200228d「田園の守り人たち」
監督:グザヴィエ・ボーヴォワ
出演:ナタリー・バイ
フランス・スイス2017年

第一次大戦中のフランスの農村、兵隊に行った男たちの代わりに農作業にはげむ女たちの姿が、悠然とした時間の中で絵画のごとく捉えられる。まさに「種蒔く人」そのまま。機械が導入される直前なので重労働だが、その地道な姿こそが「生産」だと感じられる。

しかし、自然や農作業の丁寧な描写に比べ人間の描写はややいい加減ではないか。人手を補うために雇った若い娘に対し、豹変する女主人の態度(人間とはそういうもんだと言われてしまえば終わりだが)が突然すぎるし、自分の娘との対立も前触れなく唐突だ。

女性の登場人物が多くてフェミニズムの文脈に乗っているように見えるが、実際にはその行動原理は常に「男」に認められるかどうかなので、それはどうなのよと思う。
しかもそういう生き方を淡々と肯定的に描いて来たのに、最後それをひっくり返してみせるのは意図不明である。

人間関係がどうなっているのかほとんど説明がなく、途中までかなり混乱した。
なお、次男が自国に駐留してきた米兵に敵愾心を抱くのは、自分の領分の「女」を奪われるからだろうとイヤミに解釈したい。

| |

2020年2月27日 (木)

「工作 黒金星(ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男」:敵の味方は味方の敵ならず

200227 監督:ユン・ジョンビン
出演:ファン・ジョンミン
韓国2018年

37度線を挟んだ男の友情を描くスパイ・サスペンス。元・軍人の男が工作員として任命される。
北京、黄昏、盗聴、ホテルの小部屋、口笛、男の涙……みたいな感じでスピーディに話が進む。南側の工作員である主人公は北朝鮮政府の要人に接触して信頼を得る。部内でも正体を知っているのは3人だけ。輸出を口実にして遂にはあの人と拝謁👑にまで至る。
だが真の敵は37度線の向こうではなくこちら側にもいたのであった。

てな具合でハラハラドキドキ💦が続き、心臓に悪いぐらい。これがなんと実話だというから驚き(!o!) 主人公のモデルは今でも健在である。金大中大統領誕生の陰にこんな事実があったとは驚きだ~。
政情不安だった韓国の過去を背景にしてこそ生まれたドラマであろう。
主人公の本心を隠すスパイの作り笑いがいつしか本心へと吸収されていく。思わず泣かされた。

137分の長さを忘れるほどに男同士の熱い友愛💖がてんこ盛りで萌えに燃えまくり。そちらの方も期待を裏切りません。

ところで、韓国映画で相手の年齢尋ねる場面をよく見るのだけど、これってどちらが目上・目下か確認するため? 数か月の差でも決まるのかしらん。

| |

2020年2月21日 (金)

糸あやつり人形一糸座「おんにょろ盛衰記」:毒をもって毒を制しても毒は残る

200221 作:木下順二
演出:川口典成
会場:座・高円寺
2020年2月5日~9日

結城座で45年前に上演した木下順二の民話劇を再演。当時、結城一糸が出演していたそうだ。
「おんにょろ」はどうしようもない乱暴者で村に時々現れては酒やら食物やら金品を脅し取る。さらに村人は元々「とらおおかみ」(虎と狼ではなくて合体した謎の怪物?)の出現に困っている。ある日おんにょろをたきつけて、怪物と戦わせてうまく行けば両者とも共倒れになるのでは……と思いつくのだった。

思いついたはいいけれど、いざとなると腰が引けて逃走してしまう村人たち。その後も思い付きが暴走して不条理な展開となる。ラストではおんにょろは加害者なのか犠牲なのかも定かではない。
これは民衆というものののずるさ(必死の知恵ともいえる)によるのだろうか、それとも神話の根源的な暴力性によるものか。

それを表現するのは役者と人形に加えて女義太夫、歌舞伎囃子、さらに怪物の乱闘場面では京劇が登場する(そもそもこの話の元ネタは京劇とのこと)。まことに文化のミクスチャーで躍動感とエネルギーにあふれていた。
木下順二などという「夕鶴」ぐらいしか知らないので、認識を改めた。

私が見た回はアフタートークがあって、45年前の演出家の人が登場した。木下順二の弟子で90歳だという。楽屋でバレンタイン・チョコをもらったそうで「90になるともう誰もチョコをくれない」と言って笑わせた。身近にいたせいか、却って木下順二については忌憚なくキビシイ回想をしていた。(「『おんにょろ』は木下の唯一の成功作」とか(;^_^A)
当時は緒形拳がおんにょろ役だったそうで、そうすると今回の丸山厚人とはかなりタイプが異なる。朝倉摂が美術・衣装など豪華なメンツだったようだ。初演は1957年で、老女役を山本安英がやったとのこと。
この作品はオイディプス神話をふまえていて、村の立札は神託を表しているそうな。そういえば「3」の数字にこだわるところも神話的だなと思った。


足の悪い高齢のお客さんがいて、段差が多い会場を大変苦労して座席まで歩いていた。会場はチラシに「祝・10周年」と書いてあるからそんな古くないのにバリアフリーには程遠い造りだ。
音楽ホールだともっとストレスなく行ける所が多いから、やはりこれは想定対象年齢のせいか(クラシックの方が年寄りが多い💥)。

| |

2020年2月17日 (月)

「ある女流作家の罪と罰」:嘘つきは作家の始まり

監督:マリエル・ヘラー
出演:メリッサ・マッカーシー
米国2018年
DVD鑑賞

作家や有名人の書簡を偽造した実在の作家が主人公である。
作家の才能は尽き、金も友もなく、アル中っぽい上に性格は悪くて嘘と悪態つきっぱなし、部屋はけた外れに汚い(いわゆる汚部屋。ネコだけはいる)。ネコ以外にプラス要因全くなしという中年女にはとても共感できるものではない。
唯一のゲイの友人とは険悪に、にっちもさっちも行かなくなって昔パートナーだった女性にすがろうとするも、厳しく突き放される。

でも金が出来て余裕が生まれれば少しずつ全てが上向きに進むようになる。ただ、その金が偽造という犯罪によるものなのが問題なのだが。せっかく古書店の女主人と仲良くなっても騙し続けるしかない。
どうしようもない人物なのだが、見ていて段々と身につまされてチクチクとくるのだった。そして、遂に真実を語る時が来る。

日本で公開されずビデオスルーになってしまったのは、美男美女が全く出てこないということとや、涙の感動モノでもないということからだろう。残念である(=_=)

メリッサ・マッカーシー(コメディアン出身の人は演技の才能豊か)とリチャード・E・グラントは確かに演技賞ものだった。ただ、ほとんどがノミネートで終わってしまったけど……。
欠点だらけの人間を美化することなく欠点のまま演じられるのは大したものだ。
マッカーシーが出ているのでコメディだと勘違いしている人がいるようだが、これはコメディじゃないよ!

邦題はなんとかして欲しい。この年のワースト邦題第2位に値する。(1位は「ビリーブ 未来への大逆転」)

| |

2020年2月16日 (日)

「死の教室」:冥土からの宿題

200216 監督:アンジェイ・ワイダ
ポーランド1976年

東京都写真美術館のポーランド映画祭で上映。演劇史上有名なタデウシュ・カントルの作品を、ワイダが上演時に映像として記録したものである。カントルの芝居は日本でも過去に上演されたことがあるらしいが、全く見たことがないので、そもそもどんなものなのかと知りたくて行った。

地下蔵みたいな狭苦しい空間に観客が続々と入ってくる。若者が多い。
教室を模したステージに木製の机が並び、客は教室の横面から眺めることになる。しかしカメラは舞台の端に据えられていて、「生徒たち」の顔を正面から撮る。舞台の段差がないので時折客の顔も映るのだった。

「生徒」はみな大人の死者であり学校の制服を着ていても中高年の男女だ。子ども時代の自分を表す人形を抱えたりしょったりしている。なぜか窓枠を持った女教師もいる。
ワルツに乗って立ったり座ったり、号令で一斉に教室を出入りし、突飛な動作を行なう。質問されて答えるという授業もどきもあるが、一貫して台詞は全く意味を持たず、様々な言語が中途半端に混ざる。
結局のところ、死者たちが子ども時代を懐かしんでひたすら授業を模したバカ騒ぎを続けるだけに見える。シュールで不条理でデタラメ、理解はできないが退屈ではない。

謎なのは、素のままのカントール自身が同じ舞台上にいて、何やらキューを出したりしている。本人が言うには音楽を流す合図をしているだけというのだが、何も死者メイクをした役者たちに混ざってウロウロする必要はないだろう。
見ようによっては、この教室の担任、あるいは神のような存在として支配し動かしているようにも思える。

背景をよく知らずに鑑賞したのだが、大騒ぎする死者たちに深い沈鬱と抑圧を感じた。いくら生きている頃の真似をしても生者に戻れるわけではない。号令と音楽に合わせて動くしかないのだ。
この芝居を実演で見たらどう感じるだろうか。また、演技力のない役者がやったらどうなるか? そもそもこのような役柄に対しての演技力とは何なのか(メソッド演技ではできないだろう)などムクムクと疑問がわきあがり考えてしまった。

一行が地下蔵を飛び出して外を歩き回る場面が数回挿入されている。これはワイダのアイデアらしい。彼も舞台演出をしているせいもあるだろうが、撮影時カントルと衝突したとか。

とりあえず、普段見られないような珍しいものを見させて貰いました(^^)

| |

2020年2月14日 (金)

「アイリッシュマン」:別れろ殺せはマフィアの時に言う言葉

監督:マーティン・スコセッシ
出演:ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシ
米国2019年

昨年の映画で話題性では一、二を争う本作。
その理由の一つはスコセッシが盟友の役者三人と共に作ったこと。もう一つはネットフリックス製作で本来なら加入者以外は見られないはずが、映画賞獲得のためか事前に(どころか配信開始後も)映画館で公開したことだ。
しかも尺が209分💨 映画館でイッキ見するにはつらいし、単品TVドラマ1本としても長い。帯に長くてタスキにはもっと長いのであった。

内容は実話で、数十年に渡り労働組合委員長とマフィアが協力して組合を牛耳り、年金を勝手に運用。やがて双方が離反して謎の失踪事件が起こる。
これは米国では有名な事件とのこと。いまだに元委員長のホッファがどこへ消えたのか分からない。この映画は彼を殺したと証言する男が主人公である。

時系列は戦後すぐ、失踪事件直前、さらに事件を主人公が老人ホームで回想するという三つの時系列に分かれている。
数十年に渡る話だが、昔の場面は若い役者を使うのではなく顔をCGで若返らせている。ただ、シワを減らしても髪形などはほとんど変わらないし、そもそも体格や歩き方は本来の年齢そのままに年寄りっぽいので正直あまり区別がつかないのであった。

長丁場で見応えあるものの地味すぎる。ネットで見たら中途脱落者が多いかも。
そういう意味では映画館向きか。ただ全体の97%がオヤジの顔ばかりで占められているので、ヒットは見込めそうにない。ハリウッドで企画が通らなかったのは「きれいなおねーさんの出番はないのか」という要請に応えられなかったからでは?なんて余計なことを考えたりして。

ストーリーとしては、第二次大戦以降の米国現代史を背景とした義理と人情の板挟み💥止めてくれるな娘よ、誓いの指輪が重たいぜ、みたいな調子だ。
ジョー・ペシのマフィアから、ホッファ(アル・パチーノ)に派遣された用心棒兼助手(?)のデ・ニーロの煩悶……スコセッシ的世界&人間関係を彼のお気に入りの役者を使って思うままに描くという、まさにスコセッシ節全開の作品と言えよう。

さぞファンは大喜び\(^^)/……かと思ったらそうでもないらしい。
例として挙げると→こういうことらしい。「暴力のアミューズメントパーク」を期待して行ったのに「有害な男性性」が描かれていて、しかもスコセッシは心ならずもそうせざるを得なかったというのだ。
これには驚いた。まともに見ていれば背景はマフィアの世界であっても、前作の『沈黙』にかなり近い作品だと分かるはず。すなわち周囲の世界の重圧と自らの信念の相克、である。このような監督のファンを自称してる人は『沈黙』をどう評価してるのよ(?_?)

役者の演技としては、攻めのパチーノ、受けのデ・ニーロといったところか(いかがわしい意味ではありません!)。そして怖いジョー・ペシ、彼は本物の迫力--確かコッポラ(だと思う)が「J・ペシは本物だ」と言っていた--をジワジワと発揮。
しかし一方で完全にブロマンスであり、フ女子が燃え上がっても仕方ない。意味ありげに三人の男の間で行き交う腕時計と指輪でさらに燃料投下🔥だ。

スコセッシも含め四人は様々な映画賞にノミネートされたが、多くは受賞はできなかった。彼らはオスカーも過去に貰ってるし……やはり世代交代ということですかね。元々スコセッシはオスカー運が悪いけど。

このホッファという人物は『ホッファ』(1992年)でジャック・ニコルソンが演じている。アカデミー賞とラジー賞双方の主演男優賞にノミネート。どんなものか、ちょっと見てみたいぞ(怖いもの見たさ)。

| |

2020年2月11日 (火)

「大塚直哉レクチャー・コンサート 3 ”平均律wohltemperiert”の謎」:ゴキゲンな鍵盤

200211 オルガンとチェンバロで聴き比べるバッハの"平均律"
会場:彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール
2020年2月2日

このシリーズもいよいよ3回目の最終回である。(1回目2回目の感想)
1回目のときは自由席だったのが客が予想よりも多数来たせいか混乱が起こって、以降は指定席となった。この日もほぼ満員だった。

この日は平均率第1集の第18番からラスト24番まで。やはりチェンバロとポジティフ・オルガンの両方で弾いて聞き比べをやった。

前半は果たして「クラヴィーア」とはどの楽器を指すか?ということを中心にレクチャー。ステージにクラヴィコードも置いてあって、途中でカメラで3種の「クラヴィーア」を接近撮影して大きなモニターで見せるということをやった。
クラヴィコードに関しては見本として置いてあっただけで実際の演奏がなかったのは残念。ちょっと鍵盤を叩いたけど、とてもホールで聞けるような音量ではなかった。
バッハや弟子は普段はこれを使って弾いていただろうとのこと。近江楽堂あたりで聞いてみたいところだ。

後半はそもそも「平均律」こと ”wohltemperiert”とは何かがテーマだった。訳語が問題で、原語に「均等」という意味はなく、そもそもお風呂やワインの「適当な温度」の形容で使われるのだという。座りのいい日本語はないらしい。
その調律についても詳しく説明があった。楽譜の表紙上部のいたずら書きみたいな渦巻きが、調律法を表すとはにわかには信じられず。ボールペンの試し書きにしか見えません🌀(当時はボールペンないけど)

毎度のことながらチェンバロとポジティフ・オルガン、どちらの演奏も味わいがあり一つに選べない。
最終24番はそれぞれの楽器で全く異なって聞こえた。

第1巻はこれで終了だが、なんと次は第2巻に突入とのことだ。もちろん、セット券でチケットを購入した(^^)
終了後はサイン会もやっていた。ご苦労様ですm(__)m
ところで、調律をやっていたのは製作者のガルニエ氏(の息子)?

さて、このレクチャー・コンサートシリーズ、毎回ほぼ満員状態である。クラシック離れ、古楽離れなどどこ吹く風という人気だ。こんな濃い内容に客が入るのはなぜなのだろうか。考えてみた。
*チケ代が安い。(2000円)
*日曜の昼間という日時設定。
*鍵盤学習者が勉強のため大挙押し寄せる。
*大塚氏個人の人気。
他にあるかな(?_?)

| |

2020年2月 9日 (日)

「ダムタイプ|アクション+リフレクション」

200209 会場:東京都現代美術館
2019年11月16日~2020年2月16日

パフォーマンス・グループのダムタイプの展覧会である。といっても、パフォーマンス自体をやるわけではないから、どうなっているのかと思ったら、それまでの活動と並行して制作された巨大なインスタレーションが中心だった。

それ以外には過去の記録--長いガラスケースにチラシやパンフなどを時代順に展示したものと、分厚い大きなファイルがあった。後者は着想メモなども入っているらしいが、私が行った時は一人の中年男性が長時間独占していて全く見ることはできなかった。
前者は行ったことも忘れていたワタリウムでの展示の記録もあったりして懐かしかった。

入ってすぐある16台のターンテーブルの作品はどう鑑賞したらいいのか迷った。それぞれが勝手に音やノイズを光とともに発しては沈黙するというのを、あらかじめプログラムされて繰り返している。
しばらく眺めてから、16台の間をそぞろ歩いてランダムな音に耳を傾ければいいのだと思った。

「LOVERS」は故・古橋悌二名義で過去に東京オペラシティアートギャラリーで展示されたのを見たことがある。それよりもだいぶ狭い空間に設置されているが、これが元々の構想にふさわしいらしい。
裸の男女の映像が複数、周囲の壁にバラバラに投影されてランダムに駈け寄ったり抱き合ったりする(ように見える)。監視スタッフの人に尋ねたら、インタラクティブに客の動きに対応するような仕組みではないらしい。

これを見ている途中に制服姿の高校生の団体が入ってきて、ものすごい勢いで一周して出て行った。その速さに驚いた。美術の授業……なんだろうか。隣でやってるミナペルホネンの方が目当てだったのかもしれない。

壁一面の巨大ビデオ・インスタレーションはソニー系列が協力しているだけあって、とてもクリアで美しかった。ただ、ずっと見ていると目がチカチカしてしまう。

最後にはパフォーマンス「pH」で使用された移動するトラスが縮小サイズで再現されていた。床面数十センチを一定の間隔で進んではまた戻ってくる。上演時にはダンサーはその上を飛び越えたり下を潜ったりしていたものだ。

この展示では床面に入ることができて、客が飛び越えてよいらしい。しかし、あの高さをまたげる人はかなり身長ないと無理では……(^^; 引っかかって壊したりして。私の身長では潜るしかない。
平日に行ったので客が少なく誰もトライする人はいなかったが、休日だったらいただろうか。ぜひ見たかった。

過去のパフォーマンスのビデオは3カ所にあったが、かなり狭いスペースに押し込められていた。もう少し広い場所だったらよかったのに。
過去の活動を映像で見せるのが主眼ではないということなのだろうが、リアルタイムで見てない人はそれでしか知りようがないのから、何とかしてほしかった。

彼らのパフォーマンスを実際見たのは「pH」が1回、「S/N」が2回である。
「S/N」を見て驚いたのはダンサーたちが後ろ向きに倒れてバタンと落ちる動作だった。それまでステージ上であんな動きを目にしたことはないので衝撃だった。
「pH」では3人の女性ダンサーがずーっと動きっぱなしで、床面を容赦なく移動するトラスを飛んだり避けたりする。しかもハイヒールを履いているのだ。
観客はそれを上方から見下ろす形式なのだが、いつか引っかかるのではないかとハラハラしながら見続けることになる。その間中ジリジリとした緊張が続き、見ているだけで冷や汗をかいてしまうのだった。
こちらの記事を読むとやはり大変だったもよう。

なお、都現美では同時期に「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」も開催していて、様々なメディアで紹介されたせいかこちらの方は女性を中心にかなりの盛況だった。
チケット売り場は同じなので、土日は長い行列ができてダムタイプだけの入場券を買うのにも50分待ちだったらしい。

ついでにコレクション展も見た。
岡本信次郎という画家の巨大作品がバカバカしくて面白かった。偏執的かつナンセンスな筆致で自分が生きてきた戦中戦後が描かれ、東京大空襲と湾岸戦争が並列されるのだった。
フィリピン女性への虐待被害を綴ったブレンダ・ファハルドの連作には、日本での事件も出て来てウツになるのは必至だろう。

| |

2020年2月 5日 (水)

「永遠の門 ゴッホの見た未来」:額縁映画

200205 監督:ジュリアン・シュナーベル
出演:ウィレム・デフォー
イギリス・フランス・米国2018年

画家ゴッホが主人公の映画は複数あるらしいけど、やはり一番ポピュラーなのはカーク・ダグラス主演の『炎の人ゴッホ』だろう。といっても、子供の頃TV放映されたのを見ただけでほとんど記憶していないのだった。(監督V・ミネリ、ゴーギャン役のA・クインがアカデミー助演男優賞)
で、本作はゴッホ役がウィレム・デフォーだ💡 ヴェネチア映画祭で男優賞獲得、オスカーにもノミネート。監督は自らも画家のジュリアン・シュナーベルだから大いに期待してしまうではないか。

画家がフランスに来てからの後半生を描き、冒頭はカフェでの美術談義から始まる。しかしリアルな伝記映画というわけではない。ゴッホが自分の目で捉えた(であろう)光景をひたすら映像として再現するのだ。つまり「一人称」映像である。
畑、林、丘……。糸杉の上部だけに夕陽が当たって別の色彩に変わって見える。美しい光景である。

だが、さらに彼の目線を手持ち・超接写・ぶん回しカメラで展開--となると、見ていて目が回って気持ち悪くなってしまった。こんなのは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(古!)以来だ~。なるべくスクリーンを注視しないように努力し、忍の一文字。
彼の脳内そのままの再現なので、起こった出来事も明確には描かれず、因果関係もはっきりしない。

後半となって、彼の精神状態が悪化していくとスクリーンの周縁はぼやけ、まるで視野狭窄になったよう。画面中央の下方部分は横長半円形に(昔の遠近両用メガネみたい)歪んでいる。
これがゴッホの見ていた世界なのか(!o!)と思えればいいのだが、「これホントかい。もしかして彼は逆にあらゆるものが見え過ぎていたって可能性はないの?」などと疑ってしまった。
一方、彼と他者の対話は絵画の美についての禅問答に終始するようだった。

ゴッホの脳内グルグル感を観客に味わせるのが目的ならば、それは達成しているだろう。だがどうにも納得できない。
まあ、これは気分が悪くなってしまったからそう感じたのかも。映画館のスクリーンではなくて、TVモニターぐらいの大きさで美術館に飾ってあったらよかったかもしれない。

W・デフォーはさすがに凡百のそっくりさん演技とは完全に次元が違っていた。マイナー作品でもオスカー候補に挙がったのは(下馬評の順位は最下位だったが)故なきではなかった。
「密着ゴッホ24時」的手法が可能だったのは彼だからだろう。

もちろん、弟テオやゴーギャンとの場面など「三人称」の部分もある。村の小学校悪ガキに嫌がらせされるとか、死後に棺の周りで絵を売ったとか。
ゴーギャン(オスカー・アイザック)との連れションの件りには「男同士の友愛的身振り」を感じてしまった。これも「一人称」映像で撮ったらどうなったかな(^〇^)

「絵具を厚塗りし過ぎだ」などとゴーギャンが批判するのだが、「ひまわり」の実物を新宿の美術館で見た時に私もそう感じた。やっぱりゴッホとの相性、悪いのかしらん(;^_^A

ところで、最初フランス語で喋って、そのうち英語になって、また途中に時折フランス語が出てきたりするのはどういうこと?
どうせだったら最初から全編英語でやったらいいのでは。どちらかの言語に堪能な人は聞いてて気持ち悪いのではないか。

| |

2020年2月 1日 (土)

「朝吹園子 初ソロCD発売記念リサイタル」:日本発世界初

200201b 会場:近江楽堂
2020年1月5日

先日のリクレアツィオン・ダルカディア公演ではヴィオラを弾いていた朝吹園子、今日はヴァイオリンを携えて登場した。普段はスイスのバーゼルで活動しているとのこと。
初期バロック用の弓を使って演奏するはヴィヴィアーニ……初めて聞きました。17世紀後半に活躍したこの作曲家、フィレンツェ生まれだがインスブルックの宮廷にヴァイオリン奏者として仕え、のちに宮廷学長になったという。

この日演奏されたのは、CD発売に先駆けて「教会と室内のためのカプリッチョ・アルモニコ 作品4」から。日本人で録音したのは初めてらしいし、さらに彼の作品だけの公演は世界初になるとのこと(!o!)。

ヴィヴァルディの生まれた年に出版されたこの曲集、イタリア風とオーストリア味が交錯するものだった。また同時にコレッリ以前と以後の弦楽アンサンブル曲の変容をなんとなく考えたりもした。
朝吹氏は豪胆さと繊細さの双方を駆使してそれを弾きまくっていた。西山まりえ&懸田貴嗣もグッドアシスト✨である。
昼夜2回公演のうち夜の方に行ったが、客は同業者が多くいたもよう。

後で昔聞いたCDの棚を掘り起こしたら、E・ガッティ&アンサンブル・アウローラが1990年に出した「L’ARTE DEL VIOLINO VOL.1」にヴィヴィアーニの作品が2曲入っていた。すっかり忘れてました(^^ゞ
200201c

| |

「フランチェスコ・ドゥランテ ナポリ、対位法の魔術師」:ナポリ愛が止まらない

200201a 演奏:アンサンブル・リクレアツィオン・ダルカディア
会場:近江楽堂
2020年1月5日

今年の聞き初めはこのコンサートでした~🎵

フランチェスコ・ドゥランテとは聞きなじみのない名前の作曲家であるが、ナポリで生涯を過ごし18世紀前半から中頃に活躍した人物で、音楽院の学長を歴任したという。そのコンチェルト集から7曲が演奏された。

私が以前聞きに行ってた頃は4人だったが、この日はヴィオラで朝吹園子が参加していた。
後期バロック成分が純度100な世界を迫力ある演奏で繰り広げた。

渡邊孝は熱を込めてこの作曲家や当時のナポリの音楽シーンについての話をはさんだ。その「話し出したら止まらない力(りょく)」を思う存分に発揮したため、後方の女性陣が「まだ続くの」と若干引いてしまう場面もあり。
プログラムの解説文も読みごたえたっぷりのものだった。

最後の第2番はある意味、アクの強さを感じるほどに印象的な作品。どこかで聞いたなーと思ったら、R・アレッサンドリーニがしばらく前に出した『1700』にこの曲だけ入っていた。今回の演奏はさらにメリハリの効いて引き締まったものだった。


この日もまた開場前にコンサートホールの客が数人間違えて並んでいた。でも、後でポスター見るとその人たちは向こうの開場時間(開演じゃないよ)よりもさらに30分早く来ていたのだった。早すぎだいっ(◎_◎;)

| |

« 2020年1月 | トップページ | 2020年3月 »