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2020年5月

2020年5月31日 (日)

【回顧レビュー】チェスティ「オロンテーア」

200509t 平常が戻るまで昔の公演を振り返る。

会場:国立音楽大学講堂
1995年9月14日

初めて生で聴いた見たバロックオペラである。国立音大は1993年に初演しこの時は再演だったとのこと。

チェスティは17世紀中ごろにヴェネツィアで活躍した作曲家である。
指揮は有村祐輔、コンマスは川原千真、タイトルロールのエジプト女王役は山内房子という布陣だった。
当時の人気作とのことだが、内容は宮廷を舞台にしたドタバタした恋愛劇っぽい印象だった。同じ歴史&宮廷ものでも、ヘンデルみたいに政治的なウラ読みとは無縁である。

この時の上演は衣装も舞台装置も立派なものだった。
記憶はかなり曖昧になっているが、波多野睦美扮する男装をした女奴隷に老女(辻秀幸)が男だと思い込んで、一目ぼれして足にヒシと縋りつくという場面があって、会場の笑いを取っていたのはよく覚えている。
後で聞いた話だと、当時のテノール歌手はお笑い担当の老女役ぐらいしかなかったらしい。

東京公演は北とぴあでもやったのだがなぜか国立音大の方に行った。あの頃は西武線でこの周辺に来ることは滅多になく、グルグル循環しているような路線図を見て目が回ってしまった。

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2020年5月29日 (金)

「エクストリーム・ジョブ」:クライム・オブ・チキンズ 犯人を揚げろ!

200529 監督:イ・ビョンホン
出演:リュ・スンリョン
韓国2019年

なぜか麻薬捜査班の警官たちがフライドチキン屋に!というワンアイデアだけで出来ちゃったような警察アクションものである。面白いけどバカバカしい。というか、バカバカしいけど面白いというべきか。ここまでバカバカしければ言うことなし。

刑事たちがマフィアの張り込みのために利用していたから揚げチキン店が突如閉店に。こりゃ困ると自分たちが店を引き継いで開業したら、なんと客が押し寄せる人気店になってしまった。
本業副業が逆転して、さあどうするよ--と、発想が面白くて前半はいいのである。

中盤以降、当のマフィアが絡んでくる部分の展開がスッキリしてなくて残念。主人公の班長はクビになって他のメンバーは謹慎処分ということでいいのかな(^^? でも謹慎中に副業やって構わないんかい?
なんて細かいことはどうでもいいですね、ハイ。

終盤の猛烈な団体格闘戦が見ものだった。悪役のおねーさんがモデルみたいでカッコエエんですけど有名な人なのかしらん。(韓国俳優については無知)
過去作のパロディが多数あったらしいんだけど、ほとんど分からず。『男たちの挽歌』なんて××年前に見たきりでもう忘れちゃったわい(^^;ゞ

最近は社会派もので評判になっているが、ポリスアクションもこれからは香港から韓国映画の十八番になっていく可能性大いにありだろう。

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2020年5月25日 (月)

【回顧レビュー】東京グランギニョル「ワルプルギス」

200505t 平常が戻るまで昔の公演を振り返る。今回はコンサートではなく芝居を紹介。

会場:大塚ジェルスホール
1986年10月

かつての情報誌「シティロード」(古い!)の星取表にこの劇団の前作(『ライチ光クラブ』)が取り上げられ、どの評者も絶賛状態だった。
それを読むとどうにも見に行きたくてたまらなくなり、芝居など全く縁がない人間だったが突撃したのだった。
小劇場については当然何も知らなかった。開場よりも前に行って整理番号貰って並んで待ち、中は椅子もない階段状の狭い所でギュウギュウに押し込められて身動きもできなかった。推定乗車率200%ぐらいだろう(^◇^)

主宰者の飴屋法水は作・演出・音楽・出演。他に嶋田久作、越美晴など、美術は三上晴子。
近未来風の廃墟都市に吸血鬼と若者が暴走徘徊するようなストーリーと記憶している。
錆びついた鉄のオブジェに覆われた舞台、耳を聾するインダストリアル・ノイズ、長々と続く吸血儀式、さらに飛びまくる血糊にもビックリの連続だった。

事前の想像を遥かに超えるもので、それは「名演」でも「名作」でもなく、例えば名優がシェイクスピアを演じるという次元とは全く異なっていた。
ただ作り手と観る側の熱気だけでかろうじて成立しているようで、私は「この世界にこんなものが存在するのか!」と腰が抜けるほどの衝撃を受けた。

これ以降、小劇場に頻繁に通うようになった。といっても田舎に住んでいたので最大記録週三回ぐらい(平日の仕事帰りである)。若い頃だからできたことだろう。
もっとも当時は私だけでなく知人友人も多く小劇場にハマっていた。今は昔である。

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2020年5月24日 (日)

「プリズン・サークル」:罪と罰の狭間

200524 監督:坂上香
日本2019年

島根に新しい半官半民の刑務所があり、そこだけで唯一行われている犯罪者更生プログラムを取材したドキュメンタリー。
「初めて日本の刑務所にカメラを入れた」という惹句が誤解を招くかもしれないが、主題は刑務所ではなくあくまでもプログラムの方である。特別な刑務所だから許可が出たというのはあるだろうけど。

そもそもそのプログラムは、坂上香監督の過去作『ライファーズ 終身刑を超えて』が取り上げた米国のアミティという更生プログラムを参考にしたものなのだという。監督は半信半疑で取材に行って実際に見てビックリしたらしい。(この映画もプログラム参加者に見せていたそうな)

参加者は数十人だが、その中の若者4人を2年間かけて取り上げている。詐欺の受け子のような比較的軽い犯罪から傷害致死まで様々だ。
少女は夜明けに夢をみる』では厚生施設の少女たちがみな顔出ししているのに驚いたが、こちらでは受刑者の顔にはボカシが入っている。個々のインタビューの時間が長いのでどうなるかと思ったがそれほどの支障はなかった。

最初「傷害ならともかく窃盗のどこが悪いかわからない、自分もやられたし」と語る者や、プログラムが始まった頃に「まあ、こんなもんかな」といい気なことを言っている者がいて、なんだコイツ~(-_-メ)などと見てて怒りがわいてくる。
ところが課程が進むうちに、変わっていく。
犯した犯罪を「許したい自分」と「許せない自分」の二つ立場から語る課題では、段々と自分が許せなくなってくる。また、グループの中の一人の犯罪について、他のメンバーが被害者や迷惑をこうむった家族の役を演じて問いかけ語りかけるというのもあった。
これで双方の立場を理解する助けになる。

受刑者に時間と費用をかけてそんなプログラムを受けさせる必要はないという意見もあるだろう。しかし、これが無ければ刑期を終えて「どこが悪いかわからない」という認識のまま社会へ戻ってしまうのを考えると、この試みが必要なのを感じる。
一方で研修スタッフ(若い人もいる)がちゃんと支援しているのも驚いたり……。形だけ真似すると学校のグループ学習みたいになっちゃうよね。

4人に共通しているのは子どもの頃の家庭内の虐待と学校のいじめである。まるでセットになっているようだ。それからここへ来るまで、他者に自分の話をまともに聞いてもらったことがないというのも。
インタビューを見ているとかなりハードで、段々と自分の中にも何やらモヤモヤしたものが立ち昇ってくる。
「退屈だった」という感想を見かけたがいただけない。エンタメ映画じゃないんだぞ💢

同じ坂上監督の「ライファーズ」見逃しているんで見てみたくなった。(『トークバック 沈黙を破る女たち』の感想はこちら
なお「初めて刑務所にカメラが……」という件だが、かなり以前にTVでたまたま九州(?)かどこかの刑務所に取材したドキュメンタリーを見たことがあるので違うのではないでしょうか(^^?
その刑務所内にはなんと近くの公立中学校の分校があって、希望すると学べるというのだ。さらに特別に卒業式にも出席できるというのである。

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2020年5月21日 (木)

【回顧レビュー】「愛は恐ろしきもの」

200425t 平常が復活するまで過去の公演を振り返る。

演奏:セクエンツィア
会場:東京文化会館小ホール
1994年12月21日

セクエンツィアはベンジャミン・バグビーとバーバラ・ソーントンの中世音楽専門の二人組ユニット。
この時は3人での来日公演で、主に13世紀の宮廷歌曲とフォン・ヴォルケンシュタインの作品を演奏した。
「ニーベルンゲンの歌」は歌唱というより完全に朗誦だった。そのように宮廷で叙事詩が披露されたのだろう。

何といってもソプラノのソーントンの声は、一点の濁りもなく金剛石のように硬質な美しさを放っていて、この時代の音楽にふさわしいものだった。40歳前に亡くなってしまったのが残念である。
ハープと歌唱担当のバグビーは演奏家というより研究者っぽく、典型的な「気難しいユダヤ系インテリ」に見えた。あと一人女性のフィドル奏者が参加していた。

セクエンツィアはソーントンがなくなった後も編成を変えて数回来日していた。この手の音楽の来日公演はめっきり減ってしまった。やはり人気が少ないんですかね。

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2020年5月20日 (水)

「フォードvsフェラーリ」:サーキット萌ゆ

200520 監督:ジェームズ・マンゴールド
出演:マット・デイモン、クリスチャン・ベイル
米国2019年

公開時絶賛の嵐だったので大いに期待して、近所の映画館でやっているのにわざわざ音響のいい都心のシネコンまで見に行った。
が……どうも私にはあまり合わなかったようだ。なんだか判然としない部分があまりに多すぎる。

タイトルだけ見るとフォードとフェラーリが産業界の覇権争いで激突か💥、予告を見ればカーレースで対決か👊みたいな印象だが、実際にはフォード内部の抗争(権力争い?)に終始する。
だが、その抗争の肝心の部分は何やらモヤモヤして曖昧模糊、きちんと描かれていない感が強いのであった。

社長にいつも取り入っている副社長が、レースで看板を背負っている主人公の二人をいつもいぢめるのは何故なのか。他のチームを贔屓にしているからか、二人を取り立てたのが対抗派閥のアイアコッカだからか?
一方、アイアコッカは最初だけ動くけど、後は立ってるだけで何も関わらない。ストーリー上はいてもいなくても変わらない存在である。

演技のうまい役者がいっぱい出てきて、友情やら愛情やら敵対やら人間関係はよく描かれているものの、その背景や理屈の説明はない。だからその関係自体に萌えられる人はいいが、そうでない人は何を見ているのかよく分からなくなる。
クルマやカーレースについてもやはり重要なところが欠けているようだった。これは私がその方面に無知だからか。

戦争映画を例にしてみよう。
気まぐれなエラい将軍がいてその下に将校たちがいてなんだか勢力争いがあるようだ。で、とある小隊の兵士二人が主人公なんだけど、大佐が嫌がらせしに来たかと思うと中佐は差し入れしてくれたりして、その理由はよく分からない。
部隊にはもっと他の兵士がいるはずなのだが、中心の二人以外は一人ぐらいしかまともに出てこない。
そのうち戦闘が始まってもう大騒ぎ、砲撃はドンパチ来るし銃弾はビュンビュンとかすって、音も映像もすごい迫力で見ててウワー⚡ってなる。
でも、作戦自体の経過はどこがどうしてどのように優勢だったのかはよく分からないし説明もない。ただ「勝敗が決まった(!o!)」と盛り上がった姿が描かれるのみ。
こういう調子で終始する。

あと、マット・デイモン扮する技術者が謎。相棒のレーサーといつもじゃれ合っているが、彼の奥さんに正対することができず、家の外の道路に停車して黙って待っているという始末。そのくせ街中を偉そうに轟音立てて車を走らせるとゆう……中学生ですか(^^? 実話だからそういう人物だと言われればそれまでだが。
しかも映画の作り手はこのような行動を微笑ましいとして好意的に描いているようだ。奥さんに彼らを寛容に見守らせているのはその証拠であろう。なんだか「男だけの世界」にすると女気皆無だから、とりあえず妻も入れてみましたみたいに感じるのはうがち過ぎか。

というわけで、わざわざ遠くで追加料金払って観た意味はあまりなかったのである。絶賛評が多いので、一人ぐらいこういう感想でもいいよね。

相棒役のクリスチャン・ベイルは、難しそうな人物をいつも強風のために折れ曲がったまま傾いて立っているカカシのように飄々と演じていて感心した。オスカー候補落選は残念無念。


観る前から「アイアコッカいわく~」というのが口癖の、TVドラマの登場人物がいたよなあ……とずーっと思い出そうとして思い出せず。見終わって1時間した頃にようやく頭にポッと浮かんだ。
『マイアミバイス』のうさん臭い情報屋だ!

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2020年5月12日 (火)

【回顧レビュー】「北とぴあ国際音楽祭 プレ'94」

200421t 平常が復活するまで過去の公演を振り返る。

会場:北とぴあ
1994年11月21~28日

東京・北区で現在も開催されている音楽祭、この年が最初だった。全体のプログラムを見るとレクチャー、スクールコンサート、公開レッスンも多く行われている。

合唱と古楽が中心で、BCJのヘンデル「メサイア」がオープニングだった。
私が行ったのは「W・クイケン&上村かおりデュオ」。M・ロック、サント・コロンブ、クープランなど。アンケート書いてサイン色紙をもらった(今でも持っている)♪

「オリジナル・メンバーによるバッハの名曲」はブランデンブルクを演奏。クイケン兄弟、鈴木雅明にヴァイオリン・トップは寺神戸亮とフランソワ・フェルナンデスなどなど。
どうでもいいことだがフェルナンデスは首がシュッと長いなあと感心したことを覚えている。

「バロックの音楽とダンス」はホグウッド&エンシェント・ミュージック管弦楽団が登場。彼らのバッハとヘンデルをバックにバロックダンサーが踊るという豪華版。
器楽のみの演奏ではヴィヴァルディのチェロ協奏曲を鈴木秀美が独奏を担当した。思い返せばヒデミ氏は当時まだ30代後半だったはず。エラく貫禄があった。


「北とぴあ国際音楽祭」は内容や規模、運営法を変えつつも、現在もまだ続いている。東京では多くの古楽系の音楽祭は長続きしてない中、大したものである。やはり継続は力なり、ということだろう。
もちろん北区には足を向けて寝ていませんよ(^◇^)

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2020年5月11日 (月)

「パラサイト 半地下の家族」:ハイヤーグラウンド 高望みの芝生

200511 監督:ポン・ジュノ
出演:ソン・ガンホ
韓国2019年

2020年前半最大の話題作(あらゆる意味で)なのは間違いないだろう。カンヌからアカデミー賞まで各映画賞にノミネート&受賞、字幕作品の韓国映画としては珍しく米国ではランキング入り、日本でもロングランのヒットとなった。(コロナウイルスの影響で新作が公開されなくなったせいもあるが)

これまでダルデンヌなど貧困や格差問題を取り上げて映画祭で高評価をされても、いざ公開となると実際に見るのは少数の観客だけということが多かった。
しかし、これはエンタテインメント性もほぼ完璧というところが異なる。特に前半の「順調」感が突然転調して、後半の展開が予想できない方向に暴走していくところはお見事。
しかも細部に潜んでいるメッセージが色々と読み取れるので、観た後に色々と語り倒したくなる。映画マニアからそうでない一般客までそれぞれウケる要素があったといえよう。

様々な面からの感想や批評が出ており、特に格差問題については多数論じられているので、ここでは三者の「家長」について見てみたい。「父親」としたいところだが、全員が「父」かどうか不明(作中で言明あったかもしれないが、一度しか見てないのでよく覚えてないので(^^;)こう書く。

この三者は全員とも災難に遭う。それぞれに立場も階層も境遇も異なり、善人ではないがことさらに悪人というわけでもない。ある者は家長の務めを果たそうと無理をしているし、また頑張っていても頼りなくうまく行かなかったりする。
まずロクな職に就けず劣悪な環境の住居に住む半地下一家が、高台の豪邸に潜り込もうとするのが前半に描かれる。

資産家の住む邸宅は元々高名な建築家が設計して自ら住んでいて、亡くなった後に彼らが購入したという設定である。建築家に仕えていた家政婦はそのまま続けて雇われている。
ここで思い出すのがヒッチコックが映画化した『レベッカ』である。広大な屋敷に後妻として来たヒロインを脅かすのがコワい家政婦長だ。彼女は屋敷と一体化している。
一方、こちらの家政婦はちょっと天然ぽい資産家奥さんを適当にあしらいつつ、背後で操っているように見える。内心ではこの家にふさわしい住人たちではないと思っているのを、半地下息子が訪れた時に仄めかす。

本来は邸宅にふさわしくない、いるべきではない、しかし留まろうとする家族たちの間に目に見えぬ争いが起こりつつある。結果、それぞれの家長である男たちは家族から切り離されて消滅する。
皮肉なことに後からやってきて邸宅の住民となるのは完全に異質な外部の者である。彼らは闘争の対象とはならない。
もはや「家長」たる「男」はいない。果たして家をめぐる欲望が彼らを「家長」たらしめていたのか、それともその逆なのか。

半地下住居から脱出してまともな家に移るという一家の父の計画なき計画はついえた。それでも息子だけは父の「計画」を引継ぎ、邸宅の住人となることを夢見る。だが『家族を想うとき』の父親同様に家の獲得をかなえることはもはや不可能に近いのだ。

家や部屋が人物描写に重要な要素を占めている映画は近年多いが、単に雰囲気の描写ではなくテーマにまで深く関わっているのはあまりない。これはその数少ない一つだろう。
『レベッカ』で観客の前に立ち現れるのは陰鬱なゴシック調屋敷だが、こちらは明晰なモダン建築である。現代のホラーはこういう場所を背景にして生じるのか。

元々は演劇として構想されたという話を聞いたが、なるほどステージ上に全ての舞台を展開したら面白いかもしれない。そう言えば役者たちの演技も舞台仕様でアンサンブル的である。

それにしても辛辣にして冷徹、加えて毒に満ちている。笑いの要素がありエンタテインメントでもあり、だが人物に対して独特の距離感を保つというポン・ジュノ芸が大いに発揮されている。
さらに彼は毎度のことながら料理や食物の描写が鮮やか。『スノーピアサー』を見た時には突如出現したマグロの握り寿司にヨダレを垂らしてしまったもんである。今回も韓国の麺の使い方がうまくて思わず見入ってしまう。私は辛い物が苦手なので、食べたーい(^Q^)というところまでは行かなかったけど。


賞レースではかなりの成績を上げてアカデミー賞でも6部門候補になった。事前の予想では国際映画賞は確実だが、他の賞は無理だろうという印象だった。ところがフタを開けてみれば4部門獲得✨である。こりゃ驚いた。
最初に脚本賞を取った時に、ポン・ジュノは挨拶して次にもう一人の脚本家がスピーチしている間、その背後に隠れるようにしてオスカー像を上から下までジッと眺めていたのは微笑ましかった(^▽^;) 感無量というところか。 ※最初、脚本賞を編集賞と勘違いしたのを訂正。

さらに国際映画賞の次、監督賞の時にはまさしく「気配り受賞スピーチ」のお手本を披露。ここで会場が「え、監督賞まで持ってっちゃうの💦」みたいな雰囲気になりかねないところを、まず「学生の頃はげまされた」と本の一節を引用。通訳(←この人もグッジョブ💡)が英語に訳した後に韓国語で喋りかけるも、すぐに自分のブロークンな英語で「それはマーティン・スコセッシの本です!」と畳みかけると、会場全体がこのベテラン監督に対して総立ち喝采となったのだった。
『アイリッシュマン』で自らの監督賞を含めて10ノミネートされてたのに例の如くオスカー運が悪くて無冠だったのだから、これは嬉しかったろう。

スピーチの続き、今度は返す刀で「無名の時から取り上げてくれた」とタランティーノに感謝を捧げ、残りの二人の監督には「テキサス・チェインソーでオスカー像を5等分したい」とヨイショした。
こういう経緯で作品賞は『1917 命をかけた伝令』が本命と見られていたのを、初のアジア産外国語映画が獲得してもすんなりと受け入れられたと思える。
それにしても韓国作品は短編ドキュメンタリー部門でも候補に入っていたから大したもんである。

しかし、思えばこの時には既にコロナウイルスの影が忍び寄っていた。次回のアカデミー賞のノミネート基準は配信作品に緩くなったし、そもそも次の授賞式が通常通り行えるかどうかさえ分からない。
そう考えると、ステージ上で作品賞受賞に喜ぶ『パラサイト』一行の姿が、コロナ災厄以前の時代の輝かしい栄光の最後のイメージとして焼き付くのかもしれない。

でもきっとポン・ジュノならコロナウイルス後の新たな映画を送り出してくれるはず。今から次回作に期待(^o^)丿

ポン・ジュノ過去作の感想はこちらもあり。
グエムル 漢江の怪物』『母なる証明

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2020年5月 5日 (火)

【回顧レビュー】「マドリガル・コメディ」

200418tb 平常に戻るまで昔のコンサートを振り返る。

第11回〈東京の夏〉音楽祭
会場:パナソニック・グローブ座
1995年7月8~12日

音楽祭のテーマは「笑いのかたち」で古楽部門はクレマン・ジャヌカン・アンサンブルのメンバーの公演が中心だった。

このステージは、上演形態はヴェッキ、バンキエリなど複数の作曲家の作品をつなぎ合わせ仮面音楽劇として再現したもので、A・メロンを含むECJの歌手たちに加え器楽奏者、俳優、ダンサー、アクロバットも参加する大掛かりなものだった。これを4回上演したのである。

主人公の道化役はD・ヴィスが非常に張り切って飛び回り演じ歌っていた。この手のジャンルのバカバカしさと猥雑さがいかんなく発揮されていたと記憶している。
これ以外にECJによるルネサンス歌曲、メロンのソロ公演、さらに石橋メモリアルホールでのヴィス単独(これも聞きに行った)があった。

歌詞カードが残ってなくて間違って捨てちゃったのかしらんと焦ったが、この当時には珍しい字幕付き上演だった。
こういうドタバタした笑いはいつの時代も民衆に必要とされるが、歴史をさかのぼって金をかけてわざわざ再現することは少ない(そもそも困難か)。その意味では貴重な機会だった。

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2020年5月 2日 (土)

「家族を想うとき」:ステイ・ホーム 止めてくれるな妻よ子よ

200502 監督:ケン・ローチ
出演:クリス・ヒッチェン
イギリス・フランス・ベルギー2019年

ケン・ローチ83歳、参りました~(_ _) 前作の『わたしは、ダニエル・ブレイク』よりさらに強力になり、自己責任論の名の下に行われる搾取を直撃する作品である。

宅配ドライバーは形式上は個人事業主だが、実際にはノルマを課されて過酷な労働条件で働かねばならない。主人公は自分の家を持ちたいという願いをかなえるために、そんな世界に飛び込んでしまう。しかも、それは他の家族にも犠牲を強いるものであった。

車を売らざるを得なかった介護士の妻は訪問介護の仕事がうまく回らなくなり、元々そりが合わなかった息子は学校で問題行動を起こす。妹娘は一人やきもきする。
効率だけを求める劣悪な労働状況だけでなく、破綻しつつある家族の問題も同時に描かれているのに留意しなければならない。

そもそも夫はこれまでも家庭内で他を顧みず独断専行してきたふしがある。
例えば珍しく4人揃ってテイクアウトの夕食をとる場面があった。そこに妻が担当している高齢者から急な呼び出しの電話がかかってくる。夜なのでバスの時間を気にする母親を見て、息子が男に対して仕事用のトラックを出してくれと頼むのである。普段仲が悪いのに、非常にへりくだった感じで「もし父さんが良ければ……」と気を使いながら言うのだ。
しかし、妻が困ってれば夫の方から言い出すのが普通だろう。だが男はそれに思い至らない(思いついたとしても「なんでおれが(-_-メ)」とやる気にならないだろう)。ここに日常的なこの家庭内の非対称性が浮き彫りにされている。

このような状況で、男は父親の威厳をかけて極限まで突っ走って行くのである。この映画はそこを感情移入し過ぎず、突っ放しもせず冷静に描いているのだった。
それが印象的なラストシーンに凝縮されている。チラシには「感動作」と書かれているが、違うだろうと言いたい。

さて、妻は仕事に加えて、家庭内の感情ケア労働を常に担っている。学校から呼び出されればまず彼女が行き、夫と息子が険悪になるたびに間に立って取りなす。
このような場面が繰り返し登場するので、段々とモヤモヤした気分が募りこちらがイライラしてくる。なにか既視感があるなあと思ったら、この少し前に見たTVドラマシリーズ『トゥルー・ディテクティブ』の1作目だった。こちらでも父権をかざす夫と反抗する子どもの間を取りなす役割が妻だったのである。

しかし、疲れた「男」を慰めてやる余裕が女にもはや無くなる時がくる。そうなれば代わりにケアを行い家族を取り持とうとするのは「子ども」、すなわちこの映画で言えば妹の役割になってしまうのだ。しかし、子どもはそれに耐えられない。

さらに、追い立てられた男たちが常にガミガミしていてそれに対し女が気を使ってオロオロしている--というやはり見てて疲れる構図も見覚えがあった。『ブレッドウィナー』である。
英国とアフガニスタン、遠くて離れて体制も違う国のはずが、どちらも「家族」を背景にして社会の行きづらさが明らかになる。いずこも同じなのだろうか(+_+)

邦題には賛否があるがやはり微妙に違うと思った。肝心の所から逸れているような……。ラストに判明する原題の意味を日本語にするのはかなり難しいだろうけど。
なんだか、搾取のシステムの実像を家族愛の物語として回収してしまうタイトルではないか。それは監督の意図とは異なるだろう。
やはり同様に「この邦題、違うんでは(^^?」と感じた『人生、ただいま修行中』と同じ配給元ですね。なんとかしてくれい💥


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2020年5月 1日 (金)

【回顧レビュー】モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」

200414t 平常に戻るまで昔のコンサートを振り返る。

第10回〈東京の夏〉音楽祭
会場:サントリーホール
1994年7月6日

この音楽祭のオープニング公演である。指揮はルネ・ヤーコプス、演奏コンチェルト・ヴォカーレ、ラ・フェニーチェ、歌手はバーバラ・ボーデン、マリア・クリスティーナ・キール、アンドレアス・ショルなど。
このメンバーに加えて、グレゴリオ聖歌専門の合唱団(指揮者も別)もいるという豪華な陣容だった。

作品についての知識もなく、とにかく聞いて華やかな曲だなーと思ったと記憶している。
非常に暑い日でホールのエアコンが利いてなくて、外の方が涼しいのでは?と休憩時間に外に出てみたらやっぱり暑かった。

バブル期とほぼ重なるように開催されてきた音楽祭、この年も豊富な内容の編成だった。これ以外の古楽関係はモンテヴェルディと同時期のバロック歌曲、ヤーコプスのソロ公演があり、他にジョン・ゾーン、マイケル・ナイマンの自作公演、さらにはベトナムの伝統音楽なんてのもあった。

古い資料の沼を掘り返してようやく発掘できたのだが、この年より古いものは見つからないので、このあたりから古楽コンサートに行き始めたようだ。どうしてこれに行く気になったのかは全く覚えていない。

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