「ウェイティング・バーバリアンズ 帝国の黄昏」/「彷徨える河」再見:狂気・逃走・放置
監督:シーロ・ゲーラ
出演:マーク・ライランス
イタリア・米国2019年
DVD鑑賞
原作J・M・クッツェー『夷狄を待ちながら』を作者自らが脚本化。出演がマーク・ライランス、ジョニー・デップ、ロバート・パティンソンという顔ぶれで、監督はシーラ・ゲーロ(『彷徨える河』コロンビア映画初のアカデミー賞外国語映画部門候補になった)、さらに撮影はクリス・メンゲス(『ミッション』『キリング・フィールド』でオスカー獲得)である。
これだけ豪華なメンツが揃っていながら、正式ロードショーがなくてビデオスルーというのはよほどトンデモな出来なのであろうか(>y<;)
--と恐る恐る見てみたら、全くそんな事はなかった。
砂漠の縁に立つ城壁のある町が舞台である。「帝国」に属しながらも辺境故に、民政官が平和に統治している。門は住民が行き交い、賑やかな市が立ち、家畜がのんびりウロウロとしていた。
しかし、ある日「大佐」が軍隊を引き連れてやってきたことから、平穏さに影が差す。
大佐は帝国の先兵として命を受けて版図を拡張すべく、辺境の果てに住む蛮族を討伐するため偵察に出ていく。
映画は時間の進行に沿って4つの章に分かれている。章が変わるたびに町の状態とM・ライランス扮する民政官の境遇は激しく変わる。町は乗っ取られ、活気があった住民たちもまた醜悪なまでに変貌する。もはやかつての自由は存在しない。
民政官の目を通して帝国の拡張と町の崩壊、その末路が淡々と綴られるのだった。
さんざんひどい目にあって地位を奪われた民政官が「私は裁かれている最中だ」というと、下士官から「そんな記録はない」と言われる。
どこの世界でも記録抹消と文書改ざんは「帝国しぐさ」らしい。
民政官役のライランスはほぼ出ずっぱりで恫喝されたりイヂメられたり、一方蛮族の娘の脚をナデナデしたり、いろいろあって大変な役だ~⚡ が、彼のファンは見て損なしとタイコ判を押しておこう。
大佐のデップと下士官のパティンソンは敵役で、出ている時間も少ない。もっともデップはこういうエキセントリックな役(メガネが怖い)をやるのは嬉しそうだが。
グレタ・スカッキがすっかりオバサンになってて驚いた。そもそも孫がいる役だし(^^;
辛辣なテーマ、美しい映像、暴力的展開、皮肉な結末--と文句はないのだが、問題はあまりに語り口が整然とまとまり過ぎていて、もう少し破綻した部分が欲しいのう、などと思ってしまった。かなり残酷な描写もあるのだが……。
原作者が脚本を書いたせいだろうか。それともこれは高望みというやつか。(原作は未読なのでどう異なるか不明)
加えて娘へのフェティッシュな欲望も割とアッサリめな描写。きょうび、あんまりネッチョリと描くわけにもいかないのか、それとも推測するに監督はあまりこの方面に興味ないのかもと思ってしまった。
監督には次作はぜひ自分の脚本で撮ってほしい。
さて、ずっと気になっていたこのシーラ・ゲーロ監督の『彷徨える河』(最初に見た感想はこちらをお読み下せえ)をアマゾン・プライムで再見した。
私はこれまで『地獄の黙示録』を4回ほど観たがその度に感じるのは、カーツ大佐の背後に槍持って立っている現地の住民たちは何を思っているのだろう--ということだった。外界から来た白人になぜ従うようになったのか、従っている間はどう考えていたのか、そしてカーツがいなくなった後に彼らはどうしたのか?
長いこと疑問であった。
そして『彷徨える河』にはその答えが示されているように思えた。
アマゾン川沿いの密林に住むシャーマンに数十年の時を隔て、二人の学者がそれぞれ会いにやってきて河を下る。
最初のドイツ人と共に途中でカトリックの修道院に寄るが、そこは偏狭な修道僧(白人)と現地の子どもたちしかいない閉ざされた空間だった。
数十年後に今度は米国人の学者と共に同じ修道院を訪れる。もはや修道僧がいなくなった今、そこで起きている混乱と残虐こそがまさにカーツの死後に起こったであろう災厄を想像させるのだ。
それは全て白人たちが勝手にやってきて布教し押し付けた後に、放り出して何もせずにそのままいなくなってしまった事による。
『地獄の黙示録』の主人公は感傷的に不可解な体験を語る。が、結局は勝手に来て勝手に去っただけだ。泣きたくなるのは住民たちの方だろう。これは大いなる「傷」、拭いがたい「傷」なのである。
さて、さらに河を下ってたどり着くのは戦争の地である。映画館で見た時は確認できずよく分からなかったのだが、コロンビアは長年隣国ペルーと紛争が起こっており、この時も戦闘状態になっている。ペルーの旗が掲げられて、銃を持った兵士が「コロンビア人か」と聞いてくるのはそのためらしい。
植民地から脱した国々がたどる困難がここに示されているようだ。
もう一つ、再見して驚いたのは予想以上に『ブラックパンサー』に影響を与えていたことだ(過去にクーグラー監督が「参考にした」と明言していた)。
どこか?と思っていたら、薬草についてのくだりだった。
『河』では現地に伝わる隠された薬草を求めて学者がやってくる、というのが中心の設定である(なお二人の学者は実在の人物がモデルで、それぞれ民族学者と植物学者)。
この薬草はいったん全部焼かれてしまう。しかし最後に一つだけ残っているのが発見されてそれが使用される--と展開する。
原作コミックスではどうなのか知らないが、『ブラパン』でもやはり超人的な力を与える薬草が登場してほぼ同じ経緯をたどる。
さらに、薬草だけでなく現地民の文化を外部の白人に伝えるかどうかの是非が『河』では問題になる。
これは『ブラパン』の特産の鉱物ヴィブラニウムを守るために存在を隠しているという論議と葛藤に繋がる。このように、メインテーマについてはかなり「参考にした」と言えるだろう。
『ブラパン』ではワカンダの首都がアジール的要素を持った理想の街として描かれ、統治者たる主人公はそれを満足気に眺めるというシーンがあった。
一方『ウェイティング・バーバリアンズ』ではやはりアジールであった町があっという間に「帝国」に侵食される過程が描かれる。これはゲーロ監督からの『ブラパン』への返答と考えてもよいだろうか。(うがち過ぎかしらん(^^;ゞ)
それにしても『彷徨える河』で、米国人学者が数十年前にドイツ人が訪ねて来た時と同様に小舟で現れる場面は、再見でも背筋がゾクゾクとするほどの衝撃と興奮があった(マジック・リアリズム❗)。
繰り返しになるが、ゲーロ監督には新作を望みたい。
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