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2022年10月17日 (月)

「ガラスの動物園」:父親のいない半地下

221017 作:テネシー・ウィリアムズ
演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
出演:イザベル・ユペール
会場:新国立劇場
2022年9月28日~10月2日

正直に言うとテネシー・ウィリアムズって芝居を観たことないし、戯曲も読んだことがなかった。それをなぜチケット取ったか、「生ユペール」見たさとイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出だからである。
彼の演出作は『オセロー』『じゃじゃ馬ならし』(こちらは記録映像)を見たことがある。いずれも非常に過激だった。でも『ガラスの動物園』は死人も暴力もなし、どんな演出をするのだろうかと興味大だ。
なお、公演自体はコロナ禍で二回延期になったものである。

実際にはこの作品をほとんど知識なしに見たのは失敗だった(+o+)トホ これまでの解釈や演出と今回はかなり異なっていたそうなのだが、どこがどう違ったのか分からない。さらにラストも変えていたらしい。

特に娘ローラの造形について、本来は脚が悪いからほとんど外出しない内気な少女のはずが、こちらではもろに「引きこもり」っぽく描かれている。そして脚が悪いというのは外見では明示されない(セリフのみで語られる)。
彼女は常に鬱屈して何かを内部にため込んでいるように見える。それはユペール扮する母親が全て先に喋り倒してしまい、彼女や兄に語る隙を与えないのである。
舞台上には母親が支配する立派な(かつリアルな)台所とカウンター以外にほとんど家具がなく、ローラは何か嫌なことがあると床に敷いた毛布に潜り込んでしまう。

母は自分では現実的でやり手だと自負している。しかし過去の娘時代の栄光にとらわれて夢の中をフワフワと漂っている。かつて失踪した夫が戻って来るかもという微かな望みでどこかへ行くこともできない。おもりの付いた風船🎈みたいだ。そのような閉塞感が立ちはだかる。
壁中に薄くシミのように描かれた幾つもの夫の顔(戯曲ではちゃんとした肖像写真らしい)がむしろ妄執の証のようである。

そんな状況のところへ、母からローラのためにと頼まれて兄が職場の同僚を連れてくる……。

ヴァン・ホーヴェ演出は過激ということはなく(オーソドックスでもないが)ストレートに迫ってきた印象だった。
特に照明が美しく、雨漏りの水滴を受けるために床に置いた幾つもの空き缶が、終盤になって闇の中でボヤーッと光を反射していた(放っていた?)のには驚いた。まるでランタンのようで幻想的な光景だった。

ローラが普段は壁の金庫にしまい込んでいるガラスの動物たちは、中で電球色の光を浴びて黄金に光って見える。それを階段の踊り場の空間に出すと、月光の冷たいスポット照明を浴びて銀色に輝く。
来客のために彼女が着たドレスはその時同じ月明かりを浴びて、ガラスの動物たちと同じような美しい光を放つ。しかし一歩室内に戻ると、そんな輝きは消え失せてしまうのだった。

舞台装置もかなり異色だった。幕の下りるギリギリの位置まで壁があって、アパートの部屋はそこから映画のワイドスクリーン型に奥に向かって掘り進んだような形状なのだ。下方に迫った天井も明確に作り込まれている。
玄関のドアへは階段を上って行く。外を眺められるのは中庭の窓からのようだ。
終演後に近くにいた客が「半地下だね」と指摘したのを聞いて、思わず「そうか(!o!)」ポンと手を打ってしまった。おまけに雨漏りもそれらしさを増す。どん詰まり感を的確に描き出していた。

母親はまさしく子どもを抑圧する口うるさい「毒母」である。優れたキャリアのベテラン女優ならば「毒母」を演じるのはお茶の子さいさいだろう。それをユペールはいつまでも夢を忘れられない現実離れした人物として、ひょうきんなおかしみさえ滲ませて演じていた。
ネットの感想を後で検索したら「この作品で笑う人がいるなんて信じられない💢何を考えているんだ」と怒っている人がいてビックリした。実際、そういう風にクスッと笑える部分があったと思うんだけど……???

ところで兄役のアントワーヌ・レナールという人、『ダブル・サスペクツ』こと『ルーベ、嘆きの光』の若い刑事役だったらしい。全く気付かなかった💦

最終結論としては、見られてヨカッタ(^.^)b
もう一つ失敗はオペラグラス持っていくべきだった。最近、視力が衰えが甚だしい。老化現象だわな。

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