今ひとたびの「一度きりの大泉の話」
自分の感想を書いてから、他の人の評などを読んで思ったことを追加したい。
私は小学生低学年の頃は少女マンガをよく読んでいたが、その後は縁遠くなってしまった。萩尾望都を初めて読んだのは、高校の同じクラスでマン研に入っている子が「布教用」に持っている『ポー』や『トーマ』を貸してくれた時である。
家へ持って帰って読んでいたら、6歳上の兄も一緒になって読んで「すごい!」と興奮して、大学のマン研所属の友人に電話をかけ「遠藤周作とかヘッセみたいなんだ」(←兄が好きな作家)と力説した。もっともその人はマン研内でもエロ劇画専門だったので、今ひとつ反応は薄かったようだ。
その後、定期的に少女マンガ雑誌数種類を立ち読みするようにまでなった(昔は金はないが体力だけはあった)。
当時、『風と木の詩』は連載開始前から話題になっていて「遂に世に出るのか」「なんか過激らしい」みたいな噂が流れていた。まさに満を持して登場✨といった状況である。
雑誌が発売された時はいち早く本屋に行って、周囲に人がいないかキョロキョロと気にしつつドキドキして立ち読みした。
リアルタイムでは萩尾作品と似ているとは思わず、単にヨーロッパの男子校寄宿舎という設定がはやっているのだなあという感じで読んでいた。確か池田理代子(『オルフェウスの窓』第一部、か?)や坂田靖子も描いていたはずだ。
『小鳥の巣』はゴシックホラー、『トーマ』はミステリ志向であって、『風木』とはジャンルからして異なるという印象だった。
しかし後から考えてみると、竹宮惠子にとっては自分こそ少年愛の先駆者だ、先駆者たらねばならない⚡という強烈な自負があったに違いない。
その自負心の前では、当時だろうが現在だろうが「全く似てない」とか「盗作じゃない」などと他者が論じても意味はないのだ。
なんで『11月のギムナジウム』の時はOKだったのに『小鳥の巣』や『トーマ』になるとダメなのか(?_?)と問うても無駄である。
唯一で最高の作品を描くのは先駆者の彼女なのであり、だから全ての尺度は彼女が決めるのである。これはもはや論理ではない。自らを恃む強い意志と感情なのだろう。
さらに問題は、竹宮は萩尾を自分に脅威を与えるライバルと見なしたけど、萩尾の方は心強い「仲間」とか「同好の士」と思っていたのではないかということだ。
登山を引き合いに出してみると、同じ山頂をめざして山登りをする仲間なら競争ではないのだから足を引っ張り合うことなどはなく、個々人がただ黙々と進んでいけばいいだけである。
途中で別ルートに別れたり、道が交差したりもするし、道具や水筒を貸してやったりもするだろう。それぞれ躓いたり休んだり時間差も出るかもしれない。が、とりあえず登っていけばいい。
そう思って歩いていたら--突然に道の前に立ちはだかり「あんたは登ってくるな」と突き落とされたらどうなるだろうか。「な、なんで~?」と斜面を転がり落ちながら思うはずだ。
萩尾は『一度』の中で、これが狭い道一本しかなく一人しか選ばれないバレエの舞台とか、親から平等に扱われるはずの姉妹関係なら「嫉妬というのもわかる」と書いている。
しかし山頂は広くみんなに開かれていて誰でも登るのは可能ではなかったのか。
一緒に登っていたはずがいつ敵になってしまったのだろう。そもそも山頂は独占するような狭いものだったのかな。
他の感想を見ると「天才過ぎて竹宮の作品など相手にしなかった」さらには「見下していた」などという極端な解釈まであったが、そりゃ違うだろうと思う。「無神経で鈍感だから気付かなかった」に至ってはナニソレ┐( ̄ヘ ̄)┌である。
「仲間」と思っていれば、自分の所に送られてこない掲載誌や描いたクロッキーブックを見せてもらうのは普通だし、その他情報を共有したりお喋りしにいくのも当たり前のはずだ。
しかし「敵」だと思われていたらどうなるか。相手からは「邪魔」「鬱陶しい」「スパイか?」となるだろう。
少女マンガの仲間だと思っていたら「敵」だったというのがそもそもの食い違いであり、悲劇の始まりだったのではないか。そして、二人が別の人格である限りこれはどうにもしようがないことなのだ。
なお、独特の文体で書かれているために「幼い」などと見当はずれの形容をする意見も見たが、勘違いだろう。「事件」が起きた時は20代前半の若い子ではあっても現在はベテランの表現者である。回想の表現が整然としてなくても、至る所に「証拠はある」「文句があるなら毅然とした態度をとる」意志は感じさせるのよねえ。
いずれにせよ、今年最大の話題書の候補に入るだろう。
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