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2021年5月

2021年5月22日 (土)

今ひとたびの「一度きりの大泉の話」

210522 自分の感想を書いてから、他の人の評などを読んで思ったことを追加したい。

私は小学生低学年の頃は少女マンガをよく読んでいたが、その後は縁遠くなってしまった。萩尾望都を初めて読んだのは、高校の同じクラスでマン研に入っている子が「布教用」に持っている『ポー』や『トーマ』を貸してくれた時である。
家へ持って帰って読んでいたら、6歳上の兄も一緒になって読んで「すごい!」と興奮して、大学のマン研所属の友人に電話をかけ「遠藤周作とかヘッセみたいなんだ」(←兄が好きな作家)と力説した。もっともその人はマン研内でもエロ劇画専門だったので、今ひとつ反応は薄かったようだ。

その後、定期的に少女マンガ雑誌数種類を立ち読みするようにまでなった(昔は金はないが体力だけはあった)。
当時、『風と木の詩』は連載開始前から話題になっていて「遂に世に出るのか」「なんか過激らしい」みたいな噂が流れていた。まさに満を持して登場✨といった状況である。
雑誌が発売された時はいち早く本屋に行って、周囲に人がいないかキョロキョロと気にしつつドキドキして立ち読みした。

リアルタイムでは萩尾作品と似ているとは思わず、単にヨーロッパの男子校寄宿舎という設定がはやっているのだなあという感じで読んでいた。確か池田理代子(『オルフェウスの窓』第一部、か?)や坂田靖子も描いていたはずだ。
『小鳥の巣』はゴシックホラー、『トーマ』はミステリ志向であって、『風木』とはジャンルからして異なるという印象だった。

しかし後から考えてみると、竹宮惠子にとっては自分こそ少年愛の先駆者だ、先駆者たらねばならない⚡という強烈な自負があったに違いない。
その自負心の前では、当時だろうが現在だろうが「全く似てない」とか「盗作じゃない」などと他者が論じても意味はないのだ。
なんで『11月のギムナジウム』の時はOKだったのに『小鳥の巣』や『トーマ』になるとダメなのか(?_?)と問うても無駄である。

唯一で最高の作品を描くのは先駆者の彼女なのであり、だから全ての尺度は彼女が決めるのである。これはもはや論理ではない。自らを恃む強い意志と感情なのだろう。

さらに問題は、竹宮は萩尾を自分に脅威を与えるライバルと見なしたけど、萩尾の方は心強い「仲間」とか「同好の士」と思っていたのではないかということだ。

登山を引き合いに出してみると、同じ山頂をめざして山登りをする仲間なら競争ではないのだから足を引っ張り合うことなどはなく、個々人がただ黙々と進んでいけばいいだけである。
途中で別ルートに別れたり、道が交差したりもするし、道具や水筒を貸してやったりもするだろう。それぞれ躓いたり休んだり時間差も出るかもしれない。が、とりあえず登っていけばいい。

そう思って歩いていたら--突然に道の前に立ちはだかり「あんたは登ってくるな」と突き落とされたらどうなるだろうか。「な、なんで~?」と斜面を転がり落ちながら思うはずだ。

萩尾は『一度』の中で、これが狭い道一本しかなく一人しか選ばれないバレエの舞台とか、親から平等に扱われるはずの姉妹関係なら「嫉妬というのもわかる」と書いている。
しかし山頂は広くみんなに開かれていて誰でも登るのは可能ではなかったのか。
一緒に登っていたはずがいつ敵になってしまったのだろう。そもそも山頂は独占するような狭いものだったのかな。

他の感想を見ると「天才過ぎて竹宮の作品など相手にしなかった」さらには「見下していた」などという極端な解釈まであったが、そりゃ違うだろうと思う。「無神経で鈍感だから気付かなかった」に至ってはナニソレ┐( ̄ヘ ̄)┌である。

「仲間」と思っていれば、自分の所に送られてこない掲載誌や描いたクロッキーブックを見せてもらうのは普通だし、その他情報を共有したりお喋りしにいくのも当たり前のはずだ。
しかし「敵」だと思われていたらどうなるか。相手からは「邪魔」「鬱陶しい」「スパイか?」となるだろう。

少女マンガの仲間だと思っていたら「敵」だったというのがそもそもの食い違いであり、悲劇の始まりだったのではないか。そして、二人が別の人格である限りこれはどうにもしようがないことなのだ。


なお、独特の文体で書かれているために「幼い」などと見当はずれの形容をする意見も見たが、勘違いだろう。「事件」が起きた時は20代前半の若い子ではあっても現在はベテランの表現者である。回想の表現が整然としてなくても、至る所に「証拠はある」「文句があるなら毅然とした態度をとる」意志は感じさせるのよねえ。
いずれにせよ、今年最大の話題書の候補に入るだろう。

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2021年5月16日 (日)

「ブラックアンドブルー」/「21ブリッジ」:白黒は決着つかず

210516a「ブラックアンドブルー」
監督:デオン・テイラー
出演:ナオミ・ハリス
米国2019年
DVD鑑賞

言うまでもなくブラックは肌の色でありブルーは警官の制服の色を示す。
故郷の街の役に立ちたいと戻ってきたアフリカ系新人女性警官は、警察と住人の対立の最前線に立たざるを得ない。そして昔の友人からは敵扱いされるのだった。
双方に付くことは不可能、どちらかの立場に取らばならないと忠告されて納得いかずモヤモヤしているうちに、身内の警官の不正と犯罪を目撃してしまう。

--と言うのが発端で、警察署と悪徳警官とギャングのボスから追い回される羽目に。一方、出会うストリートの住民は敵意か無関心、どちらかしかなくて助かる手段は全く見つからない。
ひたすら逃げ回る前半は手に汗握り、サスペンスとして面白かった。追い詰められてどうするかという所ではアクションも見せ場だ。ナオミ・ハリスは熱演である。

ただ見終わって思い返すとつじつまの合わなかったり適当なところもあったなあ(;^ω^)
脇役、特にゲーム少年をもう少し活用する筋立てにすればよかったのでは?とか、ギャングのボス簡単に人を信じてお人好し過ぎじゃないのか……などなど。まあ色々出てくるけど見ている間は気にならないからいいよね🆗

主人公はあくまで行動の人なので黒と青の両者の狭間での葛藤が少ないのは、ちょっと物足りない気もした。
それとガンアクションの最中に、倫理的な問題について理屈っぽい討論をするのは何とかしてほしい(^^;

もう一つの特徴は警官のボディカメラや住民のスマホ映像を多用していること。思わずG・フロイド事件やBLM運動を想起してしまうが、米国での公開はそれよりずっと前で、まるで予見していたようだ。
黒人街の雑貨屋で非常ボタンを押すと、まず店員自身が不審者として犯人扱いされて警官から脅される--この場面は非常に恐ろしい。やってられない気分になること請け合いだろう。

ということで、作りはB級以上A級未満だが、見る価値は大いにあり。


210516b「21ブリッジ」
監督:ブライアン・カーク
出演:チャドウィック・ボーズマン
中国・アメリカ2019年

米国公開時には今一つパッとしない評価&興収だった作品だが、「C・ボーズマン最後の主演作❗」みたいな宣伝文句を出されては見ないわけにはいくめえよ。

事前の印象だと、てっきり切れ者のボーズマン指揮する警察によってマンハッタン島が封鎖され、その中で逃げ場を失った犯人が「あ、この橋もダメ、あっちもダメだ」とジタバタする頭脳戦サスペンスかと思ったのだが全然違った。

ドラッグ争奪事件に端を発する派手な銃撃戦、カーアクション、逃走追跡劇などが立て続けにてんこ盛りで繰り広げられ、その合間にストーリーが挟まって進行するという印象である。
犯人二人組の設定や描写は良かったけど、開始後10分で私のようなニブい人間にも早々に真相が想像できてしまうのはなんとしたことよ。特にとある人物が最初から怪しさ大爆発💥である。もう少し隠す努力をしてほしい。

それからタイムリミット設定が生かされていないのもなんだかなあであった。銃撃戦については撃った弾丸が多けりゃ出来が良くなるわけではないと敢えて言いたい。

とはいえボーズマン最後の雄姿(アクション物での)を目に焼き付けておきたい人には推奨である。「疲れている男」という設定の役だけど確かにやつれているのよ(T^T)


以上、2作とも警察組織内の似たような不正を描いているが、他の映画やドラマでも見たことがあるので、恐らく実際に起こった事件を参考にしていると思われる。米国の作品はこういうの積極的に取り上げるのが常らしい。

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2021年5月 8日 (土)

「一度きりの大泉の話」

210508a 著者:萩尾望都
河出書房新社2021年

(以下、全て敬称略)
発売前の告知だけで少女マンガ界隈が騒然となった手記である。
1970年秋から若い少女マンガ家(とその卵やファン)が集ったいわゆる「大泉サロン」については、半ば「伝説」と化していた。
近年、竹宮惠子がその時代を回顧した『少年の名はジルベール』(2016年)が出版された。さらにそれをふまえた上で他の資料・記録を検証し他のマンガの動向も合わせてまとめたのが中川右介『萩尾望都と竹宮惠子』(感想はこちら)である。
一方、これまで萩尾サイドからはまとまったものは何もなかった。

『少年』の趣旨は--増山法恵と少女マンガに革命を起こそうと誓い、その場所を作るため「トキワ荘」めざして増山の自宅のそばに家を借りた。
様々な人々が訪れたが、自身のスランプと萩尾の才能のプレッシャーのために精神と身体に不調が起きたので、大泉から去る。そして、拒否され続けてきたライフワーク『風と木の詩』の連載になんとかこぎつけることに成功した。

私はこれを発売してすぐ読んだ時、連載をこなし商業的に既に成功していたという印象が強い竹宮が、萩尾に対してそこまでプレッシャーとジェラシーを感じたというのが、ちょっと信じられず意外に感じた。
とはいえ「大泉」に関してはこのように述べている。

私たち三人が一緒に住んだ場所は、のちに1970年代少女マンガの基礎を築いた「大泉サロン」と言われるようになる。そこには、「24年組」と呼ばれることになる私たちの物語が詰まっている。

心身不調の中で去ったにしろ、極めて肯定的なとらえ方だ。

さて、そこで『一度きりの大泉の話』である。
これは衝撃的告白&告発の書だ。しかも過去に裁判沙汰になっても受けて立つことを考えたとまで書いてある。かなり不穏ではないか、ヒエーッ(>y<;)

回顧録の形を取っており、その内容をざっくりまとめると
・「少年愛」については増山が旗を振っていたけれど、自分は少年は好きだが少年愛には興味はない。
・「風木」の盗作疑惑で竹宮(&増山)からバッシングを受けた。疑惑は完全否定する。
・「大泉サロン」「花の24年組」は虚構。自分は関係ない。これからも関わりたくない。

最大の衝撃箇所は、その盗作疑惑宣告を受けた状況である。『少年』の中においては「萩尾に対し距離を置きたいと告げた」などと2行で終了している。しかし、こちらではその後萩尾はショックのあまり飲まず食わずで街中で倒れこみ、ストレスで眼が見えなくなったというのだ。
まさに「50年を経ても生々しいトラウマ記憶」(信田さよ子)ではないか。これほどの被害を受けたと訴えているからには、もはや牧歌的「大泉」観を漫然と受け入れるわけにはいかないだろう。

そういう意味では少女マンガ史を震撼させる内容だ。同時に個人としての告発本でもあるといえる。

以後、萩尾は竹宮本人と接触を断ちその作品も一切目にしていないという。『少年』発行時に本を送ってきたが封筒に触ることもできなかった。これこそトラウマの影響のように思える。
にも関わらず、『少年』の内容を念頭にした記述と思しきものが幾つか見られる。恐らく、マネージャーの城章子が概要を伝えたのだろうか(あくまでも推測です)。

両書で共通している部分。
・クロッキーブック(ノート)の使用について
これは一見マンガ家のアイデア発想法みたいだが、双方とも「ここに証拠は残っている」と言っているように思えるのはうがち過ぎか。

・『風木』と『小鳥の巣』『トーマの心臓』の発想時期
『少年』を再読して初めて気付いたのだが、「風木」の冒頭50pをクロッキーノートに描いたのが1971年1月21日だと日付まで書いている。その時に萩尾を含む周囲に作品の存在について話したとある(ノートを見せたとは書いていない)。
対して、萩尾はそのノートを見せてもらったのは6月のことであり、「トーマ」の習作を描いたのはそれよりも早い3月で、竹宮、増山にも見せたと細かく反証している。

・萩尾の〈無神経さ〉について
『一度』では「本当に鈍いのですが、本当にわからなかったのです」「人間関係において空気の読めない私は、距離感をうまく取れない」「私が何か配慮足らずで」「私が苦しめていた。無自覚に。無神経に。」というような表現が頻出する。
これは『少年』において、竹宮が離れたくて大泉から引っ越すことを決めたのに萩尾が気づいていなかった(結局また近所に来た)。さらに新居にやってきて自分が仕事中なのに増山と談笑しているのにいらだった--という部分を念頭に置いているように思える。

・両者とも互いの存在に対して心身のストレスを感じて耐えられなかった。

異なるのは、竹宮が萩尾に宣告して離れて数年後に復調し『風木』の連載を勝ち取ったことである。
一方、萩尾の方は接触せずなるべく目に触れないようにしていたにも関わらず、「共通の知人から、たびたび“あちらのご不快”の話が急に出て」きたというのだ。詳細は書いてないがその後も続いていたのか(?_?)
そして彼女のトラウマはまだ回復していないのだ。

加えて、二人とも共通したアシスタントを使いそれぞれにファンや友人知人がいただろうから、当人たちに関係なく外野から勝手な噂が流れたりもしたと推測できる。そして、さらに被害拡大……(ーー;)
以前、というかウン十年前の大昔にとあるイベントで某マンガ家(注-どちらの本にも出てこない人物)を目撃した。その人の周囲にファンが二重ぐらい取り巻いている中で通路を移動していたので驚いたことがある。そういう取り巻きの人々が何か噂してもコントロールできないだろう。

それにしても、発端は半世紀も前である❗ 未だ払拭できず苦しむとは、人の心の複雑さと闇であるとしか言いようがない。
最大の問題はそのような事件を過去の美談として回収し、事実を塗り替えようとする動向と圧力の存在だろう。
だから「大泉というドラマ」を否定するのは当然だが、代わりに「二人の才能ある作家の悲劇」とか「若さゆえの未熟な友情と嫉妬」みたいな別のドラマに持っていくことも避けたい。
中には「萩尾は天才だから竹宮がああいう行動に出るのは仕方ない」なんて「萩尾アゲ」のあまり逆行しちゃってる意見まで見かけるほどだ。

結局、萩尾の「理解しますけど、謝りません。なぜなら原因は双方にあって、双方とも傷ついたからです」という一節に尽きるのである。

なお、文体はかなり特徴あり過ぎの上に、なんだか統一感に欠けてフラフラしている。インタビュー形式で語ったものをさらに自分で修正・追加したとのことだが、こういう形でしか書け(語れ)なかったのだろう。
そこにまたある種の迫力が感じられるのだ。


その他、断片的な感想を。
謎なのは増山という人である。私はこれまでプロデューサーか編集者的な人かと考えていたが、なんだかどうも違うようだ。
それこそ「世紀末の文化サロンの女主人」(?)ですかね。

「24年組」の言説に関しては、以前から誰がその範疇に該当するのかがかなり恣意的という印象はあった。青池保子や大和和紀はどうなのか、池田理代子や一条ゆかりだって同世代だろう。明確な定義は存在しないってことだろうか。
なお、『一度』で書かれている山田ミネコ発案説については、ツイッターで山田ご本人が「確かに言ったが、そういう意味ではない」と否定している。さらにその意味を何者かが「わざとで意図があった」上で変えたとのこと。

光瀬龍について、竹宮もまたファンらしいと知って以後は彼から「何かのお誘いがあってもお断りして逃げました」とある。これは光瀬ファンの元SF者としては悲しかった。

佐藤史生と増山が意気投合し過ぎて、まだ一作もマンガ作品を描いたことがないのに、互いに「あなたすごいわ💕」と褒め合っていたというのは映画『ブックスマート』の主人公二人みたいで笑った。

萩尾が山岸凉子に嫉妬という感情が分からないと話したら「ええ、萩尾さんには分からないと思うわ」と答えたという。その時の山岸の心境を聞きたい。

西原理恵子が「画力対決」で竹宮にエドガーを、萩尾にジルベールを描かせたというのは、盗作疑惑の噂を知っててやったのだろうか。そうだとしたら大した根性である。(ホメてません💢)
「画力対決」の記録

【追記】追加の感想を新たに書きました。

210508b ←本棚から発掘できた。


 

読んでヨカッタと思えたら、目立たないですが下↓のイイネマークを押して下せえ。

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2021年5月 2日 (日)

祝!「ランド」手塚治虫文化賞マンガ大賞

210502 なんと山下和美『ランド』(全11巻)が手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。(ネタバレなし感想はこちら
候補に入っていたことは知っていたが、人気シリーズが複数候補になっているし、内容が内容だけにまず無理だろうと思っていたのでビックリである。(関連記事
ご本人も「驚いて椅子から転げ落ちそうに」なったと言っているぐらいだ。

第一次の選考結果を見ると最下位の5点である(同点が5作品あるが)。票を入れているのは中条省平一人である。
それをどうやって上位の『鬼滅』『ネバーランド』と並べて最終選考にねじ込んで、さらに受賞までたどり着いたのか知りたいところだ。説得力か政治力だろうか(^^?

とはいえメデタイ✨ことには変わりない。
朝日新聞のインタビューによると、連載始めて人気が出なくて「3巻で終わらせて」と言われたという。連載打ち切りのプレッシャーは今も昔も変わらずに存在するのだなあ。
あと、やはり終盤のウイルス出現は、期せずして現実を先取りした形になったそうだ。こりゃ予言の書か。
受賞してもアニメ化などあるとは思えない。内容が不穏過ぎである。

読み終わって、何がイヤってあの世界全てが人々が望んでそうなったということ。思わず震え上がっちゃう。

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