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2021年6月

2021年6月26日 (土)

「ある人質 生還までの398日」/「ザ・レポート」:拷問をくぐる者は一切の希望を捨てよ

210626「ある人質 生還までの398日」

監督:ニールス・アルデン・オプレヴ
出演:エスベン・スメド
デンマーク・スウェーデン・ノルウェー2019年

「ザ・レポート」
監督:スコット・Z・バーンズ
出演:アダム・ドライヴァー
米国2019年
アマゾン・プライム鑑賞

デンマーク人の若いカメラマンがシリアに渡り、紛争下での庶民の姿を撮ろうとしたところスパイの疑いを受けて捕らえられてしまう。情勢不安定なためにいつの間にか勢力地図が変わっていたのだ。そして、人質として身代金を請求される。(実話である)

ところが(日本もそうだが)国は表に立って交渉に応じない方針だ。家族は平凡な一般市民なので高額な身代金は支払えない、と膠着状態になる。
一方、カメラマンは拷問された挙句、他の捕虜たちと共に恐怖の監禁生活をずっと続けることになる。

身代金集めに奔走する家族と悲惨な境遇の主人公が交互に描かれる。が、目まぐるしくはなくて編集がちょうどいい塩梅である。
約2時間20分が緩みなく展開し、緊張あり過ぎで倒れそうなくらいだ。

主人公は軟弱そうな若者だけど、スポーツ選手出身というのが監禁生活でも生存に利したようだ。何にしろ体力と運動は必要。それと家族のたゆまぬ努力も大きい。
だが助けてくれる家族がいない人質の運命は辛いものよ(ToT)

一方、米国は家族が交渉すると罰せられるとのこと。個人の命を左右するのは金だけでなく、国のありようも関わってくるのだ。


さて、『ザ・レポート』は拷問つながり(>y<;)と言える米国映画である。
こちらは911の後から強化されたCIAによる捕虜拷問問題を扱っている。それまではテロの容疑者や参考人捕まえた場合の尋問は比較的穏やかな方法(日本の「まあ、カツ丼食えや」みたいな感じか)で行われていたのが、急に過激化する。

その方法が『ある人質』で出て来た拷問とほとんど同じ。いや、もっと恐ろしいヤツも……(>O<)イヤーッ 恐ろしすぎて文字にもできない。互いに拷問合戦をやっている末世的状況、と言いたくなる。
やはりここでもヘビメタを使用。メタリカだけでなくマリリン・マンソンも使われていたようだ。ところで、いわゆる「水責め」は旧日本軍が発案したって聞いたことあるけど本当か?

しかもその手法を進言したのは二人の心理学者なのだが、その専門は全く関係ない分野だというウサン臭さである。顧問料で大いに儲けたらしい。

この経緯と並行して、その数年後にアダム・ドライバー扮する議会スタッフによってCIAの尋問問題についての調査が描かれる。
陰鬱なCIAのビルの地下で、長期間に渡りひたすら文書やネット上の資料をあさる日々で、彼の精神状態も不安定になる。おまけに外の政界では調査結果を公開するかどうかが駆け引きの材料となってしまうのだ。

監督・脚本は、ソダーバーグ作品で脚本を担当している人らしい。社会派作品の題材としては申し分ないが、二つの時間軸での行ったり来たりが分かりにくいのが難点。
それと絵的にはほとんどA・ドライバーが暗い場所をウロウロしてるだけなので、日本で劇場公開できなかったのは仕方ないだろう。ドライバーは執念のあまり偏執狂と紙一重な人物を熱演である。

上院議員役のアネット・ベニングはさすがの貫禄だった。
モーラ・ティアニーがCIA職員役で顔を見せているが、彼女の立場は『ゼロ・ダーク・サーティ』のヒロインと似たようなものなのか。そういえば皮肉だろうか、主人公がTVで『ゼロ~』の予告を見ている場面が出てくる。

調査は『ゼロ~』の内容とは反対に、拷問は役に立ってなかったという結論に至る。なんとCIAでも内部調査が行われていて同様の報告がなされていたという。
やはり国家のありようは大問題なのだ。

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2021年6月19日 (土)

「ウェイティング・バーバリアンズ 帝国の黄昏」/「彷徨える河」再見:狂気・逃走・放置

監督:シーロ・ゲーラ
出演:マーク・ライランス
イタリア・米国2019年
DVD鑑賞

原作J・M・クッツェー『夷狄を待ちながら』を作者自らが脚本化。出演がマーク・ライランス、ジョニー・デップ、ロバート・パティンソンという顔ぶれで、監督はシーラ・ゲーロ(『彷徨える河』コロンビア映画初のアカデミー賞外国語映画部門候補になった)、さらに撮影はクリス・メンゲス(『ミッション』『キリング・フィールド』でオスカー獲得)である。
これだけ豪華なメンツが揃っていながら、正式ロードショーがなくてビデオスルーというのはよほどトンデモな出来なのであろうか(>y<;)
--と恐る恐る見てみたら、全くそんな事はなかった。

砂漠の縁に立つ城壁のある町が舞台である。「帝国」に属しながらも辺境故に、民政官が平和に統治している。門は住民が行き交い、賑やかな市が立ち、家畜がのんびりウロウロとしていた。
しかし、ある日「大佐」が軍隊を引き連れてやってきたことから、平穏さに影が差す。
大佐は帝国の先兵として命を受けて版図を拡張すべく、辺境の果てに住む蛮族を討伐するため偵察に出ていく。

映画は時間の進行に沿って4つの章に分かれている。章が変わるたびに町の状態とM・ライランス扮する民政官の境遇は激しく変わる。町は乗っ取られ、活気があった住民たちもまた醜悪なまでに変貌する。もはやかつての自由は存在しない。
民政官の目を通して帝国の拡張と町の崩壊、その末路が淡々と綴られるのだった。

さんざんひどい目にあって地位を奪われた民政官が「私は裁かれている最中だ」というと、下士官から「そんな記録はない」と言われる。
どこの世界でも記録抹消と文書改ざんは「帝国しぐさ」らしい。

民政官役のライランスはほぼ出ずっぱりで恫喝されたりイヂメられたり、一方蛮族の娘の脚をナデナデしたり、いろいろあって大変な役だ~⚡ が、彼のファンは見て損なしとタイコ判を押しておこう。
大佐のデップと下士官のパティンソンは敵役で、出ている時間も少ない。もっともデップはこういうエキセントリックな役(メガネが怖い)をやるのは嬉しそうだが。
グレタ・スカッキがすっかりオバサンになってて驚いた。そもそも孫がいる役だし(^^;

辛辣なテーマ、美しい映像、暴力的展開、皮肉な結末--と文句はないのだが、問題はあまりに語り口が整然とまとまり過ぎていて、もう少し破綻した部分が欲しいのう、などと思ってしまった。かなり残酷な描写もあるのだが……。
原作者が脚本を書いたせいだろうか。それともこれは高望みというやつか。(原作は未読なのでどう異なるか不明)
加えて娘へのフェティッシュな欲望も割とアッサリめな描写。きょうび、あんまりネッチョリと描くわけにもいかないのか、それとも推測するに監督はあまりこの方面に興味ないのかもと思ってしまった。
監督には次作はぜひ自分の脚本で撮ってほしい。


さて、ずっと気になっていたこのシーラ・ゲーロ監督の『彷徨える河』(最初に見た感想はこちらをお読み下せえ)をアマゾン・プライムで再見した。
私はこれまで『地獄の黙示録』を4回ほど観たがその度に感じるのは、カーツ大佐の背後に槍持って立っている現地の住民たちは何を思っているのだろう--ということだった。外界から来た白人になぜ従うようになったのか、従っている間はどう考えていたのか、そしてカーツがいなくなった後に彼らはどうしたのか?
長いこと疑問であった。

そして『彷徨える河』にはその答えが示されているように思えた。

アマゾン川沿いの密林に住むシャーマンに数十年の時を隔て、二人の学者がそれぞれ会いにやってきて河を下る。
最初のドイツ人と共に途中でカトリックの修道院に寄るが、そこは偏狭な修道僧(白人)と現地の子どもたちしかいない閉ざされた空間だった。
数十年後に今度は米国人の学者と共に同じ修道院を訪れる。もはや修道僧がいなくなった今、そこで起きている混乱と残虐こそがまさにカーツの死後に起こったであろう災厄を想像させるのだ。

それは全て白人たちが勝手にやってきて布教し押し付けた後に、放り出して何もせずにそのままいなくなってしまった事による。
『地獄の黙示録』の主人公は感傷的に不可解な体験を語る。が、結局は勝手に来て勝手に去っただけだ。泣きたくなるのは住民たちの方だろう。これは大いなる「傷」、拭いがたい「傷」なのである。

さて、さらに河を下ってたどり着くのは戦争の地である。映画館で見た時は確認できずよく分からなかったのだが、コロンビアは長年隣国ペルーと紛争が起こっており、この時も戦闘状態になっている。ペルーの旗が掲げられて、銃を持った兵士が「コロンビア人か」と聞いてくるのはそのためらしい。
植民地から脱した国々がたどる困難がここに示されているようだ。

もう一つ、再見して驚いたのは予想以上に『ブラックパンサー』に影響を与えていたことだ(過去にクーグラー監督が「参考にした」と明言していた)。
どこか?と思っていたら、薬草についてのくだりだった。

『河』では現地に伝わる隠された薬草を求めて学者がやってくる、というのが中心の設定である(なお二人の学者は実在の人物がモデルで、それぞれ民族学者と植物学者)。
この薬草はいったん全部焼かれてしまう。しかし最後に一つだけ残っているのが発見されてそれが使用される--と展開する。
原作コミックスではどうなのか知らないが、『ブラパン』でもやはり超人的な力を与える薬草が登場してほぼ同じ経緯をたどる。

さらに、薬草だけでなく現地民の文化を外部の白人に伝えるかどうかの是非が『河』では問題になる。
これは『ブラパン』の特産の鉱物ヴィブラニウムを守るために存在を隠しているという論議と葛藤に繋がる。このように、メインテーマについてはかなり「参考にした」と言えるだろう。

『ブラパン』ではワカンダの首都がアジール的要素を持った理想の街として描かれ、統治者たる主人公はそれを満足気に眺めるというシーンがあった。
一方『ウェイティング・バーバリアンズ』ではやはりアジールであった町があっという間に「帝国」に侵食される過程が描かれる。これはゲーロ監督からの『ブラパン』への返答と考えてもよいだろうか。(うがち過ぎかしらん(^^;ゞ)

それにしても『彷徨える河』で、米国人学者が数十年前にドイツ人が訪ねて来た時と同様に小舟で現れる場面は、再見でも背筋がゾクゾクとするほどの衝撃と興奮があった(マジック・リアリズム❗)。
繰り返しになるが、ゲーロ監督には新作を望みたい。

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2021年6月 8日 (火)

ヘンデル「セルセ」:酒と泪と王と女

210608 二期会ニューウェーブ・オペラ劇場
指揮:鈴木秀美
演出:中村蓉
会場:めぐろパーシモンホール
2021年5月22・23日

昨年は多くのオペラ公演が中止・延期を余儀なくされた。しかし、今年はめでたく無事に上演された二期会のヘンデル。恒例のダブルキャストで私は23日の方に行った。

ペルシャの王様セルセは婚約者がいるのに、弟アルサメーネの恋人にして歌手のロミルダに横恋慕。一方、ロミルダの妹もやはりアルサメーネを虎視眈々と狙っているのであった……という五角関係の話だ。元はと言えばセルセが二股かけるのが悪い👊と断言したいけど王様だから無理が通って道理が引っ込んじゃう。

これを、植物フェチの王が人気アイドル歌手に夢中になっていきなりの「押し」認定をするというような設定にしている。
セットは簡略で壁や階段を組み合わせたものが基本。王は身の丈に合わない大きな赤いマントをいつも引きずっている。
ヘンデル作品でヒロインをアイドルに設定というと、昨年のBCJの『リナルド』を思い出しちゃうが、あっちは仮想アイドルだから別物かな(^^;)

そのためステージには6人のダンサーが常に登場、歌手も一緒にアイドル風振り付けで踊ったりする。歌って踊って大変だ~。

さらにはバー「庭」が突然出現。壁にはなぜかヒデミ氏のレコードジャケットが飾ってあったりして💡 登場人物が酒場でクダまくのはMET版『アグリッピーナ』でもあったなーと思い出す。
ヘンデルには酔っ払いが良く似合う、ですかね(^◇^)

コロナ禍という時節柄ゆえ、長時間の公演は避けた方が無難という判断だろうか。途中幾つかアリア端折って勢いよく進行した。三幕ものだが休憩は1回のみ。
笑える場面が多くてライトな雰囲気。そのため濃厚さは欠けてアッサリ味だった。
ただしその代わりに、ヘンデル先生大ヒット曲(?)「オンブラ・マイ・フ」は3回も登場というサービス🎶があった。

儲け役はやはりロミルダの妹アタランタかな。これまた笑わせてくれました。ただ、セルセがテノールになっていたのは残念だった。
ダンサーの方々はほぼ出ずっぱりで大活躍で、しかもダブルキャストでなく二日間とも出演。ご苦労さんです。演出の中村蓉という人、自分もダンサーで振付もやっているそうで、このダンサー重用の演出は吉と出たようである。

一部の楽器はマイクを使用していたもよう。まあ、そうでなければテオルボなんかとても聞こえないわな。

とりあえず、延期や中止になったりせずに開催出来てヨカッタ。秋の北とぴあ音楽祭も期待していいかな~(ΦωΦ)

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2021年6月 3日 (木)

「レベレーション 啓示」/「王妃マルゴ」

「レベレーション 啓示」全6巻
著者:山岸凉子
小学館(モーニングKC)2015年~2020年

「王妃マルゴ」全8巻
著者:萩尾望都
集英社2013年~2020年

210603a フランスを舞台にした歴史マンガ二作について、いつか感想を書こうと思いつつここまで、引き延ばしてしまった。なんとか書いてみたい。

まずはジャンヌ・ダルクを主人公にした『レベレーション』である。
元々は「神がかった人間はどういうものなのか」を描きたいという動機があったとのことだ。候補は3人いたが「モーニング」連載の話があって、男性読者にウケるならジャンヌ・ダルクがいいかと選んだそうな。すると候補の他の二人は男ということになる。一体誰だったのか知りたくなる。

さらに毎月はキツイという理由で隔月連載にしてもらったら、同時期に『王妃マルゴ』を毎月連載中の萩尾望都から「隔月って、残りの一か月は一体何をしているの」と言われたとか(^▽^;)

山岸の長編作品の特徴として、社会や共同体の中で特異な能力を持った人物がその能力を発揮して成功する、あるいは失敗する過程を描くものが多い。この作品でもそれは同様である。
神の声を聞くという力に目覚めた「羊飼いの娘」ジャンヌは父親が持ってきた結婚話を拒否して、声に突き動かされ自ら複雑な政治的・宗教的対立の中に分け入っていく。女・農民・若年--とすべての面で当時の体制からは外れている存在であり、本来なら相手にされなくて当然だ。さらに男装しているとあれば異端でしかない。

その幻視能力、嫌がらせに近い審問や試練にも耐える機転、権威や権力を恐れず、そしてなにより強い信念により、軍隊を率いるまでになる。
しかし、その後に複数の勢力の思惑の中で孤立するのもまた信念の強さのためである。

フランスの領土を取り戻しシャルル7世の戴冠に大きく貢献したとあれば救国の英雄だろう。しかし、その彼女を最後に待ち構えていたのは44人のオヤジ(若い者もまざっているが)による異端審問であった……💣
それすなわち身分も地位もある高僧が字も読めぬ娘っ子をいぢめるという図に他ならない。

ジャンヌは回想の中で、故郷に帰り「羊飼いの娘」に戻る機会があったのに戻らなかったと認める。「正直今はパンをこねたり糸を紡ぐ自分は考えられない」と突き進んだのだと……。
「女に男の服を着られるだけで侮辱を感じる」という時代となれば、素朴な農民の娘から逸脱、どころか侵犯してきた男装の女戦士を社会は許すはずもなく、魔女と認定され火刑に処せられるしかない。
それでも、信念を貫き通した彼女にとっては悲劇ではなかった--と結末は訴える。そして、そこに中世からルネサンス期の狭間という大昔に生きた少女が今現在においても、生々しく立ち上がってくるのだった。

それにしても第1巻あたりの神の啓示場面は限りなくホラーに近い。夜中に見たら心臓に悪いぐらいである。さすが霊感を持つという山岸凉子💦と言いたくなるぐらいだ。


210603b さて『レベレーション』冒頭は1425年に始まり、1431年に終わる。当時の英仏絡んだ歴史的背景は複雑だが、カトリック×プロテスタントの宗教対立まで絡んでくる『王妃マルゴ』の背景も極めて複雑である。
こちらは130年ほど後、マルゴことマルグリット・ド・ヴァロワが6歳の時から始まる。ジャンヌが貧しい農民の娘なら、一方マルゴはフランス国王の美しい娘である。天と地ぐらいの差だ。
加えて政争と戦乱の中で62歳まで長生きしたというのもジャンヌと対照的である。

「一番ステキな夢は美しい王子様と結婚すること」と愛を夢見る少女のマルゴだったが、残念ながら王族の一人であるからそんな自由はない。初恋の相手とは引き離され、国家と宗教の間で政略結婚をさせられるのみ。
しかも肝心の結婚相手のアンリ(4世)はあらゆる意味で信頼できない男であった💢

さらに、その背後には恐ろしい猛母たるカトリーヌ・ド・メディチが存在する。息子たちを次々に王位につける中で隠然たる支配力を奮う。それは敵どころか自分の子どもでさえ暗殺することも辞さない、非常に恐ろしい母親である。読んでいてコワ過ぎて泣きそうなぐらいだ。
マルゴも自分の母親に殺されるのではないかと常に戦々恐々とする。この恐るべき母を描く萩尾望都の筆致は実に容赦がない。まさに真骨頂と言えるだろう。

その血で血を洗う複雑な勢力関係の荒波の中で、夢見る少女はやがて自らの美貌と肉体を武器にすることを辞さぬまでになる。
後世に彼女は「華麗なる恋愛遍歴」、別の言い方をすれば「淫乱」などと評されたようだ。しかしそのような人物像ではなく、作者は天寿を全うするまでただ一人の男への愛を貫いた純粋な女としての一代記を描いたのである。

この作品は驚いたことに萩尾望都の初の歴史ものだという。「ポー」シリーズなどで様々な時代を風俗にこだわって描いているので、てっきり歴史ものも描いていると思ったのだが違ったのね(;^ω^)
しかも最初の掲載誌が休刊になり、別の雑誌に引っ越し連載という災難にあった。そのせいか終盤が駆け足っぽくなってしまったのはちと残念である。


ベテランのマンガ家が二人揃ってフランス史に残る女性(しかし極めて対照的な)を描いたことは奇遇としか言いようがないが、その背後に存在するテーマは若い頃からこだわってきたものと不変であり、「三つ子の魂百までも」なのが読み取れる。
そして、自らの信仰と意志を貫き逸脱したジャンヌが二十歳前に早世し、身分と政治の境界の中で流されてサバイブしたマルゴが長生きしたというのも、何やらいつの世であっても変わらぬ女の行く末を描いているようだ。


210603c 【オマケ】
ついでに関連した音楽を紹介しよう。
ジャック・リヴェットが1994年に作った『ジャンヌ・ダルク』前・後編のサウンドトラック。音楽担当はジョルディ・サヴァールで、「ロム・アルメ」(武装した人)をモチーフに使い、当時の写本の曲、デュファイの作品、そしてサヴァールのオリジナル曲から構成されている。
公開当時、サンドリーヌ・ボヌールのジャンヌがナウシカみたいだと話題になった。ここにもハヤオの影響が(!o!)

210603d ルネサンス期作品をレパートリーとするデュース・メモワールによる、デュ・コーロワの作品集。彼はアンリ4世(マルゴの元夫)の宮廷楽団の音楽監督だった。
2枚組の片方に、暗殺にあったアンリ4世の葬儀で演奏された「国王のためのレクイエム」を収録している。(司祭の説教まで付いている)
演奏の水準は高く極めて美しく、何度でも聞きたくなる。
付属のブックレットには、暗殺時に乗っていたものとおぼしき国王の馬車の写真が載っている。実物が残ってるんでしょうか。

210603e

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「古楽系コンサート情報」更新

「古楽系コンサート情報」6月分更新しました。
左のサイドバーにリンクあります。
ライヴ配信などは入っていません。

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