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2020年8月

2020年8月30日 (日)

METライブビューイング「ヘンデル アグリッピーナ」:母の愛はコワし

200830 演出:デイヴィッド・マクヴィガー
指揮:ハリー・ビケット

マクヴィガーの演出でヘンデルというと『ジュリオ・チェーザレ』が話題になった。ダニエル・デ・ニースがこれで人気急大上昇した。
今回は『アグリッピーナ』を演出、ヘンデル先生イタリア時代の作品である。

タイトルのアグリッピーナはローマ皇帝の后にしてネロならぬネロ-ネの母親。彼女が策謀をめぐらして息子を皇帝の座につけようとする歴史ものだ。

結論から言うと、ヒジョ~に面白かった\(◎o◎)/!
大河ドラマ1年分ぐらいが約4時間に凝縮されてて、権力・色と欲・愛憎・そして嘘と真実(いや嘘に嘘を重ねればやっぱり嘘)と、あらゆる要素がてんこ盛り状態だ。満腹、いやあたしゃ満足よ🆗 久々に晴れ晴れとした気分となった。

この上演では舞台は現代風に置き換えられている。ネローネはパンクにーちゃんスタイルでヤク中のドラ息子。ポッペアは取り巻きとパーティに明け暮れるセレブ女。オットーネは真面目過ぎな軍人。
そしてアグリッピーナは強烈な猛毒母である。息子の意志なんぞどうでもよく、ひたすら彼を帝位につけようとする野望の邁進には思わず口アングリだ。そんなゆるぎない悪女をジョイス・ディドナートが堂々と演じている。
一方、オットーネはいじめられ役で同情を集める。演じるイェスティン・デイヴィスは今にも上目遣いに「いぢめる?」などと言いそうだ。
あとネローネのケイト・リンジーには驚いた。フラフラした足つきやら体幹が全く定まらぬ様子はまさに不良少年である(見てて笑っちゃうけど)。なんでもこの役になって鍛錬した挙句、スマホの顔認識が使えなくなってしまったというのはスゴイ。

この物語を普通に解釈すると、多分思い込んだら一途の母親が息子のためになりふり構わず猪突猛進するという、分からなくもないがどうもねえ……みたいなヌルい話になってしまう。
それを、アグリッピーナを冷徹で計算ずくな毒母とし、息子のことを想っているようで実は自らの支配欲で動いていると見なした演出はお見事で、極めてスリリングである。その冷酷ぶりに観客は震えあがるだろう。

ネロとポッペアのその後の行く末を考えると、どうやって結末付けるのかと思ったが、ちゃんとハッピーエンド💕になっていたので呆れました(^◇^)

25歳の若さで書いたとは信じられないぐらい、ヘンデル節は既に炸裂。しっかりと堪能できた。映像の方は一瞬ぐらいしかオーケストラを映さず、もっと見せてほしかったなあ。
恐らく当時のヘンデル先生が弾きまくり見せ場ならぬ聞かせ場だったろう長いソロの場面は、地下の酒場でピアノ(チェンバロ)弾きがノセまくって客一同がダンスに興じるという設定で大笑いした。

さて、最初の方で私は「歴史もの」と書いたが、幕間のインタビューでは歌手たちがこの作品を「喜劇」と言っていた。つまりシリアスではなく笑って見る作品ということなのね。
となると、この話の後日譚にあたるモンテヴェルディの『ポッペア』もやはり当時の人々は喜劇と考えて見ていたんだろう。次に『ポッペア』見る(聞く)時はそう思って鑑賞することにしよう。

この上演の収録は2月の末。3月の半ばにはコロナウイルス感染拡大でMETも休業してしまったということだから、ギリギリ間に合ったわけである。

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2020年8月24日 (月)

「女帝 小池百合子」

200824 著者:石井妙子
文藝春秋2020年

話題の書である。一時は売り切れてしまい書店から姿を消した時期があったほど。都知事再選記念🎀として、選挙後に買い求めて読んでみましたよ。

出版時から何かと批判の多い本書ではある。しかし面白く読んだ。そもそも私はゴシップ、スキャンダルの類いが三度のメシと同じくらいに好きなのだ。そういうものを下劣と考える人は最初から手に取らない方がいいだろう。

小池氏というと「芦屋のお嬢様」というイメージがあるが、それとは全く異なる実像を幼少時から描いていく。
強烈過ぎる父親の影響、疑惑の元となっているエジプト留学時代、そして部屋をシェアしていた日本人女性の証言。TV番組のアシスタントから経済ニュースのキャスター、そして政界へ……。
このように双六で上がりに近づいていくのはある種の才能がなくてはできない事だろう。しかし、それはあくまでもご当人が自称しているように「政界のチアリーダー」としてであり、決してフィールドを走るプレイヤーの才能ではないのである。
それにつけてもオヤジ社会でのし上がっていくのに重要なのは「ゴルフとカラオケ」、ここ試験に出るからな(^.^)b

私は『ストーリー・オブ・マイライフ』を見て、女が伴侶となる男を求めてピンクのドレスを着て何が悪いと思った。同様にミニスカはいて目をくらますのも自由であるし、それに騙される方もどうかと思う。
しかし、これが私人ではなく政治家となれば話は別である。学歴詐称だって政党除名か議員辞職かという重要問題だ。若気の至りなどと弁護はできまいよ。

いずれにせよ彼女が、「女の子」と「おばさん」としてしか女性が存在しないこの社会のの間隙をついて生きてきたのは確かであろう。
これを読んでオヤジたちが彼女をけなすのは筋違いと言いたい。「チアリーダー」をもてはやすオヤジ根性の方を何とかしてもらいたい。

政治家になってからの言動に注目すると、現在の感染症対策のやり方や「ウィズコロナ」みたいなカタカナの使い方が、ああこの本に書いてある通りだな--と信憑性が一割増となるのであった。

また実質がなく対立だけを煽り立てていくという手法は、かつての映画『オール・ザ・キングスメン』(1949)に描かれたものと全く変わっていない。いやますます強くなっている?のをヒシと感じた。

それから、通して読んでみると平成日本政治史みたいなものも改めて理解できた。その当時は何が起こっていたのかよく把握できていなかったが、なるほどこうだったなあなんて改めて実感した。
政党や政治グループの集合離散ぶりを顧みると甚だしいものがある(その多くに小池氏が絡む)。今でもまだ続けてやってるけどな(^_^メ)

それともう一つ、私の職場に言動が彼女そっくりな人物(女)がいたので余計に真実味がある。
他人の手柄を横取りし過失は押し付ける。常に自分中心。真実は何一つ言わない、複数の人に全く異なることをそれぞれ平然と言う。年下の男はこき使い、年下の女には嫌がらせ。
独自のファッションセンスをひけらかし、それをもって他人へのマウントに使う。

当時は、一体どういう人間なんだ、何を考えているんだと謎だったが、これを読んでこういう性質の人間は他にも存在するんだと納得した。
その点でも読んだ甲斐はあった。

難点をあげると……
発言や事実を、直接人に会って確認したのか資料から得たのかよく分からない。
最初にストーリーが先にあって、それに合わせて記述しているのではないか。
仄めかしが多い(訴えられると困るというのもわかるが)。
容貌のある点についての言及が過剰。
女性のライバル(土井たか子など)を設定して比較して貶すような取り上げ方はどうなのか。
読んでビックリ新事実みたいのは少ない。

しかしまあ、やはり東京都知事だから話題になるのであって、これが埼玉県知事じゃ本にもなりませぬ(-"-)グヌヌ

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2020年8月23日 (日)

「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」:凶暴なだけじゃダメかしら

200823 監督:キャシー・ヤン
出演:マーゴット・ロビー
米国2020年

『スーサイド・スクワッド』の後日譚、というかスピンオフ?
実は私見ておりません...((((((((( ((;-o-)コソコソ
それでも話はよーく分かったので見てない人でも大丈夫。
いやもうほんとにバカバカしくてくだらなくてメチャクチャでデタラメな内容。よい子はもちろんよい大人にも見せられねえ~💣

泣く子も黙るジョーカーの女として好き勝手していたハーレイ・クイン、突如フラれて追い出される。これまではジョーカーの威光で何をされてもおとなしくしていた街中の悪党たちは、積年の恨みを今こそ晴らさんと次から次へと襲撃してくるのであった。
気が付けば周囲は敵だらけ~(゚∀゚)という次第。

敵と鉢合わせする度に、相手に対して彼女がやったことが箇条書きになってズラズラと画面に出てくる。それを見る限り向こうが怒っても当然としか思えないものも多い。
中でも「激おこ」状態なのがユアン・マクレガー扮するブラックマスクで、彼に対する悪行の箇条書きが多すぎてスクリーンからはみ出してしまうほど。(当然字幕版では追いつきません)

なんとか撃退していくものの、遂に窮地に至り追い詰められるが……。
一人の男の庇護下にあった女がそれを失った時に、また別の男に依存しようとするが、それではイカンと反省し自立へと「覚醒」する--というのが本作のキモである。
そしてたまたま「協力」せざるを得なくなった女たちとともに、悪党どもを迎え撃たんとするという次第だ。
だから、男を敵視しているという意見は全くの誤解なのよねっ(・∀・)b

ただアクが強くてブラックなノリなので、日本人向きではないかも。あまりのバカバカしさはもはや爽快の域に達しているが、真面目な人は怒り出しそうだ。
特に終盤に登場する遊園地が変テコで、ディズマランド(バンクシーの)っぽくてそのイカレ具合に爆笑してしまった。

しかし、例外的にシリアスな場面が二つあった。
ブラックマスクが店で気に入らない女の服を切れと命令するところ。これは怖い(>y<;)
それと、ハーレイ・クインが信用していたとある人物が金のために裏切って去っていくところ。これは辛い(:_;)

アクションは格闘技が中心。見せ場が多くて、思わず「スタントさん、乙っ❗」と叫びたくなった。
それと車&バイク&ローラースケートの追跡劇も見せ場だった。

マーゴット・ロビーは『スキャンダル』とは役柄のベクトルが正反対の方向。よくぞ演じました。
悪役のユアン・マクレガーはグッジョブ✨であった。最近の映画では二枚目の悪人というのが流行っているのかな(^^?
音楽は懐かしい曲も多数。ハートの「バラクーダ」、好きでよく聞きましたよ~🎵

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2020年8月15日 (土)

「レ・ミゼラブル」「ルーベ、嘆きの光」:生まれは双子、育てば別人

200815 「レ・ミゼラブル」
監督:ラジ・リ
出演:ダミアン・ボナール
フランス2019年

「ルーベ、嘆きの光」(「ダブル・サスペクツ」)
監督:アルノー・デプレシャン
出演:ロシュディ・ゼム
フランス2019年
*日本未公開、WOWOWで放映

『レ・ミゼラブル』はサッカー・ワールドカップの応援に沸くパリの街から始まる。熱狂して三色旗を振り回す人々--その中にアフリカ系の少年たちが混じっているが、彼らが無賃乗車して帰っていくのは近郊の犯罪多発地区である。

というドキュメンタリー的な冒頭からつかみはオッケーだ🆗
その街では複数の人種・民族によるグループが対立し、その間を警官が威圧するようにパトロールする。それは安全や秩序を維持するためではなく、権力を背景にした差別振りまく示威行動なのである。
他所から異動してきた刑事はそのやり方に違和感を抱くが、打開するのは簡単なことではない。

そして、悪ガキのいたずらに端を発してその危うい均衡が壊れ、一触即発状態へと向かう。もはや国家秩序自体が底辺からグズグズと崩れかけているのを、イヤというほどに見せつける。恐ろしい。
見たら絶対ドヨーンとした気分になるだろうなと思って行ったら、やっぱりドヨーンとなった。
さすがドキュメンタリー出身の監督、その場にいるような迫力に終始ハラハラドキドキしていた。血圧も上昇してたに違いない。

ラストについては、第三者の立場から見れば少年に対して「ギャーやめて~。投げないでー(~O~;)」と叫びたくなる。しかし少年の立場からすれば当然「投げる」。やらない理由はどこにもない。
でも、少年の方に同調してその行為に快哉を叫べるのは、自分が「やられない」側だと信じている者だけだろう。日本人の大人にそれに該当する者はいるかな(^^?
ああいうエンディングは結局、観客はその先に自分の見たいものだけを見るのだろう。

さて、驚いたのは映画に描かれた全てのシーンはこの地区の出身者である監督が実際に目撃したものだということだ(ラストも含めて)。
彼の立場はカメラ小僧の少年で(演じているのは実の息子らしい)、全三部作になるとのこと。次を見る気になるかどうかは、気力体力次第である。

もう一つビックリなのは役者に素人を多く使っているのにも関わらず、アドリブは全くなくほぼ脚本通りだという。畳みかけるような映像や編集のせいか、そんな計算されたものとは思わなかったので意外だった。

なお、この映画は朝日新聞の「働く」というコーナーで「映画配給」というシリーズに取り上げられていた。
邦題をどうするか迷った挙句(31も案があった)あえて原題のままに決めたそうな。「下手な邦題や副題を付けたら作品のニュアンスを崩す」から。
また監督はカンヌで審査員賞を取った後、買い手が殺到してネットフリックスからも話があったが断った。配信では不可能な、観客と交流することを望んだからだという。


『ルーベ、嘆きの光』は『レ・ミゼラブル』の後に見ると驚くこと請け合いである。
舞台であるベルギー国境近くにあるルーベという町は監督の出身地であり、フランス国内で最も貧しく住民の45%が貧困状態で、凶悪犯罪が多発するという。冒頭の字幕のメッセージには、作中の事件は全て事実だとある。ドキュメンタリー映画が原作とのことだ。
この町の警察に刑事が赴任してくるのが発端となり、彼を通して町を見ることになる。
そして主要人物以外は現地の住民を役者として起用している。

えっ❗これって『レ・ミゼラブル』とほとんどソックリじゃないですか(!o!)
しかしこれほどに成り立っている要素がかぶりながら、出来上がった作品は全くの正反対だった……なんでこうなるの?

作品のタッチは極めて内省的。うらぶれた街に起こる犯罪は車の保険金詐欺から放火殺人まで大小さまざまに起こるが、どんな犯罪であっても、さしたる激動もなく淡々と通り過ぎていく。
バックに時代遅れではないかと思うほどにクラシカルで流麗な音楽が流れるのが、それに拍車をかける。

新任の刑事は敬虔なカトリックだが神に祈っても効き目はないようだ。
移民出身の署長はオバマ似のアフリカ系で思索家のように見える。彼の家族がみな故郷の国に戻ってしまったと聞き、刑事が「なぜ戻ったんですか」と尋ねると「それよりなぜ私が残ったのかを問え」と答える。

例えここに善が存在しているとしても、夜のうらぶれた街へと吸い込まれていくしかないのだろう。
見ていて退屈に思う人がいるかもしれないが、心にジワジワとしみてくるものがある。私も歳をくったせいだろうか、『レ・ミゼラブル』よりこちらの方に引き寄せられるのだ。

本作はレア・セドゥがスッピンで出演してるのも話題になったらしい。彼女が演じているのは今や死語だが「はすっぱな女」、まさにこれである。
が、スッピンであれだけキレイなんだからやはり超が付く美人✨に間違いないだろう。もしフルメイクして豪華なドレスを着て現れたら、目がくらんで倒れ伏してしまうかもしれない。

このブログを書くのに検索してみたら、なんとつい最近『ダブル・サスペクツ』というタイトルになってソフトが出ていた。だがパッケージのジャケ写真や宣伝文句を見るとあたかもサスペンス映画……全く違~う(>O<)


さて、似ているようで似ていないこの二作はフランス国内の映画賞を争った(発表は今年の2月末)。一体、国内ではどのように比較されたのだろうか、知りたいものである。
『レ・ミゼラブル』はセザール賞12部門候補で4部門受賞。観客賞という一番ヒットした映画への賞まで取ったのは驚きだ。またカンヌ審査員賞獲得、アカデミー賞の国際映画賞候補。
『ルーベ』はセザール賞7部門候補で主演男優賞受賞。さらにこちらもカンヌのコンペに出品されたというのは、どういうことよ(?_?)
セザール賞の監督賞には両者ともノミネートされていたが、受賞したのはポランスキーで大騒動……なんかフランス映画界、波乱と嵐を求めていないか。

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2020年8月 5日 (水)

「ルカ・マレンツィオ 四声のマドリガーレ」:厳戒態勢下での再開

200805 演奏:ラ・フォンテヴェルデ
会場:近江楽堂
2020年7月28日

本来は4月1日に開催される予定だったが、コロナウイルス感染拡大のためこの日に延期された公演である。
元々、昼夜2回公演だったが、会場の定員を減らしたために夕方の回が追加された。私は夜公演のチケットを買ったが、夕方5時の回に移らせてもらった。

会場に入ると客席エリアとステージの部分がちょうど半々ぐらいになっている。椅子は間隔を開けて置かれていて、定員の半分以下ぐらいだろう。
4人の楽譜台も間隔(2m以上?)があいているし、上半身をカバーするぐらいのアクリル板が客席との間に設置されているという厳戒態勢。かなり細心の注意を払っているのを感じた。
そのような配置のためか、人数が少ないせいか、残響がさらに多く感じられて教会風の響きがした。

マレンツィオは亡くなったのが1599年ということで、まさにルネサンス末期を飾る作曲家だろう。
75分のプログラムは休憩を挟んで、前半はペトラルカ、後半はサンナザーロという詩人の詩篇に四声の曲をつけたものである。ペトラルカの方は悲恋、サンナザーロはギリシャ神話を元にした牧歌的な話と対照的だ。
詩人による歌詞はどちらも様々な感情を強く連ねているが、作曲家はそこにあまり深く踏み込み過ぎず、あくまでも華麗に歌をつづるといった風情だった。

もちろんそれは鈴木美登里をはじめ四人の歌手の力量あってこそである。トーシロなのでよく分からないが、これだけ互いに離れていると互いのタイミングの取り方とかかなり難しいのではと思ってしまった。
四人の真ん中にはリュートの金子浩がいて、その上部に字幕が出るという次第。やはり字幕があってよかった。

オペラシティはなんと5か月ぶりに来た! 思わず柱に頬ずりしちゃった(≧▽≦*)←ウソです。
2月初めぐらいにチケット買った時は「いくらなんでも4月には感染症も収まっているだろう」と思ったのだが、まさか未だに片付いていないとは……(+_+)トホホ


余談だが、映画館やコンサートで座席の間隔を開けて座ると本当にストレスなしで快適なのを実感。隣や前の座席の人間が何しようが気にならなくなるのはよい。
でも、そうすると採算取れなくなっちゃうから困るわな。

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2020年8月 3日 (月)

「萩尾望都と竹宮惠子」

200803 大泉サロンの少女マンガ革命
著者:中川右介
幻冬舎新書2020年

少年マンガ史における「トキワ荘」に比較されるのが、少女マンガでは「大泉サロン」だ。
名前はよく聞き漠然とした知識はあるものの、では実際にどういう人たちが集まってどのぐらいの期間続いたのか、ということはよく知らなかったりする。

実際の期間は2年間(1970~72年)で、しかも肝心の萩尾と竹宮は「サロン」の中心人物ではなかった。集まってくるマンガ家志望者仲間たちと熱く語り合っていたのは増山法恵であったという。増山は元々は萩尾の友人で、後に竹宮のマネージャー、原作者となる。(恐らく増山はプロデューサー、編集者的な才能があるのではないかと思った)

--というようなことを、複数の資料から引き出していくのが本書である。
その資料も『私の少女マンガ講義』や『少年の名はジルベール』は近年出たもので入手しやすく私も読んだが、古い雑誌の記事や対談も多く含まれている。
ご当人たちが書いているものでも記憶違いで時期や事実関係などが異なっていることは珍しくない。それらを突き合わせて年代順にまとめて事実をチェックするのはかなりの手間だったろう。

しかもその集った少女マンガ家たちを輩出した『COM』や、他の少年誌などの動きも並行して記述されている。まさに労作だといえる。勃興期の少女マンガに興味のある人は読んで損なしだ。

竹宮は優れた作品を描き続ける萩尾にコンプレックスを抱き、傍にいられなかったというのが「サロン」の終了の理由である。だが、それはあくまでも竹宮が語っていることで萩尾の方はどう思っていたのかは謎だ。
彼女ら三人の間に何があったのか、真実は今となっては推測するしかない。創造する者同士の桎梏だったのだろうか。

単に少女マンガの読者としては、竹宮惠子は常に安定して活動を続けていたという印象がある。多岐に渡るジャンルの連載を次々と続け、商業的にも創作者としても成功していると当時は思っていた。
よもや「どうすれば開放(*)されるのか。せめて離れたかった。」(*「解放」?)とまで思い詰めたことがあったとは想像もできななかった。

本書へのただ一つの疑問点は、当時の萩尾作品の評価についてである。「サロン」当時の彼女は優れた短編を幾つも世に出し、竹宮よりも高く評価された--という見解(これは竹宮本人もそう述べていたと記憶する)だが、そんな高評価は『COM』読んでいるようなマニアの間だけではなかったのか。一般読者(主に小中学生)についても同じだったのか?と疑問に感じた。

私はその当時はリアルタイムでは読んでいないので知らないが、その頃の短編を雑誌から切り取って保存しておいたほどの萩尾ファンの友人がいた。なぜそれほどのファンだったかというと、当時誰も他にそんな絵柄で描いている少女マンガ家はいなかったから、だそうだ。
で、ある時同じ小学校のクラスの女の子に萩尾マンガをどう思うか聞いたところ「地味でつまらない」と答えたそうだ。これが一般読者の反応だったろう。
過去には『トーマの心臓』が人気がなくて連載打ち切りになりそうで大変な苦労をしたと、萩尾自身が語っている。

本書を読んで当時を知らない若い読者は、萩尾作品が一般にも受け入れられて人気があったと誤解してしまうのではないだろうか。
商業誌に描いていて人気のある無し(特にアンケートはがきによる人気投票)は無視できたとは考えられないので、そこら辺の事情も入れてほしかった。

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